地域研究論

2009年12月12日 (土)

宮本常一の「フィールドワーク」と「ワークショップ=ファシリテーション」について

<先の記事の続きです>

最近、10日ほど前に気がついたのですが、とてもショックなことがありました。

ふと本を片付けていてなにげに開いた宮本常一さんの『忘れられた日本人』岩波文庫 1984の「あとがき」に彼の「フィールドワーク」と「ワークショップ」のエッセンスが見事に書かれていました。

岩波文庫版 308ページ

「~前略~ 昭和三十年からは、主として山村の調査に力をそそいでいる。~
これについての私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場にいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書のあることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。~略~

古文書の疑問、役場資料の疑問などを心の中において、次には村の古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかって来る。と同時に実にいろいろなことをおしえられる。 ~略~

その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会の形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている。

~後略~」

これって、農業・地域開発を専門とする我々が開発途上国の現場で、特に案件の仕込みや開発調査の中でやってきたことそのものなんです。

さすが、歩く民俗学者(巨人) 恐るべし!

私も自分がフィリピンで案件形成をおこなった際には相手国政府の役人やNGO関係者をカウンターパートに地域の有力者に挨拶したり役所の出先機関などにいって資料を集めて所長レベルの人や現場レベルの役人や現地に精通したNGOスタッフを案内人に現地踏査をおこなって(フィールドワーク)、住民を集めてもらってワークショップを開催していました。通例、このような活動は必ず開発援助案件としての 落としどころを最初から考えているので全く白紙や先入観なしで現場に入ることはありません。というのも、中央レベルである程度の下調べも必要ですし、ODA案件を視野に入れれば当然中央官庁の考えを無視するわけにはいきません。

しかしながら、現地に入るとよい意味で期待を裏切られるというか中央で気がつかなかったことに気がつかされます。大体それは、想定もしなかったようなより重要な現場のニーズに気がつかされるケースが多いです。それがわかるのは、やはり自分で現場をみて、その直後に現地の人とワークショップや意見交換を行なうからなのです。

我々コンサルタントが一番頭を絞るのは、いかに文献資料、社会経済データ、自然環境データを効率よく集めかつ現地踏査を行いさらには現地の普通の住民から話を聞くのか、そのような調査工程やワークショップの設定自体をいかに調査の前半もしくは調査以前に段取りを組むかが肝であり調査の精度と社会的な価値を決める大本なのです。

なんだというか、開発コンサルティング業務に、ワークショップもファシリテーションもフィールドワークもどれもが必要不可欠なもので、既にみんなが言われるともなくそれぞれ現場で実践していることなんですね。

この無自覚の知というか、やっぱりこうした実践自体をもっと学界の人に実務者から説明?せんきゃいかんなあと改めて思いました。

そのうちにFAFIDの勉強会で発表させてもらおうと思います。

ではでは^^?

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‘場をつくる’ということ ファシリテーション&ワークショップ入門<各論>

というトピックを、ミクシイの「開発民俗学~地域共生の技法」の中で展開しています。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=48194843&comm_id=2498370 (ミクシイの会員の方しかログインできません。関心のある方はしばやんまで)

そこで、こちらの記事の続きを書きついでいます。以下本文です。

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「‘ジャム’セッション ~‘場’をつくるということ」 2009年11月8日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-12d8.html

上記のメモは、2009年10月22日に「開発ファシリテーションとフィールドワーク」の第10回勉強会に初めて出席してからずっと気になっていたことを書いたものです。

http://mixi.jp/view_event.pl?id=47142975&comm_id=2498370

実は、その後、一般企業における「ファシリテーション」について最近の本をいろいろ読んで、最近のファシリテーション事情自体をつかもうとしているのですが、なんか上記の勉強会のタイトルがしっくりこない。

