カテゴリー「海に生きる (海洋民俗学の世界)」の記事

2009年10月 3日 (土)

海洋民俗学ことはじめ 『海への憧れ』 その1 海から陸地をみてみると

さて、ミクシイで最近、『海洋民俗学~海からみる世界』というコミュニティを立ち上げました。まあ、この歩く仲間でも『海に生きる(海洋民俗学の世界)』というトピックを持っているわけですが、これと連動させながらしばやん流、海洋民俗学を徐々に綴っていきたいと想います。

とりあえず過去記事ですが、HP 歩く仲間に書いた記事のアーカイブから一篇をご紹介します。

全文はこちら: http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00023.htm

2004年9月2日

海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。

<アジア島嶼部研究のダイナミズム>

 

フォト:フィリピン・ボラカイ島

その1 海から陸地を見てみると

 

もう10年以上も前に、たしか大学時代の何かの寄稿として既に書いた覚えがあるのだが、残念ながら原稿をなくしてしまったので、思い起こす限りで以下に再現してみる。

「海には道がない。今まで、海は人を隔てるものだと考えてきたが、家島彦一先生のインド洋世界のダウ船についての講義(注)の中で「海は人を隔てるものではなく、つなげるものである。」という話を聴いたことと、実際にヨット部活動を行う中で、本当はどうなのだろうかという疑問が湧いてきた。

ヨット部では、ディンギーという二人のりの全長5メートルかそこらの小さなヨットでレース競技の練習をしていた。板一枚下は海という状況でセーリングをしながら海から陸地をみてみると、そうだ確かに、海には陸上の道路みたいな構造物としての道はないかもしれないけど、ちゃんとそれぞれの大きさの船が通る道やルールがあるではないか。

しかも港へは原則、海からしかアクセスできないということに気が付いたとき、先の家島先生の言葉が胸にすとんと落ちた気がした。港は陸の道からしてみれば終点なのかも知れないが、海の道ではスタート地点(始点)なのだ。広大な海の向こうには、まだまだ未知の世界が待っている。世界の国々は海というものを隔ててつながっているのだ。」

確か、ヨット部の部報への投稿であったと思うが、海から陸をみたときに感じた既存の道に縛られない自由さ、陸地にしか道がないと思っていたら、実は、海にも道があることを知った時の感動と、そのような海の道について、丹念に掘り起こして研究をしている人がいることは、その後も、ずっと頭の片隅にへばりついていた。

注:東京大学東洋文化研究所の板垣雄三先生を中心に日本のイスラームに少しでも関係のある研究者を総動員して行われた『イスラームの都市性』という文部省重点領域研究に絡んで、1990年の夏休みには東大で1週間のサマースクール、1991年2月11日に『大学と科学』公開シンポジウムとして『都市文明イスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』というセミナーが行われた。サマースクールについては、特にまとめられていないが、公開シンポジウムの記録は、非常に多様な問題点と最新の学問成果がコンパクトにまとめてあり、書店では手にはいりにくいが、極めて貴重な記録である。残念ながらこの感銘を受けた家島先生の講義がサマースクールの時の話しだったかセミナーだったか、覚えていない。しかし、確か2回とも家島先生の講義はあったはずなので、その両方ともが相まって自分の頭に染み込んだのであろう。

 

○     第5回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員会編 『都市文明とイスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』 クバプロ 1991

 

また、1990年5月に関西大学で、日本中東学会の全国大会が開催されたこともあり、大阪の大学ではいたが、比較的、関東を拠点に活躍されている先生方にも多く知り合う機会を得ていた。自分自身、よく東京へも通ったものだとは思うものの、当時の池田修アラビア語科教授をはじめとする多くの先生方のお誘いがあってのことである。

その他、多分当時にあって、非常に多くの先生方にお会いして知見を広めることができたのは、『地球環境論』を企画いただいた神前進一先生や深尾葉子先生をはじめとする大阪外国語大学の諸先生方のおかげである。あらためて感謝いたします。

