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2015年5月21日 (木)

開発民俗学の途を一歩でも進めるために今、わたしができること(挫折編)

時は夢をうらぎらないとは言っても、世の人には、すべて天命と同時に、その人に与えられた寿命という絶対に逃れることのできないリミット=The Endがあります。

しばやんは、今年、4月1日に45歳になりました。ほぼ2年前、人生は30,000日の折り返し地点である、43歳のときに、どうしても研究者への途をあきらめがたく、5年間も続いた地元愛知での再就職先を退社させていただきました。

とにかく、翌4月から大学院に入ろうと2013年の9月から人間環境大学の市民講座の聴講生と、日本福祉大学の夜間大学院の科目等履修生をさせていただきました。

そんな名のないような(失礼な!)大学院にいっても大学の先生にはなれへんよと真面目?に忠告していただいた方もいらっしゃいましたが、私にとっての課題は、とにかく家から通えるところで、実際に研究や教育に携わっておられる先生からアドバイスをいただくのが主眼で、大学院に関して偏差値や大学名を持ち出すのも、ちゃんちゃらおかしいのであって、まあ、それはおいておきましょう。

少なくとも半年は受験勉強をするつもりでしたが、たまたま自分の関心分野の活動をしていたアジア保健研修所に縁があって、11月末には職員として採用。翌2月には、日本福祉大学の国際社会開発学研究科(通信制)に出願して、書類選考のみで合格をいただいたのですが、結局、入学を辞退させていただきました。

なぜか。もうすでに別のところにも書いたかと思いますが、11月末にAHIに入って、年明け1月にスリランカに元研修生との協働プロジェクトのモニタリングで先輩職員2名の方と出張させていただいたのですが、社会的に周辺化され虐げられている人の側に立つがゆえに結果として、反政府的な立場となり、亡命した方や牢獄につながれた経験のある元?ファイター(みかけはとってもジェントルです)の方々とあったときに、今までずっと政府の側で援助をしていた私に、そんな一面的な経験しかないのに、論文で一体なにが語れるのかと自分の足元自体が大きく揺らぎ、AHIの仕事が物理的に忙しいということを差し引いても、とても、今まで絶対に(政府開発援助の仕事を続けていたら)逢わなかったであろう人たちと、その支援を受ける人たちを見て知ってしまったからには、とても研究を続けられないと思いました。

本当に、合格通知が届いてから、授業料の納期までのほぼ1ヶ月間、いろいろ悩みましたが、今、改めて考えてみても、やはり辞退して正しかったと思います。

そんなかんなで、アジア保健研修所では、9月から10月にかけて5週間にかけて行なわれる国際研修にファシリテーターの一人として関わられていただき、また英文ニューズレターの編集作業、1月のスリランカと7月のフィリピンでのプロジェクト担当としての、またインドは現地で元研修生たちが自分たちで企画して行なったリユニオンセミナーへの参加という3回の貴重な海外出張の機会を与えていただいたのにも関わらず、十分にAHIの理事会や事務局の方々のご期待に沿うことができませんでした。

今回、正職員での採用であったのですが、実は、当初からかなりのコメント(留保)つきの採用で、その点を踏まえて1年後に、それ以降の契約を見直すという、いわば1年間が試用期間という条件付の契約で、結果としてそれが更新されなかったということです。

というわけで、2015年1月末に、一年をちょっと越えたきりのよいところで退職となったわけです。その後、いろいろ今後20年は働くことを考えて、ある程度、手に職をいうことと、全く新しいことでもチャレンジしようと介護や福祉分野に転身しようと就職活動に励みました。

なぜ、介護福祉分野かというとAHIおよび愛知国際病院で、保健衛生分野や介護分野での専門職の方にお会いする機会が増え、日本の老人福祉分野が身近になったこと、自分の父親が要介護3で、母親もパーキンソン病という、介護自体が自分の問題として降りかかってきたことなどもありますが、一番の理由は、国際研修で、アジアからの研修生13名に接して、ああ、結局、自分は足場となる‘現場’を持っていなかったということに気づかされたからです。

結局、政府開発援助の仕事は、外部から巨大な力(パワー)を持った、いわばやらせる側(プロモーターなどという言い方もあるでしょうが)でしかなかったし、参加型のプロセス自体にも懐疑的であるし(私は明言しています)、なにより自分の活動の結果をダイレクトに受ける、いや、支援者や非支援者という立場を超えて、ともに泣いたりわらったりする関係性の中に自分はいなかったということです。

私のAHIでの、一番の学びは、研修生から学ぶことはたくさんあっても、少なくとも私が彼らに提供できること、教えれることはなかったのではないかということです。もちろん、少しは理屈や、政府開発援助というフレームの中でも経験はあるのかもしれない。しかし自分的には、現場での具体的な経験が圧倒的に足りないと思いました。

そして、大方の人は、「(柴田は)口で言っていることとやっていることが違うんじゃないの」という冷めた眼で見ていたのではないかと、いまさらながらに思います。

まあ、それはそれとして、福祉でもいきなり介護施設で、直接、利用者様と触れ合うのに、抵抗があった私は、福祉用具の専門相談員という枠での求人に、ビビッとひっかかりました。これなら、広く、いろいろな施設や利用者さんに触れ合えるし、福祉用具というワンクッションが入ることで、徐々に私が利用者さんの世界に近づいていけるのかもしれない。全く経験も関心もなかった介護や福祉分野に挑戦しようとしたのは、そんな背景があります。

さいわい、既に決まりかけていた候補者がいる中、3月3日から家から車で20分ほどの隣町のデイサービスの事業所で福祉用具専門員を募集しているところに入社させていただいたのですが、わずか、2ヶ月でクビと相成りました。一体、なにが引っかかったのか?