なぜか、と思ったら、「ファシリテーション」と「フィールドワーク」をつなぐものが「ワークショップ」なんですよね。

実は、2000年前後からしばやんの他流試合の武者修行の中で、日本のNGOの方々にいろいろ絡んだ?のですが、その中でおもしろかったのがやはりシャプラニールとかJVC(ジャパン・ボランティアセンター)、アジア女性協会やアジア太平洋資料センター(PARC)、ジェイセフなどのいわゆる老舗といわれる各NGO団体。まあ活動家の創始者クラスの人とも若いスタッフともいろいろ話しましたが、彼らの一つの活動戦略として国内会員のための宣伝と世論に訴えるアドボカシーに力を入れている点があげられます。

しばやんの武者修行の一部はこちらからご覧になれます。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/b002.htm

いろいろな彼ら主催の勉強会やセミナーに顔を出したのですが、彼らは得てして市民参加のワークショップ自体が非常にうまいです。参加者にいろいろなゲームやグループワークをさせてその気にさせてしまうというか、いわゆる「開発教育」を施す。

この「開発教育」の分野で非常に発達していたのが「ファシリテーション」であり「ワークショップ」なのです。

そうだ、「ワークショップ」のための「ファシリテーション」なのです。
なにかミッシングリンクがあるなあとずっとこの2ヶ月気にかかっていたのですが自分の経験の中ではワークショップとファシリテーションがそもそもセットで一体として捉えていたのでした。

この項 続く。

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2009年11月 8日 (日)

‘ジャム’セッション ~‘場’をつくるということ

というテーマで、文章をまとめようと思っています。とりあえず今日は時間をかけられないのでメモ書き程度にとどめます。

・壁を作らない。

・つなげる(あるものを)

・(市民を)巻き込む

・その場所に関わるということ

・風の人、土の人

・その(土)地から始める。

・‘場’を作るのは‘人’そのもの。

・‘人’から始める地域づくり。

・外部者の役割 

・現状分析(フィールドワーク)と関係作り(ファシリテーション)

・優れた開発コンサルタントは例外なく卓越したファシリテーターでありフィールドワーカーである。

・ある場所から始めよう。

附論:

まちづくりにおけるファシリテーター論

実はまちづくりや開発教育の分野ではあたりまえのことであった!

○対談 平山恵 清水義晴 『ファシリテーターのための入門書 ワークショップは宝の山 ~国際協力からまちづくりまで~ 』 パラダイムシフト文庫1 1998年

○森良 『新版 ファシリテーター入門』 エコ・コミュニケーションセンター 1999

※参加型開発を語る際に、ワークショップ、ファシリテーターは必要不可欠な要素。そこにフィールドワークの手法を持ち込むことは、経験のあるファシリテーターは無意識に‘比較’という手法を使って地域やワークショップの参加者の現状分析を行っている。

私の経験から:

Three Maria’s Tale (3人のマリアの物語)
(開発コミュニケーション論におけるチェンジエージェントの一例として) 200354http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00019.htm

『開発コミュニケーション』をめぐる課題 200354http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000192.htm

第5回 NGOカレッジ 「参加型開発と私たち」 シャプラニール 定松栄一さんの講座を受講したこと。←これは結構大きい。平山さんにもこの講座でお会いしている。

(とりあえずここまで) 

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2009年11月 3日 (火)

道はまだまだ遥かかなた。でも、まず一歩から踏み出そう!

ということで、今回の大阪行きの収穫の2つ目は、海洋民俗学関係の専門書を「阪急古書のまち」で古本屋めぐりで偶然にも漁れたこと。ゲットした本は下記のとおり。

○田辺悟 『海浜生活の歴史と民俗』 慶友社 考古民俗叢書 2005 (13,000円+税)
○野本寛一 『海岸環境民俗論』 白水社 1995 12,000円(税込)

両方とも新古というか古本で買ったからまだしも、う~ん、実は、非常に高い買い物でした。

でも「海洋民俗学」をやると宣言してしまったからには、これらの専門論文集に食らいつかないといけないというか、実際に手にとってみて、これは手元において(読まねば)と、直感した次第。

ちらっとみただけですけど、非常にそそられる本です。両方共に今までの研究史が載っているのが非常にうれしい。

ともかくこれらを足がかりにすれば、すくなくとも2005年までの研究成果は概観できるはず、ということで、これからの「海洋民俗学」の研究の弾みになりそうです。

あと、この2著をみて思ったのは、野本先生はともかく田辺先生は、この道で一筋で45年もやっているのに、私は、「開発民俗学」とか「アラブ・イスラーム地理書・旅行記」もやるといっている点。