(大阪便り[008]及び地球環境論の項も参照ください。)

<その1 了>

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2009年1月11日 (日)

生き方としての「海洋民俗学」 導入編

という記事を、「Life, I Love You!」のほうにアップさせていただきました。

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/01/post-7021.html

そちらでも触れていますが、そもそも同じ人間が2つのブログを書いているので、実はどちらでトピックを展開してもよいということで、このトピックについては、内容によって、双方のブログに記事を書きたいと思います。

でもまあ、道端に考えるきっかけがいくらでも転がっているので、つくづく安上がりな性分だと思います。

なお、Life に記事を書いたときは、その都度リンクを張るようにしますので、ご関心のある方は、よろしくお付き合いください。

ではでは^^?

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2008年12月17日 (水)

わたしのウインド初体験(ウインドウズではありません)

もう11年も前になりますが、前の会社の社内報に書いた記事です。わたしの「海洋民俗学」はあくまで自分の体験や経験から語り綴ろうと考えています。

よろしくご笑覧ください^^?

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平成9年(1997年)11月12日

わたしのウインド初体験(ウインドウズではありません)

11月X日(日曜日)、横須賀線快速電車にゆられながら、そういえば初めてウインドサーフィンをやったのは、一昨年(1995年)だったなあと思いおこしていた。

 大学時代、体育会でヨットをやっていた。東京で勤めだして3、4年目であろうか。そろそろ仕事や生活にも慣れてきたが、なにか物足りないなと思い出したとき、友人から逗子海岸の或るウインドサーフィンスクールに誘われた。

 一昨年は、11月に、一日体験コースでおもちゃみたいなセールで水辺をまっすぐ走って終わり。去年は、結局、春から秋まで10回ほどスクールに通ったのだろうか。(夏には逗子海岸に海水浴にきているおねーちゃん達をしり目に、海水浴場の端っこで集団でスクーリングを受けていたのを思い出す。)そして、今年の8月に、念願の自分の道具を購入した。

 ここで、なぜ僕は海が好きなんだろうと考えてみると、「自然にいじめられる快感」を知ってしまったからではないかと思った。原体験としてこんなことがあった。

 ヨット部1年のオフ直前11月に、初めて先輩と小さな2人乗りのヨットでレースに出場したときのこと。なんどか沈して(ヨットが横転すること)びしょ濡れになったレースの後、涙だか鼻水だかをながしつつ、吹きっされしの雨まじりの海上で冷たい昼飯を食いながら、ふと「僕は誰に泣かされているのだろう」と考えた。それは、自分でも先輩でもなかった。まさにその時、「自然にいじめられること」を知った。そのことは、「人から」いじめられるのと違って全然悔しくなかった。

 海と言ってもほんの水辺で遊んでいるだけで外洋は知らないし、山のことも知らないけど、自然相手のスポーツとは、きっとそれが楽しいのではなかろうか。「自分」との闘いという人もいるけど、人知や体力の及ばない世界があることは否応ない事実だし、自然との「闘い」というと、ちょっと違うような気がする。

 ともあれ、水と風さえあればどこでもできるスポーツなので、興味のあるひとは、ぜひ一緒に遊びましょう。(ヨットも可)

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(2008年12月17日 付記)

残念ながら既にウインドサーフィンの道具も手放してしまっていますが、手元にはスクールで受験させてもらったウインドのバッジテストの認定証があり、また経験としてわずかな期間ではありましたが習ったことを体が覚えている(はず)です。

また田舎に戻ったのを機会に、マリンな生活にも近々復帰できそうな気がしています。

ではでは^^?

