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2011年6月

2011年6月27日 (月)

<コラム(その1)> あとがきにかえて(旅行の勧め) 2011年6月26日

初出: HP版歩く仲間 2000年5月5日 再掲載。

アラブ・イスラーム学習ガイド(資料検索の初歩)@1991年11月11日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/g000.htm

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あ と が き に か え て(旅行の勧め)

近年、マスメディアの、特にテレビの発達によって、瞬時に、世界中の情報が、それも茶の間で知ることが出来るようになった。しかし、テレビに徹底的に欠けているもの、それは匂いであり温度であり、曖昧な言い方だが、要するに雰囲気(アトマスフィアー)とでも言うものであろう。いくら、テレビ技術が発達しても、結局、音と映像だけの世界でしかない。俗に、五感というが、私達が物を認識しようとする場合、さらには体感しようとした場合、果たして聴覚、視覚だけ分かったと言えるのであろうか。

「コピー文化」という言葉がささやかれるようになって、すでに久しいが、日本のこの状態はどうもおかしいし、まずいと思う。疑似体験(体験とは言えないと思うが)だけで、分かったような気になっている。最悪の例が先の、テレビのシュミレーションゲームそのものと言われた湾岸戦争の報道であろう。私達は、連日のように湾岸地帯の映像を、イラクへの爆撃さえをも見ていた。 しかし、一体誰が映像の向こうにいる人々の痛みや悲しみ、怒りを感じることが出来たのであろうか。イラク兵も、多国籍軍兵も、さらには一般市民も、断じて、決してゲームの基盤のうえの駒なんかではない。

実は、正直に告白すると、私は、まだアラブの地を踏んでいない。湾岸戦争のことなど、言い訳はいくらでもあるのだが、それはともかく、今までずっと述べてきたこと、すなわち体感するためには絶対に現地体験が必要不可欠である。もし、留学というものが必要であるとしたら、その本旨は、書物や、外側からだけでは解らない生活そのものに触れる事ではなかろうか。チェアー・ディテクティブではだめだと笑われるかもしれないが、この目録ぐらいのことは出来るということは、特記してもおいてもよいであろう。

さて、イスラームの大旅行家であるイブン・バッツゥータが、29年間にもわたった大旅行に、故郷のタンジャから旅立ったのは、彼の22歳の時であったことを、ふと思い出した。私も、近々その年齢を向かえる。旅立ちへの期待を胸に秘めつつ筆を置くことにする。

1991年11月11日

執筆者しるす

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第1講 ‘学問知’と‘経験知’という言葉の意味(この講座における)について  @ ‘知’の相対化について 第1講 2011年6月26日

初出: mixi開発民俗学 - 地域共生の技法‐

※SNSとしての制限がありますので、転載するのば不適切だと思われる部分について編集してあります。

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そもそもこんな講座をおこすにいたった直接の理由は、私の主宰するコミュニティに対するメンバーの書き込みがきっかけです。

(一部、削除)

私が思ったのは「なんで自分だけが正しいというドグマ」に陥ってしまう人が多いのだろうということと、どうも‘学問的な知’と実体験の‘経験知’を混同しているしまっているのではないか、それは自分にもいえるのではないかという自己反省からきています。

私は、「経験が全てとは思わないが」と断りつつも、自分の体験や経験(経験知)と、そして自分が学んできた‘学問知’をかなり恣意的に自分の都合のようにつなぎ合わせた言動をおこなっています。

これは裏を返すと、自分の仮設を検証するための‘学問’であり、‘経験・体験’を無意識に心と体が求めてしまっている。逆に自分に都合の悪い‘学問知’は無意識にフィルターにかけてしまっていて‘ない’ことにして、また自分の嫌な事実や現実を‘みたり聞かなかった’ことにしていたのではないかということなのです。

考えるまでもなく、いくらでも思い当たるところはあります。

しかし、先のコミュで対談者に発した「政治性のない」立場が現実に存在するのかというのは、私が今までこのコミュで血が出るほど必死に考えてきたことなのです。もちろん、‘そんな都合のよい’「政治性のない」立場は、現実は存在しませんし、もしあるというものがあれば、それはうぬぼれか欺瞞か、‘己自分’知らずかとにかくそのような回答はありえないと私は断言します。

それがあると思うなんて、あなたそれは大きな‘勘違いだよ’って。

話を戻すと、確かに学生時代は結局、湾岸戦争で‘現場’に立つことができず、本当にやきもきしました。

しかし、腹立ちまみれに、こんなことを20年前に書きました。

あ と が き に か え て(旅行の勧め) @アラブ・イスラーム学習ガイド(資料検索の初歩) (©1991)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/g014.htm

この文章はおもしろいので、後にコラムとして全文、転載しておきましょう。

要点はここです。

「実は、正直に告白すると、私は、まだアラブの地を踏んでいない。湾岸戦争のことなど、言い訳はいくらでもあるのだが、それはともかく、今までずっと述べてきたこと、すなわち体感するためには絶対に現地体験が必要不可欠である。もし、留学というものが必要であるとしたら、その本旨は、書物や、外側からだけでは解らない生活そのものに触れる事ではなかろうか。チェアー・ディテクティブではだめだと笑われるかもしれないが、この目録ぐらいのことは出来るということは、特記してもおいてもよいであろう。」

そして現実に開発コンサルタントとして世界を旅するようになって、本当にほんまかいなという信じられない(アンビリーバブル)な事象に山ほどあってきました。

その中で、どうも‘教科書’で‘学問’として学んだことと、‘現実’はズレているというか違うようだぞと、さすがに鈍感な私でも徐々に気がつくようになってきました。

でもね、これは当たり前のことで、研究者が著作をまとめる場合、原体験→論文にまとめる(2,3年後)→ 学問的に深化、そして論文を書き溜めることによってその研究者なりの‘知見’としてまとめて論文集としてまとめられる。

もっと簡単に、博士論文としましょう。結局、大学生時代からフィールド調査を行ってきたとしても博士論文にまとまるのに約10年かかります。つまり、‘学問’として‘形(書籍)’をなした時点で、10年から20年前の‘現実’の分析となっているのです。

だから‘論文’を読めと大学生や院生は教官からいわれるわけですが、それでも事象の起きた時点からは、最短でも半年は経ってしまっています。

まあ‘学問’に時間がかかるのは、物理的に仕方がないのは上記に述べたとおりなのですが、あともう一つの問題は、‘経験’や‘体験’は、その‘体験者’に固有のもので、理系の学問ではほぼ100%の‘再現性’が求められるのに、較べて文系のフィールド科学では、逆にほぼ99パーセント‘再現性’がないという‘現実’があるということなのです。

すなわち文系の研究成果とは‘体験者’が解釈したものでしかないということでもあります。

よく言われることですが、たとえば二人が同じ時空を共有していても、見えたり聞こえてくるものは、個々人で全く違います。誰一人‘同じこと’を考えたり見たり聞いたりしていません。よほど感性の‘アンテナ’を張る方向性を事前に二人の間で共有していたとしてもです。

仮に20年前に、ある研究者がみた‘風景や事物’の中に私がたまたまであれ99パーセント似た‘風景や事物’を観ることが出来たとしても、私は、自分の経験や‘学問知’によって、たぶんその研究者とは別のモノを見たり聞いたりしてしまうのでしょう。

つまり結局、私は自分の‘経験’や‘体験’で得た‘知’から新たに‘学問知’自体を疑い、(自分で)解釈しなおさなくてはならない。

でもそれが結局、‘学問知’の深化であり進化(※)であると思うのです。

※あまり使いたくない言葉ですが、わかりやすいイメージを与える‘言葉’としてのみ使っています。

ということで、この講座では、私の体験や経験知から、どう学問知の見直しを(私自身が)迫られたのかについて具体的に述べていきたいと思います。

基本的に、テーマというか項目ごとに具体例を挙げていく予定です。

でもその前に、コラムを一つ置かせていただきましょう。

ではでは^^?

