日記・コラム・つぶやき

2009年12月17日 (木)

【歩く仲間通信】 2009年を振り返って ほのかな光が見えた年なのでは^^?

みなさま、お元気ですか。ご無沙汰しております。

しばやん@愛知です。

少し早いですが、今年を振り返って年末のご挨拶をさせていただきたいと思います。

ということで、勝手に今年の10大ニュース(公私を含む^^?)を発表させていただきます。(関連として私がブログなどで言及した小論をついで?に紹介しておきます。)

1. マイケルジャクソン謎の死 2009年6月26日朝(日本時間)
   <映画「THIS IS IT」を観る 2009年11月12日>

関連: マイケル・ジャクソン 『THIS IS IT』 全世界同時公開 2009年11月14日 
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/11/this-is-it-c986.html

2. オバマ大統領の就任とノーベル平和賞受賞(※)

関連:オバマ大統領就任演説 <アメリカ合州国に目が離せない> 2009年2月7日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/02/post-dff9.html

※ まだ文章としてまとめてませんが、若干問題があるような感じです。いずれ、調べてまとめます。

3. 転職1年目をどうにか乗り切る。(2008年10月1日に転職)

関連: 【歩く仲間通信】 転職1年目のご挨拶 2009年10月4日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-6474.html

4. 「開発民俗学」の活動の再開 (主にミクシイのコミュニティにて)

(同じくミクシイでの「海洋民俗学 海からみる世界」、「イスラーム地理書・旅行記勉強会」のコミュの立ち上げ)

5. ビートルズリマスター発売 2009年9月9日 MONO BOX とステレオ盤数枚を購入。ひさしぶりにビートルズを聴きなおす。

関連: The Beatles (ザ・ビートルズ) 『Magical Mystery Tour(マジカル・ミステリー・ツアー)』 リマスター盤 2009年9月16日 

※この記事に過去のビートルズ関係の記事へのリンクが貼ってあります。
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/09/the-beatles-mag.html

6. 「開発ファシリテーションとフィールドワーク」勉強会への参加(第10回 10/22、第12回 12/17 (予定)

関連: ‘場をつくる’ということ ファシリテーション&ワークショップ入門<各論> 2009年12月12日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-549d.html

7. サザンオールスターズ 「真夏の大感謝祭」30周年LIVE (2008/8/16、17、23、24)のDVDを観る。 (2008年12月2日に購入していたのですが、封を開いてみたのが8月末
のことでした)

8. 大阪外国語大学アラビア語会(仮称)設立総会に出席 10月31日 及び
   11月1日 高槻市のまちおこしイベントに参加(大学時代の恩師のお誘い)

関連: 大阪外国語大学アラビア語科のOB会の設立総会に出席してきました^^? 11月2日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/ob-86d2.html

9. 木更津うみ祭り 2009年9月26日 初めて東名高速を車で出張。初めて商品の2馬力船外機付きゴムボートに試乗する。(恥ずかしながら)

10. とりあえず 空けておきます。

まあ、それぞれを語ったら長くなってしまうのですが、上記が、今年の私の心が動いたことでしょうか。前々回の通信で書きましたが、9月、10月まで全然パワーがでませんでしたが、最近は、いろいろうまい方向に物事が回っているようです。

たぶん、その復活のきっかけの一つが、サザンのDVDだったのではと思っています。その後、9月頭にビートルズショック、そして、11月初めに恩師に会ってマイケルジャクソンの聴き方指南を受けて、「THIS IS IT」の映画を観る。そして、まだまとめていませんが、12月8日のジョンレノンの命日にあわせて、ジョンレノンのオリジナルアルバムを購入して、ジョンレノンの「イマジン」の考えなおしと、またマイケルがらみですが、1985年のUSA FOR AFRICAの「We are the World」のドキュメンタリーのDVDを買って、はたまた当時を考え直
す。

なにか、今年の後半は、音楽を通じて自分の1980年代1990年代を振り返るような感じになってしまいました。

20年前の一番多感?な大学生や高校生の時代を振り返ることによって、その当時の音楽をバックミュージック(まんまやん?)に振り返ることにより、自分の歩んできた道を振り返り、変な話ですが、自分の歩んできた道を再評価する。

結果としてつかんだことは、自分って結局、20年前から全然?変わっていないし、そのころに思った未来は確かに少しずつではありますが、現実になりつつある。

そのころの夢って、実は夢ではなくなりつつある、いや現実にできるのではないかという手ごたえを感じました。

もう10数年前かと思いますが援助業界のJという官組織のMさんから「組織が変わるには
20年かかる」という話を聞きました。自分もそれを根拠?に、「まず自分のいる場所から
変えていこう」ということを(開発援助業界の)若手会の集まりの中でみんなに語ってきました。

前回のマイケルジャクソン論の中で、「MAN IN THE MIRROR(鏡の中の男(=自分)」という曲に言及しましたが、この曲は1987年に発表されています。

早すぎた天才 マイケル・ジャクソンに、世界がそして時代が20年かかってようやく追いついた。結局そういうことです。この20年間は無駄であったのか?そんなことはないですよね。

昨年末、オバマ大統領が初めての黒人出身の大統領として誕生しました。

昨今話題の、エコ、地球温暖化、核の廃絶問題など実はもう20年も30年もそれ以上も、前から‘わかっている’人たちには既知の問題であったし、声をあげ続けてきた人たちが世界中にいました。その中には、無数の(多くの)殉死者も当然のことながらありました。

今年は、ジョンレノンが1980年12月8日に凶弾に倒れて丸29年になります。来年は、多分没後30周年ということで世界中で話題になると思いますので今年のうちに言っておきます。

ジョンレノンの「イマジン」は、1971年9月9日にアメリカでアルバムの一曲として発表されて、今年でもう38年にもなります。イマジンは1971年10月11日にアメリカのみでシングル
カットされるも、ベトナム戦争の真っ最中だったために放送禁止。1991年の湾岸戦争、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件でも放送自粛の措置がとられています。

