2009年12月20日 (日)

‘チェンジメーカー’としての‘ファシリテーター’ ファシリテーター原論

昨日(12月20日)、まったくの偶然で元テニスプレーヤーの松岡修造さんのテレビ番組をみました。

正直、初めてみたのですが、おもしろかった。

松岡さんやゲスト達が「本気」で「熱言」を吐く。ようは夢を実現するためにチャレンジする人たちを、強力な助っ人(レポーター&その道でのトップランナー)が応援するという番組で、そのチャレンジは別にスポーツだけに限らず、電卓競技の高校日本一とか鉄っちゃん(鉄道マニア)の小学生の運転士さんになりたいという夢を特別に私鉄の鉄道マン教習課程に3日間の体験入学させたりと、要はなんでもいいのですが、(昨日私が見た部分だけでも3つのチャレンジがありました)なにか夢に向けてチャレンジする姿に本当に感動しました。

いくら好きなことでも当然、予想も想定もできない壁や本当に難しいところ、嫌なことはあります。好きなことをやるには最低限でもその分野で標準的なというか及第点であるある一定のラインを超えなくてはならない。そのためにはまずは標準的な嫌でやりたくないこともやらなくてはならない。

それで一旦、あるレベルに達して夢のスタートラインに立ったとしましょう。でも、そのゴールってなに?

それは、夢を描いた人に‘しか’みえないものなのです。しかもそのゴールラインはどんなにがんばってもたどり着けないものかもしれないし、一旦はゴールと設定してついたと思ったら実はもっとその先にあることをその時点で気がつくのかもしれない。

ふと「長距離ランナーの孤独」という小説のタイトル(実は自分がこの本を読んだのかきおくに定かでない^^?)を思い出しましたが、‘自分’の夢のために走る(走ってくれる)ランナーは自分しかいないことは自明というか当たり前なのですが、目標とする先に走るランナーも必要(あったほうが嬉しい)ですし、しかも一緒に走ってくれる人がいるとさらに嬉しい。走ってくれなくても沿道で応援してくれるだけでもうれしい。

‘井の中の蛙’であることは世の中往々に、しかも自分ではつかずに結果としてそうであることは非常に多くあることですが、その‘井’の中を制したこと自体は非常に素晴らしいこともあるのですが、無責任な野次馬の視点からすれば、その蛙が井戸を出た世界で、どこまでその実力というか真価を発揮してくれるのかは非常に興味深いところです。

どんなに世界一流といわれる人たちでも、子供であったし、洟垂れであったし、‘井’の中から‘沼’とか‘川’とか‘海’など自分の‘井’の範囲を自らが大きくしてより大きな舞台に挑戦して結果としてトップを狙うようになった。

そんなことを考えると、井の中にいる無数の‘ライバル’というか‘仲間’の存在の貴重さが逆にクローズアップされてきます。

つまり逆説みたいですが‘井’や‘池’に残される無数の蛙がいなければ、その‘井’を出て行く蛙は育たなかった。

私が言うまでもなく誰もが‘世界一’になれるわけではありません。

でもたった一つだけ‘世界一’になる可能性があるコトがあります。

それが、あなたの‘夢’に対してというコトです。

あなたの‘夢’はあなたにしかみることができません。世界に60億人も人(人間)がいるとのことですが、あなたが想う夢を100%正しく?みれるのはあなたひとりです。

その‘夢’になんからの普遍性なり、他の人でもみたり感じたりできるものであるとしたら。

それはそれで素晴らしいことですね。あなたの夢は、あなただけの夢に留まらず、他の誰かの‘夢’の一部となりうるわけですから^^?

スポーツでも音楽でも特に競技や競争のある世界のどんなことでも、そのような‘夢’を具体的な見える形にしたものだと思えば、いや現実にそうであるからこそ、われわれの共感と感動を与えるのでしょう。

   ひとりだけではたどり着けない(世界)へ。

この言葉は、歩く仲間という小論を連ねる中で常に頭の片隅にあったことです。

ファシリテーターとはチェンジメーカーであり、ビジョナリストである。

ふと今朝ほど気がつきました。

ということで、ファシリテーターは単なる技術論ではないし、全ての人がファシリテーターになる必要もない、ただ自分でそうあろうと思うもしくは思う前に体が動いてしまっている人は、もう間違いなくファシリテーターでありチェンジメーカーです。

本来このような論考は、「歩く仲間」で取り上げるのが通例なのですが、あえて「Life I Love You!」に書き込んでみました。

ではでは^^?

P.S.

ところで、今年(2009年)のしばやんの足跡についてこんなことを書いてみました。

「【歩く仲間通信】 2009年を振り返って ほのかな光が見えた年なのでは^^?」2009年12月17日
あと開発民俗学というのを2003年ごろから勝手に提唱しているのですが、そのことに関して、最近、名古屋で参加しだした「開発ファシリテーションとフィールドワーク」という日本福祉大学の小國和子先生の勉強会に触発されてこのような文章をまとめました。上記の論に関心のある方は、こちらへもどうぞ^^?
「‘ワークショップ’~‘フィールドワーク’と‘ファシリテーション’をつなぐもの(試論)」 2009年12月19日

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年12月 6日 (日)

いよいよ師走です^^?