この項 了

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‘知’の相対化について (あるいは、学問的な‘知’と‘経験知’の格差と断絶について)<連続講座> 序論

初出: mixi 開発民俗学 -地域共生の技法- の新トピックです。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63333112&comment_count=3&comm_id=2498370

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という、新しいテーマで、私の思うところを語ろうと思います。

私自身、いろいろなところで触れてきていますが、‘日本の’大学のひとつである「大阪外国語大学」に1988年に入学して以来、‘日本の’大学教育のきわめて‘常識的な’または‘オーソドックス’な学問についての教育を受けてきました。

また、1980年代から1990年代は、ちょうど世界がアナログからデジタルに切り替わりつつある時代で(例えばCDの発売は1982年)、学問だけではなく世界中の全ての面で‘世の中’が大きく変わった時期で、私はさいわい大学時代は‘アナログ時代’、そして社会人になってからは、‘デジタル時代’の‘知のあり方’と‘リテラシー’の双方を、自分なりに勉強してきました。

具体的には‘アナログ時代’の‘知’に関しては、下記を‘自分’自身のための‘マニュアル’として1991年にまとめました。

◆ アラブ・イスラーム学習ガイド(資料検索の初歩) (©1991) @HP版 歩く仲間

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/g000.htm

特にその中でも、第2部ではアナログ時代のリテラシーについて語っています。

◆ 第二部  リファレンスワーク入門

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/g004.htm

その後、1992年に、開発コンサルタント会社に就職してからは、デジタル時代のリテラシーと同時に、いやそれ以上に重要な‘現場学’具体的には‘フィールドワーク’を中心とする‘フィールドサイエンス’を仕事として16年間やってきました。

その過程で、大学で学んだ‘学問知’と‘現場’との違いやギャップの大きさについて現実に悩み右往左往した‘経験’についてエピソードとして言及するのみならず、結局、‘私’なりの‘経験知’のつかみ方について新たに別の講座(マニュアル)としておこしました。それが、下記の取り組みです。

◆ ‘開発民俗学’への途(第1部)<連続講座> 2000-2008

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm

まあ、最初のマニュアルは、実質1年かけて作りましたが、この連続講座は、働き出してから8年目に筆を起こし、それから完了まで8年かけました。いわば、私の16年間の開発コンサルタントとしての学びのエッセンスが詰まっていると自負しています。

その中で、私がとりあげたリテラシーに関するもろもろは下記に代表されます。

◆ 第4講:開発学研究入門(基礎理論編)(道具箱=ブックガイドその1) 2000年8月15日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r004.htm

この中であえて上記の「アナログ時代のリテラシー」以後の‘学問知’について、レヴューしなおしました。

◆ A.1990年代以降の知の世界

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r004.htm

ここで気がついたことは、結局、‘デジタル時代’の学問の仕方ではなく、1990年代以降は、フィールドワークに代表される学問の体系化前の‘現場’に戻るための手法や技法の研究が進んだという事実なのです。いやデジタル時代になったからこそ、可能になった‘新しい’フィールドが見えてきたということなのです。

具体的には、今まで歴史学や美術史など、過去から資料はあったしものはあったのですが、X線透視画像など科学の進歩により今までのアナログでは不十分であった調査が、デジタル技術、具体的にはコンピューターのソフトとハードの進歩により、今まで見えなかったものが見えるようになったりして、‘古い’同じ資料から、全く別の‘真実’が浮かび上がってきた。

したがって、理系のみならず文系学問でも、デジタル機器を駆使した新しい現地学・現場学がルネサンス(復興)となったわけです。

また、急激な社会の変化で、パラダイム自体の見直しが学問だけではなく政治でも経済の世界でも世の中のあらゆる分野で進みました。

そのためには、今までのようにイデオロギーや、いわゆる‘イズム’に乗っかって議論するのではなく、‘現実’そのものを今の感性で、今の技術で捉えなおす必要が生じました。

そのために必要なのが、結局、‘現場学’や‘フィールドワーク’なのです。

私は、胸を張って言いますが‘イスラーム’とか‘開発’とか、その時代でホットなイシューについて、その真ん中?とは言いすぎですが、その中で中枢の人たちのきわめて近くで勉強する機会を得ました。

イスラーム関係の学会の諸先生方や、開発援助の現場での先輩達は、私にとってかけがえのない貴重な財産であり、‘生きた’リファレンスです。

まあ、非才な私が偉そうにつらつら書いているわけですが、自分はメインストリームというか王道(の近く)を歩んできたと思います。

さて、上記の前置きを皆様に共有していただいた上で、新しい講座を開始します。

ではでは^^?

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2011年6月23日 (木)

15. 2001年あるいは、21世紀の始まりに想うこと (あたりまえの時代もしくは本物(ライブ)の時代の到来) 2001年1月28日

15. 2001年あるいは、21世紀の始まりに想うこと (あたりまえの時代もしくは本物(ライブ)の時代の到来) 2001年1月28日

※間奏として、昔の記事を引っ張り出してきました^^?もう10年前の記事なのですが、今読み返してみると全然、今と言っていることが変わっていなくて、俺は全然進化(深化)していないのか?とちょっとへこみます。どうなんだろう、これって。まあ、少しは変わっていることを祈ります。ではでは^^?

初出: HP版 歩く仲間 2001年1月28日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00016.htm

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2001年1 月28日

2001年あるいは、21世紀の始まりに想うこと
(あたりまえの時代もしくは本物(ライブ)の時代の到来)


2000年から2001年の世紀の変わり目に、私は例年どおり実家(田舎)で時を過ごした。

もう、大学に行くために家を出て10年以上が経ってしまったのだが、大学生の時から、いつも感じていたことがある。

大阪の北の方のいわば田舎にキャンパスがあったのだが、なぜか空き地というか「オープンスペース」がないのだ。下宿先から大学まで田んぼや畑の多く残る田舎であったのにも係わらずである。

つまり、田んぼの中をとおる畦道さえもが、完全にアスファルトで舗装されていて、いかにも「管理されている」という匂いがぷんぷんするのだ。当時から、そのオープンスペースのルース感を求めて、いろいろな街角を歩いてきたのだが、大阪の後に、半年ほどいた京都でも、どうにも管理された土地という印象をうけた。そしていまいる東京はいわずもがなである。

今回、実家に戻った際にも、このことを考えつつ家の近所を散歩したのだが、ふと今回、気がついたことがある。

まず、実家の周りは、①空がひろい(つまり、ランドスケープをブち切る、高い建物がないこと。②生垣がおおく、家や田んぼ、畑の境や境界線が極めてアバウトで、人の家の横道伝いに人の家を横切って反対側の道路に通り抜けてしまったり、家の裏に、俗にいう裏山や、藪を抱える家が多いこと。③仮に仕切ってあっても、鉄線が杭に2~3本打ち付けてあるだけで、なぜか金網に破けたままであること。

とにかく子ども時代を思い返すと、誰の所有なのかわからないような林、山、川べり、秘密の隠れ家を作れるようなルースな土地が、ふんだんに身の回りにあったような気がするのである。

さて、そんな田舎であったが、結構、電車の駅に近くアクセスがいいものだから、最近特に、畑や田んぼを埋め立てての宅地化や、家の建て直し、マンション建設計画等が進みつつあり、田舎に帰るたびに、町並みも変わりつつあるようだ。

今回、近所で家の立替工事が進みつつあるのをみて、ふと、昔の抜け道を通ってみたくなった。坂道を下りて、左に曲がって畑の横を通り抜ければ、抜け道になっているはず、と思って道を下っていったら、行き止まりの民家に入ってしまって、以前あったはずの横道がどうしても見つからないのだ。

ちょっと話題が変わるが、年度末に客先を挨拶に回った時、上司が、「壁を壊すのではなく、壁を溶かして」いい仕事をしたいといったような話をしていたのだが、実は、個人的にこう思っていた。「確かに、89年のベルリンの壁ではないが、急激に「壁を壊す」ということはリフレクションも大きかった。昨今の規制緩和や、業界や官庁間の再編に見られるような、「壁を溶かす」ということは、実際、今現在行われていることであり必要なことである。が、実は、「裸の王様」ではないが「壁なんて、そもそもなかったのではないか」ということを、個人的には感じていた。

今回、田舎でのあるはずの道がなかったという経験をして、ふと気がついた。つまり、子どもの頃って、実は「壁がある」ことに気がついていなかっただけなのではなかったのか。現実の世界には、様々の壁がある。それは大人の世界では、当たり前のことかもしれない。私が大学生くんだりになっても、「壁なんてないはずだ」と思い込んでいたのも、単なる子ども性が抜けきらなかったからなのかもしれない。

しかし、私はあえて今、21世紀を前にして、声を大にしていいたい。そもそも、人や物をさえぎる「壁」、分け隔てるという考え方、あるいは「所有」の概念なんて、近代の特殊な一つの考え方にしかすぎないのだと。

日本でも世界でも、「壁」をひしひしと感じさせるところと、逆に、みえるみえないは別にして「壁」を感じさせないところがあるのは何故だろう。

物でも土地でも、所有や囲い込みが行われているのは、全地球的にみれば、極めて限られた地域、それはすなわち、欧米の「経済学」が通用する地域でしかない。

卑近な日本の例でも、明治時代に山野や海に所有権が生ずることになって、濡れ手に粟の、ぼろもうけしたのが、政府(国、県、村)や一部の特定の有力者たちであり、文字の読めなかった一般の人たちが散々だまされて、知らぬ間に、共有地を囲い込まれてしまったことは、ちょっと宮本常一などを読めばわかることである。そこで、まず、ひとつ。