このイマジンのこの一節に、思えば私はずっと励まされてきました。

「You may say I'm a dreamer / but I'm not the only one」

この後の一節(※)については異論があるので、また別のところで取り上げます。
※「I hope someday you'll join us and the world will be as one」

数年前には、「冬が来る前に」(※)ということで、幾分あせって文章を書きなぐっていましたが、まだまだ人間捨てたものではない、確かに時間はかかっているものの、我々は確かに変わりつつあるということを感じています。

※「‘わたし’の平和学~冬が来る前に!」というテーマで今でも書きついでいます。
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/cat20091295/index.html

逆に20年経てば、世界が変わるのであれば、今やるべきことは20年後の未来のために「タネ」を蒔くことでしょう。

ところで、昨日、友人と映画「2012」を名古屋まで観に行ってきました。ネタばれになるので
内容には踏み込めないのですが、当然、内容と結末に轟々たる賛否両論があるでしょうが、私が一番感じたことは、「その時にバタバタしないように身辺整理をしておかなくてはならないな」ということでした。

旺文社の創立者に赤尾好夫さんという文人がいます。『若人におくることば』旺文社文庫 1965 という受験生向けに書いた教養文学(エッセイ)があるのですが、この書に、「元旦の決意(昭40・1)」という一文があります。つまり、毎年元旦に「遺書」を書くという話です。

私も来年から始めようと思います。そして、最後に、‘そのとき’が来たときに「THIS IS IT」(※)と皆に示せるような人生を送ってみたいものだと思いました。

以上が、私の今年の総括です。

長文をご覧いただきありがとうございました。

みなさまもご健康に留意されて素晴らしい新年をお迎えください。

ではでは^^?

※マイケルジャクソンの幻のコンサートのタイトルがまさに「THIS IS IT」です。CDのライナーノーツから引用させていただきます。

「~前略~ マイケルは(中略)このコンサートを発表した時の短いコメントの中で、これが彼にとっては「最後の公演になる」と宣言。「間違いなくこれが最後の公演なので、皆さんが聴きたい曲を歌います。これが最後のカーテン・コールです」と、公演のタイトル・ワードでもある「THIS IS IT」、すなわち「これっきり、これが最後だよ」という発言をしているのです。 ~後略~」 2009年9月30日 湯川れい子 

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2009年12月13日 (日)

歩く仲間サポーターズ事務局(ASA)(仮称)の設立準備について

といっても単なる私の覚えなのですが^^?

最近というか転職してから車で通勤しているのですが、ハンドルを握りながら、いろいろなことを考えています。どうも電車通勤とはなんかリズムが違うみたいで、たまに自分でもおおっというひらめきがあることがあります。

さて、歩く仲間20周年行事を考えているのですが、ふと事業母体をどうしようかと思い立ちました。いろいろなプロジェクトを同時並行で走らせているのですが、結局、なにが本体かというと、「歩く仲間 ・・・ 歩きながら考える‘世界’と‘開発’」という10年前に始めたHPのタイトル以上のベストタイトルは思いつかない。

実は、鶴見良行さんの対話集が『対話集 歩きながら考える』として2005年に出版されたときにちょっとどきっとしましたが、このタイトルは編集者が考えたものだし、べつに「歩きながら考える」という言葉自体になんの著作権があるわけでもない。

まあ、それはそれとして、「歩く仲間」と名詞止にしたのは、それなりの戦略というか意図がありました。ちょっとだけ引用させていただきます。

私的かつちょっと長い前書き(“歩く仲間”構想とは) 2000年3月18日http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0000.htm

「~前略~

 最後に、なぜ“歩く仲間”としたのか。たまたま同じ方向に行く人がいれば、しばし一緒に歩いてみたらという、一期一会のつながりを大切にしたいという意図があります。逆にいえば、決して“の会”というような、閉じたものになってはならない、そんか自戒を込めての命名です。」

このスタンスというか姿勢は、基本的にぶれずにずっと踏襲してきたと思うのですが、その主旨を発展させて行動主体化するためにはどうすればよいのか。

ふと気がつきました。

「歩く仲間サポーターズ」ということで任意団体化を検討しよう。このサポーターズとは「応援団」の意味でもあるのですが、「歩く仲間」を支えるバックストップもしくはバックステージ(舞台裏)という意味があります。

つまり「歩く仲間」たちの活動のあらゆるサポートを行なう人たち(これば複数形のゆえんなのですが)の集まりや、有形無形のモノを含むベースキャンプとしての位置づけを与えようと思いました。

そして、おまけですが事務局というのも設けます。これは、まあ雑用係というか庶務雑務を含めたものであるのが基本なのですが、戦略本部という位置づけもあります。

ちょっと英語にすると、「Arukunakama Supporters Administration」 略して、「ASA」というのはいかがでしょう。

和訳すると「歩く仲間応援団事務局」なのですが、「応援団」がダサいので、サポーターズに落ち着いて標記のタイトルとなるわけです。

まあ、事業内容はこれから徐々に練っていこうと思います。

ではでは^^?

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2009年12月 5日 (土)

あれから10年も 「歩きながら考える」 初めの一歩

いよいよ12月となりました。師走とはよく言ったもので、なんとなくせわしくなってきましたね。本当に年?をとると一年が早くていけません。

さて、前回も書きましたが、来年の歩く仲間20周年記念に向けて、いろいろ盛り上げていきたいと思っています。

まずは、10年前の私の立ち止まりというか振り返りの記事を再掲します。最近、自分の足元というかやってきたことを振り返り掘り下げるのが結構楽しい。これは、私が年を取っただけなのかもしれませんが、幼かったり若くてもやもやとしてうまく言葉に表せなかったことが、今にして思うと、あああの時、こんなことを考えていたんだとか、本当は、こんなことがいいたかったんだということが、今になってわかることがあります。これは、また文字に残すことによって自分を客観的にみれるようになったということなのかも知れません。

言葉や文字がひとり歩きするというか・・・。ちょっと恥ずかしい気もしますが、よろしくご高覧ください。 

ではでは^^?

