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2012年1月

2012年1月30日 (月)

複合生業論の開発現場への適応可能性について<理論各論>

というテーマをmixiの開発民俗学-地域共生の技法ーで綴っています。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=49412237&comm_id=2498370

そのトピックへの最新の書き込みです。
私は、ミクシイのコミュニティのほうが継続的に分類を立てて記事を掲載できるので、そのスタイルシートが好きです。
フェイスブックではどうも情報がウォールを流れてしまうので、もし関心のある方がいらっしゃいましたらミクシイの
コミュをお尋ねください。

ではでは^^?

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ひさしぶりにこちらのトビに書き込みします。

本当に、いまさらなのですが、宮本常一さんの『生業の歴史』 未来社 1993 をゲットしました。
http://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E5%8F%8C%E6%9B%B8%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E8%A1%86%E5%8F%B2-%E5%AE%AE%E6%9C%AC-%E5%B8%B8%E4%B8%80/dp/4624221079

最近、徐々に少しずつ読み出したところなのですが、非常に考え方がおもしろい。

なにか常一さんって、歩く民俗学者など、‘歩く’ところばかりが強調されていますが、実は渋沢敬三宅のアチックミュージアムという巨大な資料館に寝泊りして古今東西の書籍や民具に囲まれて研究を続けた人で、私は実は‘歩く’ばかりでなく、めちゃくちゃ‘読んだ’人でもあると思います。これは、宮武骸骨氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E5%A4%96%E9%AA%A8) や南方熊楠氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0)にも通じるところなのですが、この3名はまさに図書館・博物館に住み込んで、そこを拠点に研究を行なったのでした。(骸骨は東大法学部の明治新聞雑誌文庫、南方氏は大英博物館東洋調査部)

つまり歩く以前に文献調査も抜かりなかったということで、なんていうのだろう、過去の(研究)蓄積と現場でのフィールドワークを掛け合わせたところで新たな理論構成というよりむしろ埋もれていた‘事実’の発掘と再構築をおこなったという評価ができるのではないかと思います。

この生業の歴史も、宮本常一さんなりの歴史‘理論’構築で、今の研究水準からすれば抜けや漏れもあるはずなのに、不思議とリアリティがあるというかさもありなんという気にさせられてしまう不思議な本です。

研究者には、資料の全体をみて(埋もれてしまった)絵やストーリーが見えてしまう‘ヒラメキ’タイプと資料の抜けや漏れが気になって、さらに埋もれているであろうミッシング・ピースを埋めようとする‘重箱’タイプと、極論、二つにわかれると思うのですが、当然、どちらも大切ですが、私としてはある程度の資料をもってストーリーを活き活きと描いてしまうタイプのほうがスタイルとしては好きです。

当然、抜けや漏れは少ないに越したことはないですが、ストーリーやビジョンを示したほうが、他の人も協働がしやすいし、より深いところにいけるのではないかと思います。

かなり脱線しましたが、この本は、そんな常一さんのヒラメキの書であると共に、その視点や考え方について非常に学ぶところの多い問題の書であるといえます。

詳しいレビューは別途、書く予定ですが、現実の‘事実’から過去の歴史に学び推理を重ねる。フィールドから考えるとはどういうことかを、改めて考えさせれました。

ではでは^^?

(加筆) 2012年1月29日

人と生活=なりわい(生業)?

今、宮本常一さんの『生業の歴史』を読んでいるわけですが、彼のアプローチでいつも感心するのは、具体的な人やモノから考えるということ。生活者の感覚というか上からの目線ではなく、具体的な人々の生活から問題を提起するところに秀逸性を感じる。よく政治家の生活感覚のなさが問題になるが、学者もそうではないか、理論や理屈から入るとどうしても非現実的な数字や概念が一人歩きしてしまう。ホンマにそうなのかということで立ち止まらなくてはならないはずなのに、何か‘リアル’にかけた‘数’や‘規範’にしばられて具体的なものが見えなくなってしまっている。当たり前のことが当たり前にいえる世界、これは簡単そうで非常に難しいところ。でもよくもまあこれほど具体的な話を拾ってくるというか、どういうアンテナをしているんだろう!と思います。今となってみると昭和も遠くになりにけりということで、常一さんのみた大正、昭和が遠くなりつつあるのもまた事実。まあ、それはそれとして‘今’を語り‘書く’ことが未来の‘歴史’になるということ。今の平成に起きていること、2012年に起きていることをその時、その場で書き留めること。それが未来のヒントになる。民俗学も学問も全て未来のためにある。そんなことを考えつつ、彼(常一さん)のまなざしに想いを重ねます。民俗学の可能性は、今の‘現実’と‘人’と寄り添うこと。こんなことを考えつつ^^?

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2012年1月22日 (日)

【es006】開発コンサルタント=コンサルティング・エンジニアとは?

初出: facebookページ 歩く仲間 2012年1月22日

http://www.facebook.com/#!/note.php?note_id=354994207861258

まず、開発コンサルタント論から始めたい。

今でこそ、開発援助業界自体が人気業種?となっていることからか、国際開発ジャーナルなどの業界紙による年刊の『国際協力ガイド』などが大手書店では平積みされているような状況であるが、それでもやはり「民間」というところが怪しげでかつわかりにくさを助長している。「開発学」を学んでいる学生(院生)ですら、開発コンサルタントってなんやねんという状況である。

2004年当時の現役院生とのやりとりはこちらを参照。

対談・開発コンサルタントとは? 2004年6月1http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc000.htm

また、コンサルタントという言葉自体もこの10年くらいで非常に人気がでてきて一定の意味を持ちつつある。つまり経営学系のMBA資格の人気と共に、欧米の戦略系の経営コンサルタントや、インターネット時代を受けてのITコンサルタントなどが先に知名度を上げてしまったために、逆に、シビルエンジニアリングの開発コンサルタントと、どう違うのという問題がでてきている。

おおまかに言えば、「コンサルタント」であるからには、やることや本質はたいした違いがないはずである。しかし、そのような経済や経営やIT系のコンサルティングファームと日本の開発コンサルタント会社との決定的な違いは、どのような‘技術’を持っているのかという点に集約される。

つまり、日本の古くからの(といっても第二次世界大戦後であるから50から60年)老舗で大手の開発コンサルタントは、ほぼ例外なくコンサルティング・エンジニア、つまり技術士の所属する科学技術系の設計・調査の会社である。

