困ったときの‘がばいばあちゃん’!
どうも、人間、一番ストレスが溜まるのが、まさに人間関係そのものであろう。当然、仕事なので、いろいろ力仕事的な物理的な疲れもあるのだが、どうにもうまくコミュニケーションできていないなと感じるその不安定さが、精神を非常に不安にし、かつじくじくとした緊張感を迫る。
さて、以前も紹介しましたが、そんなときには、がばいばあちゃんの言葉に耳を傾けてみる。今回、ちょっともめている(まだ解決していない)のだが、ふと、ばあちゃんのこんな言葉を思い出した。
これは、昭広君(島田洋七の子供時代)が、がばいばあちゃんが、「誰にでもニコニコして、人の悪口を言うのも聞いたことがなかったら、どうしてそういう風にできるのか」と思っていて、納得がいった言葉。
「人間、自分のことがいちばん分からない。ひとのことはよく分かる。/自分では、自分のいいところしか見えていないものだ。/だから、人を嫌うな。/もし、自分を悪く言う人がいても、気が合わんなと思え」 (100頁)
他にも、ばあちゃん語録に、こんなのがある。
「何もしていないのに、どうして悪く言う奴がいるんやろう」と昭広君が悔しそうに言うのを聞いて、ばあちゃんがいわく。
「二、三人に嫌われても、反対を向けば一億人いる。/お前が好きな人がおっても、その人も誰かに嫌われている。/お前もいい人やと言われていても、お前を嫌いな人もいっぱいいる。/世の中、それで成り立ってると」 (106頁)
そうやな、失敗を人の責任にしようとしたらいかん。世の中の争い事は、どちらか一方が悪いということは絶対にないであろうし、お互い、自分の(いいところ)しか見えていなくて、人の落ち度や悪いところばかり目に付くし、切羽詰ってくると、どうしても自分がかわいいものだから、無理してでも人の落ち度を探して責任を押し付けようとしてしまう。
そんな‘みにくい’自分があるということに、気づかせてくれました。今は、人と争そったり足を引っ張り合ったりしている場合ではない。今やることは、前向きな失敗を回復するための手立てをみなで考えることであって、お互いの過去の落ち度を探してけなしあうことではない。
悪い結果が起こってしまったという事実の前では、自分だけが完璧であるわけも、そうであったはずもない。当然、いろいろな要素が交じり合って物事は動いているし、‘もし’のことを後で悔やんでもどうしようもない。
ばあちゃん、ありがとう。もう一度、自分の反省すべきことは反省して、とにかく失敗を投げ出さずに、みんなでよい方向に回していきます。
人の間で、生きざるをえない、私たち。
なんとなく、海援隊の「人として」という曲を想い出しました。
ではでは^^?
引用: 島田洋七 『がばいばあちゃんの元気で生きんしゃい!』 徳間書店 徳間文庫 2005
↓なお、「がばいばあちゃん」についてのしばやんの過去記事は、こちらをどうぞ!
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_8ad1.html
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_62b6.html
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コメント
しばやん、いつも考えるヒント、励まし、懐かしさ、いろいろブログで有難う。しかしこれだけフィリピンに仕事が無く、困っていることをがばいばあちゃんに聞いたら何と言ってくれるかな。
投稿: purun | 2007年5月 5日 (土) 22:59
う~ん。たぶん、Let it be!とでもいうんではないでしょうか?おばあちゃんが、ビートルズを知っていたかどうかは別にして^^?でも、この言葉は、しばやん的には、結構好きで、いろいろな解釈(日本語訳)ができるんですよね。「なるようにしかならない」ってことかな。あと、しばやんが最近、仕事や何かで感じているのが、「予定調和」。なにか、うまくいかないようでいても、失敗したようでいても、なぜか最後に帳尻が合ってしまったりする。そんなときには、本当に‘神’の采配みないなものを感じたりします。(ここで便宜的に‘神’といっているのは、人間の力を超えた‘もの’という意味で使っています。
そうそう、がばいばあちゃんのこんな言葉がありました。昭広くん(洋七)君が売れて人生のバブルを謳歌したのもつかの間、過度のストレスから体を壊して仕事をやめるか、入院して治療するか、ふたつに一つの選択を迫られたときのこと、ばあちゃんに相談にいったそうです。ばあちゃんいわく「昭広、仕事は何でもあるぞ」「えーっ!?」、その後、一緒にじいちゃんのお墓参りに行ったそうです。「今は遊んどけって、じいさんは言うとるばい」
ってことで、この話は、以前も書いたかもしれませんが、非常に心に残る話です。
実は、私も大学受験で、第一志望の東京外大のアラビア語を落ちて、仮に大阪に受かったとしても東京(制覇)への道がはるかかなたに遠ざかったと思って、精神的にとても落ち込んでいたことがありました。そんなときに、たしか百姓仕事を手伝いにいって、何気に母方のおじいさんが言ってくれた言葉、「まあ、体が丈夫ならなんとでもなるで。」ずいぶん、自分の気持ちが軽くなったのを今でも覚えてきます。
どうしても辛いときには、体より精神的に参ってしまうのですが、でも確かに重態とかで本当に物理的にどうしようもない状況でさえなければ、気持ちさえ切り替えれば、まだまだがんばれるということなのだと今は思います。
そうそう、ばあちゃんの言葉をもうひとつ。「思うとおりにはいかん」そして「死ぬまで夢を持て!叶わなくても、しょせん夢だから」(しばやん的には、後半のパラグラフがちょっといただけないのですが^^?)