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2008年12月15日 (月)

海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。

200492

 海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。

 

<アジア島嶼部研究のダイナミズム>

フォト:フィリピン・ボラカイ島http://homepage1.nifty.com/arukunakama/y2005.htm

海から陸地を見てみると

もう10年以上も前に、たしか大学時代の何かの寄稿として既に書いた覚えがあるのだが、残念ながら原稿をなくしてしまったので、思い起こす限りで以下に再現してみる。

「海には道がない。今まで、海は人を隔てるものだと考えてきたが、家島彦一先生のインド洋世界のダウ船についての講義(注)の中で「海は人を隔てるものではなく、つなげるものである。」という話を聴いたことと、実際にヨット部活動を行う中で、本当はどうなのだろうかという疑問が湧いてきた。

ヨット部では、ディンギーという二人のりの全長5メートルかそこらの小さなヨットでレース競技の練習をしていた。板一枚下は海という状況でセーリングをしながら海から陸地をみてみると、そうだ確かに、海には陸上の道路みたいな構造物としての道はないかもしれないけど、ちゃんとそれぞれの大きさの船が通る道やルールがあるではないか。

しかも港へは原則、海からしかアクセスできないということに気が付いたとき、先の家島先生の言葉が胸にすとんと落ちた気がした。港は陸の道からしてみれば終点なのかも知れないが、海の道ではスタート地点(始点)なのだ。広大な海の向こうには、まだまだ未知の世界が待っている。世界の国々は海というものを隔ててつながっているのだ。」

確か、ヨット部の部報への投稿であったと思うが、海から陸をみたときに感じた既存の道に縛られない自由さ、陸地にしか道がないと思っていたら、実は、海にも道があることを知った時の感動と、そのような海の道について、丹念に掘り起こして研究をしている人がいることは、その後も、ずっと頭の片隅にへばりついていた。

注:東京大学東洋文化研究所の板垣雄三先生を中心に日本のイスラームに少しでも関係のある研究者を総動員して行われた『イスラームの都市性』という文部省重点領域研究に絡んで、1990年の夏休みには東大で1週間のサマースクール、1991211日に『大学と科学』公開シンポジウムとして『都市文明イスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』というセミナーが行われた。サマースクールについては、特にまとめられていないが、公開シンポジウムの記録は、非常に多様な問題点と最新の学問成果がコンパクトにまとめてあり、書店では手にはいりにくいが、極めて貴重な記録である。残念ながらこの感銘を受けた家島先生の講義がサマースクールの時の話しだったかセミナーだったか、覚えていない。しかし、確か2回とも家島先生の講義はあったはずなので、その両方ともが相まって自分の頭に染み込んだのであろう。

 5回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員会編 『都市文明とイスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』 クバプロ 1991

また、19905月に関西大学で、日本中東学会の全国大会が開催されたこともあり、大阪の大学ではいたが、比較的、関東を拠点に活躍されている先生方にも多く知り合う機会を得ていた。自分自身、よく東京へも通ったものだとは思うものの、当時の池田修アラビア語科教授をはじめとする多くの先生方のお誘いがあってのことである。

その他、多分当時にあって、非常に多くの先生方にお会いして知見を広めることができたのは、『地球環境論』を企画いただいた神前進一先生や深尾葉子先生をはじめとする大阪外国語大学の諸先生方のおかげである。あらためて感謝いたします。

大阪便り[008]<http://homepage1.nifty.com/arukunakama/o0008.htm及び地球環境論<http://homepage1.nifty.com/arukunakama/h000.htmの項も参照ください。)

フィリピンにて改めて海を考える

 さて、フィリピンに住みだして約5ヶ月がたつ。フィリピンは日本国土の8割の面積をもつと大小7000もの島からなる東南アジアの代表的な島嶼国家だ。確かに、アジアの島嶼部での仕事についたのは、2001年の東チモールが初めてだが、1992年にヨット部の仲間とタイからシンガポールまで卒業旅行で周ったときから、海とそこに暮らす人たちに関心を払ってきた。特にプーケット島で初めて感じた南の海の美しさは本当に忘れられない。

大学時代に淀川の河口で下水みたいに汚れた海でヨットを練習していた身としては、南国そのもののヤシの木と白浜を見た日にはまるで別世界かのように思えた。しかしながら、ほんの100年前までは、日本も世界有数の美しい浜をもつ島国であった。