でも私には私にしかできないことがある。この3つは、それ以上の多くの興味(単なる浮気心)を削って絞り込んだものなので、きっちりとやってやりましょうと、改めて気持ちを引き締めています。

ふんどしを締めなおすというか、もうこれだけ投資をすれば、もうやるしかないというところで、ミクシイのコミュも盛り上げていきたいと思います。

といったところで、2つ目の収穫の報告は終わりです。

ではでは^^?

P.S.

mixi「海洋民俗学~海からみる世界」のアドレスはこちらです。(ミクシイのメンバーでないと見ることができません。関心のある方はしばやんまでメールください。)

http://mixi.jp/view_community.pl?id=4578156

ではでは^^?

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2009年10月12日 (月)

「世間知らずはまだ許されるが、世界知らずは罪ですらある」 リトルワールド散策レポート(その1)

昨日、歩く仲間オフ会第1弾である野外民族博物館リトルワールドの散策に‘ひとり’でいってきました。

結局、メンバーが集まらなかったということですが、ひとりだったので、オフ会の‘下見’ということで第0回ということにしておきます^^?

Pict0136

さて、もう10何年かぶりに行ってきたのですが、結論から。

「世間知らずはまだ許せるが、世界知らずは罪ですらある」というのか私の今回のリトルワールド散策で気がついたことです。

どういうことか。

昨今、これほどメディアが発達し、地球の裏側のニュースが瞬時に映像で伝わってしまう現代世界に生きるわれわれは、もっともっと世界に対する関心と責任を持たなければならないということです。

‘世間’があっての‘世界’があるのではなく、‘世界’があるからこそ‘世間’があるのだと思います。つまり、世界、この場合、社会と読み替えたほうがよいかも知れませんが、‘世界=社会’があるからこそ、‘世間=社会規範’があるのです。

特に、若い人は、世間知らずでもいい、というか知らなくて当たり前です。ただ心は‘世界’に開いておいてほしい。

郷にいらずんば郷に従えといいます。‘世界=社会’によって‘世間’の常識は違っていて変わっていて当たり前なのです。

その原理さえわかっていれば、別に日本の‘世間’に生き難さを感じる必要はありません。私は16年間、多くの地域・国で仕事をしてきました。フィリピンにも4年3ヶ月、駐在員として住んできました。

結論は、それぞれの場にふさわしい立ち居振る舞いをせよ。ということです。日本では、日本の‘世間’にあわせる(たふり)をすればよいのです。

まず、前提は、世界は違うということ。それはかなり恣意的にゆがめられたものであることを実感として胆に命じること、というか感じるしかないのでしょうね。実際には。

世界の民族博物館ということで、このリトルワールドには、いわゆる少数民族や極限に生きる人たちの住居が村のごとく、ピンではなく、もう少し広い範囲で復元されています。

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欧米のキリスト教徒という‘異教徒’に征服されて絶滅させられた種族や民族の住居をみると本当に涙がでてきます。

宣教というプロパガンダの元に、いかにひどい侵略と略奪がおこなわれたのか。

独りよがりの‘正義’や‘良心’がいかに、異なる人たちを壊滅まで追い込んでしまったのか。欧米の知識人に、どこまで自分の立っている大本に暴力と傲慢があるのかを自覚して気がついている人がいるのでしょうか。

サイードがオリエンタリズムをいったところで、結局、本質的に自分を絶対安全圏の知的特権階級においている人は、多分、死ぬまでわからないのでしょう。

ともあれ、われわれはさいわい、ほどほどに理知的であり感覚的です。はっきりいって、理知的に論理的にというより感情に流され、日々を生きています。

そんな普通の人の感覚を共有すること。これを、文化人類学者の片倉もとこ先生は、「平のひと」の感覚と呼び、普通の人を、その‘生きる社会そのものの中’で捉えることを提唱されました。

