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2011年11月20日 (日)

ダブル・チェンジ・エージェント論を引っ下げて学会に臨みます^^?

mixiで、開発民俗学-地域共生の技法-というコミュを持っているのですが、そこでのある方の書き込みに答えていて、思わずひらめきました。

‘ダブル’チェンジ・エージェント論、新?発見と思うのは、私の錯覚で、もう研究者や実務者の間では常識なのかもしれませんが、ご参考までに、下記にご紹介します。

初出: トピック: 地域開発におけるよそ者の役割 -国際開発学会口頭発表原稿‐ @ mixi開発民俗学-地域共生の技法- 書き込み 26~28

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=65516943&comm_id=2498370

Aさんの書き込みに答えます。

「ところで開発学がこの概念を語る文脈ですが、依然として"開発する側"、つまりこちら側の主体、あるいは現地の特殊な身分の人(リーダー)がまず"チェンジ・エージェント"として開発のキーパーソンになると論じる文脈が多いというのは残念です。チェンジ・エージェントがひとつの魅力的な生き方であるとすれば、"開発される側"つまりあちら側の主体がまずチェンジ・エージェントとなり得る可能性をこそ、開発プロジェクトは模索すべきだと思うからです。

開発する側、現地に入って関わりを持っていく側の人間の論理として、チェンジ・エージェント論の示す道というのは、魅力的だと思います。ただ、それだけにとどまってほしくないというのが私の意見です。

社会の内部か外部か/よそ者か住民か/異質か同質か…という二元論的発想はあまり好きではない、と言ったのは、強いて言えばこういう理由からです。」

かなり長く引用しましたが、非常に重要なポイントだと思いますので、あえて全文を始めに載せさせていただきました。

私は、まず「“開発される側”の主体がチェンジ・エージェントとなりうる可能性を(中略)模索する」というくだりに引っかかりました。

まず、便宜上にも現実的にも「開発する側/開発される側」は存在しておりますが、そもそも開発民俗学では、それ(我彼)を乗り越えたところで‘われわれの物語’を創ることに重きを置いています。(それが現実にできるかどうか、我々の壁を実際に乗り越えられるかは別として)

つまり、チェンジする主体は、私(開発する側)であり、あなた(開発される側)の双方向のイントラクティブな協働であり、それを現実に可能にするのが、フィールドワークでありファシリテーションであると考えます。まず、私とあなたの間で共有できる‘場’を創ることがファーストステップ。次のステップが、創造された‘場’におけるグループダイナミクスによる物語の発現です。

当然、物語はハッピーエンドばかりではありません。ただし、その物語を共に紡いだ者としての、私とあなたの責任感は残ります。はい、(時間が来たので)さようならという一過性のつながりではなくて、それぞれの人生をかけた‘一期一会’の火花の散る‘(その限りの)セッション’であり‘(メイク)ドラマ’そのものであると、私は思います。

以上をふまえて話を戻すと、私は、‘チェンジエージェント’であることを私(開発側)とあなた(開発される側)の両方に求めています。

それを可能にするために必要なのが、自分の中の‘他者’性を自覚することが必要であるということです。

ここで私が言っている‘他者’性とは、自分でありながら自分ではない‘モノ’をペルソナ(仮面)としてかぶる、もっというと‘他者を演じる’という意図的な(自覚された)意志の働きです。

私は、開発コンサルタントというペルソナをかぶることにより、いろいろな意味で‘フリー’になることができました。

私自身は、‘小さな’人間なのですが、開発コンサルタント(会社)の社員であるという‘タイトル(肩書き)’が、どんな場面においてもオールマイティな切り札となったのです。

つまり、自分が何であれ、人はその‘タイトル’を見て、その人の属性を判断します。人間や人物本意といいつつも、実はその人の性格とか本質を(特に短期間では)見ることができずに、外見の印象や社会的な属性(タイトル)だけで、その人物を判断してしまっているのです。これがいいとも悪いともいいません。

ただ、まぬかれざる外部者(開発コンサルタントや(人類)学者)が、まったく接点のない世界で働かざるを得ない(研究も仕事のうち!)場合には、その外部者である(外面的な)立場をなんらかの形で示さなければならない。それは、なるべく現地の人にわかりやすくというのが鉄則です。

それが、‘立場’や‘タイトル’を演じるということです。

個人的にはできないとか言いたくないというもろもろの問題は、とにかくおいておいて、相手側が期待する言動をする。これは、個人的にはかなり葛藤のあることかもしれませんが、一つの処世術でもあります。私は、正直言って、このような裏表ある生き方は好みません。しかしながら、立場上、嫌でもそれをやらざるを得ないことはありましたし、誰もが必ずどこかで出くわすであろう普遍的な問題であると思います。

そこで私は考えました。自分だけが‘考えて’‘嫌な役回り’をする必要はないのではないか?と。

つまり、演劇のようにある程度の‘シナリオ’を書き、それぞれの‘立場’をうまく使えば、私もあなたも納得できる‘物語’ができるのでないかと。

ここでの問題が、誰が‘シナリオ’を書くかというということです。

この狂言回しをするのが、私でありあなたである‘チェンジエージェント’であると私は思います。チェンジエージェントは、内部者と外部者という両義性(両面性)を持っています。それをあなたと私の間で、うまく役割分担して、自分の‘他人’をあなたに、あなたの中の‘他人’を私が演じれば、チェンジエージェント間での補完といいましょうか、エールの交換がありうるわけです。

このエールの交換のためには、開発側だけではだめで、開発される側のチェンジエージェントが必要なのではないか。

そんなことを私は漠然と考えています。というか、書いていて、ひらめきました。

チェンジエージェントが両方の側をうまく説得すれば、確かに話は早いし、たぶん、この3人のマリアの物語も、その実例であるのかもしれません。

現実には、開発‘する’側も開発‘される’側も、それぞれのインタレストで動いています。しかし、結果としてWIN-WIN関係が成立つのは、チェンジエージェント間での他者の役割の押し付け合いというか交換をうまくやっているからなのです。

つまり自分の中の‘他者’が必要としているが、現実には自分ではできないことを(自分ではない現実の)他者にやってもらう。その役割交換がうまくできれば、それぞれの自分の中の‘他者’を満足させることができる。

こんな、‘対’になるチェンジエージェント論、結構おもしろいのかもしれません。

ではでは^^?

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