先の対談でもふれたことであるが、その一部を下記に引用する。

「回答(1-1) しばやん  2003/08/09

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc005.htm 

「まず、そもそも日本における開発コンサルタントについて説明しますと、例えば、端的にもうしますと、国際協力事業団*1(JICA)という組織がありますが、JICAに、コンサルタント登録している日本の民間法人(会社:数千名~数人まで規模をとわず)、約1,500~2,000近くあります。(これらの会社の一覧は、JICA本部のJICAプラザで閲覧できます)そのうち、実際に、JICAから業務を受注している会社は150~200くらいです。たぶん契約額売上の上位50社で、JICA業務の60~70%を占めているのではないでしょうか。

そもそも、日本の開発コンサルタントの歴史は、第2次世界大戦前に母体を遡れる会社がいくらかあるとしても、ほとんど全ての会社が、戦後に土木建設部門の戦後復興のための公共事業、例えば、黒四ダムや、新幹線、愛知用水、名神高速道路などは、世界銀行の借款として、技術者の大きな発給もととして、農水省や建設省等のエンジニアも交えた技術者集団が、アメリカ等、先進国のエンジニアリングを学んで、卒業というか、いわば独立して民間会社としての礎を固めました。

つまり、社会公共財(インフラ)といわれている公共事業の調査・計画・設計・調達・工事監督を行ってきたのが、日本の開発コンサルタントなのです。

このコンサルタントの仕事をするためには、技術士という国家資格(現在20部門)をもった技術士が一定の基準で所属していることが必要で、つまり旧来の日本のコンサルを建設コンサルタントというゆえんです。

そして、建設コンサルタントは、ほとんど例学なく日本国内で官公庁の仕事(公共事業)の設計等を行っており、その売上の、5%~30%等、会社の余力をもって、海外事業、ほとんどが、JICAや国際協力銀行(JBIC)の仕事を行っているのが現状です。(日本のODAより競争の厳しい世界銀行などの国際金融機関や国際機関の仕事を受注できる実力のある日本のコンサルは、ほんの数十社しかないのも事実なのです。)

注:*1 2003年10月1日より「独立行政法人 国際協力機構」となる。ただし、英語名の’Japan International Cooperation Agency’は変わらない。

回答(1-2) しばやん  2003/08/09

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc006.htm  

果たして、どのような経歴の人がコンサルタントなのかは、上記をみればわかるように、そもそも論として、理系の技術者が圧倒的におおく、多分昔から修士以上の学歴の方が他の職業に比べて多かったのではないのでしょうか。多分、私の直感的なつかみですが、経理や営業や会社の管理部門のスタッフを除いたいわゆる専門家の70~80%が、技術的なバックグランドをもっており、国内の公共事業で実務経験を俗に8年~10年ぐらい積んでから海外要員として、海外の開発の仕事に携わるようになってきたのが、10年ほど前までの(ある意味では今でもですが)内実であったと思います。

しかし、1992年ぐらいを境に、日本国内でも、社会開発分野の開発学関係の学部や大学院が相次いで設立され、それらの社会科学系の人たちのコンサルタントへの入社が増えてきたと思います。(それまでは、経済学や政治学系の一部の人たちが、経済効果をはじくとか、今思えば限定された部門での需要を満たすために、やはり昔から一定数の専門家は必要とされており、経済学や財政学専門のコンサルタントもあるにはありました。)

今、多分、文系の開発学系の方が想像する社会開発専門の日本のコンサルタントというのは、社会の需要の変化により、約10年から15年ほど前から、どんどん設立されてきていますが、ほとんどが小規模(数名から数十人程度)で、実力のある会社は限られているのが実情です。

最近はやりの経営コンサルタントやITコンサルタントの、日本のODA参入は、たかだかこの10年くらい前からのことではないかと思います。

詳細に入れないこともないのですが、まずは実情として、以上を報告します。」

引用終わり

したがって、社会科学系の開発学を学んだ学生にとっては、一体、日本の開発コンサルタントって何って思うのは当然であろう。はっきりいって、職業分類で言えば「その他サービス業」であり、「建設業」の一部門という言い方もできるのが日本の開発コンサルタント会社なのである。

だから国際開発学とか公共経営・政策分析とかいう分野は、‘いままで’の開発コンサルタント‘会社’では必要とされてこなかったし、今でも大きな重みはおかれていない。

なぜなら、そのような‘文系の知識や学問’は、クライアントである‘国’や‘国際機関’のオフィサーが‘考えれば’よいことであり、技術屋である開発コンサルタントは、言われた‘全体構想’にそってその‘一部’の主に構造物を作るための専門家集団であるからなのである。つまり餅は餅屋といったもので、開発コンサルタント会社に政策通や理論家や学者は要らないということになる。

というのは、極論でもあるし、現実にそのようなバックグランドをもった社会開発の専門家、しかも若手が開発コンサルタント業界に参入している以上、開発コンサルタント業界自体も変わっていかなくてはならないし、内部から変わっていることも事実である。今(2012年)の時点で、ぎりぎり50歳半ばくらいの開発コンサルタントならある程度は開発‘学’というものに理解があるかもしれないが、それ以上の世代にとっては開発学ではなく開発行為の‘実践’つまり具体的なプロジェクト(しかも構造物)の実施(建設)こそが開発であるという考え方をすると思う。

つまり参加型開発やプロセス重視の住民参加とかが問題や課題なのではなくて、何がアウトプットとして‘できるか’ということが全てなのである。何が、モノとしてできたか、ここに開発コンサルタント会社の利益関心があると言い切ってしまってもよい。

技術的な開発コンサルタントの存在意義というか仕事の目的は、一言でいえば、「モノを作ってなんぼ」のものであり、それが開発NGOや学会の関心と真っ向からぶつかることは最初からわかりきっていることである。そもそも向いている方向が違うのだから。

確かに日本のODAが60年を迎えようとしている今では、「モノを作ってなんぼ」という考え方自体が許されないことは当然のことかもしれないが、その「モノを作って」というところの、いわば開発実践における苦労について、もっと注目をされてよいはずだし、アイデア(考え)を具体的な‘モノ’として仕上げるという‘プロセス’そのものについて、もっと敬意がはらわれてしかるべきなのではないか、というのが、私がこのプロジェクトを立ち上げた大きな一つの動機となっている。

