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2013年5月19日 (日)

声を上げない被援助者たち

初出: グループ クロスロード・オブ・ハッピネス 2013年5月19日書込



ふと、ブルーハーツの歌と今朝(2013年5月19日)のNHKのニュースでのワンシーンをみて考えました。まずNHKのニュースですが、現代の貧困ということで母子家庭など子供の貧困のことを取り上げて、援助団体の人のコメントや民間支援団体の奨学金を得て1年予備校に通って、つまり浪人して大学に進学した男の子のインタビューがありましたが、その中で、ふと違和感を感じました。


ザ・ブルー・ハーツ 『ザ・ブルー・ハーツ』  泣ける唄が聴きたい!2008年3月31日 (月)


私は開発民俗学を提唱する中で、あらゆる人たちがそれぞれの場所で自分を卑下することなく胸を張って生きていけることを、まずの目標としているのですが、これは一般的なロールモデルにあった落ちこぼれ?をつくらないという方向性ではありません。どんな職業であれ、どんな学歴であれ、どんなハンディキャップを持っている人であれ、それぞれに社会における持ち場があるのであり、どんな職業についていても人間としての尊厳をもって自信をもって生きていける世の中、それぞれ不完全な人間が、自分の持っていないところは人に助けてもらい、自分の持っているもので他の人に貢献する、そんな相互扶助が当たり前にできる世の中、そうであるべきとまでは言い切れませんが、いろいろなものさしが多数当たり前に存在する世界であってほしいと思っています。


なにかいま援助する側だけの熱い?想いばかりがニュースになって、では本当に困っている人は、どんな努力?をしているのというところが見えにくいのです。


貧困の定義自体をきちんとしなければというところもありますが、本当に貧困者が困っているのか、客観的とか、援助する側の想いはともかく当事者がどうしたいのかがわからない、そんな気がします。


思えば、1980年代も積み木くずしとか家庭崩壊、不良、いじめ、不登校いろいろ問題はあったはずです。


でも、なんかそんな不良な中学生や高校生を、それはそれとして取り込むだけの社会があったと思うのです。そんなやんちゃな人ほど、世の中の厳しさにあってまとも?な社会人、いや人として今を生きていると思うのです。


人生に浮き沈みにあることは当たり前のことで、人の一生においても貧困ラインは一定ではありません。確かに、その‘とき’というものは大切です。しかし、そんなに恵まれた人たちばかりではありませんし、みな思うようにいかないつらい時期を絶対にもっていると思うのですね。


結局、援助というものは、人間としての試練の場を奪っているのではないか。


そのときは大事です。でも人生、なんどでもリベンジできるのだし、みな働きながらお金をためて学校に入りなおしている人も何人でもいるのではないですか。


ふと、国民皆徴兵制を復活させるべきだという政治家が、この10年ぐらいのしていることを思い出しましたが、それとは別に、当事者自体が気付くことがあるだろうし、徴兵令や援助(支援)の網とは別にそれぞれが自分にあった人生を生き抜く力をつけてほしい。


そのために、いろいろな立場の人たちの経験をシェアすることが、まずは大切だと思います。


いま、大学生や若い人の間で、世界の途上国で小学校を建てることがはやりのようになっています。そもそも政府の事業の青年海外協力隊も、日本の青年教育の一環であるといってもよいでしょう。


ちいさな達成感や、貢献している感は、大切です。


でも本当の教育とは、学校という箱があっただけでは解決しない問題が、教室の周りにいくらでもあることを若者は知ることでしょう。


それを知ることが、彼らのためのではなく、自分にとっての学びであることにやがてきづくでしょう。


とにかく、今は何でもありの時代です。さまざまのアプローチの仕方があってもいいし、なんでもできることをやってみることは大切です。


人と人が会うことにより、なにかが生まれる。


その中で、さまざまなドラマやモノ、コトが生まれてきました。


ただ、やっぱり言いたい。


本当に当事者は、なにを思っているのかと。
本当に叫ばなければならないのは、まわりの‘ものわかりのよい’大人のサポーターじゃないだろう。


もっと世界に対して自分の気持ちを声を出してぶつけてみろよ。ブルーハーツみたいに!


ブルーハーツだって、何の役に立ったのかはわからない。でも、声を出すことによって、その声を聞いた誰かが何かのアクションを起こしたのかもしれない。


わたしは、最近、アイドルの松田聖子さんをだしにして、大衆文化論に取り組んでいますが、世界を動かしているのは、一部のトップの人ではなく、まちがいなくその他大勢の‘平の人(by 片倉もとこ)’であることを確信しました。


そして大体において、その平の人のセンスや感覚は間違っていない。ただ、うまくベクトルがあっていないなと思うことはあるわけですが^^?


ともあれ、実際の現場でそこにいる人が何を考えているのか何をみているのか、そして、何が見えていないのかについて一緒に考えるための手助けをするのが開発民俗学であり、学問的な‘技法’です。これは自分で自分の足元を見つめなおすためのもので、学者さんやサポーターはいりません。


自分で考えて動く、身のまわりの何かを変える、そのための道具となるべきもの、そんなものを提供していきたいと思います。


いや、それぞれ、みなさんから提供してもらってシェアする場をつくること自体が私の課題ですね。


他の人が、どのように学問と関わっているのか、関わっていこうとしているのかは私にはわかりませんが、自分にとっての学問とはそんなものであってほしいと思っています。


ではでは^^?

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