陸地を海から眺めてみると何がみえるのだろう。どう考えても大陸の陸続きの国々と海に浮かぶ島々の社会構造は全く異質のものに思えてくる。地球の7割が海であるというのに、(くしくも人間の体の7割は水分である)私達は、その存在をあまりにぞんざいに扱ってきたのではなかろうか。

 フィリピンにきて早々に鶴見良行氏の『東南アジアを知る』という岩波新書を読み返してみた。もう5年ほど前に読んでいたはずだが、今回は、なぜか印象が全く違って迫ってきた。アメリカの国籍をもち東京大学の法学部という学歴を持ち、国際文化会館の企画部長という西欧のエリートと日常的にやり取りする立場にあったはずの鶴見氏は、1965年にべ平連の運動に参画するアジアを意識するようになる。

彼は、1970年に44歳からこのフィリピンからアジアを本格的に歩きだしたといってよい。彼が最初に取り上げたバタアン州のマリベレス保税(輸出)加工区(ここは、くしくも太平洋戦争時のバターン死の行進の出発地点でもある)やスービックの米軍基地跡地については、実は私も実際に休みに行って来た(通った)ところではないか。岩波新書で1982年に出版された『バナナと日本人』の舞台のミンダナオ島なんて会社が長年、仕事をしてきたところではないか。実際、私も7月に1週間ほどダバオとコタバトと現地調査に行ったばかりだ。

「鶴見さんが歩いた道を、30数年後に自分も歩いている。」何かそんな気がして、鶴見氏の存在自体がとても他人事ではなく思えてきた。

その気で手元の本を読み返してみると、「歩く仲間」の大先達として尊敬する、宮本常一氏も日本史家の網野善彦氏も最終的には海から日本や世界を見つめ直そうとしている。網野氏本人が、宮本氏と鶴見氏にかなり近いところにいたことは、『歴史と出会う』という新書にふれられている。

さらに傑作であったのが、鎌田慧氏が、1984年に『アジア絶望工場』というルポルタージュの中で、「《特別対談》アジアの民衆と日本人」というタイトルで、鎌田慧氏と鶴見良行氏が対談を行っている。しかも、その話題の中で、鶴見氏が、東京外国語大学の三木亘先生から、家島彦一先生のダウ船の論文をもらったなどと話しており、私は思わずうーんと唸ってしまった。私の尊敬する5名(Giant Stepsを参照)のうちの3名がすでに1984年の段階でクロスオーバーしている。もう20年以上も前である。まるで関係のないような分野の人たちでも、なぜか互いに惹かれあうものがあったということであろう。私の人間関係にとっても、まるで別々のルートで知った人たちが、実は、私などが知る数年も前から知り合いであった。本当に、人の縁の不思議さを感じる。家島彦一先生とは、1990年頃に、鶴見良行先生とも、1990年にはじめて、全く別の場所でお会いしている。(「歩きながら考える008」および「地球環境論」の項目を参照。)

それはともかく、今回、しばやんの本棚に「フィリピン・アジア島嶼部関係」という項目を新たに設けることにした。東チモールからたまたま入った東南アジア島嶼地域の世界。天の意思というか、まったくこれまでパズルとも思っていなかった断片断片が、今になって急速にパズルとしての全体像を結ぼうとしているような気がする。当然、まだまだ欠けている断片があるのは当然のことだが、それは今度のお楽しみということで。

しかし、フィリピンに駐在になって、仕事としては、全くイスラームから離れてしまうのかなと、実はちょっとがっかりしていたのも本音だが、まさかミンダナオ島のイスラーム教徒地域の開発というテーマで、まだまだ新たにイスラームにかかわりあうことになるとは。本当に天の配材というか、塞翁が馬というべきか、まさに‘海’がつないだ‘縁’としかいいようがない。

私は、海の人と山の人と平地の人は、かなり違った価値観をもって生きてきたし実際に今でも違うのではと感じている。別のところでも書いたが、マニラというかフィリピンのあちこちで見かけるマリア像と海の関係など、非常にいろいろな疑問やなぜがいっぱいで、本当に見るもの触れるものが新鮮で、本当にわくわくしている。特に{宗教と開発}の関係について、多分みんな重要と感じてはいるだろうが、具体的なモノグラムとしての経験なり体験を踏まえた研究はまだまだ世にそれほど多くないのではなかろうか。

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東チモールでの経験 なぜ彼らはポルトガル語を公用語にしたのか?

