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2011年6月27日 (月)

第1講 ‘学問知’と‘経験知’という言葉の意味(この講座における)について  @ ‘知’の相対化について 第1講 2011年6月26日

初出: mixi開発民俗学 - 地域共生の技法‐

※SNSとしての制限がありますので、転載するのば不適切だと思われる部分について編集してあります。

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そもそもこんな講座をおこすにいたった直接の理由は、私の主宰するコミュニティに対するメンバーの書き込みがきっかけです。

(一部、削除)

私が思ったのは「なんで自分だけが正しいというドグマ」に陥ってしまう人が多いのだろうということと、どうも‘学問的な知’と実体験の‘経験知’を混同しているしまっているのではないか、それは自分にもいえるのではないかという自己反省からきています。

私は、「経験が全てとは思わないが」と断りつつも、自分の体験や経験(経験知)と、そして自分が学んできた‘学問知’をかなり恣意的に自分の都合のようにつなぎ合わせた言動をおこなっています。

これは裏を返すと、自分の仮設を検証するための‘学問’であり、‘経験・体験’を無意識に心と体が求めてしまっている。逆に自分に都合の悪い‘学問知’は無意識にフィルターにかけてしまっていて‘ない’ことにして、また自分の嫌な事実や現実を‘みたり聞かなかった’ことにしていたのではないかということなのです。

考えるまでもなく、いくらでも思い当たるところはあります。

しかし、先のコミュで対談者に発した「政治性のない」立場が現実に存在するのかというのは、私が今までこのコミュで血が出るほど必死に考えてきたことなのです。もちろん、‘そんな都合のよい’「政治性のない」立場は、現実は存在しませんし、もしあるというものがあれば、それはうぬぼれか欺瞞か、‘己自分’知らずかとにかくそのような回答はありえないと私は断言します。

それがあると思うなんて、あなたそれは大きな‘勘違いだよ’って。

話を戻すと、確かに学生時代は結局、湾岸戦争で‘現場’に立つことができず、本当にやきもきしました。

しかし、腹立ちまみれに、こんなことを20年前に書きました。

あ と が き に か え て(旅行の勧め) @アラブ・イスラーム学習ガイド(資料検索の初歩) (©1991)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/g014.htm

この文章はおもしろいので、後にコラムとして全文、転載しておきましょう。

要点はここです。

「実は、正直に告白すると、私は、まだアラブの地を踏んでいない。湾岸戦争のことなど、言い訳はいくらでもあるのだが、それはともかく、今までずっと述べてきたこと、すなわち体感するためには絶対に現地体験が必要不可欠である。もし、留学というものが必要であるとしたら、その本旨は、書物や、外側からだけでは解らない生活そのものに触れる事ではなかろうか。チェアー・ディテクティブではだめだと笑われるかもしれないが、この目録ぐらいのことは出来るということは、特記してもおいてもよいであろう。」

そして現実に開発コンサルタントとして世界を旅するようになって、本当にほんまかいなという信じられない(アンビリーバブル)な事象に山ほどあってきました。

その中で、どうも‘教科書’で‘学問’として学んだことと、‘現実’はズレているというか違うようだぞと、さすがに鈍感な私でも徐々に気がつくようになってきました。

でもね、これは当たり前のことで、研究者が著作をまとめる場合、原体験→論文にまとめる(2,3年後)→ 学問的に深化、そして論文を書き溜めることによってその研究者なりの‘知見’としてまとめて論文集としてまとめられる。

もっと簡単に、博士論文としましょう。結局、大学生時代からフィールド調査を行ってきたとしても博士論文にまとまるのに約10年かかります。つまり、‘学問’として‘形(書籍)’をなした時点で、10年から20年前の‘現実’の分析となっているのです。

だから‘論文’を読めと大学生や院生は教官からいわれるわけですが、それでも事象の起きた時点からは、最短でも半年は経ってしまっています。

まあ‘学問’に時間がかかるのは、物理的に仕方がないのは上記に述べたとおりなのですが、あともう一つの問題は、‘経験’や‘体験’は、その‘体験者’に固有のもので、理系の学問ではほぼ100%の‘再現性’が求められるのに、較べて文系のフィールド科学では、逆にほぼ99パーセント‘再現性’がないという‘現実’があるということなのです。

すなわち文系の研究成果とは‘体験者’が解釈したものでしかないということでもあります。

よく言われることですが、たとえば二人が同じ時空を共有していても、見えたり聞こえてくるものは、個々人で全く違います。誰一人‘同じこと’を考えたり見たり聞いたりしていません。よほど感性の‘アンテナ’を張る方向性を事前に二人の間で共有していたとしてもです。

仮に20年前に、ある研究者がみた‘風景や事物’の中に私がたまたまであれ99パーセント似た‘風景や事物’を観ることが出来たとしても、私は、自分の経験や‘学問知’によって、たぶんその研究者とは別のモノを見たり聞いたりしてしまうのでしょう。

つまり結局、私は自分の‘経験’や‘体験’で得た‘知’から新たに‘学問知’自体を疑い、(自分で)解釈しなおさなくてはならない。

でもそれが結局、‘学問知’の深化であり進化(※)であると思うのです。

※あまり使いたくない言葉ですが、わかりやすいイメージを与える‘言葉’としてのみ使っています。

ということで、この講座では、私の体験や経験知から、どう学問知の見直しを(私自身が)迫られたのかについて具体的に述べていきたいと思います。

基本的に、テーマというか項目ごとに具体例を挙げていく予定です。

でもその前に、コラムを一つ置かせていただきましょう。

ではでは^^?

この項 了

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