もうすっかり12月ですね。この1ヶ月くらい平日がめちゃ忙しいので、土日くらいしかまとめて書き込みができません。

さて、昨日もミクシイのコミュ(開発民俗学~地域共生の技法」に、いろいろ書き込みましたが、歩く仲間HPで展開した「開発民俗学への途」、結構よくまとめてあるじゃんと、改めて思いました。今回、開発学研究入門(基礎理論編)をコミュにコピペしました。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r004.htm

これは2000年の記事ですがとりあえず当時の最先端はいこうと考えていたのでしょう。あまり本質ははずしていなかったのではないかと思います。

でももう10年経つということは、私的には次のステップに行かなくてはならないということでもありますよね。

さらに思索や研究をすすめていかなくてはと感じました。

最近、いろいろ書くべき?文章のアイデアは頭の中で練っているのですがなかなかアウトプットとして出せない。 でも、ちょっとづつでもアップしていきますので、これからもよろしくお願いいたします。

ではでは^^?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月22日 (日)

5年目の“歩く仲間”と1年後のフィリピン(人として・・・ “変わってくこと”“変わらずにいること”) (再掲)

歩く仲間(HP)の過去記事ですが、「いいひと。」の話題のついでに、こちらにも転載しておきます。

オリジナル初出 2005年3月23日http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00025.htm

---------------------------------------------------

1.思えば遠くへ来たものだ

2000年3月18日に、このホームページを開設してちょうど5周年。

今日(3月23日)はいみじくもフィリピンのマニラに赴任して丸一年になる。

「思えば遠くへ来たものだ」 中原中也の「頑是無い歌」という詩の一節であるが、私はむしろ武田鉄矢の海援隊の歌として知っている。思えばY2Kとかミレニアムとか鳴り物入りで始まった2000年から既に5年経ち、今、当然のごとくマニラでパソコンに向かっている。

そうだ、私がエジプト出張中におきた阪神・淡路大震災(1995年)も1月17日に10周年を迎えた。同じく3月20日は地下鉄オウムサリン事件から丸10年を迎える。今年は、戦後60周年でもある。

思えば1999年11月21日、20世紀を目前にして、「今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか」を確かめるために、誰に読んでもらうともなく、このエッセイを書き始めたのであった。しかしながら、‘どこ’にいて‘どこ’へ行こうとしているのかは、多分、いつになってもわからないであろう。

つまり、一瞬一瞬の積み重ねが生きているということであり、‘どこ’かが特定できるということは、動かないものと化してしまったときのみ、死んでしまったとき、つまり自分が自分で無くなったときに他者より相対的に位置付けるものでしかないということが、なんとなくわかってきた気がする。この人間を取り巻く世界もしかり。自分という個人の意思と全く関係なく、地球そのものが意思をもっているかのごとく、一瞬一瞬でその姿を変えていく。

今回、 “変わってくこと”“変わらずにいること”をテーマに、考察を進めてみたい。

2.“変わってくこと”“変わらずにいること”

 これは、槙原敬之の「遠く遠く」という歌の一節だ。大学で田舎を出て東京にきた主人公が、神宮「外苑」の桜をみて、ふるさとの友達を思い出す。「同窓会の案内状」の欠席に丸をつけた。

  「遠く遠く離れた街で

元気に暮らせているんだ

   大事なのは

  “変わってくこと”

  “変わらずにいること”」

 わたくしごとになるが、数日後の4月1日で35歳となる。高校時代までの18年間、大学で大阪にでて、就職で東京にでて、昨年からフィリピンへ、田舎を離れてから17年間。気が付かないうちに、田舎で過ごした時間を、それ以外で暮らした時間が上回ろうとしている。

万物は流転するのであり、町並みも人並も変わっていく。しかし本当にそうなのであろうか。そして、この歩みは果たして望ましいものであったのであろうか。どうも変わっていること自体を認めなくてはならないと思いつつも、変わらずにいてほしいと、心の奥底で願っている。そんな経験はないだろうか。

3.“あれから10年も”「10 years」(渡辺美里 1988)

~“あれからどれくらい僕らは歩いてこれたのかな”「夜空ノムコウ」(スマップ 1997)

非常に古い話で恐縮だが、私が大学生1年生のころ、渡辺美里の『ribbon』というアルバムが第ブレイクした。たとえば『恋したっていいじゃない』とか『Believe』、『シャララ』、『悲しいね』とかヒット曲も目白押しであったが、アルバムとして非常によく練られており、今でも、そのコンセプトアルバムとしての完成度が高いといえる。考えれば、渡辺美里の歌詞もよいか小室哲哉とか木根尚登とかTM Networkの面々や大江千里とかずいぶん豪華な作曲陣がサポートしたものである。

さてその中に、美里作曲、大江千里作曲の『10 years』という曲がある。

「空一面に広がった 夕焼け見てたら/もう二度と逢えないよな 気持ちになった」幼年時の幼友達(異性であろうか)の「二人ならんで笑った写真」を思い出しつつ、「あのころは何にでもなれる気がした」が「気がつけば 母の背を追いこしていた」。

「あれから10年も/この先10年も/行きづまり うずくまり かけずりまわり/この街に この朝に この掌に/大切なものは何か/今もみつけられないよ」

このアルバムが販売されたのが1988年の春かであろうか。とにかく1988年の冬にもはやっていた。1988年の夏に、ヨット部の合宿所でたまたま出航しなかったときに、船を整備していたときにも艇庫の中で、大学の近くのミスタードーナツ小野原店でバイトをしていた頃、夜中に店舗の掃除をしていたときにも、ラジカセでこのアルバムがガンガンかかっていたことを思いだす。

余談であるが、その後(1997年頃か)、スマップの『夜空ノムコウ』がはやったとき、ふと、この『10 years』とのシンクロ性を感ぜずにはいられなかった。変な例えだが、返歌というのであろうか。10年を隔てて、美里の歌に、回答しているような錯覚に陥った。

「あれから僕達は なにかを信じてこれたかな」の「あれ」というのが、どうも10年ぐらい前の思い出ではなかったのか。「夜空ノムコウには 明日が待っている」というのも、『10 years』の「夕焼け」に対応しているような気がしている。

さて、この『ribbon』に、同じく美里作詞・作曲で『Tokyo Calling』という曲もある。

「・・・自然だけが息をしてた土手の上にも/容赦のないセメントが流し込まれる」、「今も科学の進歩は限りなくて続けられて/失くしたくないものが 現在のため壊されていく」「山が削られて/川が汚されて/森もいつかは 切られて荒れ果ててゆくの」

とても15年以上も前の歌詞だと思えるであろうか。いい意味でなくて、「全く今と状況が変わっていない」という意味で。

実際そうだと思うのだが、ちょうど私より10年ぐらい年上の渡辺美里の世代は、まさに昭和35年代というか日本でガンガン「高度経済成長」に幼年時を過ごしている。その元風景が、アポロの月着陸であったり、東京オリンピックであったり、新幹線の開通であったり、1970年の大阪万博であったり、しかし同時にその科学や文明の正の面、ひかりの面だけを、この日本は経験したわけではなかった。カネミ油症、水俣病、四日市ゼンソク、公害列島とも言われた時代もまたこの60年代ではなかったのか。

しかしまあ、日本という国も第二次世界大戦から“わずか60年”で、戦後の焦土から復興し、先進国に復帰して、今では老人大国というかある面、先進国中でも急激な高齢化社会になってしまって、非常に長足の進歩を遂げたというか、人類の歴史の中でも、特に「開発」については、とんでもないトップランナーだったのですね。

4.「変わらずにいること」=「変わらないこと」、「変われないこと」?