ビジネスの世界では、‘成功して当たり前’であるとされるが、その‘当たり前’とされることを実現するためにどれほど多くの人の知恵と努力が隠されているのか、そこにはとてつもない‘なにか’がある、あったと考えるのは当然のことではないか。

‘当たり前’の裏側にあること、これは、別に開発援助の世界に限らず、あらゆる生活の局面においても忘れてはならない視点であろう。当たり前を当たり前とさせている技術や努力、創意工夫など、それこそ‘知る人ぞ、知る世界’が、どんな単純で簡単そうなことの‘裏側’にもある。その裏側に、徐々にスポットライトを当てていきたいと考えている。

とりあえず、ここで、開発コンサルタントや開発援助の実態にせまる参考となる本を挙げさせていただく。

○ グレアム・ハンコック著 武藤一羊監訳 『援助貴族は貧困に巣喰う』 (Loads of Poverty) 朝日新聞社 1992(原著 1990)

今での一定の真理はあるだろうと思われる国際援助‘ビジネス’を扱ったジャーナリスト・グラハム・ハンコックの告発の書。基本的に欧米の世銀システムと二国間援助を扱っており、その大筋は今でも変わっていないと思う。ただ非常に残念なのが、座談会で日本の援助に触れているところ。これは半分は当時の認識としては、間違いではないにせよ、やはりNGO(PARC)とかマスコミ(朝日新聞社)という一方的な見方であるということ。きちんと政府関係者(ODA推進側)と対話があったのかというのが、1980~1990年代のNGOやマスコミに対する私の評価である。つまり、どちらもが自分が見たいとするコインの一面しかみていない。両者間の建設的で具体的な対話は、正直なかったのはないかと察する。結局、1980年代終わりのODA批判は、NGOやマスコミが散々騒ぎ立てて、政府関係者や開発コンサルタント自体は口を堅くつむぐという結果に終わったのではないかと思う。つまり、本質的な議論はなかったことと同じではないかと思う。なぜ、議論が成立たなかったについてもこの講座で明らかにしていきたいと考えている。

そこらへんの日本の開発援助を巡る言説を分析したのがこちら。

○北野収 『国際協力の誕生-開発の脱政治化を越えて-』 創成社 創成社新書46 2011年2月20日

最近、たまたま本屋で見かけてよくまとめられているなと感心した。まだ読了していないが、、日本人の国際協力や開発援助を巡る思想について、具体的に今までのテクストを読み解き説明している。また、視点に客観性がある点に好感が持てた。まず、ここら辺から始めるのがいいのかもしれない。

○コーエイ総合研究所編 『国際開発コンサルタントのプロジェクト・マネジメント』 国際開発ジャーナル社 2003

日本の開発コンサルタントのトップ企業が、いわばその手の内を明かしたプロジェクトマネージャー養成のための教本(マニュアル)。当然オフレコの部分には触れていないがそれでも日本の開発コンサルタントのレベルがわかる唯一の本だと思う。

○橋本強司 『開発調査というしかけ-途上国と開発コンサルタント-』 創成社 創成社新書27 2008年10月10日

現役の開発コンサルタント、日本でも有数の地域開発のプロジェクトマネージャーの一人の橋本さんの開発コンサルタント論。開発調査については、別途、この講座でも取り扱いますが、そのODAの援助行政の中における位置づけと、いわゆる開発コンサルタント的な発想方法について、豊富な経験と持論を展開している。開発コンサルタントの論客の一人。

○森田裕之+21人の野武士たち 『技術士 独立・自営のススメ』 早月堂書房 2005

たぶん、手に入れることがとても難しいと思うので、もし図書館かどこかで手に取る機会があれば見てほしいのだが、技術コンサルタントの技術士協同組合の理事長の森田氏の「技術士」という職業に関するエッセイ集。日本の技術士が企業でサラリーマンとして働いている現状に対して、そもそもの‘コンサルティング・エンジニア’のあり方についての持論を展開している。学問的な本ではないですが気楽なエッセイとしては楽しめます。直接、開発コンサルタントとは関係ないですが、コンサルティング・エンジニアの考え方というかあり方については、私も目からうろこでした。

こんな感じで、開発コンサルタントについての知識を仕入れつつ、徐々にその実態に迫っていきます。

今日はここまで^^?

この項、了

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【es005】そもそも‘開発コンサルタント’とは? 開発援助‘業界’と開発コンサルタント論

初出: facebookページ 歩く仲間 2012年1月8日

http://www.facebook.com/#!/note.php?note_id=344282068932472

開発コンサルタント論、これは非常に簡単であると共に非常に難しいことであるといえる。

まず、なぜ簡単なのか。それは開発援助の実務の世界では自明のことであり、特に開発援助‘業界’の内部者にとってはいわずもがなの最重要なステークホルダーのひとつであるということ、ただし、その全貌についてどこまで開発コンサルタントといわれる人自体が理解しているかについてはかなり個人差があることは否定しないが、ともあれ‘あたりまえ’のものであるのだが、やっかいなのは後者。具体的には、国際開発学研究者と国民、両者における‘開発コンサルタント’に対する理解は、ほぼ絶望的に薄く、そもそも‘社会的’に認識されるにいたっていないのではと思うような局面すらある。

日本の社会と開発コンサルタントとのかかわりについて、私見の及ぶ範囲で説明させていただくと(筆者は1970年生まれ)、見えない存在から、露出したかと思えば、1980年代後半のODAバッシングの渦中で、発展途上国の貧しい人たちの役には‘ほとんど’たたないばかりか、貧しい人たちや少数先住民を抑圧し追い立てるような巨大開発で、一部高官の私財の蓄積に貢献?し、独裁政権や軍事政権を‘公に’支えたダーティーな日本の資本主義の尖兵である商社、建設業者、メーカーの、さらに奥に影に隠れたフィクサー(暗幕)もしくはブローカーみたいなものとしてで、確かに直接にマスコミや政治論争の場に引っ張り出されることは少なかったと思うが、非常に怪しげで訳のわからないものというイメージが定着してしまった。いや、その後に及んでも‘存在’すら表立って認められなかったというほうが正しいであろう。

私は自分自身のこととして鮮明に覚えているのであるが、1992年に開発コンサルタントに就職が決まったとき、大学の恩師から、怪しげなブローカーみたいな職種について気の毒がられたという記憶がある。正確な言葉は覚えていないのであるが、へんなところに入ったねえというようなニュアンスのことを言われた。