投稿: しばやんです。 | 2007年5月 6日 (日) 01:13
しばやん、good morning & 有難う。確かにそうですね。体が丈夫なら何とでもなる。夢は捨ててはいけない。健康であることにまず感謝します。have a good day.
投稿: purun | 2007年5月 6日 (日) 08:43
しばやん、いつも的が外れた(というよりも意識的に外した?)コメントばかりで申し訳ありませんが、「二、三人だと思ったけれどそうじゃない」場合もあるかなと思いました。 つまり、「二、三人に嫌われても、反対を向けば一億人いる」というのは、必ずしもポジティヴ・シンキングとは限らず、問題から逃げている可能性もあるからです。
ただ落ち込むよりはそのように考えた方がよいのは当然ですが、それでは解決にならない場合もある、たとえ相手が一人でも「自分が変わる」ことによって解決できないかと、落ち着いたときには考える必要があるのではないかと思いました。 一億人の中の二、三人という発想自体が極めて定量的ですから、一人一人を相手にしようとする質的アプローチからすると違和感があるというだけのことですが…。
神については同じような感覚を持っています。 個人でできること、ましてや計画できることなど知れていますから、神(もちろん具体的な神ではありません)に任せる、神の導くままにと思っています。 無理に環境を動かそうとするなとも…。
計画重視で環境を変えることが当然なモンスーン型の価値観で育ちましたから、プロセス重視で環境に従うことが当然な乾燥地・半乾燥地型の価値観を理解し受け入れるには時間が掛かりましたが、いまはかなり後者の価値観で動いているように思います。 とにかくいまできることをやって満足して寝る、明日、来年、何ができるかはあまり考えない、という生き方になっています。 だから「いまを生きる」です。
投稿: axbxcx | 2007年5月 6日 (日) 10:13
purunさん、どうもどうもです。若輩者の言葉ですが、がばいばあちゃんの言葉と、私のおじいさんの言葉は本物です。また、私が落ち込んだときは、よろしくお願いします^^?
axbxcxさん、ありがとうございます。
いつもいつも鋭い突っ込みありがとうございます。ばあちゃんの言葉は、あくまで洋七さんの受け売り(本からの引用)なので、本当の背景は書かれた範囲での私の想定でしかないのですが、もしかしたら、ばあちゃんは、ポジティブ・シンキングとか難しいことを考えて言っているわけではないと思います。つまり、単なる気休めというか^^?(洋七さんは、‘ばあちゃんは視点を変えて考えるのが得意だった’というようなことを本で語っていますが、それは置いておいても。
ご指摘のとおり、「自分が変わる」ことは大切なことで、まさに私が受けた「参加型開発」の講義?の肝のひとつのキーワードが「自分が変わる」ということで、この重要性を否定するつもりはありませんが、変われないこと、変わらなくてもよいのではないかと思うこともあるのです。
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00025.htm
↑以前、変わること変わらないことをテーマに書いたものです。
今、これほど外部条件が変わっている中では、逆に‘変わらない’ことが最適解となりうる可能性もあるし、場面は違いますが、いじめとか本当に自分が死ぬか(殺されるか)のところまで追い詰められてしまったとしたら、その場(問題)から‘逃げる’こともありなのではないかと思うのです。解決できない問題も、いくらでもあるわけですし。
なにか微妙に話が合っているような、ちょっと外しているような^^?