確かに見た目は変わった。しかし、その心というか本質は変わっていないのではなかろうか。これは、物質にもあてはまり、人間にもあてはまる。彼や彼女は、服や立ち居振舞いも変わった(貧乏から金持ちになったのかな)かもしれないが、本質は変わっていないではないか。逆にそれが身近な人であればあるほど、変わらずにいてほしいものである。

つまり、いい方向?に変わることを望ましいと思いつつも、変わらずにいてほしいという願望が誰もがもっているのではないか。

この5年、開発の現場も大きく様変わりした。しかし、それは見かけだけのことではなかったのか。よく考えると訳のわからないカタカナ英語に振り回されてきただけなのではないか。

いや多分、本質的な転換があったのだろう。それは、「援助する側」が、“まず変わらなければならないこと”を悟ったことであろう。それはそれでかなりの進歩だと思う。実はあたりまえのことなのであるが…。

しかし、その先に、「援助される側」も“変わらなければならない”ということには、まだまだというか、今、逆に躊躇を感じるようになった。

そもそも、援助される側の人たちは‘変わる’必要があるのであろうか。彼らも‘変わらなければならない’のであろうか。彼らを開発や援助の旗の下に、‘変える’必要があるのであろうか。

ここで、「貧困」という言葉を、改めて取り上げてみたい。

5.貧しいことは‘いけないこと’なのか

(「貧しき友」『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 1937(岩波文庫 1982)より)

 以前にも触れたが、『君たちはどう生きるか』という本の四章に「貧しき友」というエピソードがある。これは、主人公のコペル君(亡くなったお父さんが大きな銀行の重役だったという設定)が、同じ中学校の「油揚」などとからかわれている豆腐屋の浦川君の家を訪問したときのエピソードなのだが、その中で、東京の山手に住んでいるコペル君は、初めて踏み入れた貧しい街に住む浦川君を取り巻く環境に驚き、かつ考えさせられる。

 このコペル君の報告を聞いた「おじさんのNote」には「人間であるからには-貧乏ということについて-」以下のようなことが書かれている。

「・・・貧しい暮しをしている人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きているものなんだよ。 ・・・ もちろん、貧しいながらもちゃんと自分に誇りをもって生きている立派な人もいる」 「しかし、コペル君、たとえちゃんとした自尊心をもっている人でも、貧乏な暮しをしていれば、何かにつけて引け目を感じるというのは、免れがたい人情なんだ。・・・」

 厳密に言えば、「貧困」と「貧乏」「貧しい」という言葉の意味は違うかもしれない(日本語の中でも英語の中でも)が、あえてそれを無視して続けさせていただければ、今、開発の現場でやっている「貧困撲滅」とか「貧困削減」って一体、何なんだろうと思ってしまう。

 つまり、「貧困」自体は、先進国でもどの人間世界でも共通に抱えている問題であって、多分、人間がこの世に出現してから延々と続いているものなのではないのか。

 福祉の世界では、「絶対的貧困」と「相対的貧困」という言葉があるが、私にいわせてもらえば「貧困」とは、全て相対的なものである。つまり、もてるものともてないものがいるのはあたりまえのことではないか。欲張りな人間や、ずるい人間がいるのは古今東西、人間の摂理ではないのか。

 ミレニアム目標で、「貧困の削減」を高らかにうたっているが、2000年からわずか5年で、目標とした2015年での達成が不可能であることが誰の目にも明らかになってきた。

 私は、援助関係者の努力を茶化すわけでも他人事としていっているわけでもないが、「貧困撲滅」というより、「人間として尊厳をもって生きられる世界にする」これは、今、北の世界で話題になっている開発教育のテーマかもしれないが、お互いに尊敬をもって、差別や偏見をもたずに、物やお金をもっていることが幸せというか、開発具合(発展度?)の尺度であるような世の中を変えようではないかと、最近、つとに思う。

 「貧しき友」の中で、叔父さんが、どのような説明をしていくかについては、非常に興味深いことだと思うし、実際に素晴らしいことがかかれているので、続きはぜひ自分で読んで考えてみてほしい。この「自尊心」というのは非常に重要なキーワードだと思う。

6.人として

 つい最近、とある雑誌で以下のくだりを読んだとき、つい胸が詰まってしまった。

日本に出稼ぎに行った経験のあるフィリピン人女性らの座談会形式のインタヴュー記事「帰ってきたジャパユキさん」の中での、とある女性(アグネス)の発言。(注1)

「日本人って二種類いるのよね。ひとつは貧乏だとかバカだとかってフィリピン人を見下す日本人。もうひとつが貧乏だからかわいそうと思っている日本人。」

以下に、だから日本人はカモにしやすいというおしゃべりが続く。

日本人として恥ずかしいなどといえる高尚な自分でもなくて、理屈や頭ではいけないことと思っても、そう思っている日本人がいるのも無理はないなとなぜか納得してしまう。自分に微塵もそんな考えがないかというと、そうは100パーセント自信をもって言い切れるわけでもない。

 この文章を読んだとき、なにか非常に情けない気持ちになった。いいとか悪いとか以前に、そうだよなと思ってしまう悲しさ。フィリピン人女性が、日本人の男性(そもそもフィリピンパブにくる人に対するコメントであろうが)を、上記の二種類でしかないと言いきってしまう現実(リアリティー)。もっと、他の日本人もいるだろうと突っ込みたくなるが、その私の声は弱々しい。