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(HP歩く仲間 歩きながら考えるから再掲)

始めに(今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか) 1999年11月21日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0001.htm

久方ぶりに、筆を取る気になった。そもそも、このような個人的な発信は、本人の内在的な欲求の発露というか、単なる個人的な気まぐれから始まることに間違いはない。

だが個人的な理由であれ、それは、やはり、この数年の、時代の移り変わりの激しさと、それに呼応する個人的な状況の変化による必然的な欲求であったような気もする。

しかしここでは個人的な理由に絞って、簡単に振り返ってみる。1992年に、大学を卒業した私は、半年ほど浪人を過ごした。それまで、高校、大学と一応第1希望というかストレートで歳を重ねてきた自分にとっては、初めて自分で自分の行く末を考える始まりとなった。

経緯は省くが、縁あって中途採用という形で、1992年9月5日付けで、ある開発コンサルタント会社に就職することとなった。今思うと、極めて幸福で奇跡的な出会いであったと思う。就職活動を振り返って、結果として一番よかったと思えることは、大学4年生の時に、あせって就職活動をしなかったことだ。

体育会系のヨット競技部に所属していた自分は、同期5名のなかで、4年生のクラブ終了後に海外留学が決まっていたり、留年して世界放浪に旅立つ予定の友人たちが、正直言ってうらやましくてたまらなかった。

大学3回の時に留学に応募できず、4年生のクラブが終わった後に、やっと受かったエジプト政府の奨学金も“湾岸戦争”などというもので、辞退という結果になった。(エジプト自体は比較的安全であったとか、実際の留学する時期には、あまり影響はなかったという話を後で聞くが、それはそれでみずから留学を断念したことにはかわりなく、後悔はしない。)

ちょうどそんなころ、いわばやけくそ的に取り組んでいたのが、大学3年生の時に新規開講となった『地球環境論』という各講師持ち回りの連続講義とそれにかかわるエクセトラである。そこに、若くて活動的な諸先生方と、「環境論友の会」なるものを共に立ち上げようと一緒にビラを作った友人との出会いがあった。

そして、専攻語に対して取り組んだのは、『アラブ・イスラーム学習ガイド』なるものの刊行である。確かに4年生としては卒論というものがあったが、11月頃まで、この個人出版の本の原稿づくりに励んでいた。いずれにせよ、そのビラ作りと本作りが、今の自分を型づくる背骨の大きな一本であることは間違いがない。

さて、その大学時代に感じたことは、「知は力なり」ということに加えて「その知とは、すべからく(万人に)開かれたものでなければならない」ということである。

大学で勉強を進めるうちに思ったのは、今思うと随分乱暴な考え方と思うが「なぜ専門家は、自分の研究のみにかまけてしまうのであろう」ということであった。まさに、「浅学を顧みず」一冊の冊子に自分の見たこと感じたこと、大学で学んだことをまとめようと思ったのは、少しでもそれを後から続く人たちに踏み台にしてほしかったからである。

長い前書きになったが、その本の中で、「あとがきにかえて(旅行の勧め)」を書いたのだが、その言葉を受けて、まさに“今”の自分が改めて筆を取ろうとしている。

つまり、自分なりに“旅”に乗り出した自分を感じるからである。就職後、8年目にして、ようやく自分自身をみつめなおす時間が持てるようになった。とにかく5年目ぐらいまでは、仕事を覚えることで精一杯だった。

大学を卒業して、就職が決まってやっと自分のパスポートをつくってヨット部の仲間といったのが、タイである。そして、スペインからイタリアへの個人旅行を経て、大学卒業2年目に、初めて“アラブ”を訪れた。

その初めてのエジプトの地は、あまりに自分の想像していたものと程遠かった。駆け足で回ったまさに典型的な観光地で“外国人”目当てによってくる“アラブ人”(エジプト人、ヌビア人といってもいいだろう)に、片言のアラビア語は全く通ぜず、「おまえのアラビア語はわからないから、英語で話せ」となんども“英語”で言われた。

3年目を過ぎることから、ようやく海外出張に出してもらえるようになったが、つい半年前まで、その出張とは必ずしも楽しいだけのものではなかった。

会社の出張で初めていったのが、アラブ首長国連邦のドバイ(ここもアラビア語圏ではあるがパキスタンなど出稼ぎ労働者が多く、アラビア語というより英語のほうをよく街で耳にした気がする)、アフリカの角にあるエリトリア、西アフリカの象牙海岸国、ブルキナ・ファソ国など、いずれもほとんどわからない現地語と中途半端な自分の英語力に泣かされた。

しかし、今年の1月から仕事として、再びエジプトに乗り込むこととなった。1月に1ヶ月、5月から3ヶ月間、9月から2週間、今年は、まさにエジプトにどっぷりつかった1年であった。ようやく、初めてエジプトにあって感じた違和感、居心地の悪さを自分なりに消化してきたといえる。

今、この仕事等を通じて現地や現場に接したことを思うと、先立つ“勉強”は必要かもしれないが、逆に“先入観”や思い込みばかり強くなって、最初のエジプトに行った時に感じたように、知識と現実のギャップの大きさに自分が振り回されてしまったようだ。(実は、大学時代に苦労して読んだ“専門書”の内容は、当時、全く何が書いてあったのかわからなかったし、記憶に残っていないように思う。)

やはり自分がちゃんとわかるようになってから、初めて触れるべきものがあるのだろう。「すべての個体は、個別に進化を繰返す」という言葉を聞いたことがあるが、まさに、すべからく誰もが身をもって経験により“知っていく”のであろう。

今の仕事の日々は、まさに“走りながら考える”日々である。

ここに、“歩きながら考える”というタイトルで再度、筆をとろうと思うのは、あの時“跳べなかった”自分へのなぐさめであり、“実際に歩きながら考えないといかん”という自戒を含めた、まさに跳ぼうと考えている人たちに対する励ましであろうと願うからである。

(この項 了)

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ということで、続きは、こちらから^^?

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000.htm

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2009年11月29日 (日)

日本福祉大学大学院 国際社会開発研究科(通信教育)の説明会に行ってきました^^?