お題目その1.「壁って本当はないのではないだろうか?(物理的にも心理的にも)」

さて、1月6日(土)に、鎌田慧の『ドキュメント屠場』岩波新書1998に触発されて、品川駅近くを歩いた。前褐書は「日本一の食肉工場-東京・芝浦屠場」最初の段が、「トンネル」と、品川駅の東側の港南口にいたるホームからひたすら続く細くさみしい地下道の記述からはじまるのだが、その屠場で働く労働者達が掘らされたという、「トンネル」は、わずか2年後の今はもうない。というのは、品川駅のまさに東側の再開発で、新幹線の駅の新設等で、地下のトンネルは使われなくなり線上駅・通路となり、線路の上を通るように歩道自体が変わりつつあるからだ。

東京都中央卸売市場食肉市場(芝浦屠場)自体は依然として存在しているものの、品川駅との間に新設されたビルに隠れて、すっかり「ちいさく」なっていた。

そして、多分よくあることであろうが、その新ビルの2、3階にあるレストランからは、幅5mほどの道一本を隔てて向き合っているのにもかかわらず、芝浦屠場はみえない。というか、その屠場の側には、ガラス窓がないのだ。JRの線路側には、「スカイウォーク」などというガラス張りのサンテラスがあるにもかかわらずだ。

「汚いものにはふたをする」というか、得てして、このようなことは今でも現実に存在するものである。(当事者がどういう考えで、もしくは何の考えもなく、そのような設計をしたのかはあえて聞きたくもないが、悲しいけど、この日本では極めてありがちなことなのである。)

さて、道を進めて、とりあえず「天王洲アイル」というところまで歩いてみた。デートスポットらしいが、私は行ったことがなかった。

そして、何気にアートスフィアというホールで、『東儀秀樹コンサート-Version2001-』が1時間後に開場であることを知り、急遽、当日券を買うことにする。

私の場合、結構、いきあったりばったりでコンサートや劇を見にいったりすることが多い。事前によっぽど観たいものがあっても、仕事柄、急遽出張とか予定が入ることが多いので、その場その場でチケットを購入することが多い。また、コンサートや劇の場合は、1時間か1時間半前に会場の窓口にいけば、ほぼ必ず当日券があることも経験から知っている。当日券は安い変な席ばかりと思ってはいけない。いい席の当日券もあり、無理に予約して変な席になるより、金さえ出せば、当日でも結構いい席が取れるものなのだ。

さて、「雅楽界の貴公子」などと騒がれ、巷でも結構有名なこの人、実は私も名前ぐらいは知っているものの具体的な曲名や曲を聴いたことがなかった。

しかし、このステージ、まったく予想を上回る、どきもを抜くようなすばらしさであった。第1部では、平安貴族さながらの古典雅楽や“舞”の披露、確かに正月の神社の雅楽と変わらないとは思うが、篳篥(ひちりき)や笙(しょう)や種々の太鼓、琵琶、琴などずらりとまるでひな人形の、五人囃子や三人官女のごとく、10名近くが、着物姿でずらりと並ぶのはそれだけでも迫力がある。

そして、第2部では、東儀秀樹氏自身による篳篥(ひちりき)やピアノ等によるオリジナル曲の数々、その中で、MC(語り)が入ったのだが、実にこの第2部が良かった。サントリーピコの宣伝の曲(三ツ星)や琴のための曲(昼のまどろみ)など、ああそういえばというメロディーと、篳篥のぼやけたようなファジーな音色、彼のお姉さんやお母さんが奏でる竜笛や笙との掛け合いは、実に楽しいものであった。

この第2部のなかで、東儀氏が、テレビの取材で現地にいって知り合った中国の西安の、笛、古琴、胡弓の名人(ミュージシャン)を日本に呼んで、舞台で共演したのだが、電子楽器のけたたましさに慣らされた耳には、民族楽器のもつやさしい音色に心が洗われる気がした。雅楽自体1300年の歴史があるそうだが、伝統のある世界の各地で民族が代々伝えてきたリズムとメロディーの美しさは、やはり一概に簡単に比較できるものではない。

東儀氏は「音楽を通じて世界の人たちと言葉ができなくても、心をかよいあわせることができるのは、とてもありがたい(うれしい)ことだ」というニュアンスのことを言っていたが、それは、客である我々も同じこと、大変、素敵な時間を共有できた。あと、彼が、例えば、「~の曲が、ヒラめいた」という言葉を使ったことがおもしろかった。やっぱり、「天才って、ひらめいちゃうんだな」と思った。

お題目その2 「まず、あるもの(こと)から始めよう。」

今まで何につけ、金がない、物がない、時間がない等、特に援助の現場においても、「ない」ことから始めることばかりを考えていたが、この篳篥しかり、別に、クラシックをやるためにヨーロッパに行かなくとも、ジャズをやるためにアメリカに行かなくても、別に、日本人なりのクラシックやジャズやロックがあっていいはずだし、元からある雅楽や、三味線(最近、昨年の紅白歌合戦に出場していた吉田兄弟のCDも購入しました)でも、すでにそこにあるもので十分、世界の他地域の楽器や音楽と、セッションやコラボレーション(共同で働く)することができるじゃん、というのが、このコンサートで一番感じたことなのである。

確かに、このことは、10年前ほどからのワールドミュージックの、マイナーではあるが結構ディープ(深い)ブームや、久石譲や、三枝成昭の一連の作曲や、もっと平たく言えば、THE BOOMの挑戦や、ディック・リーなどアジアンポップスの台頭など、大きな流れの中に位置付けられるとは思うが、今ほど当たり前に、世界中の情報が行き来し、かつ「エスニック」等のレッテルを貼られこともなく、「素直」に、「いいものはいい」と言えるようになった時代はないであろう。

お題目その3.「いよいよ本物(ライブ)の時代が到達した。」

上記2のことに関連するのであるが、IT革命などという、情報革新の波が全世界を飲み込み、かつ席巻するのは、多分10年もかからないであろう。

その際に、気をつけなければならないことは、「マルチメディア」などといっている本質は「デジタル・メディア」であり、「つまり、マルチメディアの本質は、あらゆる表現をデジタル情報へとユニメディア(単一メディア)化したということなのである。」(注)

そして、インターネットなどで一瞬に情報や連絡がとれるときに、逆に必要なのは、あえて体を動かすことだと思う。実際に、自分の体を運ぶこと、つまり、現場の本物(ライブ)感覚があることの価値がぐんと上がるのではなかろうか。「体験」や「経験」は、特に時間を逃してしまったら、決してお金では買えないし、ましてやテレビやパソコンで視るだけでは、わかったことにならないという時代になると思う。

お題目その4.「日本人ほど世界中に実際にいける(パスポートの制限がない)人はない。」

結局、全世界津々浦々を歩きまわって、実際に、人と人と面と向かって「会うこと」が必要な21世紀、一番、世界で利用制限の少ないパスポートを持っているのが日本人なのである。

実は日本人自体が一番知らないのだが、日本人が世界で一番制限が少なく、多くの国々に立ち入れるのだ。(当然、ビザの取得が必要な国は多いが、日本のパスポートで入国できないのは、確か北朝鮮だけだと思う)

例えば、他のアメリカやヨーロッパの国々、逆にアジアやアフリカ、特にイスラームの国はどうであろうか。実は、出稼ぎ労働者の問題や、宗教的なもの、テロリスト対策等、それぞれの国情(外交政策)により、互いに入国禁止の国がいくらでもあるのである。

結局、単純な結論であるが、人間は体ひとつ、いくらお金や物があっても、自分自身という「主体」である「体」は、ひとつであるし、他人もしかり。人は誰でも死ぬ存在(病気であれ、事故であれ)であることを、忘れてはいけないと思う。(ザザンオールスターズ(SAS)の曲にもあるが、いくら自分が元気で、実際に体を運んだところで、「逢いたくなった時に君はここにいない」ことも多々あるのだ。)

つまり、「壁」をものともせず、そこに「あるもの」をみつめ、「本物」を求めて「世界」を駆け巡る、多分それが21世紀に生きる人たちのあり方ではないかと私は思う。

最後に、もう一項目。

お題目その5.