また、ちょっと脱線するが、東チモールが1999年のインドネシア軍と民兵による騒乱の後、国連の暫定政府の統治下におかれたのだが、その後の独立する際に、何語を国語とするのかで、援助にかかわる外国人の中でも大変話題になったことがある。

東チモールは、日本の長野県とか本当に県ほどの面積しかないチモール島の東半分と西の飛び地の部分が領土で、西側は西チモールとして依然としてインドネシアの領土下にある。

15世紀頃から、東南アジアの島々はスペインとポルトガルによって植民地とされてしまう。今のインドネシアの大部分はオランダの植民地、このチモール島のまさに東チモールの部分のみポルトガルの植民地であった。オランダの植民地であったインドネシアは、海上貿易という商業活動によりイスラーム化していくが、このチモール島はポルトガルの影響で、キリスト教、カトリックでありつづけた。

さて、われわれが調べたところ、この東チモールの部分だけで50近くの地方言語があり、そのうち主要な言語は4つあるといわれている。したがって、1975年以前のエリート層は、ポルトガル語を話す。部族語というか民族語を除けば、ポルトガル語が文明語というか公用語といっていいだろう。しかし1975年にポルトガルが植民地としての東チモールを放棄した際に、東チモールのある政治勢力は、一旦、独立を果たそうとするが、インドネシアに武力併合されてしまう。そのポルトガル語の教育を受けた独立派の指導者達は、モザンビークなど他のポルトガル語圏の国に亡命していく。今回、独立にあたって初めての大統領に選ばれたサナナ・グスマンは、この典型的な例である。今回選ばれた政治リーダーの多くはポルトガル語のわかるエリート達であったのだ。

そして、インドネシアは新たに国土とした代わりに、懐柔政策として、徹底的なインフラ整備と補助金による農業支援(これは農作物の流通も含む)や、若い人材のインドネシア人かを図る。これは、優秀な学生をインドネシア本土たとえばジャカルタやスラバヤに留学させることによって、親インドネシアのリーダーを育てることが目的だ。したがって、1975年以降に生まれた今の若い世代にとっては、インドネシア語が国語であったといってよい。

そのような複雑な歴史的な経緯があったため、国連の暫定統治政府は、英語、ポルトガル語、インドネシア語、ティトゥン語(4つの主要言語のひとつ)の4ヶ国語を公用語として、すべての公文書を4つの言葉で作った。これはまた大変なことであったのだが。

2002522日に国連暫定統治下の3年間の国家建設というか復興の助走期間を経てようやく独立するわけであるが、その際に、一番の話題になったことのひとつに、国語を何語にするのかという問題があった。当然、主権国家なのでチモールの人びと自体が決定すべきことであるが、外国人の援助関係者の間でも、非常に話題となった。

ところでこの3年間の復興期には、国連等国際機関の外国人専門家やプロジェクト関係者目当てに、主にインドネシアのスラバヤ商人(中華系も多く、華僑も含まれる)やシンガポール系の華僑、オーストラリア人が国連景気を充てにして大挙して首都であるディリに押し寄せた。復興成金といってもよい。彼らは、本当にずる賢いといってよいのだが、復興期の数年、例えば3年や5年で元がとれるような商売のやり方をしたのである。最初から、居着いて復興に尽くす気はさらさらない。国連の外国人職員の外貨(ドル貨)だけが目当てなのだ。彼が、外国人が引き上げれば、残された東チモールの人びとは、とても高価な車やパソコン等、最先端の消費物資を買えるわけがない。ともあれ、国連統治下には、ドル貨が唯一の通貨として利用されていた。