 すでにお気づきであろうが、実は、上の二つのことは、全く同じことを言っている。1996年12月の発行だから、約10年も前の記事ではあるが、果たして私達、日本人は、どれだけ変わったのであろう。やっぱり全然、変わっていないのではなかろうか。

 武田鉄矢の「海援隊」に「人として」という歌がある。『3年B組金八先生』の第1シリーズのエンディングテーマであったが、ドラマを知らずとも、どこかできいたこともあるだろう。

「遠くまで見える道で 君の手を握りしめた/・・・思いのままに生きられず・・・/私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ/

人として人と出会い 人として人に迷い

人として人に傷つき 人として人と別れて

それでも人しか 愛せない」

同じく、武田鉄矢の歌で、以下の歌詞がある。

  「人の言葉に傷つけられても

   どこにも逃げまい

   破けた心を繕う糸は

   やっぱり人の言葉」

もっと、自分を、人を信じて、‘人として’生きていければよいのではないのであろうか。確かに地球環境問題とか、自然環境も大事であろうが、‘人しか愛せない’ということに、もっと自分が‘人間’であることに素直になっていいのではないか。

‘人として’・・・奢ることなく卑屈になることもなく、互いの尊厳(Dignity)を大切に。

たまたま、この地球という星の同時代に生まれ合わせた‘仲間’じゃないか。

 間違っているかもしれないけど。

聖週間(Holy week)の祝日休暇の初日、駐在して丸1年目のマニラにて。

注:

1.「帰ってきたジャパユキさん」 フィリピンのはまり方編集部編 『フィリピンのはまり方(創刊号)ニノイ・アキノ国際空港に降り立ったハマちゃん-「フィリピン通」日本一への旅立ち-』 1996

ずいぶん思わせぶりな副タイトルのフィリピンマニラ発行の雑誌。たまたま会社の事務所で見つけた。きわもの雑誌かと思いつつ、非常にまじめな内容で面白かった。

(この項 了)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高橋しん 『いいひと。』 変わることと変わらないこと 1990年代再考

ずっと書きたかった原稿です。

09112200 高橋しん 『いいひと。』

ビックコミックス 小学館 「週間ビッグコミック・スピリッツ 1993年 号~1998年50号 掲載作品」

単行本 1993年~1999年

お薦め度: ★★★★☆

泣ける度: ★★★★☆

マンガとしての完成度: ★★★★☆

実は、私の1990年代は、この作品と共にあったと言っても過言ではありません。

中途採用で地元の名古屋本社の会社に入社したつもりが海外事業部が東京だったため、院浪していた京都から急遽、上京したのが1992年9月のこと。

将来的には東京に行きたかったのもあり、海外の仕事をすることも夢だったのも事実ではありますが、1992年は4月からニューチャレンジということで大阪から京都に引っ越したばかりで、半年もたたないうちに東京へ。そういえば、そのときの免許証には大阪、京都、東京の住所が書かれていました^^?

さて、中途採用で上京したものの、通常入社の新入社員から5ヶ月遅れで、しかもその13名は本社採用であったため、東京には5年以上年上の先輩や20年選手や、海外部の重鎮というかベテラン社員ばっかりのところに突っ込まれた?ものですから、いろいろ入社当時からミスというかトラブルメーカーというか、まあバカなことばかりやってきたものだと思います。確かに、東京採用の女性社員で年齢の近い方も何人もいらっしゃったけど男性社員はいなかったなあ。

とにかく9月7日付けで採用だったのですが、当時は生活環境も関西と関東では全然違うし、同期もいないし、もう右も左もわからないようなめざまぐるしい日々でした。

当時の会社は港区は赤坂の溜池交差点の近くにあり、昼は会社の上司や先輩と近くのめしやで外食だったのですが、たまたまひとりで、となりのコマツビルの地下一階の喫茶店にランチにいったときに、そこの置いてあった当時は隔週刊であったビッグコミック・スピリッツで、このマンガの初回を読んだのですね。、たしかに、1993年の春のことでした。

それ以来、2週間に少なくとも1回は、ひとりで、このマンガを読みにその喫茶店に通っていました^^?

なんていうのだろう、このマンガの主人公は、北野優二という北海道から東京に上京してきたフレッシュマンで、ライテックスという超一流のスポーツメーカーに就職したのですが彼の大学時代からの恋人や仲間たちと、会社で知り合った上司やまわりの人たちとの交流物語なのですが、やはり自分ともダブったところがあるのでしょう。

仕事の業務内容は、まったく違うのですが彼の経験というか、彼の周りを巻き込んだ一見常識破りの言動は、自分の未経験値?ともマッチしていたし、今思うと、私も漠然と感じていた社会というか会社に対するなぜというクエスチョンに、ゆーじ君自身が体を張って答えてくれていたような気もします。あくまでも彼流の解決?方法なのですが^^?

ところで、彼の信念は、「私の周りの人の幸せが、私自身の幸せだ」ということなのだそうですが…。

そんな甘い考えでこの世知辛い世の中生きていけるのかというのが大方の常識だと思うのですが、そんなゆーじくんが如何に、日々、身の回りの人たちと繰り広げるドラマで、実は漫画の連載途中で、1997年4月からにスマップの草薙剛くん主演でテレビドラマ化もされたので、こちらで知った方もいるかもしれない。

最初から漫画で見てきたものとしては、ドラマの出来はなんともかんともといったところで、最初の1回目はみたけどとても見られたものではなかったという感じでした。と言いつつも何回かみたような気もする。

まあ、それはそれとして、なかなか話がすすまないドラマではありますが、それでも当時の思想というか風潮というか、やはりバブル後に社会にでた私たちの世代の気持ちというか雰囲気を代弁していたような気がします。

作者の高橋しんさんが1967年9月8日生まれということもあり、やはり年代的にも近い(2学年上)ということもあったのだろうな。かなり共感できるエピソードがありました。

あと、各回のタイトルが、当時はやっていた主にJ-POPのタイトルや歌詞などから拾ってきたようなキャッチーなもので、そのときはあまりなんとも感じませんでしたが、その後、改めて読み返すごとに、そのタイトルから当時のミュージックシーンが浮かび上がってきて、描かれている世界や世界観のみならず、そのはやりの音楽が聴こえるみたいで、まさに1990年テイスト満載の作品でもあります。