「You may say I am a dreamer. But not the only one」(Imagine, by John Lennon, 1971)

今年(2001年)になってから、ジョンレノンのイマジンを耳にすることが、3度と重なった。別にテレビの宣伝でやっているからではなく、親しい友達らから、特にこの「イマジン」に関する話題を振られたのだ。私は、この曲全体の思想全てに共感できるわけではない。かなり宗教的な背景が深い危険な曲でもある。

しかし、ただひとつだけ何の保留もなしに同意できるのが、上記のサビの部分なのだ。たぶん、それぞれの人たちが願ったり想像していることは、各々違うだろうけれども、「そう」思っているのは、「自分だけではない。」ということ。それが大事だと思う。

題目その1の、「壁なんてないかも」なんて、まともに社会人をやっていたら、とても恐ろしくていえない言葉である。現実の物理的・心理的な壁はいくらでもあることは百も承知の上である。だが、私はあえて「そう」思いたいし、「自分だけではない」ことを信じたい。

つまり、幸せを求める人々の心(情念とでもいったもの)は、時空を越えるものであろうことを。

この項、了。

注;中川昌彦 『図解 自己啓発と勉強法』 日本実業出版社 1996、104頁を参照。

本文にでてきたCD等

・ 東儀秀樹 『TOGISM』 東芝EMI TOCT10188 雅楽/ニューエイジ 1998 2,039円

・  吉田兄弟 『MOVE』 ビクターエンターテインメント VICG60296 津軽三味線 2000 3,000円

・  久石譲; 宮崎駿のアニメや、北野武監督作品の映画音楽やCM曲で著名。「ナウシカ組曲」等のオーケストラ曲、ピアノのソロ曲など、オリジナルアルバムも多いが、一番、気に入っているアルバムとして、

・   久石譲 『宮崎駿アニメBOX』 AMIMAGE RECORDS TKCA-30004 1989 2,500円(「風の谷のナウシカ」、「天空の城ラピュタ」、「となりのトトロ」、「魔女の宅急便」からのコンビネーションアルバム)

・   THE BOOM; 時期的には、「からたちの道」収録の『JAPANESKA』1990、「島唄」収録の『思春期』1992、「風になりたい」、「ブランカ」等収録の『極東サンバ』1994 等、沖縄、三味線、ガムラン、ケチャやサンバとの出会い、様々な挑戦がありました。とりあえず、お薦めは、ベスト物ではありますが。

・   THE BOOM 『THE BOOM』 SRCL2471 Sony Records 1992 3,000円 島唄も収録。初期の名曲集。

・   THE BOOM 『THE BOOM 2』 SRCL3751 Sony Records 1997 3,000円 また『THE BOOM 2(BLUE)』もあり。

・   三枝成彰 『プロヴァンス組曲』 30DC5315 ニューエイジクラシック Sony Records 1989 NHK「詩情の旅人」テーマ音楽。N響にギター、ピアノ、胡弓をフューチャー。結構、日本の作曲家もやるじゃんという感じです。

・   ディック・リー; とりあえず手持ちのCDはなし。但し、90年代の初め、随分はやったのは事実です。

予告編;

今年度、「歩く仲間」では、「開発学への途」に加えて、「イスラーム中世地理書・旅行記・歴史書研究」についての連載を開始します。さて、このホームページを立ち上げたとき、大学生時代の友人から、以下のE-mailをいただきました。

「開発について考えるページなんですね。長年来、柴田さんが暖めてきた構想のように思えます。」

そう受け取ってもらえて、本当にうれしかったです。自分では、別にそんなつもりはなかったのですが、鍋にぶち込んでおいたものが、適当に発酵してきたということでしょうか。もうひとつの私自身の課題である「イスラーム・アラブ研究」、ぜひ、ご期待ください。

(この項終わり)

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14.‘リアル’、‘リアリティ’そして‘バーチュアル(リアリティ)’  <開発民俗学への途(第2部)>

14.‘リアル’、‘リアリティ’そして‘バーチュアル(リアリティ)’ 

生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き)
<外部者(異人)論 その5>

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今回も、第2項の続きです。

<開発民俗学のアプローチの特徴>

1. 科学的な‘カッコつきの人(間)’から‘平の人’の開放  → 済み

2. ‘我彼’の二分論から‘我々’への橋渡し  → 今、ここです。

3. ‘人として’ ‘人間’もっと卑近的に‘自分’の可能性を広げるための‘他者’の必要性と重要性の解き明かし。

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‘リアリティ’、最近、よく聞く言葉です。あえて日本語で言えば‘現実性’とか‘現実感’といった意味で使われていると思います。たとえば、‘リアリティがない’と語られる場合、それは、‘現実みがない’、‘実現可能性がない’とかいった感じでとられているのではないでしょうか。

そして、私は、‘リアル’と‘バーチュアル(リアリティ)’という言葉をまな板に載せました。

まずは、‘リアル’と‘リアリティ’について説明しましょう。

‘リアル’を同じように日本語に訳すと、‘現実(そのもの)’や‘現実(らしら)’というように‘事実’そのものについてさしていると考えられます。

普通、一般的に‘現実’や‘事実’そのものはひとつのものであると考えられています。仮にそれを是とした上で考えなければならないことは、‘リアル’はひとつかもしれないが、‘リアリティ’は受取人というか‘リアル’を見聞きする‘人’によって異なる。ということが問題というか事実としてあると思いませんか。

もっというと、いや本当は、受取人である‘リアリティ’を感じるもの(人)の‘感性’とでもいいましょうか、アンテナの感度というか‘五感(六感)’の深さによって見えてくる‘リアリティ’自体が異なっているともいえます。

これが前回に述べた‘気づけないわたし’の悲しさとでもいいましょうか、人間そもものの限界であるともいえるのです。

今、あらゆるところで、‘本物’や‘リアル’についての啓発というか関心が高まっています。

今回の大震災でも、‘現実’はどうなんだ、‘リアル’とは実際にどうなんだということで、特に‘現場’にいけずに、ラジオやテレビ映像の二次情報にしかふれられない人にはいらいらというかストレスが募っていると思います。

なぜ、震災の復興委員会はうまく機能していないんだ、義捐金がなんで未だに配られていないのだとか政府の対応、ボランティアのあり方など、‘外部者’のさらに外部のものが野次を飛ばし、‘現場の人’の声や姿は、確かにテレビでドキュメンタリータッチでテレビでもラジオでもさまざまに‘取材’され‘加工’されて茶の間に流されています。

いや、この際、二次情報や一次情報という言い方はもうやめましょう。内野だろうが外野だろうが‘全て’が今までの昔のワーディングでいう‘一次情報’であるからです。

なぜなら、それはそれなりに‘リアリティ’があるからです。取材者の意図や思い込みで刈り取られた‘一次情報’ですら、その‘一片’どころかそういう‘ストーリー’を描こうと取材者がしたこと自体が一つの‘リアル’であり、その‘リアル’に対しては‘リアリティ’が成り立つからです。

結局、‘リアル’も‘リアリティ’もはっきりした一つのものであるとはいえないのではないか、ということを私が言おうとしているのではないかと、ここまで読んできて思われるかたが大多数だと思いますが、そのとおりだともいえるし、いやそうでもないというか、私が、この考察で言おうとしているのは、そういう‘事実’をふまえた上で、如何に‘リアリティ’の精度というか‘リアル’の把握の制度をあげるのかを考えましょうということなのです。

つまり、捉える人により‘リアル’や‘リアリティ’は変わってくる。人によって‘見えたり聞こえているもの’は違う。では、誰が、その一個人の‘リアリティ’を代弁できるのか。

それは、その当事者である‘(一)個人’でしか、その人の立場を代弁することはできません。

これは、私が世界を実際に歩いてさまざまな立場の‘人’たちと直接、会って話して感じてきたことなので、今まで書いてきたような言い方でしか皆様に‘言葉’で伝えることはできません。

本当は‘感じろ’としかいえないようなことを私は‘ぐだぐだ’?と書き連ねています。

ちょっと間延びもしてきたので、具体例は次回にお話しましょう。

あと、‘リアル’の一つの端的な形である‘本物’というものについて、ちょうど10年前に書いた文章を紹介しておきましょう。かなり長文になりますが。

ではでは^^?

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始めに(今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか) (その1&2) <歩く仲間 アーカイブス>

初出: HP 歩く仲間 -歩きながら考える 世界と開発 -  

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0001.htm

始まりの始まりの原稿です。もう一昔の10年どころか、12年も前のことなんて信じられないです。かなりこっ恥ずかしいのと同時に懐かしい感じです。

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1999年11月21日

始めに(今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか) その1

久方ぶりに、筆を取る気になった。そもそも、このような個人的な発信は、本人の内在的な欲求の発露というか、単なる個人的な気まぐれから始まることに間違いはない。

だが個人的な理由であれ、それは、やはり、この数年の、時代の移り変わりの激しさと、それに呼応する個人的な状況の変化による必然的な欲求であったような気もする。

しかしここでは個人的な理由に絞って、簡単に振り返ってみる。1992年に、大学を卒業した私は、半年ほど浪人を過ごした。それまで、高校、大学と一応第1希望というかストレートで歳を重ねてきた自分にとっては、初めて自分で自分の行く末を考える始まりとなった。

経緯は省くが、縁あって中途採用という形で、1992年9月5日付けで、ある開発コンサルタント会社に就職することとなった。今思うと、極めて幸福で奇跡的な出会いであったと思う。就職活動を振り返って、結果として一番よかったと思えることは、大学4年生の時に、あせって就職活動をしなかったことだ。

体育会系のヨット競技部に所属していた自分は、同期5名のなかで、4年生のクラブ終了後に海外留学が決まっていたり、留年して世界放浪に旅立つ予定の友人たちが、正直言ってうらやましくてたまらなかった。

大学3回の時に留学に応募できず、4年生のクラブが終わった後に、やっと受かったエジプト政府の奨学金も“湾岸戦争”などというもので、辞退という結果になった。(エジプト自体は比較的安全であったとか、実際の留学する時期には、あまり影響はなかったという話を後で聞くが、それはそれでみずから留学を断念したことにはかわりなく、後悔はしない。)