さて、国語制定問題に戻るが、援助関係者は、やはりインドネシアとの今までの経緯から言うと、インドネシア語の利用価値は未だに十分あるわけだが、国民投票をして独立を決めたという経緯上、特にその後にインドネシア軍と民兵に、町々のインドネシア時代の社会基盤を散々に破壊された経緯上、インドネシア語は絶対に国語にしないだろう。また経済上の隣国のオーストラリアや英語経済圏との結びつきを考えれば、やはり英語だろう。まさかポルトガル語ではあるまい。ティトゥン語は、主要言語のひとつといっても、当時でも人口の40%にも満たない人しか利用していないではないか、などとうわさをしていた。

果たして、東チモールの人たちは何語を選んだのであろうか。結果は、ポルトガル語とティトゥン語の2つが公用語と制定された。まさに援助関係者の外国人当然、私達日本人も含むがえーといった感じだが、その後、自分で考えてみて、このようなこともいえるのではと思った。

「そうだ、カトリック教徒である彼らにとっては、やはりポルトガル語しかない。なぜならば、お墓がすべてカトリックのキリスト教徒の名前でないか。その人名の多くは英語のアルファベットにはない、いわばポルトガル風のカトリックの名前が多いのだ。これは、先祖の墓参りにいくときに、アルファベットの名前がない言語を使うのは、やはり嫌だろうなと。」

これは、ディリから現場に向かう道沿いにある村むらの墓地をみて思ったことである。また、ここでも海のマリア信仰がある。そもそも、これらのアジアの島々には女性の海の神様に対する信仰があったのではないのだろうか、それにキリスト教のマリア信仰が乗っかっただけではないかという仮説もなりたつのではないか。このことは、フィリピンでも見られるので、今後の課題として調べてみたいと思っている。

多分、国語制定理由に関する常識的な考え方は、先にも述べたことだが、大統領をはじめとする指導者層がポルトガル語の教育を受けているからということと元宗主国であるポルトガルとのさまざまな外交上、文化上のしがらみからというのが普通に考えられる理由であろう。しかし私は、上記の「墓参りに困る」などという普通の人々の心情的にも英語を公用語として使うのは、抵抗があったのではなかろうかとも思う。

しかしまあ本当に一番かわいそうなのは、この国の未来をになうべき子供達である。今までインドネシア語で教育を受けていたのがいきなりポルトガル語になってしまったのだから、この教育の現場の混乱は察するにあまりある。現地の話によると小学5年生以上の学童が一番辛かったらしい。この学年以上は、ある程度の知識をインドネシア語で学習してしまったからだ。しかも国連の暫定統治下では、生活手段としての英語、実際にちょっと英語ができるだけで国際機関の外国人相手の仕事が、少なくとも首都のディリでは突然ふってわいたわけだから、ちょっと目鼻のきいた若者の英語の学習熱は非常に高まったらしい。それが、また27年も前に、インドネシア語の前に教えられていたポルトガル語に、また戻ってしまうとは。

 これを一家族の中でもいうと祖父や祖母はポルトガル語、今3040歳代の若いお父さんお母さんはインドネシア語、これから小学校に通おうとする子供はまたポルトガル語(実際、ほんの数年前までは現地語とインドネシア語で生活していた)で教育を受けるという非常にねじれてしまった状況になっている。これは、国家という枠組みが変わるという事が、どれほどそこに住む人々の生活に影響を与えるかという、ひとつの研究課題といってもよいであろう。国家と言葉の問題については、田中克彦氏の一連の著作が参考になろう。

宗教と社会との関わりを考える

しかし、宗教と社会とのかかわりって非常に強いものであることを、このフィリピンにきても、いろいろなところで感じる。特に地方にいけば言語も違い、その多様性については以前より多く語られてはいるが、宗教規範の社会への影響は、もう少し社会を緩やかに結び付けているのではないかと思う。つまり言葉が少しぐらい違っても宗教が違うことによる違和感よりはそれぞれの人間関係における影響が小さいのではないかと思うのだ。あくまで仮説ではあるが。