なんか、前書きが長くなってしまいましたが、彼の言葉で非常に印象ぶかいのが次の2つのキーワード。

1. 「オレは変わらないから。」 そして、2.「想い出す」こと。

これって、実は宮本常一さんの言葉(※1)ともつながってくるのですが、1990年代というまさに時代がうねりを立てて、既存のパラダイムが音を立てて崩れ去っていった「失われた10年」を生きてきたわれわれ世代の高橋しんさんが、時代は変わっても「変わらないこと」(ところ)に、この主人公を置いたところに非常な聡明さというか時代に抗うわけでなく、また迎合するわけでもなく、‘時代’と‘個人’との距離をきちんととったということ、そのすごさが今更ながら非常に貴重に思えてきます。

※1 いろいろな人が引用していますが、『民俗学の旅』の最後の章の文章「私は長いあいだ歩き続けてきた。そして多くの人にあい、多くのものを見てきた。それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのはなんであろうか。発展というのは何であろうかということであった。すべてが進歩しているのであろうか。停滞し、退歩し、同時に失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと思うことがある。~後略~」(講談社学術文庫 1993年 234ページ)などを参照。

こちらの記事もご参照ください。

ブームの宮本常一?(『宮本常一 旅する民俗学者』を手にして) 2006年3月30日 作成http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00030.htm

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-cc80.html (表紙の画像付)

俗な言い方ですが、私にとっての20歳代(1990年代)って、やっぱりいろいろな意味でも‘青春’であったといえますね。

実は、この文章は、2000年になってから早い時期に書き留めておきたかったのですが、結局10年近くかかってしまいました。(既に、2009年も11月22日)

あと、この漫画は、主人公が主人公の周りの普通の人たちが主人公であるという群像劇と申しましょうか、小説とかでは今までもあったかもしれませんが、漫画では非常に不思議というか、「何もしない(できない)」ヒーロー?というかたちをとっています。

というか、ゆーじは、変だけど、‘普通’の人代表というか、無垢?な子供大人というか「今までオレってやりたいことをやらなかったことってないんです。」という自由人、劇中では周りの人から、さまざまに評価されていますが、ある登場人物は、「あいつって、それほど‘いいひと’でもなかった」とか、またある人は「(偉大なる)無」とか、よくも悪くも言われているのですが、そうです、今はやりの言葉でいえば、ファシリテーターというか、彼の言動によって、彼に関わった人たちがそれぞれ自分の(熱い)想いとか考えに気づくというか気づきの‘きっかけ’、自分(たち)を見つめなおし、新たにスタートなりをきるための触媒としての狂言回しを担っていることに気づかされます。

最後の書き下しのプロジェクトでは、彼は何もやっていないというか、周りのみんなをその気にさせて、「決して個人ではたどり着けない(世界)」へと周りの登場人物をも、そして読者をも導きます。

最後のオチは言わないのがお約束ですが、彼のいた世界、彼がいる世界って、やはり一人ひとりが、やっぱり少しは生きやすい世界であるだろうという期待と期待を抱かせてくれます。

誰もが「いいひと。」になれる可能性を秘めた世界。決して大上段に世界平和や愛を語るのではなく、たとえどんなに世界が‘変わった’としても、‘変われない’自分(たち)をいつくしみ、‘忘れる’ことや‘忘れない’ことを恐れずに「想い出」を大切にしていく。

それぞれの人々、個人個人がもつ‘幸せ’な「想い出」を糧に、苦労や悲しみを「未来」へとつなげていく。そして、人の想いは、たとえ片想いであったとしても十分に価値のあるもので、‘小さな’幸せを紡いでゆく。

彼は「変わらない」ことによって、彼の周りの人を「変えていく」。そんな不思議な漫画です。

たかが漫画と侮ることなかれ、私はいろいろ行き詰ったり悩んだときに、それなりに前に進むための‘ちょっとばかり’の「勇気」をその都度、ゆーじ君から与えてもらったような気がします。

高橋しんさんのこの後の作品の「最終兵器彼女」も名作といわれていますが私はその頃は漫画を卒業というか全然読んでいないし、私にとっては「いいひと。」がベストというか、私の20歳代の生活というか‘青春の全て’であったような気もします。

この連載が終わってからは、スピリッツも全く読まなくなりましたね。他にもおもしろい連載があって、たとえば、玖保キリコさんの『バケツでごはん』とか、中川いさみさんの『大人袋』とか、本当におもしろくて今でもたまに読み返していますが、それらの作品が(いいひと。を含めて)終わってしまったのが、多分、同じ頃ではなかったのか、つまり1990年代の終わり頃(※)はなかったのかと思います。

※『バケツでごはん』 1993年5月3日号から1996年8月19日号まで「ビッグコミック・スピリッツ」で連載。『大人袋』 1995年4月24日号から1999年頃(手元にある単行本の第4巻の収録が、1998年9月14日号までの収録、確か第5巻で完了したはずです。) 

ともあれ、ちょっとマイケル・ジャクソンやオバマ大統領の「チェンジ」という言葉に対して、いや実はそれだけでいいのかというのが頭の片隅にあって、こんな昔話?を書いてみました^^?

あと、蛇足ですが、「変わること」と「変わらないこと」について、5年ほど前にも書いています。まあ、私の考えも基本的に‘変わっていない’です。当時と較べても^^?

5年目の“歩く仲間”と1年後のフィリピン(人として・・・ “変わってくこと”“変わらずにいること”) 2005年3月23日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00025.htm

ではでは^^?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年11月15日 (日)

フィンガー5 『個人授業』(Finger 5 First Album)あるいは‘和製ジャクソン5’のこと

ちょっとタイトルからしてわかりにくいかもしれませんが、今回、紹介するのは下記のアルバムです^^?