この日本の一部の識者によるODAバッシングの経緯とその後についても、もう30年前の歴史的な‘事実’としてきちんと検証しなくてはならないと思うが、ともあれ1990年代の当初は、開発途上国の開発を仕事にするなんてとんでもないという風潮が大学人にはあったことは明記しておくべきであろう。

それは、そのまま当時から現在にいたる‘学界’そのものの立ち位置と決して無関係ではない。

国際開発学会が創立20周年を数えるが、果たしてここに所属する研究者(学生会員を含め約2000名)の何人が、開発援助業界と開発コンサルタントについて‘正しく’知っているのであろうか。

何が‘正しい’のかも恣意的なものかも知れないが、事実として最低限押さえておくべきことは、開発コンサルタントとは、欧米流に言えば‘コンサルティング・エンジニア’、日本で言えば‘技術士’という国家に認証された‘エンジニア’の開発専門家であるということである。

いやこの20年間の参加型開発に見られる草の根アプローチの開発現場では適正技術や人類学や社会科学系のバックグランドをもった開発フィールドワーカーに注目が集まっていて、それこそ、開発のプロフェッショナルと思われている風潮があるが、いえいえ過去もこれからも開発コンサルタントの主流は‘エンジニア’に代表される‘技術’をもった専門家である。

この研究では、‘開発コンサルタント’そのものについても、開発援助研究のなかの非常に大きなポーションを占めるステークホルダーの一つとして分析を進めていく予定である。

ともあれ、開発援助‘業界’そのものが、一般の人には見えづらくわかりにくい。特に、この研究は、国際開発学会に所属するような(専門的な)研究者に、業界と、開発コンサルタントというものについて理解してもらうことを目的の一つとしている。

そもそも私の「歩く仲間」プロジェクト自体が、一開発コンサルタントが直面した‘世界’と‘開発’をめぐる情報発信であることを思えば、どの講座やエッセイを読んでいただいても、一つの開発コンサルタントのフィルターを通った世界認識論であることに気づかれるであろう。

とりあえず、まとまった言及として下記の2つの記事に目を通していただくことをお願いいたします。

対談・開発コンサルタントとは? 2004年6月1

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc000.htm 

‘開発民俗学’への途(第1部)連続講座> 2000年7月15日~2008年1月27日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm 

この項、了

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2012年1月 8日 (日)

【es004】開発コンサルタントの聞き語りによる日本の開発援助研究(仮題)について - 前口上 -

初出: facebookページ 歩く仲間 2012年1月7日

http://www.facebook.com/#!/note.php?note_id=344013755625970

いよいよ中身に入ろうと思うのだが、いささか私的な話から始める事をお許しいただきたい。

私は、1992年に大阪外国語大学のアラビア語専攻を卒業しているのであるが、もともと人文地理学に興味があって、しかも現代の歴史や政治にも関心があった私は、大学という何をやってもよいという身に余る自由に道を見失いかけていた。今思えば単なるバカ?であるが中学生時代(1985年)にたまたま市の青少年施設(太陽の塔)のイベントで見かけた原爆の映画(人間を帰せ)に魂を被爆した私は本気で外交官にでもなってアメリカとソ連を握手させることを夢想していた。しかし時代の進むのははるかに早く、それからわずか数年後にはドイツのベルリンの壁の崩壊や中国の天安門事件、南アフリカのマンデラ大統領とアパルトヘイトの廃止、ソ連の崩壊など、あれよあれよという間に世界は激変し、私の夢はあっけなく現実に叶ってしまった。のであるが、その後の第2世界なきあとの世界の混乱については、だれもが知るところであり改めて言うまでもないであろう。

大学時代に学内の外交官の勉強会に入ってやろうと思ったが、あえなく挫折、結局、欧米の国際法などのなりたちというか枠組みのいい加減さというと誤解を与えるが、ギリシアとローマの伝統は中世でイスラーム世界を通じなければ現在まで継承されていないのであるが、それをすっ飛ばして西欧の歴史に接木する無節操さにあきれて、こんなバカなルールは認められないというのが、当時から今までの西欧ルールに対する基本的な私のスタンスである。今、世界中のいろいろな局面で、開発の世界も例に漏れず、‘民主主義’とか‘民主化’とかいわれているが、これほどうさんくさい言葉はないというか、それぞれの地域事情を考慮せずに言葉だけが独り歩きしていてしかも迷惑を与えている言葉はないであろう。

ともあれ、世界の激変の中でアラブも例に漏れず、イライラ戦争(イラン・イラク戦争)が終わったかと思えば湾岸戦争が勃発し、行く場のない私の唯一の希望であったエジプト留学も流れてしまった。そんなときに出会ったのが、飯塚浩二の「東洋史と西洋史のあいだ」岩波書店 1963という本で、中世のシチリア島の特異な位置付けについて、非常に明確にわかりやすくしかも楽しく解説していた。今でも、この知的な興奮はわすれられないであろう。留学もできないし現代的な問題をやってもダメだから中世史をやろう、これならアラビア語の知識も、そもそも好きなアラブの旅行記や地理書の研究もできるし、ということで中世シチリアにおける寛容の精神や共生のあり方について研究しようと思ったのであるが、わずか半年の浪人期間のみであえなく挫折。浪人中にとりあえず就職活動はしておけという親の指示で、やむなく始めた就職活動もことごとく落とされ(説明会にいってもそれ以上先に進めなかった)泣きついたアラビア語の主任教授である池田修先生の推薦を受けた某一部上場企業の役員面接で落とされるという前代未聞の不祥事を起こしつつも、結局、やはり自分の関心のあることでないとダメだと国際協力関係の役所などに絞って就職活動を再開、たまたま行った国際協力センターの説明会後に送っていただいた国際協力ジャーナルの1992年のリクルート特集号、これに載っていた開発コンサルタントの見開き2ページのダイレクトリーにあった三祐コンサルタンツにたまたま拾っていただき開発コンサルタントの門をたたいたのであるが、そもそも国際協力業界のことなんて、全く回りに先輩もいなくわからずに、本社が名古屋で農業関係というだけで選んで電話して3回の面接だけで通ってしまったという超裏道というか裏門から入ったようなもので、ちゃんと正規に試験や面接をやっていたら当時でも今でも絶対に雇ってもらえなかったであろう。