ちょうどそんなころ、いわばやけくそ的に取り組んでいたのが、大学3年生の時に新規開講となった『地球環境論』という各講師持ち回りの連続講義とそれにかかわるエクセトラである。そこに、若くて活動的な諸先生方と、「環境論友の会」なるものを共に立ち上げようと一緒にビラを作った友人との出会いがあった。

そして、専攻語に対して取り組んだのは、『アラブ・イスラーム学習ガイド』なるものの刊行である。確かに4年生としては卒論というものがあったが、11月頃まで、この個人出版の本の原稿づくりに励んでいた。いずれにせよ、そのビラ作りと本作りが、今の自分を型づくる背骨の大きな一本であることは間違いがない。

さて、その大学時代に感じたことは、「知は力なり」ということに加えて「その知とは、すべからく(万人に)開かれたものでなければならない」ということである。

大学で勉強を進めるうちに思ったのは、今思うと随分乱暴な考え方と思うが「なぜ専門家は、自分の研究のみにかまけてしまうのであろう」ということであった。まさに、「浅学を顧みず」一冊の冊子に自分の見たこと感じたこと、大学で学んだことをまとめようと思ったのは、少しでもそれを後から続く人たちに踏み台にしてほしかったからである。

1999年11月21日

始めに(今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか) その2

(初出: HP 歩く仲間 -歩きながら考える 世界と開発- http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0002.htm

長い前書きになったが、その本の中で、「あとがきにかえて(旅行の勧め)」を書いたのだが、その言葉を受けて、まさに“今”の自分が改めて筆を取ろうとしている。

つまり、自分なりに“旅”に乗り出した自分を感じるからである。就職後、8年目にして、ようやく自分自身をみつめなおす時間が持てるようになった。とにかく5年目ぐらいまでは、仕事を覚えることで精一杯だった。

大学を卒業して、就職が決まってやっと自分のパスポートをつくってヨット部の仲間といったのが、タイである。そして、スペインからイタリアへの個人旅行を経て、大学卒業2年目に、初めて“アラブ”を訪れた。

その初めてのエジプトの地は、あまりに自分の想像していたものと程遠かった。駆け足で回ったまさに典型的な観光地で“外国人”目当てによってくる“アラブ人”(エジプト人、ヌビア人といってもいいだろう)に、片言のアラビア語は全く通ぜず、「おまえのアラビア語はわからないから、英語で話せ」となんども“英語”で言われた。

3年目を過ぎることから、ようやく海外出張に出してもらえるようになったが、つい半年前まで、その出張とは必ずしも楽しいだけのものではなかった。

会社の出張で初めていったのが、アラブ首長国連邦のドバイ(ここもアラビア語圏ではあるがパキスタンなど出稼ぎ労働者が多く、アラビア語というより英語のほうをよく街で耳にした気がする)、アフリカの角にあるエリトリア、西アフリカの象牙海岸国、ブルキナ・ファソ国など、いずれもほとんどわからない現地語と中途半端な自分の英語力に泣かされた。

しかし、今年の1月から仕事として、再びエジプトに乗り込むこととなった。1月に1ヶ月、5月から3ヶ月間、9月から2週間、今年は、まさにエジプトにどっぷりつかった1年であった。ようやく、初めてエジプトにあって感じた違和感、居心地の悪さを自分なりに消化してきたといえる。

今、この仕事等を通じて現地や現場に接したことを思うと、先立つ“勉強”は必要かもしれないが、逆に“先入観”や思い込みばかり強くなって、最初のエジプトに行った時に感じたように、知識と現実のギャップの大きさに自分が振り回されてしまったようだ。(実は、大学時代に苦労して読んだ“専門書”の内容は、当時、全く何が書いてあったのかわからなかったし、記憶に残っていないように思う。)

やはり自分がちゃんとわかるようになってから、初めて触れるべきものがあるのだろう。「すべての個体は、個別に進化を繰返す」という言葉を聞いたことがあるが、まさに、すべからく誰もが身をもって経験により“知っていく”のであろう。

今の仕事の日々は、まさに“走りながら考える”日々である。

ここに、“歩きながら考える”というタイトルで再度、筆をとろうと思うのは、あの時“跳べなかった”自分へのなぐさめであり、“実際に歩きながら考えないといかん”という自戒を含めた、まさに跳ぼうと考えている人たちに対する励ましであろうと願うからである。

(この項 了)

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2011年6月21日 (火)

ひとりNGOの勧め -ODA50周年に寄せて- 2004年10月1日 <歩く仲間HPアーカイブ>

最近、facebookのfacebookページというのをはじめました。そこで展開するのが、今まで独自のHPでやってきた「歩く仲間 - 歩きながら考える 世界と開発」のfacebook版。

もう、HP版の「歩く仲間」は、2000年3月18日の開始ですから、すでにめちゃくちゃな量の記事が書き込まれています。

HP版 「歩く仲間」 : http://homepage1.nifty.com/arukunakama/contents.htm

とはいえ、いきなり全てを移植するのは不可能なので、しばやんセレクトでこれはという記事をfacebook版に再掲することにしました。

その第1弾がこちらです。自分としては、かなり思い入れのあるエッセイです^^?

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http://www.facebook.com/note.php?created&&note_id=228228217204525&id=218043411556339#!/notes/%E6%AD%A9%E3%81%8F%E4%BB%B2%E9%96%93-%E6%AD%A9%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E9%96%8B%E7%99%BA/%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8Ango%E3%81%AE%E5%8B%A7%E3%82%81-oda50%E5%91%A8%E5%B9%B4%E3%81%AB%E5%AF%84%E3%81%9B%E3%81%A6-2004%E5%B9%B410%E6%9C%881%E6%97%A5-%E6%AD%A9%E3%81%8F%E4%BB%B2%E9%96%93hp%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%81%A7%E3%81%99/228228217204525

初出: 歩く仲間HP 2004年10月1日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00024.htm

一口コメント: しばやんの生き方というか原点を示したもので、実は、自分でも好きなエッセイです。 (2011年6月21日 再掲)

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2004年10月1日

ひとりNGOの勧め -ODA50周年に寄せて- 

But I’ m not the only one. John Lennon, Imagine 1971より>

最近、特に開発関係の仕事に進みたいという人から相談を受けることが多い。当然、その場で結論をだせないにせよ、本人と直接会って話しをするほうがよいのはわかっている。しかし、必ずしもお互い時間を取れるわけでもないし、このHPをみてのE-mailをくださる方も多いので、とりあえずE-mailで回答することも多い。その質問内容をみると、それぞれいわば生まれも育ちも違うはずなのであるが、質問に一定のパターンがあるようにもみうけられる。ここでは、そんな典型的な?質問に対する私の基本的なスタンスを述べたいと思う。

1.勉強が先か、現場が先か。

すでに大学を卒業して社会人として働いている方からの問い合わせに多くみられるのだが、きっかけはいろいろだが仕事として「開発」に関わりたい、今、実際に働いている分野は、直接、開発と関係ないのだが、将来的に開発の開発専門家としてのキャリアパスを見つけたいのだがどうしたらよいかという質問が非常によく寄せられる。

その背景をもう少し細かく見ると、自分の大学で専攻したことと仕事のいずれもが、自分のめざす開発専門家として求められる資質と違うのではないかというケースと、自分が大学や仕事で専攻した分野での経験を生かして、国際協力の仕事に転職したいのだがというケースの二つに大きく分かれるようである。

いずれにせよ、個人の問題意識を述べられた上で次にくる質問は、何々の分野の専門家になりたいのだが、専攻した(したい)分野を生かすためにあらためて海外の大学院に留学したい、もしくは国際NGOなりでとにかく途上国開発の現場にでたいのだが、どこにアクセスしたらよいかと問い合わせだ。もっとダイレクトに、留学したほうがいいのか現場を先にみたほうがよいのでしょうかという質問だ。

言い訳ではないが、わたしは別に就職のカウンセラーでも何の権限をもっているわけでもないのだが、そうは言っても、せっかく質問していただいた人たちには、大体、次のようなアドバイスをしている。

優先順位:   1

チェックポイント: 自分の好きな分野を大事に。

その理由: 確かに実務の現場として技術的に求められる分野やこれからはやりそうな分野はあるが、あくまで本人の興味関心にあったことをやってほうがいい。しかしながら、逆に社会人の人はその仕事として経験した分野から大きく離れた分野にいきなり挑戦するのもかなり厳しいとも思う。

優先順位:   2

チェックポイント: 自分の好きな世界の地域を選択して、実際に現場に触れてみることがよいのではないか。

その理由: ある程度自分の専門としたい分野が決まった人に次に勧めるのは、自分が好きな地域をある程度、絞って実際に現地に行くことをお勧めする。詳細な理由は、後述する。