2_09111400 フィンガー5 『個人授業』(Finger 5 First Album)

日本フォノグラム PHCL-8057 CD選書 1994年11月

(LP発売日 1973年)

お薦め度: ★★★★☆

泣ける度: ★★★★☆

アルバムとしての完成度:★★★★☆

そもそも1973年発売のこの曲というかアルバムを、1970年生まれの私が知るわけもないと思いきや、実はひょんなきっかけで、1980年頃にはLPを手に入れていました^^?

というのは、小学生の頃、剣道を少し近所の道場に通って習っていたことがあるのですが、たしか小学5年生の時の、クリスマス会もしくは新年会のときに、プレゼント交換があってじゃんけんか何かで買った人からほしいプレゼントをもらえるということがありました。確かクリスマス会だったと思います。その時、なぜか1番目か2番目かで勝って、まだ山とある(たしか当時20~30名ほど子供が剣道を習いにきていた)プレゼントの‘宝の山’から私が選んだのが、なぜかだかわからないけど、このアルバム(当然LP)とアリスの「今はもう誰も」のドーナツ盤。そのとき弟は、プラスティックの雪ゾリをもらっていましたね。確か。もっとも1月にスキーに団体でいったときに早速持って行ったら大人が乗ったかなにかで手すりのところがいきなり割れて、一回使っただけでお釈迦になっていましたが・・・。

本当に、なんで‘こんな’(変な)プレゼントを、山とある中から‘わざわざ’選んだのか今でもさっぱりわからない。

さはいいなん、選んだ経緯はともかく、このアルバムは実は想像以上というか見かけ?以上にめちゃくちゃよかったです^^?

09111401_2 A面:

1.ハレルヤ・デイ*、2.帰ってほしいの*、3.小さな経験*、4.愛はどこへ*、5.オキナワヘ帰ろう*、6.涙の天使

B面:

1.個人授業、2.恋の研究、3.バラの少女、4.気になる女の子、5.ベンのテーマ*、6.歓びの世界⋆

*ジャクソン5のカバー、⋆スリードッグナイトのカバー

(詳しくは曲目リストを参照。でもこのリストをみてもジャクソン5の曲かどうかはわかりません。)

もうわかる人はわかると思いますが、この沖縄出身のキッズバンド、実の兄妹(末娘の妙ちゃんが最年少で参加しているので、男の子4人と女の子1人、上から、一夫、光男、正男、晃、妙子)5名の‘和製ジャクソン5’は実に、デビューアルバムの12曲のうち、上に*をつけた6曲が、ジャクソン5のヒット曲、もう1曲もまたアメリカンポップスのヒット曲。

正直言って、たしか中学生かなんかでラジオで、初めてジャクソンファイブのたとえば確か「アル・ウィル・ビー・ゼア」か何かを聞いたときに、「これってフィンガーファイブのパクリやん」とマジで思いました^^?

つまり、このフィンガー5のカバーは、楽曲からアレンジ、しかも日本語の訳詞まで本当に完璧なコピーで、歌詞が日本語だったので非常に当時小学生であった私にもわかりやすかった^^?

実は、これらの曲は、フィンガー5で聴いたほうが私的にはしっくりとくるのです。

その後、中学生とか高校生でジャクソン5の曲もいくらか聴きましたが、やっぱりマイケル・ジャクソンのジャクソン5時代の代表曲は、上記にあるようなものではないかなあと思っています。

ということで、私のジャクソン5初体験は、なぜだかフィンガー5から始まったのでした^^?

ではでは^^?

P.S.

おまけ。フィリピン駐在時にようやくというかやっとジャクソン5のアルバムを購入しました。

09111402_2 JACKSON 5 GOLD

UNIVERSAL MOTOWN 06024988052

2005

お薦め度: ★★★☆☆

泣ける度: ★★★☆☆

アルバムとしての完成度: ★★☆☆☆

結論からいうと2枚組みというのが泣きどころでたぶん完璧にヒット曲を網羅しているとは思うのですが、アルバムとして聴きにくいです。正直言って。

たぶん、日本ではこのアルバムは手に入らないと思いますので、素直に今、何種類かリリース(リバイバル)されている1枚組みのベストを買ったほうがよいと思います。

収録曲は、以下のとおり。

09111406

09111407

このCD2枚組みには当然、フィンガー5のカバーの元曲がちゃんと入っています。でも較べると、J5よりF5のほうがいいなあという曲もあって、非常に微妙な感じです。

機会があったらぜひ、オリジナルの本家(J5)と和製(F5)を聴き較べてみてください。

ではでは^^?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月14日 (土)

マイケル・ジャクソン 『THIS IS IT』 2009年10月28日全世界同時公開

ちょっと気になっていた上記の映画を昨夜、会社帰りに観てきました^^?

09111408_11 岡崎ウイングタウンで観覧。

2009年10月28日全世界同時公開。2週間限定。

ということになっていますが延長しているところも多いようです。

お薦め度: ★★★☆☆

泣ける度: ★★★★☆

映画としての完成度: ★★★☆☆

メーカーのオフィシャルHPはこちらへどうぞ!

http://www.sonypictures.jp/movies/michaeljacksonthisisit/

さて、マイケル・ジャクソン論については、それなりに関心があったので、本当は、フィンガー・ファイブ(以下、F5)、もといジャクソン・ファイブ(J5)のことから書き起こす予定でしたが、やはり映画のインパクトが強すぎてこちらの記事を先に書くことにしました。

結論からいうと、もう凄すぎるというしかないのですが、これはあくまで、彼の楽曲を少しでも知っている人のみに限定させていただきます。だから先にあげた私の映画の評価はかなり辛めになっています。わかる人しかわからないという意味で。

実は私の中でのマイケル・ジャクソン(MJ)は、1982年に発表されたモンスターアルバムの『スリラー』で終わっていました。(※参照)

丁度、私が中学生1年生のとき、ボーイスカウトなんぞ?をやっていたので当時大学生の先輩(ローバースカウト)のお兄さんの車にたまたま何かの行事に参加の移動で乗せてもらった時に、ガンガンにカーステレオでかかっていたのがアルバムの『スリラー』のカセットで、もうこのときの強烈な印象しかない。確かにMTVが日本でもはやりだしたころで、深夜にやっていたことは知っていましたが、そんな深夜テレビをみる習慣もなく、当時はLPも高価で、しかもうちにはそもそもステレオがなかったので、はやりの映画や音楽シーンから縁遠かったのですが、このアルバムの凄さはめちゃくちゃ覚えています。やはり「スリラー」の‘お化け踊り’や「ビリージーン」の‘ムーンウォーク’は、どんな田舎の中学生や高校生でマネをしなかった男子学生はいなかった(私はやらなかった)というほど、当時の風景として溶け込んでいたというか、学祭でも必ずどこかのグループがマネやもどきをやっていました^^?