今日、別のイベント欄にある「国際協力カレッジ2009」とはしごで行く予定が仕事が押してしまい(しかも休日出勤)結局、こちらのイベントしか参加できませんでした。

時間が遅く到着してしまい、教務の方と穂坂先生には少し時間がおしてしまいご迷惑をおかけしましたが、自分なりに聞きたかったことが確認できて本当によかったです。

ともかく気合というか2年で修士論文を書き上げないということがよくわかりましたので、いかに集中して学習できる時間が作れるのか、とにかく今時点では、来年度からの入学はできない(考えられない)ので、どのタイミングで入学するのか、それまでにできることを計画的に進めておく(予習っていうんですか)必要を改めて感じました。

とにかくタイミングというかチャンスを逃さないように常に準備をしておかねばと気合を入れなおしました。

英語もやらんといかんし、論文やレポートの練習?や関連書の読み込みも必要だし、いろいろやることが多くて嬉しい?悲鳴です。

しかも会社で成果を出す。

今日、先生や教務の方と話していて思ったのですが、もともと研究者希望であったので、まあ20年前にやっておくべきことを今やろうとしているだけで、まあその苦労を後回しにしただけという変な錯覚に陥りました。

結果として、就職して仕事をしながら、給与をいただきながら勉強させていただいたし、今までの経験が、今後の研究にも全て生かせるということは非常に幸せだなあとしみじみ思います。

遠回りや、回り道をしていたどころか、結果として本道に戻ったときにスキップというか近道を選んでいて、その予想外の出来事(結果)に驚いている感じ、今、そんなことを感じています。

「周回遅れのトップランナー」とは、ルポライターの鎌田慧さんを評してどなたかが言った言葉ですが、私もこの言葉が好きで、そうありたいと思ってきました。

最後を走っていたつもりが、気がついたら先に走っていた周りの人たちがいつの間にか消えていた、つまり走り続けていたものがいつの間にかトップに立っていたというような解説が加えられているのをみて、自分もそうありたいと思っていました。

継続すること、あきらめずに投げ出さずに、やり続けること。

これからの人生、倦まずたゆまずやっていきたいと思います。

ではでは^^?

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2009年11月23日 (月)

高橋しん 『いいひと。』 変わることと変わらないこと 1990年代再考 他

という記事を、「Life, I Love You!」のほうにカキコしました^^?

実は、こちらの「歩きながら考える」のカテゴリーに入るべき内容だと思うのですが、漫画のレヴューというかたちをとっているので、まあ、あちらで扱ったわけです。ともあれ、久しぶりに力の入った文章なので、ぜひご高覧を^^?

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/11/post-8e5b.html

あとついでに、こちらも「歩く仲間HP」のアーカイブからもってきました。

5年目の“歩く仲間”と1年後のフィリピン(人として・・・ “変わってくこと”“変わらずにいること”) (再掲) 2005年3月23日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/11/5-42d4.html

この記事を再読してみて思ったのですが、「歩く仲間HP」の最初の文章は、1999年11月21日だったとのことなので、ちょうど10年前に、このプロジェクトが始まったということで、たまたま偶然の一致とはいえ、何か不思議な機縁を感じています。今日が、2009年11月22日であることは決して偶然ではない、そんな気がします。

なぜ、自分が、「変わること」と「変わらないこと」にこだわっているのかよくわかりませんが、たぶんそれが、今後の私の言動の方向性を決めていくのだなあと漠然と感じています。

また改めて、「歩く仲間」プロジェクトの20周年、「歩く仲間HP」の10年の総括を近々しなくてはならないのではないかということで、とりあえず今日は筆をおきます。

ではでは^^?

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2009年11月16日 (月)

【歩く仲間通信】 歩く仲間20周年プレセッション&「マイケル・ジャクソン論」(途中ですが^^?)

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。日本もいよいよ冬らしく、日々寒くなってきました。新型インフルエンザなど、みなさまお元気ですか。

柴田 英知 @愛知です。

前回は、転職1年ということで、ちょっとまじめ?な話題でしたが、今回は、近況報告などなどです。

さて、今日(2009年11月15日)、姉の長女、長男、つまり私の姪っ子、甥っ子になるわけですが、彼らの学祭というか「美中祭」なるものに両親といってきました。

美中すなわち愛知県岡崎市の公立(市立)美川中学校は、私と姉、さらには両親の母校でもあります。(ちなみに弟だけは、新しく小学校区にできた竜南中学校です。)思えば、1985年3月に卒業しているので、既に24年も経ったことになります。

メインは、クラス対抗の合唱コンクール。そういえば、私の3年5組は、この合唱コンクールで学年優勝したんだよなあなどということを思い出しながらステージを見ていました。ところで、知っている方にご報告。昨年、講堂というか体育館が建て替えとなって、今回の舞台は新築1年目の体育館で、なんだこれといった感じで、古い体育館はすでになく時間がなくてキャンパス(とはいわないか)?をみる時間的な余裕がなかったのですが、いろいろ校舎もグランド周りも変わっていて何か全然違うところに来たみたい。でもあえて言えば、桜の木とか植物だけは変わっていなかったみたい。でも、もう20数年ぶりにきてみれば変わっているのも当たり前のことですよね^^?

で、話を戻すと、やっぱり学生時代というかその時にしかできないことってあるし、やっぱり中学生はいつの世にあっても中学生らしくあってほしい、そんなことを感じました。

実は、私は田舎が嫌いで、特に狭い?人間関係が嫌で中学生、高校生の頃から地元を離れることを考えていました。広い世界つまり海外への憧れは小学生の頃からあったのも事実ですが、やっぱり田舎に埋もれる?ことを本能的に怖れていました。

この土地で生まれて育って、また地元の人と結婚して、絶対に地元から出たくないという考え方の人も少なくありません。きっと。でも自分は、とてもそんなことは考えられなかった。絶対に東京に行って‘世界を股に架けて働く’ということを小学生、中学生のときから考えていました。