上記を一言でまとめると、好きな分野と地域をある程度、決めてかかったほうがいいですよということである。確かに、あたりまえのことだ。

当初の「勉強が先か現場が先か」という問題にもどると、私としては、もし時間が許すなら、まず自分の関心のある地域にいって、これは単なる旅行でもNGOのスタディツアーでもなんでもいい、もしその国や地域が気に入ったのなら、その地域や国をベースに、その国で求められている技術やレベルを基準に、自分の学ぼうとする専門性とのフィードバックをしつつ、具体的に、自分のやりたい(勉強したい)ことや、自分の弱点、強みを見出してみるのがよいのではないかと思う。

私は、某国立大学(大阪外国語大学)の外国語学部でアラビア語を勉強したのが、その時に、同窓の友達、先輩をみて、入学当初の言語、すなわち地域の選択が、いかに難しいかということをつくづく感じた。別のところでも書いたが、私は大学地代を通じて結局、卒業するまでアラビア語圏はもとより外国旅行をしなかった。確かに15年も以前のことで通貨価値もちがうし、他の理由もあるのだが、今になって思うと、アラビア語を選んだのは、非常な賭けであったと思う。

幸いにも関心をもって今まで勉強を続けてこれたが、少なくとも私の知る限りの二つの国立の外国語大学では、1年生から専攻言語の授業があり、少人数の蛸壺教育で、1年生から専攻語学の単位がとれないと進級できなかった。つまり、その言葉なり地域なり、もしくは先生にあこがれて入学した人はいいが、逆に、英語や他の言葉をやりたいのだが、とにかく外国語大学に入ってしまえと入学したはいいが結局、専攻語になじめなかった方は、実に辛い思いをしたと思う。

また、最初は関心があってはいったが、実際に現地にいってみたらあまり思ったほど楽しい地域ではなかったという話しを、実に意外なほど多く見聞きした。

当然、こちら側の思い入れも大切なのだが、相手というか言語や地域も、人を選ぶのだ。これは結局、相性としかいいようがない。

別のところ(歩きながら考える[013])でも書いたが、言葉を学ぶとしたら、英語を中心に、フランス語、スペイン語ができるといいが、それに加えて、私はぜひ自分のフィールドというか好きな国の言葉を学んだらよいと思うのである。どんなきっかけでもよい。たまたまというか、自分の気に入った国があって、それが結果として途上国であるかもしれないが、そこで現地の人と友達になれたら、そこはあなたにとって単なる開発援助の対象でも国際協力の対象ではなく、あなたの友達が住んで生きている現場なのだ。(これでは、まるで『星の王子様』の世界ではないか^^?)

2.「3つのC」で考える

ちょっと脱線するが、最近、3つのCというものを考えている。これは、いわば気づきの3段階のキーワードを並べたものだ。

段階 : 1

キーワード : Conscious, Concern, Care

そのココロ : まず気づくこと。かまうこと。

段階 : 2

キーワード : Collaborate, Cooperate

そのココロ : 共に働く(遊ぶ)こと。共に生きること

段階 : 3

キーワード : Commitment, Courage

そのココロ : 自分の立場に責任をもつこと。励ますこと

実は、まだ漠然と考えているだけで、2と3の順番や、どの単語がそれぞれの段階でベストなのかは決めかねているのだが、援助の現場で求められている他者(世界)の認識には、上記のステップがあるのではないか。

まず、自分とは違う他人に気づくこと。そして、一緒に考えたり遊んだりすること。さらに踏み込んで、例え地球の裏側であってもその他人を仲間として自分の中に位置付けて、一生の友達として自分なりに覚悟をきめること。そんないわば赤の他人を受け入れることには当然、勇気が必要だ。

今の日本の現状をみても、非常に世知辛い世の中ではある。特に、都会では「袖ふれあうのもなにかの縁」などいうことわざは死語と化しているであろう。また逆に、「一期一会」とはいう言葉もある。そういえば「小さな親切、大きなお世話」などというCMが日本の流行語大賞を取ったのは果たして何(十)年前のことであろう。

それはさりなん、逆に今の世のだこそ、‘仲間’の問題を自分の問題として共に考えようとする、ちょっとした勇気が今の世の中に求められているのではないか。

国際協力とか開発援助とかいうと、確かに今では日本の社会において社会的関心も高まり、それなりのステータスというか地位を得ているが、これはそんなに昔のことでもない。また、別にODAやNGOだけが、この世界を「開発」しているわけではない。市井の本当に普通の人たちの経済活動が、この資本主義(国民国家)世界を現実的に形成しており、世界を回しているのだ。現在の「日の沈まない帝国」とはすなわち「多国籍企業」でもあるのである。

今までの、いやこれから先もずっと先進国は先進国だけでは生きていけないし、逆に途上国は途上国だけでは生きていけない。日本もしかり、決して孤島ではなく、地球上の全ての地域や国と、簡単には目に見えなくても密接なつながりをもって存在している。もう「官」とか「民間企業」とか「市民社会(NGO)」とか便宜的なラベリングをやめようではないか。だって、私たちは、「役人」であったり「会社員」であるのと同時に「家族」の一員であり、たまには「市民活動(NGOなど)」に参加したりしている、普通の人たちではないか。ひとりひとりが、いろいろな仮面を持って、この現実社会に実際に生活しているのである。

最近、大学の中国の地域研究をしている恩師と開発についてE-mailでやり取りすることがあった。ちょうどその私の返信の中に、まさに今の私の心境を表している一文があるので、以下に転載させていだたく。

「  ~前略~  私のHP上でも、いろいろ紹介しているように、若い援助に関心のある仲間は、本当に自然体で「開発援助」を考えていると思います。今、この文章を書きながら、たまたま、ふと思ったのですが、私にとっては、この援助の仕事も、ある意味「遊び」でやっているところもあるし、なにより”援助”される人を、私は「友達」というか「仲間」として認識していることに、あらためて気がつきました。

たまたま、生まれや育ちが違うだけで、本質的には、同時代を共有している仲間じゃん。 実は、2年前にフィリピンに出張にきたときにパナイ島のイロイロで知り合った国家灌漑庁の灌漑事務所で働く女性の友達(歩きながら考える[019]を参照)から2年前に、「Mr.Shibataは、他の日本人と全然ちがう。30パーセントが日本人で、30パーセントがフィリピン人で、後の40パーセントは、何人だかわからない。」とコメントされておりますので、とても私が標準的な日本人とは思えないのですが、ただ、私が日本で「若手会」と称してつきあっていた日本人の仲間は、ある面、同じような思考パターンをもっていました。彼女達とは、駐在してからも出張を絡めて遊びにいって今でも仲間としてたまに連絡をとりあっています。  ~後略~  」

以前、開発教育を語ったとき(歩きながら考える[013])にも述べたが、日本のことと、英語圏のことと、そしてもうひとつの定点観測をすべきフィールドをもつこと。つまり、三角検証(Triangulation)できるようなポジションに自分を置くこと。特に海外に一生つきあっていけるような仲間を持つことが、大切なのではないか。

3.ひとりひとりずつの花を咲かそう

一昨年であろうか。人気グループ(スマップ)の歌で、「世界にひとつだけの花」という歌が日本で大変はやった。うろ覚えで申し訳ないが、「Number One でなくてよい。Only One でよい。世界でひとつだけの花を咲かせよう」という意味の歌詞であったと思う。実は7年ほど前に同じような言葉を聞いていた。1997年の日記の「今年のはじめに」の欄にこんなことを書いていた。

「・・・今年は一歩進めて地域社会に生きる。普通の人々のなにげない生き方に共鳴し、共感する。そんな人の間で生きてゆくことに心をそそぎたい。昨年末(1996年)のテレビで見た海援隊ライブで、武田鉄矢が恩師の言葉として引用した言葉「折れたるは折れたるままに、小さきは小さきままに咲くコスモスの花」にあるように、物事をありのままにうけとめ、決して自分の尺度で計らずに、皆がそれぞれの立場で花を咲かせる、輝けるような一年に今年はしたい。」

それぞれの人たちが、それぞれの立場でプライドを持って生きていけたらどんなにか素晴らしいことかと思う。

今、開発援助業界は、日本に限っていえば、とてつもない買い手市場で、競争も激しいときく。特に、すでに社会で働いている人にとって、隣の芝は青いではないが、なにかとても崇高な‘社会貢献’をしているようにみえるかもしれない。しかし、ちょっと待ってほしい。公務員であれ民間企業であれ、自営業であれ社会人として社会のため人のために働くということは、それぞれが貴重で大切なことだと思う。

私は、途上国でも日本でも、路上で日々の糧を得ようと手を伸ばす人たちにコインを渡すようなことはしない。なぜならば、私は日々の実践として、これらの貧困やよりよい社会を築くために闘っているという自負があるからだ。