これを、「ホーリスティック・アプローチ」と呼びます。

分断して、細かくして世界するというアプローチは、依然として有効ですし、この日本でも男性的な‘会社’社会では、それなくして回らないのは周知のとおりです。

しかし、‘会社’の逆さ読みが‘社会’ではありません。これは当たり前のことですよね。

‘社会’あっての‘会社’であり、その逆は絶対にありえません。

男の‘会社’に対する女の‘社会’、老人や子供の‘社会’、そういう全ての清濁併せ呑むのが‘文化人類学’や、‘民俗学’的なアプローチです。

あと、リトルワールドで思ったのは、人間、五感を使って‘世界’や‘社会’を見なければならないということ。

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「神々は細部に宿る」といいますが、細かいところに気がつかずして‘人間’や‘社会’の理解はありえません。

野外展示の家屋や、その庭先を見つつ、結局、400枚くらい写真を撮ってしまいました。つまり、それだけ私には‘発見’というか‘気になる点’があったということです。

私が、こういう風景をみて、何を感じたのか。たぶん言われるとあ~あということばかりだと思いますが、ぜひ、‘歩く仲間’達とシェアーしたかったですね。

まあ、今回は‘下見’で第0弾なので、次回の第1回も同じフィールドで開催しちゃいましょう。

11月か12月に実施したいので、関心のある方は、メッセください。

日程を決める際に優先的にご希望を伺うようにいたします。

とりあえず、レポート(その1)ということで。

ではでは^^?

(この項、了)

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2009年10月10日 (土)

いわゆる京大スクールについて<覚書>

最近、どうも京大スクールの地域研究グループのことが周辺で話題になるというが自分の眼の届く範囲に頻繁に登場するので、ちょっとしたメモを残したい。

以前、梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』が私の知的?生活の始まりと書いたが、今、自宅に戻って実際に読書記録の「京大カード」を手に取り直してみると、間違うことない、「1986年12月7日」が000番で、それがまさにこの書名が記載されていた。

もう22年も前のことになる。ちょうど高校2年生の冬の話。確かこれをきっかけに1年間に100冊の本(雑誌を除く)を最初から最後まで読むということを目標にしてやってきたのだが、確かに数年前まで、そのペースを保っていた。(十何年か前からパソコンで読書管理をしてきたのだが、ファイルを壊してしまったこともあって、この数年は記録をしていない。)

57冊目 1987年7月10日 読了 本多勝一 『戦場の村』 朝日文庫 1981

59冊目 1987年7月12日 読了 本多勝一 『殺される側の論理』 朝日文庫 1982

64冊目 1987年7月16日 読了 鎌田慧 『現代社会100面相』 岩波ジュニア 1987

66冊目 1987年7月18日 読了 本多勝一 『殺す側の論理』 朝日文庫 1984

67冊目 1987年7月18日 読了 本多勝一 『職業としてのジャーナリスト』 朝日文庫 1984

68冊目 1987年7月18日 読了 本多勝一 『事実とは何か』 朝日文庫 1984

74冊目 1987年8月26日 読了 岡倉古志郎 『死の商人 [改訂版]』 1962 

ちょっと脱線したが、この記録を見返すとすごい。私の問題意識は、高校時代に既にインプットされていたようです^^?

閑話休題。

私の研究スタイルがどうも京大学派にあるらしいということで、京大の人物列伝。こんな本を読むと京大人脈の一端がうかがわれるのではないかということで、今手元にある内幕暴露的な本の書名をちょっとだけ紹介。

○藤本ますみ 『知的生産者たちの現場』 講談社文庫 1987

※梅棹忠夫氏の秘書による京大人文科学研究所の人物とその現場の空気を伝える。(未読)

○高谷好一 『地域研究から自分学へ』 京都大学学術出版会 学術選書 2006

※京大東南アジア研究センターの創設からを個人の研究史と交えて語る。(未読)

○川勝平太 『文明の海洋史観』 中公叢書 1997

※生態史観-戦後京都学派(今西学派)ということで、唯物史観と親和性の高い東大アカデミズムと対置して歴史観について述べる中である程度詳しく言及している。(未読)