まずは、デイサービスの利用者さんたちを朝と夕と毎日2回、車椅子がそのまま乗せれるような福祉車両(ハイエースの大きさのワゴン車)でご自宅の前もしくは家の中の部屋まで送迎にいくのですが、私が運転が下手すぎて、安全に運転できず、利用者様から怖くて乗れないとクレームがついてしまったこと。そして、たぶん、一番の理由は、毎日約25名、合計で60名ほど登録されている利用者さんの家と名前が覚えられなかったということ。いろいろ他のドライバーの方々や社長自ら車の運転練習や、利用者の方の家と名前を覚えるコツなど、正職員やバイトの方から口々にアドバイスをいただいていた訳ですが、結局、当初に言われていた1ヶ月では覚えられず、結局2ヶ月間で、なんとかせいということになったのですが、その期限の前に、利用者さんからクレームが来て・・・。

結局、福祉用具の専門職の方が私のほかに2名いらっしゃるのですが、まずドライビングをしてこの地域の道路事情を知り、デイサービスにこられる利用者の方の現状を知ることにより、新規に福祉用具のサービスが必要となる方に、より適切なアドバイスができるようにというもくろみは、名前すら(通所で60名、福祉用具だけを連絡している方で100名以上)覚えられない者に何ができるかということで、私は2ヶ月間、朝夕の車の送迎の時間以外は、ずっとデイサービスの事務所から10分ほど離れた福祉用具の倉庫で、レンタルから戻ってきた電動ベッドや車椅子、スロープ板、歩行器などの消毒と水拭きなどのクリーニングばかりやっていました。

2ヶ月目の終わりには、人手不足でやりっぱなしになっていた倉庫の中の備品を全てクリーニングして消毒済みのビニル袋への梱包を終えたので、その力仕事の分だけは、役になったということでしょうか。電動ベットは、鉄パイプのしっかりしたもので、電動モーターが3つもついており、全体で150Kgほどになります。7から10くらいに部品に分解できるのですが、一番重いもので25kgくらい、それほど汚れるものではないにせよ、全ての面をみて汚れをとってきます。ベット1台分をクリーニングすると拭き掃除だけで、3時間くらいかかります。たぶん、2ヶ月で20台以上のベットをこなしました。

全然、私の柄にもなく、かなりのガテン系の仕事で体を動かしたおかげで3kgはやせたと思います。もう30年も前の映画ですが、ベストキッドというアメリカの空手少年の映画を覚えていますでしょうか。いじめられっ子のダニエルという高校生の男の子が、空手を習っているいじめっ子に、いじめられたのをきっかけに、ミヤギという沖縄?出身の日系人に空手を教えてもらって、うんちゃらというストーリーなのですが、私は正直、ミヤギに適当?に空手を教えてもらっているダニエルみたいな気分でした。
ミヤギは、最初、空手を全然教えずに、彼の家の壁のペンキ塗りや、ガレージというかだだっ広い空き地に何台もある車のワックスかけをダニエルにさせるのですが、ダニエルが、いい加減に空手を教えてくれというと、いや、その掃除の手や足の動きが空手のトレーニングそのものだというオチが付くやつです。

そういえば、2000年ごろにはやった、ウオーターボーイズの映画や、空手キッド自体、ジャッキーチェンが、ウィルスミスの息子と組んで、2007年ごろにリメイクしていますね。

まあ、それはそれとして、この福祉施設の社長さんや職員の方々がとてもよい人ばかりで、はっきりと私の足りない部分を指摘してくださいました。

社長は、はっきりと、ミスマッチだと。福祉の分野では車を運転することや利用者と向き合うことは必死なので、あなたは、人を乗せる車の運転と、サービス業はしないほうがよい。もっと自分の得意なところを活かせる仕事を探したほうがいい。さらには、あなたは空気が読めないから、どこに行っても協調性を求まられる人と一緒に仕事をするのには向かないんじゃないかとも言っていました。たぶん、根底には、他人に関心がないということが原因じゃないかと。

またある方は、「名前を覚えるということは、顔と名前と家の場所がわかるとか、みて1秒で名前がいえるということではなく、この人はこのような肉体的や精神的な障害をもっているから、すぐにそばに行って介護しなければいけない。その人が転んだり死んじゃったらどうするの?行動できなければ、わかったことにならない。」と、これまた丁寧に噛んで含ませるように教えてくださいました。

上記に限りませんが、本当に親身に、アドバイスや指導をいただいたのですが、本当に、全然、私はできなくて、全く、介護の現場では役に立たなくて、もう、一体、何の恥をさらしているんでしょうね。

頭では介護の仕事はこれから益々、社会的にも重要に鳴ってくるだろうし、大切なことだし、たぶん食いっぱぐれないだろうとか考えていたのでしょうが、結局、全然、体が動かなかったということと、先輩の指示とは別にマイペースで、余計なことばかりやって肝心のやれといったことができていないという、私にありがちないつものパターンにはまっていたのだと思います。

そんなかんだがありまして、4月30日に、福祉の仕事も退職ということで、5月1日から、また失業者です。

ただ、そんなことが相次ぎましたので、今回は、慎重に、早速に陥らないようにと、いろいろ考えています。

なんか、ぐだぐだと経過説明(言い訳?)が長くなってしまったので、一旦、筆を置きます。


ではでは^^?


(この項、続く)

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