でも、最後の言葉、全面的にI Agree!です。「いまを生きる」ということでその場でその場で決断していく。優柔不断でやっかいなことを後回しにしてしまいがちな私としては、本当にかくありたいと思っています。
投稿: しばやんです。 | 2007年5月 7日 (月) 01:55
しばやん、こんばんわ。 私も解決できる問題、正解のある問題の方が例外的だと思っています。 正解などないけれど考えるということが重要なのでしょう。 むしろ正解に飛びつく、生江明さんの表現を使えば正解の自動販売機があると思うことこそが安易な道であり、「逃げる」ということなのではないかと考えています。
また「変わる」ということについて、価値観・思想、ましてや姿勢を変えるということは大変なことですし、変える必要があるかどうかもわからないことが多いと思っています。 ただ、自分を相対化するということは極めて重要だろうと…。
私は第三者評価こそ主観的な可能性があると思っているのですが、大事なのはむしろ当事者としていかに客観的にモノを見られるかではないでしょうか。 当事者だから主観的、第三者なら客観的と言うのは、私は神話だろうと考えています。 第三者が外から持ち込んだ価値観で主観的に評価するというケースのいかに多いことか…。 それで一体誰が何を学べるというのでしょうか。
自らを客観化するためには、自らの見方・位置づけを常に変えて、あるいは様々に変えて考えなければいけない、それが「変わる」ということだろうと思っているのです。 実際に自分が「変わる」というよりも、自分自身に対する見方を変えるとでも言うか…。
最後に、私は優柔不断という言葉が好きですし、そうじゃない方が怖いです。 正解などないときに、まるで正解があるかのように物事を判断する人は危ないと思っています。 Flags of Our Fathersの中に、作者がお父さんの人生を表現する言葉があるのですが、それは"Importantly unimportant."でした。 ヒーローは決して自分がヒーローとは言わない。 私もそういう生き方ができればと思っています。
投稿: axbxcx | 2007年5月 9日 (水) 00:29
axbxcxさん、貴重な書き込みありがとうございます。
「自分を相対化する」、「第三者が外から持ち込んだ価値観で主観的に評価する」何か核心をついているというかキーワードですね。わたしももやもやしていたところが、ひとつクリアになったような気がします。
今まで、本多勝一の影響で、「客観というものは存在しない」というところまではきていたのですが、自分の‘主観’自体を客観化するというところまでは思い至りませんでした。
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030028.htm
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog052.htm
でも「する側、される側」の理論というのも、そもそもは、自分を‘客観’し、世間でいわれている‘客観’に惑わされずに、自分で主体的に自分の立場(=‘主観’)を選びなさいという意味では、自己の相対化による主体性と、その自覚をもつという意味で、同じようなことを意味していたのかもしれません。
「自分自身に対する見方を変える」そうですね。もう少し、意識的にやってみます。そうそう、最近のお気に入りの言葉は、君子は豹変する’でした。もう少しがんばれば、違った地平線に立てるかもしれません^^?(本当は‘がんばる’という問題ではないのですが、まあそこは見逃してください。)
ではでは^^?
投稿: しばやんです。 | 2007年5月 9日 (水) 02:40
しばやん、お付き合い頂いてありがとうございます。 間もなく出稼ぎに出ますので静かになりますが…。(^_^)
本多勝一、懐かしいです。 「日本語の作文技術」は難しくて残念ながら私にはとても使えませんが…。
二分論には時代を感じます。 参加型が「援助する側」「される側」という見方から全てのステークホルダー、アクターの参加という見方に変わって来たように、いまは多様な見方の方がピンと来ます。 別の言い方をすれば対決から協働へでしょうか。
そういう意味では客観化は言い過ぎで、相対化の方が適切かも知れません。 2000年の初めだったか、FASIDのラウンドテーブルでAmartiya Senの"Obejctivity, Health and Policy"の解釈についてコメントしたことがあります。 村の女性たちの教育水準が上って自分たちが「貧しい」と気がついた、だから客観性が大事だ、ここまではそのとおりと思います。
けれどもそれが自動的に第三者あるいは学識経験者による評価が重要だにはならないと思いました。 彼女たちが自分たちは「貧しい」と気がついたのは、情報にアクセスすることで自らを相対的に見ることができるようになったからだと思います。 つまり、大事なのは客観性であって決して第三者性ではないと思いました。 当事者(主体)と第三者、主観と客観は別の話だからです。
と、またまたこだわってしまいましたが、ではでは。
投稿: axbxcx | 2007年5月 9日 (水) 10:46
そうですね。「二分論には時代を感じます。」確かにおっしゃるとおりですが、現在、自分を絶対安全圏に置いた議論が多い中、自分の当事者性を二分論であれ、多様なものであれ、まさにステーキホルダーの内数に含まれるということを突きつけた点では、今でも価値があると思います。
「対決から協働へ」確かに、20世紀末からコラボレーションという言葉が巷に流行りだしました。やはり時代の流れなのでしょう。
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00016.htm
↑ちょっと全体の議論とは違いますが、わたしは東儀秀樹さん(雅楽)にそれをみましたね。二分論とは少し異なりますが、勝ち負けとかオール・オア・ナッシングとは別の価値観が今は求められていると思います。
「当事者(主体)と第三者、主観と客観は別の話だからです。」この点、ちょっと議論が錯綜してきてしまいましたので、自分なりに別途まとめてご高覧いただくようにいたします^^?
投稿: しばやんです。 | 2007年5月 9日 (水) 11:12