○早瀬晋三 『歴史空間としての海域を歩く』 法政大学出版局 2008

※歴史研究と地域研究の架橋を試み、海域史の構築を試みる筆者のフィールドノート及び書評。京大学派への直接の言及はこの本では控えているが、彼の研究の延長上で、鶴見良行と京大東南アジア研究センターの地域研究に対する強烈な対抗意識があることは本人も明言している。(『海域イスラーム社会の歴史 ミンダナオ・エスノヒストリー』 岩波書店 2003 の「はしがき」を参照)  (未読)

どうも未読の書の紹介ばかりですみませんが、‘フィールド’を重視する地に足のついた「地域研究」と「歴史研究」も視野にいれた「開発民俗学」や「海洋民俗学」を考えるには、(戦後)京大学派は絶対に押さえておかなくてはならないことを改めて確認した次第。

ではでは^^?

蛇足ながら

20年前の学生時代は全く意識していなかったというかわかりませんでしたが、人と人のつながりは特に学問の世界では非常に重要。誰が誰と交友関係があり、どのような学問的な刺激を受けて、また与え合っているか。この人のつながりがみえてくると思考パターンが見えてくるというかおもしろい、ということにようやくこの10年ぐらいで気がつきました。

先行研究や研究者間の交流を調べて読み解くことは後進にとっては非常に重要なことだと思います。

ではでは^^?

(この項 了)

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2008年11月25日 (火)

宮本常一 『瀬戸内海の研究』 初めの一歩として

まず、というか自分の決意として、えいやあと買ってしまいました^^?

宮本常一 『瀬戸内海の研究 島嶼の開発とその社会形成-海人の定住を中心に』 未来社 1965年初版 2001年4月 復刊 第1刷  定価32,000円

でも、誰が買うんだろう、こんな高い本を!?

宮本常一氏、本人が唯一自分の意思で書いたと語る、博士論文となる約700ページの大書、豊橋の精分館書店という愛知県でも1,2を競う大型専門書店に在庫があるのをみて、清水寺から飛び降りる気で、買ってしまいました。

この本は、以前紹介した『宮本常一 旅する民俗学者』 KAWADE道の手帖 河出書房新社 2005年の木村哲也氏の「宮本常一ブックガイド」の18番目に紹介されているのをみてからずっと気になっていました。木村氏の紹介を引用させていただくと、

「前略 ~ 宮本の著作にしては珍しく、聞き書きがほとんど出てこない。そのためたいへん読みずらく、宮本の著作の中では最も読まれていない作品の一つではないだろうか。

しかし自治体の境界によって分断してしまうと見えにくくなる空間を、「瀬戸内海」と設定してその歴史や文化の全体像を提示しようとする宮本の姿勢は、今もって古びていない。ブローデル『地中海』の紹介以前に、同じ試みを宮本が自力で達成しようとしていたことに驚く。 ~後略~」

私は、ブルーデルうんぬんのくだりに引っかかっていました。

というのは、ちょうど私が大学生の終わりのころ、藤沢書店からフェルナン・ブローデルの『地中海』が日本語の全訳として刊行されだしたころで、アラブ・イスラーム学界というより日本の人文科学学界のどこででも非常に大きく取り上げられていたからです。

手元に学生時代に古本でかった第1巻があります。奥付の記述によると初版が1991年11月、4刷りが1992年3月、一冊で定価8800円で、確か5冊モノの大書が半年で4刷りもされたとは、如何に売れたかがわかるというものでしょう。(ちなみに、古本で6500円)

結局、その後、ブローデルの『地中海』は軽装版もでたりして、そのブームは1990年代を通じて続いたのですが、結局、私としては頭の片隅にブローデルがありという感じで常に気にしつつも全然、一行も読めていません^^?