※ マイケル・ジャクソン 『スリラー』 25周年 2008年2月21日http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2008/02/25_6dda.html

さて、この映画をみて、自分の視野の狭さというかそれ以降の動きを全く追っていなかった自分の怠慢というか寡聞をちょっと恥じ入るばかり。実は、アルバム『バッド』の発売は高校3年生のときだったのですが、あまり当時は関心がありませんでした。特に、『バッド』のビデオクリップは、ちょうど私の4歳年下の弟の世代(当時、中学生)には非常に受けたみたいでしたけど、自分はこのビデオクリップにもそれほど関心しなかったし、アルバム自体を聞くこともありませんでした。

そうそう、1985年のUSA for アフリカの『We Are The World』のセッションを忘れてはいけませんよね。ちょうど私が高校1年生の確か秋か冬のころのこと。私も、12インチシングル(LP)を親にねだって買ってもらった口です。この『We Are The World』について語ると長くなるのですが、自分の身の回りで、この曲によって人生を変えた人が少なくとも1名はいます。

話を戻すと、1980年代後半からのマイケルの活動は、本当にノーマークだったのですが、例の6月の急死事件以後のリバイバル(便乗商法?)で、私も改めて『スリラー』、『ONES』、『ムーンウォーカー』などを聴いたりビデオを見直したりしたのですが、この映画をみて、実は1990年以降、いや『バッド』の頃から、J5の無邪気なマイケル坊やや、20歳代前半で大きな成功を治めたイケイケゴーゴーの‘アイドル’マイケルから一皮ふた皮剥けてより深い境地というか高みへの助走が始まっていたことに、いまさら、今頃になって気がついたのでした。

今までは、マイケルのビートの効いた「踊り」と、もうこれはJ5時代からの天性‘歌’のうまさに眼をくらまされていたというか、少なくとも私は、実はソロ以降のマイケルの曲は唄の歌詞を考えたり読むものではなく、ただなんとなくビートで心地よく聞く(聞き流す)もの、ダンスシーンで無駄にむやみに消費される‘街’の音楽というかさざめきとでもいうような街のビートのひとつでしかなかったと思います。

しかし、改めて、ヒット曲の歌詞の内容をつぶさにみてみると、耳や体に心地よい‘ビート’としてのみ聞き逃してよかったものなのか、もっと真摯に‘唄’の心に想いを寄せる必要があったのではないのか。

いや、今からそれを始めようと思います。実は、マイケルの‘別’の読み方、聴き方を示唆していただいたのが、大学の恩師の先生でした。たまたま大阪に行ってお会いした折に、非常に、マイケルの話で盛り上がってしまって・・・。まあ、その方向での私の読みというか‘聴き込み’は、まだこれからなので、一旦、この映画について、まとめます。

世界中から‘カリスマ’であるマイケルとの競演することを夢見てオーディションに参上した何十カ国からの若者達や、競演のミュージシャン達。この映画は、作為があるというかリハーサル映像を、淡々とつなぎ合わせただけのものですが、いかにマイケルが‘人’を愛したのか、また人から愛されたのか、天才といってもよいと思いますが、当代稀有の天才ミュージシャンのマイケル、超一流の仕事の流儀というか、一流のプロの仕事がいかようなものなのか、またその一流のものどおしの競演=コラボレーションが如何に凄いものを生み出すのか、生み出しうるのかということを、われわれは追体験することができます。

バックミュージシャンやダンサー達が如何にマイケルを尊敬して慕っていたのかは置いておいても(当然、わかることですが)、逆にマイケルが如何に謙虚にスタッフみんなを盛り立て盛り上げ、彼‘のみ’に見えていた‘ビジョン’にみんなを導こうとしていたのか、天才の、いや凄い人の本当の‘凄さ’を魅(見)せつけられた気がしました。

とにかく、凄い人ほど、謙虚で頭が垂れているということを見ただけでも、私には非常に大きな収穫でした。凄い人で、‘威張ったり’人を脅かしたり、ハッタリをいう人はいない(はずだ)ということを感じただけでも眼が肥えたという感じです。つまり如何にも偉そうにする人ほど‘小者’で‘偽者’であるかということですね。他山の石というか、これから人生を生きてゆく上で、非常なヒントになりました。

さて、この映画だけだと実は、マイケル理解に不足がありました。先に話した恩師より教えてもらった『ライブ・イン・ブカレスト』をこの映画をみた後で買って、今日見てみて、非常にストンとマイケルの凄さとこの映画の凄さがわかりました。

今思うと、アルバム『スリラー』の佳曲「ヒューマン・ネイチャー」は今でも好きだけど、「ブラック・オア・ホワイト」、「アース・ソング」、そして何より「マン・イン・ザ・ミラー」のメッセージが非常に気になるというか心に刻まれました。

「マン・イン・ザ・ミラー」自体は、アルバム『バッド』に収録されているので1987年の作品なのですが、やはりこれがその後のマイケルの大きなターニングポイントになったのではないか、新しいNEWマイケルの萌芽が既に1987年の段階であったのかということを感じさせます。

識者が、「オバマが今(大統領で)いるのは、マイケル・ジャクソンがいたからだ。彼(黒人大統領)の出現を50年早めた」というような主旨のことを発言したとメディアが報じていましたが、この「マン・イン・ザ・ミラー」を聴いて、その歌詞を読んで、それかもしれないと素直に思いました。オバマ大統領の好きな「チェンジ」も「イエス・ウィ・キャン」もマイケルやそれ以前の黒人歌手や運動家が何度となく歌って語ってきたことなのではないか。