別に‘開発援助’の現場に働くことだけが人生ではない。それぞれの立場で、よりよい世界を目指してがんばることに意味があるのだと思う。観光旅行でもいい、NGOのスタディツアーでもいい。自分の足で歩いて自分で良かれと思うことを実践する。ちょっと問題意識をもって、世界のさまざまの土地に生きる生身の人々と対話を始める。それぞれが、ほんのちょっとだけでもお互いに‘よい想い’を共有できたらそれだけで十分な国際理解であり‘開発援助’ではないか。

「歩く仲間通信[018]」で冗談みたいな話しとして語ったが、会社や組織の一員というだけではない、自分で考え自分で動ける自分というものを持つこと。すなわち、「ひとりNGO」という生き方を提唱したい。

これはいわずもがなのことであるが、単なる帰属集団や体制批判でもないし、社会に背を向けて勝手なことをやるということではない。あくまで社会の中の自分というのを踏まえた上で、‘自分’を語ってよいのではないかという、ささやかな独立宣言の勧めである。

2004年10月6日は、日本が戦後コロンボプランに参加して50周年、つまりODA50周年となる。例年のごとく、10月の第一週の土日の2日間、すなわち2004年10月2日、3日と東京の日比谷公園で、「国際協力フェスティバル」が行われる。残念ながら、私はマニラで参加できないが、関東近辺の方は散歩がてら足をのばしてみたらいかがであろうか。

国際協力フェスティバルの主宰者によるホームページは、以下のとおりである。

http://icf.visitors.jp/

やはり、何をやるにも、「旅は道連れ、世はなさけ」である。歩く「仲間」とのよき出会いを。

この項 了

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2011年6月20日 (月)

桃木至朗編 『海洋アジア史研究入門』 岩波書店 2008

初出:足掛かりにしたい専攻研究<ブックガイド> @ mixi 海洋民俗学~海からみる世界

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47749470&comment_count=4&comm_id=4578156

2011年6月19日の記事です。

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久しぶりにこちらのコミュにカキコします。

 

最近、時間ができたので、毎週のように公立図書館に通っているのですが、さすがに専門書や新刊が、なにげに開架式本棚に並んでいるのをみるとえーというかおーというか、感嘆のため息?がついついもれてしまいます。

 

ということで、本を買わずに本の背を読むということで、図書館で目についた本を紹介します。

Kaiyoasiashi ○桃木至朗編 『海洋アジア史研究入門』 岩波書店 2008年3月26日

2800円+税

前から、大きな新刊書店で見ていて気にはなっていたのですが、なかなか本も高いし、すぐに買うほど優先順序が高いわけでもなかったので、横目にみていたのですが、海洋民俗学を語るからには、欠かせない教科書というよりマニュアル本であるといってよいでしょう。

開発民俗学のコミュでも言っていますが、もはや‘一国民俗学’の時代ではありません。グローバリズムの中で、如何に的確に自分(日本人)の立ち位置を考えるかが重要なこの現代社会では、西欧だけみていてもだめだし、中進国(中国、インド、韓国、ブラジルなど)をみていてもダメだし、途上国だけをみていてもダメでしょう。

つまり、世界全体を一体のものとして考えることが必要で、地政学的な‘国民国家’や‘地域’の概念は必要でしょうが、いまや先進国や途上国、第一世界、第二世界や第三世界などいうラベリング(レッテル)自体が、まったく意味をなさなくなってくるでしょう。

すでにそういう時代だと私は思います。

ということで、この本、大阪大学の桃木至朗先生を中心に総勢33名の関西を中心にした中堅、若手の研究者が執筆しています。

やはり、このコミュの指定図書としておきましょう。

これくらいの常識がないとダメですよということで。(私も含めて!)

ではでは^^?

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2011年6月19日 (日)

13.‘気づけないわたし’に気づくこと (開発民俗学への途 第2部)

生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き)  <外部者(異人)論 その4>

今回は、第2項の続きです。

<開発民俗学のアプローチの特徴>

1. 科学的な‘カッコつきの人(間)’から‘平の人’の開放  → 済み

2. ‘我彼’の二分論から‘我々’への橋渡し  → 今、ここです。

3. ‘人として’ ‘人間’もっと卑近的に‘自分’の可能性を広げるための‘他者’の必要性と重要性の解き明かし。

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前回、‘リアリティ’というキーワードを提示しましたが、その前に、誰にとっての‘リアリティ’かという話をします。

今回のサブタイトルを、‘気づけないわたし’としたのですが、なにか違和感を感じませんか?

私は、最初に聞いたときにそれほど違和感を感じなかったのですが、ちょうと1ヶ月ほど前の会社の朝礼の社員のひとり3分間スピーチで、ある音楽好きの同僚が、こんな話をしました。

J-POPSの黎明期の作詞家で吉田美奈子という人がいるそうで、最近、その同僚が彼女の再販のCDを買った(紙ジャケ?)のだが、彼女が(彼女)の歌の中で結構多用していた「気づけない」という言葉に、30年前も気になってはいたのだが、あらためて聴きなおすと、今のほうが昔より気になって気になって仕方がない。なぜ、「気づかない」のではないのだろうか。「気づけない」とは、一体、どういう意味なのか、気になって気になって、CDを聞きながらずっと考えているという話でした。

同僚曰く、「気づかない」という言い方はするが、「気づけない」とは日本語としておかしいのではないか、「気づけない」とは何か特別な意味を込めて吉田美奈子がいっているのだろうが、自分には、なぜ「気づけない」のかがわからない。年をとって経験を重ねれば、「気づける」ようになるのか? といったような話しで、私は、この同僚の話を聞いて、ピンとくることがありました。

これは、「見えども観えず、聞こえていても聴こえず」ということではないか、と。

次に私の朝礼の発表があったときに私は皆さんにこういう話をしました。

「気づけない」ことについて、私も考えてみた。それはこういうことではないのか。たとえば、私も音楽やステレオが好きで趣味なのですが、大学生時代にステレオに興味をもって、たとえばクラシック音楽を聴きだした頃、オーケストラの‘ピチカート’の音がどうしても聞こえなかった。しかし、なにかのきっかけで、ブラームスの交響曲第1番のコンサートに行ったのだが、その時に、第3楽章の‘ピチカート’の演奏を実際に観て聞いて、初めてピチカートの音が、ステレオの音だけでわかるようになった。また高校生時代、音楽好きの友人が、ビートルズのアビーロードというアルバムのB面のメドレーのポール・マッカートニーの‘ベースライン’がスゴイといっていたが、これまた自分が実際にバンド演奏を生で聞くまでは、ベースラインは聴き取ることができなかった。つまり、聞こえていても聴こえない、つまり「気づけない」ということは、実際にその症状はでていたとしても、たとえば友達や恋人の変調に「気づかない」のではなく、「気づけなかった」というのは、「気づく側」にその‘気づく’チャンネルができていないかったということなのではないか。

それが‘気づく’ようになるためには、やはりガツンと実体験、先の音楽の例で言えば、本物にあって見て聞いて心を動かして、という経験がないと、わかるようにならないのではないか、ということで、これは時間がたてば‘わかる’ことではなく、やはり‘心を動かさない・動かされない’と‘わからない’ことなのではないのか、ということを、みんなの前に発表しました。

そして、その気づくためには、なんらかの‘アンテナ’がないと気づけないし、気づかない。それにも増して、人と人のコミュニケーションで気をつけなくてはならないのは、アンテナが違っている、ラジオでたとえれば、FMとAMと全く別のアンテナが必要なのに、同じアンテナを相手も持っているとおもって、チューニング(選局)さえすれば、話が通じるようになると思っているかもしれないけど、実は周波数帯(バンド)すなわちAMとFMではアンテナ自体が全く違うので、いくらそれぞれがチューニングしても絶対に周波数があうことはない。

そのようなことを‘気づかなくてはダメだ’ということを、ついでに発表しました。

自分で言ってから、我ながらよいたとえだなと思いましたね。

よく、現場と本部との間で「温度差の問題」ということが公私共に話題になりますが、そういう時って、単に現場と本部の物理的な距離が離れているだけではなく、まさに私が言ったように、それに加えて、現場と本部のバンドが違っているということもあったのではないかと、自分の経験を振り返っても思うのです。

結局、アンテナすなわちバンド(周波数帯)が違うことに全く気がつかずに、話を合わせよう(チューニングする)という不毛ではないにせよ、難しい‘努力’を、互いに涙ぐましいまでにしていた。でも話は通じない、なぜならバンド自体が違っていたから、いくら互いが話をあわせようとしても、アンテナ(バンド)の違いによって、並行線どころか、全く違った方向に向かって互いに走ろうとしている。

これではダメですよね、とは思うのですが、現実に、この手の話がいかに多いことか。とても他人事ではなく、自分の問題として反省しきりです。

さて、次に私が言いたいことはもう言わずともわかるでしょう。

つまり、「人と人が簡単に分かり合えると思うな!」ということです。

このことについては、次回、もっと深めて考えてみます。

あ、結局、今回は‘リアリティ’までたどり着けなかった^^? でも前フリとしてはOKでしょう。次は、‘リアリティ’の中身に入ります。

たぶん。

ではでは^^?