でもまあ、ブローデルの『地中海』を引き合いに出すとは、木村氏も恐るべし。ブローデルと宮本常一の着目点の鋭さと、その違いについては、別の論客も別のところで触れていますが、確か私のうろ覚えでは、「ブローデルの著作は、ウォーラーステインの近代世界システム論に影響したとか、フランスのアナール学派のみならず、哲学や近接の人文科学分野に大きな影響を与えたが、宮本の‘それ’はほとんど日本においては、網野善彦や鶴見良行など一部の亜流?(正確なたとえは忘れましたが)に引き継がれたのみで、ほとんど学界では省みられなかった」というような主旨の発言を、なにかの座談会で誰かが言っていました。(正確なところは後で調べておきます。)

まあどう考えても宮本氏は学界の主流ではないし、逆に象牙の塔の中の人には想像もつかないところまで‘歩いて’いってしまったことを考えるとまあ、それが順当というか、それもまたよしという気もします。

ともあれ、私には宮本のこの論文があるということで、日本の‘実体’という現場から、私の海洋民俗学の探求も始めていこうと思います。

ではでは^^?

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2008年11月23日 (日)

これから「海洋民俗学」をやります 宣言^^? 

転職も一段落して新しい生活をスタートして1ヶ月半になるわけですが、今、海洋民俗学というものを追究してみようと考えています。

「開発民俗学」は、主に地域開発にかかるフィールドワーク論とまれびと論(チェンジエージェント論)、開発倫理学が主体になると思われますが、それと重複するかもしれませんが、「海から見た世界(像)」というのを別途、研究してみたいと思います。

たまさか、マリングッズを扱う卸売り会社に転身したわけですが、実はしばやんと海との関係は浅いものではありません。

「えっ、しばやんって海の男だったの!?」と以前、友人に絶句されたのですが、実は大学ではヨット部(体育会系)でディンギーレースをやっていましたし、就職後はウインドサーフィンも数年やっていました。もう10年ぐらい前になりますが、結局、仕事が忙しくなりマイボードも手放しましてしまって、直接のマリンスポーツからは遠ざかっていましたが、2000年頃から仕事でも東ティモールやフィリピンなどの東南アジアでの出張や駐在も経て、つくづく私と海との縁が深いものだと感じています。

マリンスポーツに興味があるとはいえ、別に戦績とかレースが好きというわけではなく、海という自然に身をおくこと、つまり海との交歓や海から陸地を考えるということが好きなのです。

そうそう、20年前に、そもそも大学でなにかクラブに入るのにあたって、‘山’のワンダーフォーゲル部に入るか‘海’のヨット部に入るのかを迷ったときから、私の海との付き合いが始まったのでした。

今日、名古屋に行ったのを機に、本屋(丸善)でこの分野の本を漁ったのですが、結構、いい本がでているじゃんということで、ちかぢか「海洋民俗学」という分野にも手をだすつもりです。

今回は、前フリだけに終わってしまいますが、これからの展開をぜひご期待ください。

ではでは^^?

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2008年11月12日 (水)

宮本常一+案渓遊地 『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』

出版直後に見かけてはいたのですが、ようやく購入しました^^?

Cci20081112_00000 宮本常一+案渓遊地

 『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』

みずのわ出版、1000円

2008年4月

お薦め度: ★★★★★

一口コメント:

学術的なフィールドワーカーのみならず地域研究や開発援助に携わる人(特に日本人)は必読。

ロバート・チェンバースを読んで感動している場合ではない。

という2つ目のセンテンスは極論ですが、元開発コンサルタントとして、特に開発途上国の開発に携わるコンサルタントなどの実務者に限らずいわゆるお上の人にも読んでいただきたい一冊です。

A5サイズで、事項索引を入れても、わずか118ページのブックレットですが、その訴えるテーマは古くて新しいというか、ずばり「開発倫理」の本です。

歩く民俗学者、歩く仲間の大先輩の宮本常一氏が、1972年に、『朝日講座・探検と冒険 7』に著した小論「調査地被害-される側のさまざまな迷惑」(のちに未来社版 『宮本常一著作集 第三一巻に、「調査地被害」として再録)を第2章に全文を引用して、直接、宮本氏から指導を受けたフィールドワーカー(研究者)である案渓氏が、日本の南の島々でのフィールドワークで体験(経験)した、今なお続く調査地被害、特に調査‘される側’の声をふまえて考察した論文を再録しています。