ところで小中高のエピソードをひとつ。実は、小学校4年生から高校3年生まで無遅刻無欠席なんです。私^^? 正確にいうと小学5年生の2月の半日でればいいだけの土曜日に休んでしまったので、小学校5年生だけは皆勤賞をもらえなかったのですが、半日(わずか!)休まなければ、小学校6年生のときに3年間連続皆勤賞ももらえたはずでした。中学校と高校では、ばっちり3年間皆勤賞をいただきましたがね・・・。

つまり何がいいたいかというと、中学校、高校と決して楽しいことばかりではなかったけど、いじめやシカト(みたいな)ものに会いつつも、自分は常に(いやそうでもなかったかもしれないけど)顔や頬を上に向けて毎日学校に通いました。

強さ、タフさっていろいろな定義があると思いますが、クラス一の暴れん坊だったり力自慢でも結構簡単に風邪で休んだり、まあ暴れん坊に限って怪我をして学校を休むケースもあったりしたわけですが、私は、誰にでも学校に来る(たとえ嫌でも)という面では、つまり気迫というか気合では誰にも負けていなかったと思います。‘ずる休み’なんて全く考えられなかったし。つまり私の辞書にそのコトバはありませんでした。キッパリ。

そういえば、前の会社の直属の上司というか先輩も元気で(乱暴?)な人でしたが、とにかくタフな方でした。実は彼も小学校から高校まで無遅刻無欠席だということを何年か後になにかのきっかけで本人から聞いて、さもありなんというか笑ってしまった記憶があります。徒然草の吉田兼好も言っていますが、大体、元気な人は病弱だとか弱い人の気持ちがわからなくて、「健康なひと」は「友とするのにわろき人」だそうです。自分もそうなっていないのか意識しているので、折に触れて反省というか、時々に自分の言動を振り返るようにしています。

今改めて思うのは、やっぱり人間、心技体というと大げさなのですが、まず体も心も健康であってほしいものだなと思います。前の会社のとき隣の(道向かいの)商社の先輩が、「(体育会系で)脳みそも筋肉」と冗談めかして商社マンの実態?を話してくれましたが、まず体が第一。これは本当のことです。頭も心もまず体が結構で丈夫でなかったら、どうしても弱気になったり悪いことを考えてしまいがち。

前職で見聞きした先輩や仲間との日々を今、しみじみ振り返って思うと、海外の仕事をずっと30年も40年もやり続けてきた人たちは、間違いなく「サバイバー(生還者)」であるといえます。大体、誰も只者ではない^^?ちなみにアメリカで「ザ・サバイバー」というのはほぼ間違いなく朝鮮戦争やベトナム戦争からの生還者、それも傷痍軍人などを指します。英語の辞書の意味以上に深い意味があるものなのですね。コトバって。

ところで上司というか同じチームで働いた先輩に、よく海外の現場で、「豚やろう」とか「死ね」といって小突かれましたが(まあ誰とは言いませんが^^?)、同じチームの先輩の誰もが厳しく‘訳の全くわかっていない’若造を、よく鍛えてくれたものだと思います。思えば、いろいろバカなことばかりやってきましたが、よくもまあ野放しというか自由にやらせて、失敗をしてもよくもまあ(しっかりと)尻拭いをしていただいたものだと思います。

若気の至りとかいいますが、現実の海外の仕事の現場では、バカなことをすれば間違いなく「死」にます。しかもツーリストやひとりの旅人ならまだよい(よくありませんが)。今の開発コンサルタントの人がどう意識というか自覚しているのか知りませんが、ホンの10年ほど前は、JICA(現 独立行政法人 国際協力機構)の仕事で海外に行くときには、青パスといって、準公務員の外交官パスポートを渡航のたびに作ってもらっていたのです。つまり、身分は、JICA MEMBERとかJICA LEADERということで調査の対象である当該国そして経由地の国名しか入っていない一回しか使えないもので、JICAの依託職員という立場で仕事に臨んでいたのでした。

まあ、日の丸を背負っていたといえば‘コトバ’では簡単ですが、その緊張感たるや、上司や先輩が‘バカな’若者を罵倒してシバキ倒すのも理解できるというものでしょう。実際、バカなことをしてひとつ事件に巻き込まれれば、個人や会社の恥に納まらず日本人の特に日本の外交政策にも影響を与えかねません。外交官パスポートを持ったものが死んだり誘拐されたりした日には!、もう想像つきますよね。イラクのNGO諸君がゲリラ?に拘束された問題で「自己責任」論議が日本の各界で沸き起りましたが、途上国の開発援助のプロである開発コンサルタントの我々からしてみれば、「‘素人’が何(バカなこと)をやっているんだ」というのが偽りのない本音でした。

若い人にはっきりいっておきます。とにかく、海外の仕事は民間であろうが政府の仕事であろうが「生きて還ってくる」ことが一番大切なことです。どんなことに巻き込まれても、逃げれるのであれば、命からがら逃げ帰ればよい。中途半端な「英雄的な精神」や、「自己犠牲」は全く‘無駄’だし、‘あなた’の「自己満足だけ」のために死ぬのはそもそも卑怯だし、絶対に‘残された人たち’のことを考えてください。これは家族や友人に限らずあなたが死んだことにより、あなたの‘遺体’のみならず、あなたが投げ出した‘全て’の尻拭いをせざるを得ない(多分あなたの会ったこともないさまざまな多くの)人たちのことをしっかりと胸に刻んで行動してください。

偉そうなことを言っていますが、そういえば、この言葉も、とあるJICAの現地事務所長の言葉でした。「部下の(若い)駐在員にいつも言っていることだが」という前置きの中で、「お前の仕事は、現地で成果を挙げることでもなんでもなく、とにかく‘生きて(日本に)還ってくること’が一番、最優先されるべきだ」と折節に後輩に語っているそうです。実際に、自分でも経験がありますが、海外赴任というと、とかく意気込んでそれなりの活躍をして手土産やり手柄という実績をもって帰任したいと誰もが思うものです。でも、いろいろありますわなあ。相手国の政府や政治の問題、自分もつまらないトラブルに巻き込まれる怖れもありますが、そもそも途上国相手の仕事が、すぐに赴任早々に軌道にのって、とんとん拍子ですすむ‘わけ’がない。

