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2011年7月 4日 (月)

16.‘我彼’の二分論から‘我々’への橋渡しとは何をいうのか?

生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き)
<外部者(異人)論 その7>
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ようやく‘我彼’論の確信に入ってきました。

さまざまな‘現場’には、当然、人(間)がいます。その‘現場’とは何か、ちょっと先にふれておきましょう。

‘開発民俗学’では、‘現場’という言葉を、一義的には「物事が起こっている場所としての‘現場’」をいいますが、正確には「(自然)環境論でいう‘現場’」と「人が住むところという意味での‘現場’」との複合体であると考えます。

「物事が起こっている場所」としての‘現場’は特に説明の必要がないと思いますが、後者2つについては、あえて補足説明をさせていただきます。

「(自然)環境論でいう‘現場’」とは、その物事が起こっている場所、そのものの特性をきちんと押さえる必要があるのではないかと、つまり‘環境’がその‘物事’の原因や結果、その過程に大きな影響を与える大きな因子であるということです。

「人が住むところという意味での‘現場’」とは、先に述べた(自然)環境とは別に、人(間)関係がもたらすさまざまなアクティビティ(活動)がおこる‘場所’としての‘現場’が、自然環境とは別に生まれてくる。いわば、‘現場’の‘(人間)社会環境’の側面を、自然環境面とは別に把握し検討しなければならないことを言っています。

この大震災についていえば、そもそもの‘物事’の発端は、地震や津波といった‘(自然)環境’が原因で、この‘(自然)環境’に対して、それなりの‘科学的な’対応をしなければなりません。

しかし同時に、今、政府や‘現場’の地方自治体が取り組んでいるのは、復興計画の立案、予算配分や今後の日本の他の地域をも視野に入れた震災教育などといった‘(人間)社会環境’面での対応です。

つまり、どのような‘現場’にも、その‘現場’で‘物事’を生み出した‘(自然)環境’と、その‘現場’を取り巻く‘(人間)社会環境’の2つが必ずあることを忘れないでください。

また逆に、人間の‘社会環境’の変化?が原因となって‘物事’がおこることも当然ありますが、その場合、得てして‘(自然)環境’が制約となって、‘物事’自体の性格やその後の進展を大きくゆがめてしまうことが多々あります。

つまり、‘人’は同じでも、‘場所’によってうまくいったりいかなかったりするのは‘現場’の‘自然環境’と‘社会環境’によるというものも、‘事故’は一緒でも、‘場所’によってというのは、全く同じ原理で、‘現場’そのものが持つ‘自然環境’と‘社会環境’に、人(間)も事象(物事)が、大きな制約を受けているということなのです。

さて、この講では、外部者(異人)論を扱うのですが、得てして、外部者は、‘現場’の‘自然環境’も‘社会環境’もわからずに、もっと言えば、その環境そのものに何の‘関心’もないまま、ずかずかと土足で入り込むことが多々あります。ありえるどころか、無意識にいかに人の‘領域’に足を踏み入れているかは、ちょっと自分の胸に手を当てればわかることですが、別にその‘領域’自体に‘線引き’がしてあるわけでも‘壁’があるわけでもありませんし、普段の生活においては、その‘みえない境界’を行き来することは、それほど生命の危険や実質的な不具合を持つものではありません。

もし、何か不具合がおこるとすれば、唯一、我彼に‘力’の格差がある場合です。

‘力’とは非常に定義に難しい言葉ですが、‘知は力なり’という言葉があるように、物理的な‘力’以外にも‘知識’や‘情報’を‘力’ということもできましょう。

他者同士が出会う‘場’といういうものを設定した場合、どんなきれいごとを言おうが、まず最初は、‘我’と‘彼’というようにお互いを‘他者’として認識します。

特に‘言葉’や身につけている‘もの’が違えば、誰がなんといおうと、他者は他者です。

「我は我、彼は彼」と割り切ることは、そう考えたとしても誰からも責められることのない当然のことだろう、あたりまえのことじゃないかと思うことは自然ですし、その考え方の妥当性はそこそこあるのは事実です。

しかし、問題は、‘我’と‘彼’が幸か不幸か‘出会ってしまった’ことにより、その‘現場’の‘社会環境’を変えてしまったとしたら、それは、他人事ではなく、‘現場’で起こる‘物事’に対して、‘彼’だけが、‘我’だけがおこしてしまったのではなく、‘我彼’が起こしてしまったという共同責任といいましょうか、‘当事者’としての新しい‘かかわり’を始めなくはなりません。

そう、もうあなたは‘当事者’の一人なのです。‘彼’の問題は、‘彼’だけの問題ではなく、‘あなた’の問題でもあるのです。

私は不幸?にも、この‘当事者(性)’というものに開発援助の現場を歩くうちに気がついてしまったのです。

もう、‘外部者’として踏みとどまるわけにはいかない、‘当時者’の一人として‘生きざる’を得ないという諦観、これは正直、絶対に格好のよいものではないと私は思います。‘当事者’としての‘喜び’も当然ありますが、必然的に‘当事者’だからこそ味わう‘挫折’なり‘苦さ’も同時に背負い込むことになるのですから。

ということに気がついてしまったからこそ、‘我彼’論にとどまっていてはいけない、同じ‘当事者’として‘我々’の物語をつむいでゆく、その‘我’と‘彼’の間の超えられない谷の橋渡しをするのが、‘開発民俗学’徒ではないかと私は思うのです。

これから語られるべき実際の‘物語(ドラマ)’は、ハッピーエンドでしょうか。人間世界のこと、決してハッピーエンドばかりでないでしょう。でも物語の主人公が‘彼’で、‘我’をから本の外‘外部’という‘絶対安全圏’に身を置いた‘読者’という立場をとることも、当然可能ですし、それを選ぶこともありだと思います。誰もあなたが‘読者’であることを非難や批判をすることはできません。

でも、物語の結末で、泣いたり笑ったりするのが‘彼’だけでなくてもよい、つまりあなたもその‘物語(ドラマ)’の結末を考えるが‘彼’だけではなくて‘我’もその‘現場’に立ち会えるとしたら、それはそれでわくわくしたエキサイティングなことだと思いませんか。

それが、端的には‘開発民俗学’がめざすところであると私は思います。

‘我’‘彼’のそれぞれの‘世界’を超えたところの、‘我々’の‘世界’を主体的に創っていく、そこに‘開発民俗学’の可能性を、私は感じています。

ではでは^^?

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