「宗教と社会との関わり」というテーマは、もっともっと援助の現場で考慮されるべきではないか。また隣国のイスラーム教徒の多い(88%)インドネシアのことも調べてみたら非常に面白い比較ができるだろうなと思っている。

ともあれ、現場を歩くことの面白さ、勉強の面白さって、やはり自分の知らない世界を新たに知ることの‘わくわく感’にあるのではなかろうか。

かといって、やたらに歩くだけでもいけない。問題意識をもたないと。例えば、ミンダナオ島のダバオにある博物館をみても思ったのだか、先住民ほど山奥に追いやられる傾向がある。それも、鶴見良行さんの「バナナと日本」を読んでいたから気が付いたことだ。

現在を歴史の中で捉えること。歩く学問は、ただ歩くだけではいけない。ちゃんと前後左右をみて、さらに時間軸を押さえたものでなくては。

さて、より具体的ないろいろな世界の“人”たちに近づくために、しばやんと一緒に、いちど海から世界を見てみませんか。

<補筆>

 これまで、しばやんの個人的な関心からのみ海の世界を論じてきたが、2000年より岩波書店から「海のアジア」という6巻のもののシリーズが出版された。これは、上記の家島彦一先生や、上智大学の村井吉敬先生(鶴見良行先生と一緒に歩いた仲間)のみならず、近代中国史の濱下武志先生(京都大学東南アジア研究センター)、人類遺伝学の尾本惠市先生(桃山学院大学)らが中心になって、「二十一世紀の新しいパラダイムといった場合に、国民国家を海から見た場合に、果たしてこれでいいのか」という問題意識を元に、「「中央がつくり出す正しい歴史観」」に対するいわばひとつのアンチテーゼというか実際に海という現実のフィールドからの発信を行おうとする野心的な企てである。私自身、まだ第1巻しか入手していないが、これから海から世界を見ようとする人にとっては、このアンソロジーは最新の学問的成果という意味でも、ひとつの出発点として非常に参考になるのではないかと思う。

 この項了。

(参考)

本文で触れたお勧めの本

 網野善彦 『歴史と出会う』 洋泉社新書y 2000

 鎌田慧 『アジア絶望工場』 講談社 講談社文庫 1987

 鶴見良行 『バナナと日本人』 岩波書店 岩波新書 1982

 鶴見良行 『東南アジアを知る-私の方法-』 岩波書店 岩波新書 1995

 シリーズ『海のアジア』 岩波書店 20002001 

その他の関連本については、「しばやんの本だな」「フィリピン・アジア島嶼部関係」の項をご覧ください。

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2008年11月25日 (火)

宮本常一 『瀬戸内海の研究』 初めの一歩として

まず、というか自分の決意として、えいやあと買ってしまいました^^?

宮本常一 『瀬戸内海の研究 島嶼の開発とその社会形成-海人の定住を中心に』 未来社 1965年初版 2001年4月 復刊 第1刷  定価32,000円

でも、誰が買うんだろう、こんな高い本を!?

宮本常一氏、本人が唯一自分の意思で書いたと語る、博士論文となる約700ページの大書、豊橋の精分館書店という愛知県でも1,2を競う大型専門書店に在庫があるのをみて、清水寺から飛び降りる気で、買ってしまいました。

この本は、以前紹介した『宮本常一 旅する民俗学者』 KAWADE道の手帖 河出書房新社 2005年の木村哲也氏の「宮本常一ブックガイド」の18番目に紹介されているのをみてからずっと気になっていました。木村氏の紹介を引用させていただくと、

「前略 ~ 宮本の著作にしては珍しく、聞き書きがほとんど出てこない。そのためたいへん読みずらく、宮本の著作の中では最も読まれていない作品の一つではないだろうか。

しかし自治体の境界によって分断してしまうと見えにくくなる空間を、「瀬戸内海」と設定してその歴史や文化の全体像を提示しようとする宮本の姿勢は、今もって古びていない。ブローデル『地中海』の紹介以前に、同じ試みを宮本が自力で達成しようとしていたことに驚く。 ~後略~」