海外での赴任生活に慣れるだけで、少なくとも半年、カウンターパート(相手国政府の役所や役人)との人間関係を作るので最低でも1年、できれば2年、つまり会計年度でいう2サイクルはほしいところ。ちょっと現地や現地の人たち(カウンターパートを当然含む)に慣れた頃には、もう帰国間近であるというのは、よく聞く話ですし、実際に私も、ちょっと軌道に乗りかけるまで、やはり‘丸2年’はかかりました。

特に若いうちは熱意が空回りして初めての海外駐在では、ほぼ間違いなく現地のみんなの‘お荷物’にはなっても、‘手土産’を日本にもって帰ることはできません。でもいいのです。JICAでも商社でもメーカーでも海外駐在をやるような人たちは、何度となく海外赴任の機会はあり、それぞれ違った立場で現場に立ち向かいます。平たく言うと、「リベンジ」は可能なのです。その雪辱を味わったその国でリベンジできるのは稀だとしても、どこかで失敗をバネに結果として成果を挙げてくれれば。組織としては。だからこそ「死ぬなよ」ということなのです。

私も今は両親と田舎に住んでいますが、生涯であと1、2回は海外駐在(2年とか5年くらい)なら可能だと思っていますし、その気はあります。いちおう誰がこのメールを読んでいるのかわかりませんので、本音を言っておきます。機会さえあえば、周囲の状況が許せば、世界のどこへでも飛びまっせ!とは、ここではっきり言っておきます!(リクルート?よろしくお願いします。まだFA宣言していませんが、10年以内にはなんとか次のステージの目処を立てますので^^?)

なにか、雑談ばかりになってしまいましたが、強引にまとめると、まあ振り返れるふるさとというか学園があることはやはりいいことだということ、そのときその場でできることをとにかくやりきること、心身ともに健康であること(そうであったほうがいいよということ)。まあ、これらのことはいつでもどこでも何歳になっても言えることですがね^^?

そうだ、今日の美中祭で、中学生の合唱コンクールの後で、PTAのママさんコーラスのOGたちのグループがゲスト公演をしたのですが、その一曲が、アンジェラ・アキの「手紙~拝啓十五の君へ~」でした。まだ、40歳にもならない若造としては、まだこの曲を聴いて涙を流したくないなあ、と思いつつ、歌詞とハーモニーに聴きいっていました。ちょっと‘だけ’、眼に涙を浮かべて^^?

さて、今回のブログ更新の報告です。とりあえず2点のみピックアップしました。

その1. 「歩く仲間」のHPの前身となる「大阪便り」を外大時代に発刊したのが、平成元年(1989年)12月15日となります。まあ何を「歩く仲間」の始まりとみなすかは微妙な問題でもありますが、仮に、この個人通信(B5版片面刷り)とすれば、あと1ヶ月で、ちょうど丸20年となります。

『大阪便り』及び『江戸瓦版』・・・‘歩く仲間’前史
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/o000.htm

いろいろ20周年記念のイベントなどを考えていますので(その実施は来年から)、そのプレセッションとして過去記事の紹介をちょっとずつしていきたいと思います。

その2. 2009年6月26日に急死した「マイケル・ジャクソン論」を書きついでいます。

まだまだ書きかけですが、いちおう3本の論文?を書きましたのでお披露目しておきます。

「マイケル・ジャクソン 『スリラー』 25周年」 2008年2月21日作成(以下同)
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2008/02/25_6dda.html

「マイケル・ジャクソン 『THIS IS IT』 2009年10月28日全世界同時公開」 2009年11月14日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/11/this-is-it-c986.html

「フィンガー5 『個人授業』(Finger 5 First Album)あるいは‘和製ジャクソン5’のこと」 2009年11月15日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/11/finger-5-first-.html

長文ついでに、「マイケル・ジャクソン 『THIS IS IT』 2009年10月28日全世界同時公開」から、ちょっとだけ本文を引用させていただきます。
今、映画 『THIS IS IT』 は、まだロードショーにかかっていますので、マイケル・ジャクソンを知っている人も知らない人も、ぜひぜひ観にいってやってください。いろいろな‘気づき’があると私は信じます。

「~前略~

今までは、マイケルのビートの効いた「踊り」と、もうこれはジャクソン5時代からの天性‘歌’のうまさに眼をくらまされていたというか、少なくとも私は、実はソロ以降のマイケルの曲は唄の歌詞を考えたり読むものではなく、ただなんとなくビートで心地よく聞く(聞き流す)もの、ダンスシーンで無駄にむやみに消費される‘街’の音楽というかさざめきとでもいうような街のビートのひとつでしかなかったと思います。

しかし、改めて、ヒット曲の歌詞の内容をつぶさにみてみると、耳や体に心地よい‘ビート’としてのみ聞き逃してよかったものなのか、もっと真摯‘唄’の心に想いを寄せる必要があったのではないのか。

いや、今からそれを始めようと思います。実は、マイケルの‘別’の読み方、聴き方を示唆していただいたのが、大学の恩師の先生でした。たまたま大阪に行ってお会いした折に、非常に、マイケルの話で盛り上がってしまって・・・。まあ、その方向での私の読みというか‘聴き込み’は、まだこれからなので、一旦、この映画についてまとめます。

世界中から‘カリスマ’であるマイケルとの競演することを夢見てオーディションに参上した何十カ国からの若者達や、競演のミュージシャン達。この映画は、作為がないというかリハーサル映像やコンサート用に準備したビデオクリップなどを、淡々とつなぎ合わせただけのものですが、いかにマイケルが‘人’を愛したのか、また人から愛されたのか、天才といってもよいと思いますが、当代稀有の天才ミュージシャンのマイケル、超一流の仕事の流儀というか、一流のプロの仕事がいかようなものなのか、またその一流のものどおしの競演=コラボレーションが如何に凄いものを生み出すのか、生み出しうるのかということを、われわれは追体験することができます。