結局、私は、開発コンサルタントがなにであるか何も知らずには業界人となったわけで、もともと開発論者でも反開発論者でもない。あえて言えば、もし開発が避けられないものであれば、少なくとも現地の人に対する悪影響を少なくしたい、といった程度の事なかれの日和見のスタンスである。そもそも‘開発途上国’に関心があったわけではなく、自分の知らない広い‘世界’が知りたかっただけである。

確かに、1985年のバングラデッシュの飢餓に対する英国のバンドエイドやエチオピア難民に対するUSA for AfricaのWe are the world、日本でのネグロスキャンペーンなどのさまざまな開発途上国援助のためのプロモーションに関心がなかったわけではない。

だか単純に‘貧しい’とか‘かわいそう’とか、「恵まれない子供たちに愛の手を」などという陳腐なキャッチフレーズに流されるほどおセンチでも初心でもお人よしでもなかった。中学1年生の時に出合った原爆のドキュメンタリー映画をきっかけに、中高校生のときにはまったのは本多勝一の「戦場の村」といか「中国の旅」、極めつけは「殺す側の論理」とか「殺される側の論理」など一連の朝日文庫のドキュメンタリーシリーズとか、岡倉古志郎の「死の商人」(岩波新書)とか、フィクションよりむしろノンフィクションのルポルタージュとか新書とかであった。結局、小中高から今まで小説はほとんど読まない。小説より事実は奇なりという事実は、いくらでもあります。本当に世界をいろいろみてみると^^?

まず基本的に私は開発援助業界に身をおいたものの、業界を弁護する立場でもないし、中身を知らずに批判するという無責任な立場でもないというのが今のスタンスである。

ただ、中に入ったら入ったで大変でした^^?右も左もわからないとはよく言ったもので、特に困ったのが日常業務と開発援助の‘崇高な’目的なりが全く結びつかなかったことである。民間企業である開発コンサルタントは、当然のことながら営利企業であり、ちょっと知的ではあるが組織であり、やること自体は調査も設計も施工管理も、はたまた日常の細かな日常業務も、いわば全て金儲けのための‘仕事’であり、どこの企業でも、大規模であろうが中小企業であろうが、ひたすら繰り返すルーティン・ワークでしかないのである。

開発援助の最前線で、‘貧しい’?人たちのために、僕は私はがんばっているだという充実感は、少なくとも東京でのオフィスワークを見る限りは‘ない’。

結局、要領も悪く社会性のない私は普通の人が1年や遅くとも3年でわかることや簡単な作業でさえ、なんとなく自信をもってこなせると自分で思えるようになったのは、入社して7年とか8年かけてやっとこさ、人の半人前、同期は遥かに先の業務をやっているという状況であった。

いや、正確にいうと文系で語学系の私みたいなポジションの先輩は10年上の東京外国語大学のドイツ語卒の先輩ととふた周り(24年)の大阪外国語大学のタイ語の先輩がいるきりで、会社の本業である農業や水資源関係の技術者や経済畑のいわゆる技術系のエンジニアとはちがった立ち位置に退社するまで、最後まで悩まされた。

結局、技術のないものが、いかに開発コンサルタントの仲間や開発援助業界を見たかというのが、この研究の出発点であり描き出したいことである。

そもそも人間世界の全ては技術論でもなく論理や理論や理屈の世界ではない。喜怒哀楽や好き嫌いとか表も裏もあるどろどろした‘天’と‘地’と‘人’の世界である。

私が16年間努めた会社は、株式会社三祐コンサルタンツというのであるが、非常にわかりやすい会社名であった。創業メンバーの愛知用水の図面を引いた安城農学校の浜島辰雄先生の新入社員に対する説明は、下記のとおりであった。

「三祐の‘祐’の字は、正確には示す偏に右と書き、その意味は、‘たすけ(である。3つのたすけ、すなわち‘天’のたすけ、地のたすけ、人のたすけのことである。すなわち農業開発など大きな事業を起こすには、神仏など天の助け(政治的な‘天の声’というものもあるが)と自然環境のたすけと、多くの人々のたすけ(協力)がないと事は成就しない。そして、コンサルタンツと複数形であるのは、一人のコンサルタントではなく仲間で事にあたるから(最初から)コンサルタンツなのである。」

これほど理路整然とした会社名の解き明かしは、正直、私は今まで聞いたことがありません^^?

名古屋が本社で東京が支社というこんなオーナー会社は、実は、プロジェクトXでも取り上げられた戦後の世界銀行の借款プロジェクトの一つである愛知用水を作ったいわば日本の農業分野の開発コンサルタントの草分けであり、農業土木の分野では日本トップの会社でもあったのでした^^?

正直そんな事情なので、学問的とか中立性とか無記名性とかは一旦おいておいて、‘客観的’に描くことより、当事者としての自覚と‘主観’をもって開発コンサルタンツたちの物語を始めたいと思います。

(この項 了)

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【es003】自らを語ることの難しさ

(書き下し 2011年12月15日)初出: 日本における開発コンサルタント論・・・プロジェクト【es】 @ mixi開発コンサルタントコミュ

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66842603&comm_id=789299  

地下にもぐらないとまずいなどといっていた私がなぜ、「開発コンサルタント」のコミュにあえてこのような書き込みをしたのか。

自爆テロ並みのむちゃくちゃな暴挙ではないかという気もしているが、それは、私がそれなりに腹をくくったからに他ならない。

開発コンサルタントの実態というのは、実はかなりのベールに包まれているといのが実状で、昨今では‘中に入ること’自体が難しい上に、内部の人となったらなったで、身内では仲良くするが、概して外部に対してはかなり閉鎖的になってしまうということがあげられる。

そもそも、これは開発コンサルタントに限ったことではなくて、全ての社会人がお金をもらった働く‘業界’そのものの特質でもあるのだが、みな自分の身の回りの仕事に忙しくて、社内の調整、業界内でのしのぎ(同業他社との闘い?)や他の関連業界への営業や調整と、身の回りのことだけで十二分に忙しくて、なにを赤の他人や一般市民(いやな言い方ですが^^?)に自分の仕事や業界の話をしなければならないのだというのが本音だと思う。

そういう意味で言うと、私は、全く会社貢献をしなかったサラリーマン(会社員)であったと思う。

ただ開発コンサルタントの間での連帯感や、広く開発援助業界や日本や世界の世論や具体的な動きには、それなりに敏くて、もう10年以上も前から、日本の開発コンサルタントも、いい加減に自己開示して、説明責任を果たさなければならないと考えてきた。

ただ、現役の開発コンサルタント(の会社員)として、社会に向けて発言するのはさすがに憚られたので、「歩く仲間」の名刺を勝手に作って一人NGOみたいなことを始めた。それが30歳前後のことであるから、すでに10年以上、2枚の名刺を使い分けてきたことになる。

ともあれ、いろいろな考え方もあろう。「開発コンサルタント論」は、それこそ、一人ずつ違ったものであってよいと思うのであるが、一つだけ、今のシニアコンサルタントがいる間にやらなければならない仕事がある。

それが、日本のODAの黎明期から世界で活躍した伝説の開発コンサルタント達の物語を残すことである。

なぜ、それが今なのか。

徐々に私の体験からそれを説き起こしたい。

to be continued!