特に、この「マン・イン・ザ・ミラー」=すなわち‘自分’が、まず変わる(チェンジする)こと、世界を変えるには「マン・イン・ザ・ミラー」から変えるしかないというメッセージは、今でもというか20年後の今でこそその普遍的な価値をもって語り継がれる、いや歌いつなぐべきことなのでしょう。

私の2009年のベストな‘泣ける唄’は、今、この場で「マン・イン・ザ・ミラー」であることを宣言?してこの項を終えたいと思います。

正直、映画の最後の数曲の部分、特に「アース・ソング」から「マン・イン・ザ・ミラー」にわたってのくだりの部分は、こみ上げてくる涙を止められませんでした。遺作となった「THIS IS IT」を背景にクレジットが流れるのですが、映画では実質、「マン・イン・ザ・ミラー」が最後の(歌われなかった最後のリクエストを除くと)曲となっています。(ネタばれになってごめんなさい)

もう既に、サウンドトラックが発売されていますので、これもついでに紹介しておきましょう。

09111500 マイケル・ジャクソン 「THIS IS IT (THE MUSIC THAT INSPIRED THE MOVIE MICHAEL JACKSON'S THIS IS IT)デラックス・エディション」

EICP 1301~2 初回生産限定盤 CD2枚組 EPIC/SONY 2009年10月28日

やはり買うなら2枚組みのデラックスエディションをお薦めします^^?

曲名は左を参照。

お薦め度: ★★★★☆、 泣ける度: ★★★★☆、 アルバムとしての完成度: ★★★★☆

P.S.

全く必要ないであろう蛇足ですが^^?

この映画をみていて、最後のほうで、ふと心に想ったこと、「実は、この「ジス・イズ・イット」は既に九割方いや九割九分(リハーサルとして)完成していた。つまり、マイケルはこれほど執拗にリハーサル風景を画像に残していたということは、これ(「ジス・イズ・イット」)を完全に100パーセント(以上)の‘もの’にするために(自ら)死んだのではないか。つまり、「ジス・イズ・イット」のリハーサルが‘映画’として‘復活’するために、あえて自分を殺さなければならなかったのではないか。つまり、マイケルの怪死は、必然というより計算されたものではなかったのか。」ということを感じました。

以前、キリストの「パッション」について言及していますが、この「ジス・イズ・イット」プロジェクト自体が、もしかしたら最初からマイケルの「パッション=殉教」であったのではないか。家付の医師は、あえてというかマイケルから頼まれて「ユダ」の役割を買って出たのではないか?と私は思うというか、ここに書いてきてみてほぼ‘99パーセント’確信しました。

「パッション」=キリストの最後の24時間は、世界史上でもトップクラスのミステリーで神学者から平教徒、さらには異教徒まで巻きこんで、いろいろな解釈や推測がなされていますが、実は昔からある有力な説のひとつとして、「キリストは聖書の預言を全て実現するために、ユダに裏切るように仕向けた」という話があります。

つまり、それまでになされていた「キリスト」の預言が成就するためには、どうしてもキリストは死ななければならなかった。そのためにユダは、その預言を成就させるためにあえて裏切り者の烙印というか重荷を背負わなければならなくなった。実はキリストよりユダのほうが‘偉い?’というような評価も一部ではあるようです。

まあ、私も人から聞いた話なのですが、その「ユダとキリスト」像があるとしたら、マイケルの急死というか怪死は、マイケル「レジェンド」を完成させるためにはどうしても必要なプロセスであったような気がします。

あと、映画で、マイケルが「あと4年で(地球を)救わなければならない」という最後のミーティングでスタッフ全員の前でスピーチする場面が、‘異様’にというか‘異常’に非常に心に残りました。つまり、なぜ「4年」なのかと。

この地球環境問題、まったく出口も終わりも見えていないのに、なぜに「4年」なのですか。マイケルさん。これは、まさか今、巷で話題になっている「2012年12月21日」のことなのですか。これだと、マイケルジャクソンが死んだときから数えても、3年6ヶ月しかないのですかって、ということは、マイケルのいうように4年間で世界を変えないと、本当に「2012年」か2013年に「世界は滅亡」するのですか。

なにかトンデモないことに‘気がついて’しまったようで、自分としても終始がつかないのですが、私としては愚直にマイケルが遺した「マン・イン・ザ・ミラー」から(世界を)変えていくしかないのでしょう。

「We can change, Yes, we can. 」と語る、どこぞの国の大統領と同じように、心に夢と希望と、そして(小さな)勇気をもって^^?

ではでは^^?

ブログのランキング★ブログセンター

ブログランキング★お勧め 音楽

↑よろしくお願いいたします^^?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 3日 (火)

大阪から戻りました。プチ旅行報告をとりあえず2つ書きました!

10月31日~11月1日まで、大阪と高槻にプチ旅行に行ってきました。

実は、時間的にも余裕はあったので、10月31日の大阪・梅田の用が済めばもっと西に足を伸ばすつもりだったのですが、「阪急古書のまち」にちょっとはまってしまい、想定外に古本を買い込みすぎてお金はなくなるわ、荷物は重いわで、11月1日に大阪外国語大学の恩師にお会いしてあるイベントに参加して、それでそのまま実家に退散?しました。

とりあえず、「ブログ版 歩く仲間」に2つの所用について、報告を書きましたのでご報告まで。

大阪外国語大学アラビア語科のOB会の設立総会に出席してきました^^? 2009年11月2日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/ob-86d2.html

道はまだまだ遥かかなた。でも、まず一歩から踏み出そう! 2009年11月3日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0622.html

ちょっと堅い内容ですが、まあ関心のある方は覘いてやってください。

後者は、「海洋民俗学~海からみる世界」というミクシイのコミュに対する書き込みです。まあ平たく言うと、なぜ大阪で散財?したかということの説明。でも自分では、高価な専門書を安く(ないけど)購入できて、非常にハッピイであると思っています。本当に。

いろいろ研究活動に徐々に力をいれていきたいと思っていますので、関心のある方は一緒にしばし歩いてみましょう。

ではでは^^?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«今日から大阪に行ってきます^^?