私は、ブルーデルうんぬんのくだりに引っかかっていました。

というのは、ちょうど私が大学生の終わりのころ、藤沢書店からフェルナン・ブローデルの『地中海』が日本語の全訳として刊行されだしたころで、アラブ・イスラーム学界というより日本の人文科学学界のどこででも非常に大きく取り上げられていたからです。

手元に学生時代に古本でかった第1巻があります。奥付の記述によると初版が1991年11月、4刷りが1992年3月、一冊で定価8800円で、確か5冊モノの大書が半年で4刷りもされたとは、如何に売れたかがわかるというものでしょう。(ちなみに、古本で6500円)

結局、その後、ブローデルの『地中海』は軽装版もでたりして、そのブームは1990年代を通じて続いたのですが、結局、私としては頭の片隅にブローデルがありという感じで常に気にしつつも全然、一行も読めていません^^?

でもまあ、ブローデルの『地中海』を引き合いに出すとは、木村氏も恐るべし。ブローデルと宮本常一の着目点の鋭さと、その違いについては、別の論客も別のところで触れていますが、確か私のうろ覚えでは、「ブローデルの著作は、ウォーラーステインの近代世界システム論に影響したとか、フランスのアナール学派のみならず、哲学や近接の人文科学分野に大きな影響を与えたが、宮本の‘それ’はほとんど日本においては、網野善彦や鶴見良行など一部の亜流?(正確なたとえは忘れましたが)に引き継がれたのみで、ほとんど学界では省みられなかった」というような主旨の発言を、なにかの座談会で誰かが言っていました。(正確なところは後で調べておきます。)

まあどう考えても宮本氏は学界の主流ではないし、逆に象牙の塔の中の人には想像もつかないところまで‘歩いて’いってしまったことを考えるとまあ、それが順当というか、それもまたよしという気もします。

ともあれ、私には宮本のこの論文があるということで、日本の‘実体’という現場から、私の海洋民俗学の探求も始めていこうと思います。

ではでは^^?

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2008年11月23日 (日)

これから「海洋民俗学」をやります 宣言^^? 

転職も一段落して新しい生活をスタートして1ヶ月半になるわけですが、今、海洋民俗学というものを追究してみようと考えています。

「開発民俗学」は、主に地域開発にかかるフィールドワーク論とまれびと論(チェンジエージェント論)、開発倫理学が主体になると思われますが、それと重複するかもしれませんが、「海から見た世界(像)」というのを別途、研究してみたいと思います。

たまさか、マリングッズを扱う卸売り会社に転身したわけですが、実はしばやんと海との関係は浅いものではありません。

「えっ、しばやんって海の男だったの!?」と以前、友人に絶句されたのですが、実は大学ではヨット部(体育会系)でディンギーレースをやっていましたし、就職後はウインドサーフィンも数年やっていました。もう10年ぐらい前になりますが、結局、仕事が忙しくなりマイボードも手放しましてしまって、直接のマリンスポーツからは遠ざかっていましたが、2000年頃から仕事でも東ティモールやフィリピンなどの東南アジアでの出張や駐在も経て、つくづく私と海との縁が深いものだと感じています。

マリンスポーツに興味があるとはいえ、別に戦績とかレースが好きというわけではなく、海という自然に身をおくこと、つまり海との交歓や海から陸地を考えるということが好きなのです。

そうそう、20年前に、そもそも大学でなにかクラブに入るのにあたって、‘山’のワンダーフォーゲル部に入るか‘海’のヨット部に入るのかを迷ったときから、私の海との付き合いが始まったのでした。

今日、名古屋に行ったのを機に、本屋(丸善)でこの分野の本を漁ったのですが、結構、いい本がでているじゃんということで、ちかぢか「海洋民俗学」という分野にも手をだすつもりです。

今回は、前フリだけに終わってしまいますが、これからの展開をぜひご期待ください。

ではでは^^?

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