なお、宮本氏の「調査地被害」という論文については、『歩く仲間-歩きながら考える世界と開発』のブログ(HP)の中で何度も取り上げておりますので、私の立場と理解についてはこちらを参照ください。

>われわれの物語を紡ぐために: 文化人類学への問い。(2005年7月3日)http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00028.htm

>文化人類学の1990年代を振り返る  (2005年7月3日) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000281.htm

>ブームの宮本常一?  (2006年4月1日)http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00030.htm

>人類学者の皆様に ~援助の‘効率化’って何?~ (2007年2月10日)http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog051.htm

>人類学者の皆様に(補足1) ~援助‘する’側、援助‘される’側の認識について~ (2007年2月18日) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog052.htm

>実務者不在の議論(その1) (2007年4月14日) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog063.htm

>実務者不在の議論(その2) (2007年4月14) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog064.htm

実は、3月に日本に一時帰国して、大型書店で平積されたこの本をみたとき、宮本氏の論文の再掲ならば、わざわざ買う必要もないと思ってあえて購入しなかったのですが、今回、案渓氏の論文を読んで、‘いまだに’調査地被害が、日本で続いていることに暗然たる気持ちになりました。

上の私の論考でも触れていますが、今の開発援助に関心のある勉強しているはずの若い人たちの間でも、本多勝一の「殺す側の論理」と「殺される側の論理」の議論についても知らない人が多い。既に時代遅れの二項分類ともいわれていますが、これは、ロバート・チェンバースのいう「アッパー」と「ローワー」の議論と同様以上に重要な概念だと思います。

ともあれ、人文科学を目指す人のみならず、広く(地域)社会に関わろうとする人たちは必読の小冊子です。

そうそう、蛇足かもしれませんが、一言で上記の問題を語れば、

「人として」ということではないのかなとも思います。「倫理」と大きな声でいうものではなく、人の迷惑や痛みを考えることとは、人として当たり前のことでもあります。

それを「学問」や「開発」のためというのを錦のお旗というか言い訳にするのは、どうしたものかと思いますね。あなたも私も社会に対して‘上から目線’になっていませんか。自分への戒めとして^^?

P.S.

別のところでも書きましたが、宮本氏のフィールドワーク論(方法論のみならず倫理を含む広い意味での)を編集した『旅に学ぶ』は、フィールドワークに関心を持つ人はぜひ手元において味読していただきたい論集です。

Cci20081113_00000

宮本常一 『宮本常一著作集 旅に学ぶ』 第31集

未来社 1986年 2800円

お薦め度: ★★★★☆

一口コメント:

ちょっとお値段が高いのがキズですが、どれを読んでも氏の鋭い視線を感じます。現場で何をみればよいのか。

「あるく みる きく 考える」は氏のモットーでもありましたが、フィールドワーカーである『歩く仲間』の必携書ともいえるでしょう。

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2008年6月 6日 (金)

石弘之編 『環境学の技法(Social Methods of Environmental Studies)』

ご存知、東京大学大学院新領域創生科学研究科環境学研究系の研究者(教員)たちによる教科書です。

Photo 石弘之編 

『環境学の技法(Social Methods of Environmental Studies)』

東京大学出版会

2002年4月 初版

お薦め度: ★★★★☆

一口コメント:

元朝日新聞記者の石弘之氏が率いる東大の環境学科の若手先鋭の研究者の作った教科書。発売されてすぐの2004年10月に購入して読んだのですが、さすがに内容の濃さとそのレベルにはうならされました。(もう既に石教授は退官されています。)

ところで1990年代の前半、特に少子化、国際化、バブル崩壊後、日本の競争力にかげりが見えてきたことなど、さまざまな要因の中で、大学や大学院の役割に対する社会的な批判とより現代社会にあった高等教育への要望の高まりのもと1994年に大学改革が行われたわけですが、その時に最も混乱が大きかったのは、一般教育課程と専門教育課程の区別が実質なくなったことでしょう。その中で、いわば一般教育過程の先生だけで学部なりを作らなくてはならなくなって、また上記の社会のニーズにこたえるためにも、かなりの無理な学部の再編成やら混乱が生じました。