バックミュージシャンやダンサー達が如何にマイケルを尊敬して慕っていたのかは置いておいても(当然、わかることですが)、逆にマイケルが如何に謙虚にスタッフみんなを盛り立て盛り上げ、彼‘のみ’に見えていた‘ビジョン’にみんなを導こうとしていたのか、天才の、いや凄い人の本当の‘凄さ’を魅(見)せつけられた気がしました。

とにかく、凄い人ほど、謙虚で頭が垂れているということを見ただけでも、私には非常に大きな収穫でした。‘凄い’人で、威張ったり人を脅かしたり、ハッタリをいう人はいない(はずだ)ということを感じただけでも眼が肥えたという感じです。つまり如何にも偉そうにする人ほど‘小者’で‘偽者’であるかということですね。他山の石というか、これから人生を生きてゆく上で、非常なヒントになりました。

さて、この映画だけだと実は私のマイケル理解に不足がありました。先に話した恩師より教えてもらった『ライブ・イン・ブカレスト』(1992年にチャウセスク政権崩壊直後のルーマニアはブカレストで行われたマイケル・ジャクソンの全世界ツアーである「デインジュラス・ツアー」の記録映像)を、この映画をみた後で買って、今日実際に見てみて、非常にストンとマイケルの凄さとこの映画の凄さがわかりました。

今思うと、アルバム『スリラー』の佳曲「ヒューマン・ネイチャー」は今でも好きだけど、「ブラック・オア・ホワイト」、「アース・ソング」、そして何より「マン・イン・ザ・ミラー」のメッセージが非常に気になるというか心に刻まれました。

「マン・イン・ザ・ミラー」自体は、アルバム『バッド』に収録されているので1987年の作品なのですが、やはりこれがその後のマイケルの大きなターニングポイントになったのではないか、新しいNEWマイケルの萌芽が既に1987年の段階であったのかということを感じさせます。

識者が、「オバマが今(大統領で)いるのは、マイケル・ジャクソンがいたからだ。彼(黒人大統領)の出現を50年早めた」というような主旨のことを発言したとメディアが報じていましたが、この「マン・イン・ザ・ミラー」を聴いて、その歌詞を読んで、それかもしれないと素直に思いました。オバマ大統領の好きな「チェンジ」も「イエス・ウィ・キャン」もマイケルやそれ以前の黒人歌手や運動家が何度となく歌って語ってきたことなのではないか。

特に、この「マン・イン・ザ・ミラー」=すなわち‘自分’が、まず変わる(チェンジする)こと、世界を変えるには「マン・イン・ザ・ミラー」から変えるしかないというメッセージは、今でもというか20年後の今でこそその普遍的な価値をもって語り継がれる、いや歌いつなぐべきことなのでしょう。

私の2009年のベストな‘泣ける唄’は、今、この場で「マン・イン・ザ・ミラー」であることを宣言?してこの項を終えたいと思います。

~後略~」

このあとで、書いている自分もびっくりの「マイケル=キリスト 殉死(パッション)説」なるものの可能性について気がついてしまったというか言及しています。このテーマは実は非常に展開がおもしろくなりそうなテーマなので、改めてもう1本、別の問題とも絡めて近日中に文章にするつもりです。

長々と長文につきあっていただきありがとうございました。貴重なお時間をありがとうございました。

また気になったら、私のブログやミクシイのコミュなりに足あとを残して言っていただけますとさいわいです。もちろんメッセ大歓迎です。

この地球の空の下、どこかでまたお会いしましょう。

ではでは^^?

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2009年11月 8日 (日)

‘ジャム’セッション ~‘場’をつくるということ

というテーマで、文章をまとめようと思っています。とりあえず今日は時間をかけられないのでメモ書き程度にとどめます。

・壁を作らない。

・つなげる(あるものを)

・(市民を)巻き込む

・その場所に関わるということ

・風の人、土の人

・その(土)地から始める。

・‘場’を作るのは‘人’そのもの。

・‘人’から始める地域づくり。

・外部者の役割 

・現状分析(フィールドワーク)と関係作り(ファシリテーション)

・優れた開発コンサルタントは例外なく卓越したファシリテーターでありフィールドワーカーである。

・ある場所から始めよう。

附論:

まちづくりにおけるファシリテーター論

実はまちづくりや開発教育の分野ではあたりまえのことであった!

○対談 平山恵 清水義晴 『ファシリテーターのための入門書 ワークショップは宝の山 ~国際協力からまちづくりまで~ 』 パラダイムシフト文庫1 1998年

○森良 『新版 ファシリテーター入門』 エコ・コミュニケーションセンター 1999

※参加型開発を語る際に、ワークショップ、ファシリテーターは必要不可欠な要素。そこにフィールドワークの手法を持ち込むことは、経験のあるファシリテーターは無意識に‘比較’という手法を使って地域やワークショップの参加者の現状分析を行っている。

私の経験から:

Three Maria’s Tale (3人のマリアの物語)
(開発コミュニケーション論におけるチェンジエージェントの一例として) 200354http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00019.htm

『開発コミュニケーション』をめぐる課題 200354http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000192.htm

第5回 NGOカレッジ 「参加型開発と私たち」 シャプラニール 定松栄一さんの講座を受講したこと。←これは結構大きい。平山さんにもこの講座でお会いしている。

(とりあえずここまで) 

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大阪古書漁り ~ 大阪プチ旅行報告の続きです。

上記のついでに、実は他にもいろいろ買い込んでしまいまして^^?