ではでは^^?

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2012年1月 4日 (水)

しばやんの2012年の抱負など^^?

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初出: mixi日記 2012年1月4日
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1811168131&owner_id=11744733 

いよいよ2012年度がスタートしました。ちょっと年賀状の準備がずれ込んでしまいましたが、まあ文面と宛先にはこだわったので、よしとします^^?

さて、今年は取り組むべき課題がいろいろありますが、端的に言えば結婚と独立(準備)に集約されます。

昨年、婚活を丸1年止めて自分の好きなことを追究してみたのですが、思っていたより体が動きました。確かに詰めが甘かったところもありますが、兼業というか仕事と全く関係なく、しかも全く初めての試みを3つもやったこと自体は評価されてもよいでしょう。

そして、やってみることの中に、自分が漠然と思っていたことが具体的に見えてくるところがありました。つまり、ああ自分はこんなことが(本当は)やりたかったんだということと、やればできるじゃん、当然、これはなにげに今までの社会人生活の仕事の中で訓練させていただいてきたことなので、いわば、できて当たり前(の経験はつんでいる)ということでもあるのですが、人からやらされるという局面でなくても自分が主体的に動く中でも、なにげに応用できたじゃんという、なにか自分の歩いてきた道のりを再確認したという意味で、とても貴重で新鮮な経験でした。

あまり調子にのってもいけませんが(すぐにいい気になりがち^^?)、少しは手ごたえを感じました^^?

人生30000日ということですが、今年42歳になる私は、やはり折り返し点に差し掛かっています。大卒で働き出して20年、いい加減、ゴールをみて動き出さないといけません。今はシニアのみなさんをみても元気なので、まあ70歳くらいまでは働くとしても30年、長いといえばまだまだ長い道のりです。

昨年の総括でも述べましたが、10年後を見据えて今からやれるところからやっていきます。

とりあえず今年は、結婚して、いろいろな意味での独立の目処を立てたいと思います。

年末年始にかけて、中学校時代の友達、高校時代の友達とそれぞれ会う機会がありましたが、みなそれぞれの幸せを求めて確実に歩を進めていました。

40歳になれば学歴は関係ないととある人に言われましたが、全くそのとおりです。40歳になったら男は自分の顔に責任を持てといったのは、かのアメリカのリンカーン大統領です。まったくそのとおりで、それぞれの苦節を乗り越えてきた仲間の顔がありました。自分も仲間に対して恥ずかしくない生き方をしないと心から思います。自分は次回に彼らの会うときに笑顔で晴れ晴れとした‘人生’に満足している状態でいられるのか、卑屈に‘人生’に負けて顔も出せないような最低の状況にいるのかは、まさに誰のせいでもなく‘自分’の‘今’次第です。

それぞれ生まれも育ちも背負うものも全く違います。絶対に(他)人の人生は生きられません。自分に正直に、自分にしかできないことをやらなければ生まれてきた意味がないというような青い?話を昨夜も高校時代の親友と深夜まで語っていました。

今まで海外(を相手にする国際開発援助の世界で16年)と日本(のお客を相手に通販の営業企画で3年)で働いてきて、やっと今更ながら気がついたことは、「‘幸せ’は人によって(全て)異なる」という極めて当たり前のことでした。

モノやカネや、しかも人間関係(アイ)?だけではありません、本当に千差万別のさまざまな‘幸せ’というものがあることに気がついたときに、改めてそれぞれの人生におけるその‘幸せ’の‘意味’に思いがいたります。どんなささやかな些細な幸せでもそれを感じたり、それがあること自体に‘意味’があるのです。

ところで、‘幸せ’を実現するための最低条件は、生命を脅かされることなく安心に‘生きる’ことができることです。

紛争や飢餓で‘生命’が常に危険にさらされた中で‘幸せ’を追求することは出来ないことがないまでも、極めて難しいことです。逆に言わせてもらえば、食べるものがないだけではなく、飲むものもない飢餓の中で、また殺されることから命からがら生き延びることだけの生活の中に、どんな‘幸せ’を見出せというのでしょうか。

まずは、一切の戦いや争いをやめることは始めの一歩です。

それは暴力を伴った戦いだけではなく経済的な搾取(マネーゲームも含む)や精神的なハラスメントも、絶対にやめるべきなのです。

この年末年始はいろいろな局面で、物質的な‘眼に見える’争い以上に、魂の植民地化(東大東洋文化研究所安富先生のグループの共同研究)を始めとする‘眼には見えない’心へ攻撃(ハラスメント)ということについて仲間と共に語ったり考えたりする機会が多くありました。

人間、それぞれがそれぞれの幸せを求めて必死に生きています。

私は、今の日本や世界の経済や効率至上主義の‘勝ち組’とか‘負け組’とか、‘負け犬の遠吠え’とか、とにかく額に汗してまじめに働いている人たちを揶揄する言説や風潮に強い不快感を感じています。そして、それらの‘勝ち組’の人たちの底の浅さも実は見えています。今、マスコミで成功者といわれている人たちの何名が、1年後、3年後、5年後、はたまた10年後にに‘生き残って’いるのでしょうか。

昨夜も遅くまで、どうみても客観的には‘負け組’でしかない‘我々’のことを仲間と語り合いました。結局、経済的にとか‘眼に見える’世間一般のごく‘普通’の‘幸せ’すら実現できていない我々は社会人となってこの20年間何をやってきたのか、一言で言えば、ずっと下積みの生活です。当然、もっと苦労している人は何人もいるし、我々が恵まれていることも決して否定はしませんが、我々自分自身の‘幸せ’というかやりたいことの道半ばであることは紛れもない‘事実’です。少なくとも、我々は今の立場や生活に満足していないことは‘事実’なのです。

結局、人の評価や人の‘幸せ’とは関係無しに、我々自身の‘幸せ’というか‘夢’を追い求めよう、そのために、この10年、まずはこの1,2年を乗り切ろうと互いに心に誓いあいました。

ところで、みなさん、ちょうど10年ほどに、上原選手の‘雑草魂’とか松阪大輔選手の‘リベンジ’という言葉が流行語大賞になったことを覚えていますか。(正確には、1999年の流行語大賞)

http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/matsuzaka/chronology/ma_ch19991202_01.htm  

実はもう13年も前の話ですが、私に言わせれば、その頃からずっとその気持ちでやってきたという‘感じ’です^^?