その中で、特に時流といいますか時代の要請で、環境学や国際関係にかかるさまざまな学部・大学院の設置が行われたことは特記すべきことであったと思います。

特に、国際開発(関係)学についても、文部省は分野ごとに重点校を置き、1992年ごろから独立した国際開発学にかかる多くの大学院を設置しました。

そのような大きな時代の流れの中で、東京大学も学部・大学院改革を行ったわけですが、東大は、国際開発に関しては、まず大学院に新領域創生科学研究科の環境学研究系をおきました。

つまり「環境学」といいつつも、かなり国際開発学にも眼を配った大学院であるといえます。

この本は、そのような混乱期の日本の環境学・国際関係学の大きな波を一つ超えたところで編まれた本で、今までの日本における環境学の流れと、今後の方向性を示したということで、今後も読み継がれる価値があると思います。

それとおもしろいのが、1994年に先の大学改革に絡んで、東大の教養課程の教科書として小林康夫氏や、船曳建夫氏ら若手教官?により『知の技法』と『Universe of English』など新しいタイプの教科書が多く出され、社会人の間でも非常に話題になりました。私も数冊読みましたが、この本も、多分にもれず「技法」という言葉を使っているところもニクイですね。

目次

はじめに 石弘之・佐藤仁

I 問題を設定する

第1章 環境学は何を目指すのか 環境研究の新たな枠組みの構築 石 弘之

第2章 「問題」を切り取る視点 環境問題とフレーミングの政治学 佐藤仁

II 状況を解釈し、一般化する

第3章 個別現象限りの知見に終わらせない工夫 永田淳嗣

第4章 環境評価と新しい経済モデルの方向性 R.ノーガード

III データを集め、判断する

第5章 環境学におけるデータの十分性と意思決定判断 松原望

第6章 越境するフィールド研究の可能性 井上真

本の横帯に「文系からの直球勝負」とありますが、その名に恥じない内容とは思いますが、実際には執筆者の6名のうちの半分は理系の学部というかバックグランドです。

まあ、逆にいえば、環境学も国際開発学も、文系一本やりでも理系一本やりでもだめというか、コアはもちつつも、双方、もっといえば全てに目配りができないとダメだということなのでしょうね。多分。

繰り返しになりますが、この本は「技法」というかものの考え方に重点を置いているので、そういう意味では最新のフィールド科学の手法や成果を取り入れていますし、「技法」としては、あまり古くならないものを持っていると思います。

そういう意味で、やはり一つの教科書としてお薦めできると思います。タイトルに関わらず、広く国際開発や新しいフィールド科学に関心のある人に読んでもらいたい本です。

ではでは^^?

P.S.

ところで、「技法」について私見を一言。

私は「技法」と「倫理」は別のものだと考えていますし、逆に分けて考えるべきだと思います。特に環境(学)や開発(学)については、どうしても情緒的な感情論に流されがちですが、それでもやはり正確な現状認識としての科学的な、論理的な「思考」や「技法」も必要です。当然、それが全てではないことは言うまでもありませんが、私が思うに、現状認識が一般に甘いのではないかということを、マスコミや有識者といわれる人たちに関しても思うことが多々あります。

また逆に「技法」はある程度の訓練で身につけることができると思いますが、「倫理」感や「思想」そのものは教えきれない(教育で押し付けられるものではない)という側面があると思います。

そのような意味で、東大の一連の「技法」シリーズは、学問の限界をわきまえているというか、その割り切った考え方が好きです。

考え方は教えるけれども答えは自分で考えなさい的な突っ放し方、つまりあえて「倫理」に踏み込まないというバランス感覚は、非常に評価できると思います。

また「技法」というか「技」は、技として常に磨いていないと、いざというときに「現場」で全く使えないのですよね。でも「現場」から「技法」に立ち返るというかフィードバックは当然あるべきですし、「技法」自体も個々人で進化(深化)させていくべきものだと思います。

まあ、私がいうことでもありませんし、まったくの蛇足ですが。

ではでは^^?

(この項 了)

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