○岩田慶治 『人間・遊び・自然 東南アジア世界の背景』 NHKブックス 日本放送協会出版会 1986

実は、岩田先生は京大出身で大阪市立大学などを経て国立民族学博物館の教授もなさった方で、文化人類学者としてめちゃくちゃ多産の人のようで環境民俗学でチョー有名人らしいということを、恥ずかしながら最近知りました。

それなりに目配りしているつもりが、イスラーム地域研究とか開発学という文脈からは全く抜け落ちておりました。

ともあれ、それはそれとしてこの人の本は読んでみたいなあと思います。

あと、ちょっと古めの本ですが、文化人類学プロパーの研究者とか京大人脈の本が面白い。

○中根千枝 『未開の顔・文明の顔』 全日本ブッククラブ版 中央公論社 1970

中根先生は、日本の女性の文化人類学者の草分けの一人で、東京大学文学部東洋史学科卒でイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの大学院で本格的な社会人類学のトレイニングを受けたという経歴の持ち主。東大の東洋文化研究所の教授も長く勤められました。

私は個人的に、イスラーム文化人類学者の片倉もとこ先生に親しくご指導いただいていると思うのですが、中根先生は片倉先生の愛弟子なので私もなんとなくその系統にあるのかなとも思います。

とにかくきっちりしたオーソドックスな社会人類学者で、以下の本は掛け値なしにおもしろかったです。

○中根千枝 『社会人類学 アジア諸社会の考察』 講談社学術文庫 2002 (初出 東京大学出版会 1987

これぞ日本人の社会人類学といった感じで、欧米の輸入学問である社会人類学をどう日本の研究者が理解して取り組みかというところで、彼女というか日本人ならではの視点が非常におもしろかった。へたな入門者で理論みたいなものを浅くさらうくらいなら、この学術書のほうが10倍、100倍スリリングでためになると思いますね。少なくとも私はそう感じました。

さて、京大の今西錦司の人脈については、別のところに書いていますが、その弟子筋の河合雅雄さんのこの本もゲットしました。

○河合雅雄 『ゴリラ探検記 赤道直下アフリカ密林の恐怖』 KAPPA BOOKS 光文社 1961

京大人脈は非常におもしろいので、ここではあまり触れないようにします。かなり前の本ですが‘若き日’のフィールドワーカー・研究者の体験記ということで読んでみたいと思いました。

ではでは^^?

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2009年11月 2日 (月)

大阪外国語大学アラビア語科のOB会の設立総会に出席してきました^^?

2009年10月31日と11月1日と大阪、高槻と一泊二日でプチ旅行にいってきました。

数年前まで、私はそれほど積極的に大阪外国語大学卒業とかアラビア語科の専攻であることを公言していませんでしたが、卒業して10年15年と経つうちにそのスゴサに気がついた次第。その直接にきっかけは、フィリピン駐在時に現地で本当にお世話になった外大卒業生のOB・OG会の咲耶会のマニラ支部にちょんなきっかけで紹介してもらって顔を出したのが、大きなきっかけであると思います。

2007年の大学統合で、大阪外国語大学は大阪大学の外国語学部となり単科大学および大学院(修士まで)の歴史を閉じたわけですが、10月31日に梅田の新阪急ホテルで行われたアラビア語科の同窓会「アラビア語会(仮称)」の設立総会に出席させていただき、非常に感銘を受けました。

日本でアラビア語科を置いているのは、ほとんど普通の人は知らないと思いますが、大阪外国語大学と東京外国語大学のみ。私の1988年4月の入学当時、大阪が25名の定員、確か東京も25人か30人で、つまりアラビア語科の卒業生(人によって留年したりで違いますが)というか同期生は日本で50人か60名しかいないわけです。

そもそも外国語大学でマイナーな言語を専攻する時点で、奇人変人なわけですが、この競争率って実は東大や京大に入るより難しいのではないかともいえます。

今回のOB会に話を戻すと、昭和17年から平成21年までの68年間に大阪でアラビア語を専攻した卒業生の総数は、1036名、案内状を送付するために必要な住所がわかった人だけで879名、宛先不明で案内状が届かなかった人が189名、つまり710名に案内が行き設立総会に出席したのが60名。この60名を多いととるのか少ないととるのかはわかりませんが、ほぼ卒業生の10名にひとりが出席したとのことです。また、社会人として現役の方がほとんどで、東京や海外駐在している人を考えれば、やはりこの60名は非常に大きな数であるといえましょう。

なにか話が長くなりそうなので、ここら辺で一旦筆をおきますが、恩師の池田修大先生にも会えたし、助教授だった高階先生や講師であった森高先生、同期25名のうちの一人、Kさんや2年上の先輩方、後輩数名とか同じキャンパスで過ごした近い世代の仲間や上は85歳の黎明期のOBから最近卒業したばかりのOB・OGにお会いできたことは非常な喜びでした。

やっぱり、それなりどころかしゃんとがんばらねばと思います。繰り返しになりますが日本に50人しか同期がいないアラビア語の専門家の学校の卒業生として。

ではでは^^!

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2009年10月31日 (土)

ちょっと大胆 発言! & 今日、アラビア語の同窓会があります。

今日、大阪で大阪外国語大学アラビア語専攻生の同窓会の設立総会が昼からあり、今から大阪に行ってきます。

古典アラビア文学研究の一人者の池田修先生(大阪外国語大学元学長)がこの春、叙勲されたとのことでこの同窓会の結成のきっかけとなったそうですが、もう20年前に直接授業をいただいた身としては、やはり感慨深いものがあります。

当時の助教授の諸先生方もちかぢか定年というような時の移りの早さに驚くと共に、折角の機会で学界に留まった同期や先輩達にも久しぶりに会いたいなというところ、昭和17年から平成21年までに大阪でアラビア語を専攻した卒業生の総数は、1,000名を越えるそうで、今日は何名いらっしゃるのか非常に楽しみです。

さてこの同窓会とは別に外大の恩師にアポイントをいただいています。

唐突な宣言ですが、あと10年以内に私は「博士号」をとります。

一旦、あきらめた研究者への道ですが、まあ人生流転の中でなんとなくチャンスが巡ってきた感じもしますし、「勉強はいつでも(どこでも)できるから」という母の言葉に結局、納得していなかったということですかね。別に‘博士号’がほしいわけではありませんが、自分の生涯といいますか生き方の‘ケジメ’として大学を卒業して18年(いつの間にか?)ぶりに‘取り’に行きます。

まあ別にそれが目的ではありませんが、若い人に私の今までの経験や知識を伝えていくにはそんな‘肩書き’もあったほうが便利かな?と。まあ、そういうポストに自分をおきたいというわけです。

すぐには進学することは現実とてもできませんが、10年スパンで、いろいろ情報収集と(先生方と)戦略会議ということで^^?

ではでは^^?

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