そろそろいい加減に我らの時代というかマイ・ターン(私の順番)が来る頃だということで、昨年の10月になくなったスティーブ・ジョブス(アップル創始者)ではないですが「世界を変えれると心から思ってきた人間が、世界を変えてきた」という言葉を胸に、今年もがんばります!

■夢みること=想像すること?と実現=実行すること! 2010年10月8日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2011/10/post-01f8.html  

この記事の中のアップルのCMをみてください。(↓こちら)

■ アップル(Apple)CM クレイジーな人たちがいる

http://www.youtube.com/watch?v=jIStLfVfwNg&feature=share 

今年も応援をよろしくお願いいたします。

ではでは^^?

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【歩く仲間通信】2011年の総まとめ 今年もお世話になりました^^?

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初出: 歩く仲間メルマガ 2011年12月24日配信分

みなさん こんにちは。

ご無沙汰しております。しばやんこと柴田英知@愛知です。

日本では寒い日が続きますが、みなさまいかがお過ごしですか^^?

12月17日の北朝鮮の金正日総書記の死去という混迷の国際情勢の中で、2011年も暮れゆこうとしているわけですが、今年は、3月11日の東北大震災、10月のタイの大洪水と天も地も人も大きく揺れ動いた年でした。

いよいよマヤ暦の世界最後の年、2012年の前哨戦とでもいうことなのでしょうか。

ともあれ、日本や世界中の被災や人災(紛争含む)にあわれた方々に深い哀悼の意を表明いたします。東北も福島も何も終わっていない・何の解決も見えない中でも嫌でも月日だけは過ぎていきます。

今、ここにいるという幸せをかみ締めつつも、いつか近い将来には、みなで楽しく笑って過ごせるときが来る日まで、それぞれの歩みを止めるわけにはいきません。

ともあれ、駆け足で、この一年を振り返ってみましょう。題して、しばやんの10大ニュース!(公私まぜこぜです)

第1位&2位・・・ 言うまでもないことですが。

3月11日 東日本大震災及び福島第1原発事故

太平の世の平和ボケをまたまたガツンとやられた感のある未曾有のマグネチュード9.0の大地震と直後の大津波は、自然の恐ろしさをまざまざと思い知らせてくれました。

災害は忘れた頃にやってくるといいますが、1995年の1月17日の阪神大震災の思い出が薄れてきたころに、あの(もう10年も前になる)2001年9月11日のアメリカ同時多発テロのワールドトレードセンターに航空機が突っ込む映像と、今回の津波が海岸線の港や町を飲み込む様をみて、デジャヴのように重ねあわした人も多かったのではないのでしょうか。

(テレビの)画面の前で何もできずに人が蹴散らされ文明が破壊させていくのをみて、これは映画の特殊撮影ではないのかと、コンピューターグラフィックスの架空の‘絵’空言なのではないかと思わず願ってしまったのではないでしょうか。

まだまだ津波の爪あとは癒されぬまでも、もっと深刻な問題が福島の原発事故でした。

あえてこれ以上いいませんが、私としては、昨年1年なにもできずに(厄年でもあったわけですが)悶々としていたのが、いや、それではだめだと自分を立て直すきっかけとなったのも、皮肉にもこの事件でした。

■とりあえず再開します!「転んだら起きる」赤尾好夫 2011年4月26日 (火)

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-93c7.html  

■「‘開発民俗学’への途 (第2部)」を開始します。」 2011年5月 4日 (水)

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/2-f71a.html  

第3位 ・・・ 実は半分忘れかけていましたが!

■ウサマ・ビンラーディン氏殺害 2011年5月1日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/201151-b8d7.html  

第4位 ・・・ やっと‘私’のプロジェクト しばやんプロジュース企画

国際協力・異文化理解・わくわくワークショップ@りぶらまつり2011 2011年11月12日(土)~13日(日)http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2011/11/post-1b6e.html  

地元に戻って丸3年になるのでなにかしたいなと、たまたま行き当たったのが市民団体公募の市の総合図書館のお祭企画。6月の実行委員会の説明会に参加して、急遽、自分なりのセミナー、パネル、フリーマーケットの3本立ての企画に乗り出しました。なぜか実行副委員長までさせられて?でも、このプロジェクトの遂行の過程で、旧友との再会や多くの新しい歩く仲間との出会いがありました。

岡崎という地元で、地道にまちづくりや国際交流の実践を続ける方々との出会いは、改めて、自分のかねてよりの研究テーマ、地域研究と地域開発の実践を考えてる上で極めて示唆に富む収穫と、今後の活動の可能性の芽をみることができました。

岡崎発、会いにくるアイドル、まちドル さくらHR(ホームルーム)とのコラボ企画や、共働していただいた「アース・アズ・マザー」のみなさんなど多くの思い出と勇気を与えてくれました。

■さくらHR 学級通信 オフィシャルHP

http://sakura-hr.jimdo.com/  

■アース・アズ・マザー

http://www.earthasmother.com/  

第5位 ・・・ 始めの一歩、無謀にも初めての学会発表に臨みました!

■国際開発学会第22回秋季大会 2011年11月26日(土)~27日(日)

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/22-4ef7.html  

口頭発表: 2011年10月21日(金)提出原稿

地域開発におけるよそ者の役割 -フィリピン・ビサヤ地方の灌漑システムの事例考察-

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-c5a3.html  

思えば今年は初物づくしでした。ちょうど、この学会発表も11月のイベントで準備期間が、りぶらまつりとモロにかぶってしまい、2つも同時並行(全然、仕事とは関係のないプライベートな遊び!)で準備できるのかと正直思いましたが、おかげさまでなんとか口頭発表も無事終わり、ここでもまた多くの新しい出会いがありました。

第6位 ・・・ しばやん・フォトグラファーデビューか!

