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2013年5月21日 (火)

<国際開発学会発表に向けて 覚書>

<国際開発学会発表に向けて 覚書>




さて、レジュメを先に提出してしまったものの、パワーポイント資料をどうしようかと考えています。


提出した資料から、それほどは内容が変わることはまずいだろうと思いつつも、一体、自分は何が一番いいたいのだろうかと考えてみました。


まず、発表自体の制約条件から。


発表の時間が、ひとり20分で質疑応答をいれても30分。
かなり駆け足でやらないといけない。・・・ つまり脱線している余裕はない。

本当は、個々の事例の積み上げなのですが、プロジェクトや事業の背景を説明している時間がない。

となると、この発表では、ものの見方や抽象的なモデルの提示だけでもよいのではないか。つまりフレームワークの提示をする。

↑ う~ん。フレームワークに対して嫌悪感をもつ私自身が、フレームワークに逃げ込む?とは!


フレームの構成(案)


1.地域の重層性


1.1 例えばスクールマッピングなど、広域の地域開発計画を立てる場合、村落や集落名のリストから、机上で計画を立てる場合が多い。

それは、実際の地理的な条件や制約についての考察がない場合が多い。
(そもそも地図がなかったり、河川域については季節によってボーダーが容易に変更になる。山村部では、自然の障壁(谷川でアクセスできないなど)が、村落リストだけではわからない)

1.2 移住民の植民地の場合、過去の地域の歴史について断絶がある。また土地の所有権がはっきりしない。それがゆえに土地の所有権、利用権について複数の当事者の間で揉め事が起こりやすい。それを調整するのに時間がかかったり、後々の災難を防ぐために、その地域での事業に手がつけられない。


2.不在地主やその場にいない避難民の土地や事業への参加をどうするのか。

2.1 そこにいる人だけできめていいのか。外部者には、現場の人間(グループ)関係がみえないため、特定のグループにのみ加担してしまう場合がある。

2.2 外部者がいないときのプロジェクトの管理ができない。勢力地図が変わることによりプロジェクトが台無しもしくはゼロに戻ってしまう危険性が常にある。

2.3 影のモラルや社会構造に外部者は気がつかない。

鶴の一声はどの世界にもありうるし、真の実力者がわからずにモノごとを、とりあえずその場にいる人たちだけで進めがちである。

2.4 その場で当然のように排斥されている人たちの存在に気がつかない。

なぜなら現地のマジョリティにとって、それは当然のことであるから。その場に居合わせる必要性も感じないし、いなくても全く違和感はない。そのことを外部者は気がつかない。

2.5 いなくなった人たちのことは誰も語らない。


3.ローカルコンテクストが読めない。

3.1 当然のように援助を受け取る人たち(ただし、もらったらそのまま捨てている)

3.2 現場の人たちが求めるものを提供できない外部者。

外部者は自分がもっているもの、自分の力でできることしか現場に提供できないと考えがちである。もっと柔軟に、現場にあったものをほしいものを与えるもしくは共に開発することができないものか。

3.3 あとは野となれ山となれでもよい(場合もある)

外部者がいなくなったあとでも、ひとつのプラットフォームが残ることにより、残ったそのプラットフォームのマンバー間のやり取りで、新しいプロジェクトが生まれることがある。それは、直接的なプロジェクトの効果ではなくとも、間接的な効果であると評価できないものだろうか。


結論:

プロジェクトそのものの成否より、プロジェクトのために集まった者たちの間で、なんらかのアリーナ(場)ができればよいのではないか。それをつくることにもっと力を注ぐべきではないか?

う~ん。全然、まとまっていない!

明日、また考えよう!


ではでは^^?

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