■100人100旅フォトブックスへの参加!

■旅PHOTO―旅人からの贈り物 100人100旅5 [文庫]  100人100旅プロジェクト (著)

amazonで購入できます。11月末の発売。

http://www.amazon.co.jp/dp/4897131529/  

これもまた思えば同時並行でした。とりあえず絵葉書用に1枚をミクシイのコミュに提出したのですが、いちばん出したかった写真が、画素数が少なく印刷で使えないとのことで却下。結局、フィリピンのミンダナオ島のコタバト市での写真を提出しました。先日、名古屋でオフ会があったのですが、またまた新たな出会いがありました。

第7位  ・・・ アップル創業者 スティーブ・ジョブス氏の死去

■禁断のアップル 天才スティーブ・ジョブス逝く 2011年10月5日 合掌。

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2011/10/2011105-f829.html  

■夢みること=想像すること?と実現=実行すること!

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2011/10/post-01f8.html  

■私的な回想~ マッキントッシュとわたし。 1990年代の風景

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2011/10/1990-c063.html  

昨日(12月23日)も、NHKスペシャルでジョブズ氏が取り上げられていましたが、その早すぎる死を悼む以前に、栄光と挫折というか地獄をみて這い上がった人間の凄さ、特に夢や好きを貫いた不屈の精神に、人間の素晴らしさをまざまざとみせつけられました。

■NHKスティーブ・ジョブズ特集 全部で3本のプログラムがあるようです!

http://www.nhk.or.jp/special/stevejobs/  

私は、初期のマッキントッシュのハイパーカードにやられたタイプなので、最近のi phoneとかi padとかは、横目でみていたのですが、彼は最初から同じこと(夢)を追い続けていたということに昨日のNHK特集をみて感じました。そして、ひとつの夢をかなえるのに、20年も30年もかかるという事実も。つまり何十年かかっても夢を追い続ける執念がなければ何も始まらないし変わらない。

昨年のマイケルジャクソンの死も衝撃的でしたが、癌がわかっていたジョブズ氏の去り際は実に見事でした。スタンフォード大学の言説のスピーチは、やはりラストメッセージだったんだと思います。いろいろ考えさせられます。

■スティーブ・ジョブズ 日本語で学ぶ伝説のスピーチ(字幕)

http://www.youtube.com/watch?v=87dqMx-_BBo&feature=share  

第8位以下

とりあえず、あと1週間あるのであけておきます^^?

ともあれ、いろいろありました。

世界的にみればいいことばかりではありませんでしたが、自分的にみれば、3つのチャレンジがあり、それなりに成果をあげることができました。

そうそう、もう来年の話になるのですが、国際開発学会で宿題をもらってしまいました^^?

来年は、こちらのプロジェクトに取り組みます。

■ESSCES (エセス)略して【es】プロジェクト始動! 国際開発学会の宿題です^^?【es001】http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/essces-eses001-.html 

ということで、まだまだ、わたしたちの‘物語’は続いていきます。

ちょっと、ジョブズ氏の話に絡めて、来年以降の見通しについて、ついでに触れておきます。

今、私が夢として考えていること → 「GPになりたい!」

GPとは、General Producer の略で、今は、通信販売のボート売り場のお兄さんをやっていますが、自分が取り組むべきフィールドは開発(民俗)学の現場であり、10年を目処に徐々に軸足を移していきます。「地域研究」と「地域開発」の実務が出来る人間は日本広しといえども、それほどはいないだろう。まあ多くの先輩や仲間がいることは十分承知の上ですが、それぞれの‘物語’は別であり、私の夢や課題は、他人には、ほぼ間違いなく‘絶対に’かなえることも解くことはできません。

唐突ですが、「宮本武蔵」などの歴史小説で有名な吉川英治氏は、「生涯一書生」「吾以外皆師」という言葉を座右の銘としていたようですが、私は、ずばり、「生涯一学究」を目指していきたいと考えています。歌って踊れるコンサルタントも大切ですが、エンターテーナーであることと学究であることは全く矛盾しませんし、何をやっていようとどこにいようと本分は「学究」でありたいと思っています。

今までも棚卸しということで、いろいろマネージャーとか地域活き生きアドバイザーとか自分のキャッチフレーズを考えてきましたが、やはり最後の真打は「プロジューサー」しかない!しかもジェネラルまでつけてと、最近、つらつら考えています。

結局はマネージャーもダイレクターも全体の一部のスペシャリストであり、もっと大きな絵を書く人ではない。つまり全体を創るのか「プロデューサー」なのではないかと思うと、今の自分のレベルはどうであれ、そのような道を目指して研鑽していかなくてはならない。幸い、素晴らしい先輩の背中が自分には見えています。たとえば、イスラーム研究者の東大名誉教授の板垣雄三先生は、卓越したネゴシエーターでありコーディネーターであり、まさに先生の中の先生だったなあと思うわけです。今になって思い返してみると^^?

他に2人はいますね。本当のGPといえる方が今までお会いしてきた方の中で。

私も、いつの日にか、自分より遥かに優秀ですばらしいスタッフとチームを組んで国家レベルの仕事の陣頭指揮に立てればいいなあと思っています。まあ、表にでなくても裏でこそこそ?と、チェンジエージェントの仕事をしたいなあと思います。世界があっと驚くようなウルトラQの段取りがしていたいです^^?

あ、カタリストとかチェンジエージェント論は、私としては「開発(現象)と社会変動(変革)」という大きなテーマの中でも重要な一部として重点的に追究したいところでもあります。

まあ、どんな形で実現するのかわかりませんが、平の人(by片倉もとこ)たちの‘ささやかな’幸せのためにがんばる‘あなた’を応援したい。少なくとも、がんばっている人の足を引っ張ったり、がっかりさせるようなことはしたくないということで、2011年の最後のご挨拶とさせていただきます。

広い空の下、またどこかでお会いしましょう!

みなさまのご健康と、ますますのご多幸と、よいお年を迎えられることをお祈りしております。

ではでは^^?

---------------------------地域活き生きアドバイザー

柴田 英知

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