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2011年6月17日 (金)

11.生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き) <外部者(異人)論 その3>

前回の続きですが、ちょっとおさらいを。今から2項に入ります。

<開発民俗学のアプローチの特徴>

1. 科学的な‘カッコつきの人(間)’から‘平の人’の開放

2. ‘我彼’の二分論から‘我々’への橋渡し

3. ‘人として’ ‘人間’もっと卑近的に‘自分’の可能性を広げるための‘他者’の必要性と重要性の解き明かし。

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ちょっと間があいてしまいました。

私自身も、東京に行ったり、ちょっと脱線していたので、いざ、元に話を戻そうとすると自分も書きたいことを忘れてしまっていてつらいところがあります。

さて、我彼の二分論というか二元論については、さんざん「文化人類学への問い」の中で述べてきたことなので、簡単にスルーさせていただきます。このあたりの私の考え方については、開発民俗学のコミュの中でもトビを立てていますので、こちらをご参照ください。以下、引用。

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「文化人類学」への問い <理論各論>

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29255205&comm_id=2498370

決して近親憎悪というわけではありませんが、私は「文化人類学(まあ民俗学も含まれるかもしれませんが)」に関しては、かなり過激な発言(苦言)をしております。あえて皆様のご教示を仰ぎたいところです。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0001.htm

>われわれの物語を紡ぐために: 文化人類学への問い。(2005年7月3日)
>文化人類学の1990年代を振り返る  (2005年7月3日)
>ブームの宮本常一?  (2006年4月1日)
>「貧困(削減)」という名の「差別のラベル=人種差別」?2007年2月10日
>人類学者の皆様に ~援助の‘効率化’って何?~ 2007年2月10日
>人類学者の皆様に(補足1)
>~援助‘する’側、援助‘される’側の認識について~ 2007年2月18日
>実務者不在の議論(その1) 2007年4月14日
>実務者不在の議論(その2) 2007年4月14日
>実務者不在の議論(補足) 2007年4月15日

これらの論考は実務者でありながら研究者を目指している自省の記でもあり、たんなる批判ではなく、建設的な提言と考えていただけますと幸いです。

忌憚のないご意見を聞かせていただければと思います。また、批判ではなく建設的なご提言がいただければとも思います。

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ただ、今の社会科学系の学界の動向としても、すでに我彼の二元論は‘古い’との話もいろいろなところで聞いていますので、まあ克服されつつある‘古くて新しい’問題であるとのみいっておきましょう。

まあ一つだけ古めの記事を引用しておきましょう。

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われわれの物語を紡ぐために:文化人類学への問い。  2005年7月3日
(彼岸と此岸を繋ぐもの。しかし、そもそも川はあるのか?)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00028.htm

われわれの物語を紡ぐために:文化人類学への問い。

(彼岸と此岸を繋ぐもの。しかし、そもそも川はあるのか?)

“開発民俗学への途”の中で、日本における「民族学(文化人類学)」と「民俗学」についてまとめようとして、この数年いろいろ教科書とかを読み漁っているのだが、あまりの民族学(文化人類学)のお粗末さにあきれるというか、かなりがっくりきている。

いつから日本人はこんなに傲慢になったのだろう。そもそも中高生の頃から、文化人類学は気に食わなかったが(詳しくは言及しないが本多勝一の影響がかなり大きい)、いま改めて見直してみても、その基本的な弱点が克服されていないように見受けられる。(注1)

しかし、なぜ同じ‘人間’を‘他者’としてしか認識できないのであろうか。欧米がオリエンタリズムで自分と違うものを、‘未開’なりとラベリングするのはいい。というのは、彼らは自分達とは違う世界を、彼ら‘のみ’が知らなかったのだから。しかしながら、中国やインド文明を知っていたはずの‘日本’人が、欧米人のマネをする必要はあるまい。そもそも日本という‘国家’は、明治以後できたという言説もあるが、実際16世紀に宣教師が来るまでは、隣国の中国や朝鮮が日本人のお手本であった。「未開人」を扱うのが、「文化人類学」で、「文明社会」を扱うのが「社会学」だと。馬鹿を言ってはいけない。人から学ぶのに、人間を学ぶのに、そもそも私とあなたの人間の間に上下などあるわけがない。これは福沢諭吉の一節(「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」『学問のすすめ』1872~76年)でもあるが、この感覚が、日本に紹介されてたかだか130年ほどしか経っていないというのもまた驚くべき真実であるが。

さて、明治時代を通じて日本は今までの経験と同じく西欧文明のいわば一番よいとおもわれる部分のみを摂取しようとしてきた。彼らの中の野蛮性や未開性には気づかないふりをしながら。私は、実際の欧米への留学生達は、かの国の醜いところに酷いところに気づいていたと思う。ただ、日本の人たちの‘幻想’をこわさないためにあえて言わなかっただけだと思う。もしくは、自分の眼が間違っていると思ってしまったのかもしれない。

ともあれ、今改めて文化人類学を学んでみて、その‘まなざし’に対して、どうしても納得がいかない。なぜ、他人を知ることによって自分を見つめなおすことだけが自己目的となっているのか。いつまでも‘他者’でしかありつづけない‘他人’に対して何をなしうるのか、また何をなしてきたのか。文化人類学の専売特許とされたフィールドワークによって、彼らの世界にあなたは何をもたらしたのか。あなたの知識や経験は、そのエスノグラフィー(民俗誌)は、誰のために何のために使われたのだろうか。

今、日本の開発に関心をもつ文化人類学者の間では、「開発人類学」とか「開発の人類学」とかが話題になっているらしいが、いずれも自分の立場だけを問題にしている。相手の立場はどうなっているのか。単なる客体でしかないのか。文明国民のわれわれの彼岸にしかいない人たちなのか。

ここで、特に若い人たちのためにはっきり言っておく。21世紀のこの世の中、どこを探しても未開人や原住民、ついでに先住民といい変えてもよいが、そのような現代社会(資本主義世界と言ってもいい)から隔離された人たちは存在しない。(100%と言い切るだけの勇気はないが。)

開発学を学んでいる若い人にも言っておく。いろいろ開発途上国、低開発国いろいろなラベルはあるが、そんな‘ドル’という経済単位でしか測れない国家や民族は存在しない。私は、なぜ、中国やインド、アラブ・イスラームの国々、どこでもよいが、これらのそれぞれ長い歴史や文化をもった国々を、‘開発途上国’とよぶのか私には全く理解できない。

マクロ的な観点から世界を見るときに、便宜上、話を簡単にするために、地域分けやランク分けやグループ分けという手段がとられることが非常に多い。(注2)

しかしながら、このランクやグループに何の必然性もないことも強調しておく。逆に、かなり悪意の恣意が働いていることのほうが多い。

たとえば、アフリカにエティオピアという国がある。今では‘アフリカ’で全くの途上国のように思われているが、以前はプレスタージョンの国といってヨーロッパがカトリックを受け入れる遥かに以前からのキリスト教国なのだ。まだまだラテン(ローマ)もゲルマンもキリスト教を受け入れる前からの筋金入りのキリスト教国を、いざその事実がわかると正統派(オーソドックス)を自称する人たちは自分達のセクトの都合だけで異教や邪教だと退けてきた。

これは、今でも日常的にみられる現象ではなかろうか。歴史や経緯を全く無視して、現時点での自分の尺度だけで割り切ろうとする人たちのいかに多いことか。

今はたまたま、エコノミクスという尺度だけで世界をランクづけしているが、ただそれだけのことである。

たとえば世界で一番歌のうまい人たちとか踊りのうまい人たちとか、料理のうまい人たちの国とか、芸術性の豊かな人たち、ちょっと評価が難しいが、道徳心の高いとか敬虔な人たち、親切な人たちの住む国(地域)とかいう全く違った観点(物差し)でみると、ずいぶん、この世界も違って見えるだろうと思う。これが、自然情況と宗教を中心としたそれぞれ何百年にも何千年にもわたる価値体系の集大成としての地域を形作っていることはいうまでもない。

文化人類学の目的の一つである「自分(達)自身を知る」ということは、個人にとっても社会にとっても非常に大切なことだと思う。しかし、何かを較べて、自分の優位さだけを確認するような行為はやめてほしいし、するべきではないと思う。それぞれ、よいところもあれば悪いところもあるし、そもそも、その尺度自体が非常にあやしい。それぞれ持っている物差しが違うということは、当然まず一番最初に押さえておくべきことであろう。

「文字をもっている」「もっていない」とか、「あれを知らない」「これを知っている」とか、量や質の違いを問題にすることはもうやめよう。それぞれが、すでに何百年も何千年も生き続けてきたこと自体が、それぞれ尊いことなのだ。

世の文化人類学者たちよ、研究対象と自分を分けたり、調査する側とかされる側という彼岸や此岸という見方を捨てて、それぞれ単なる人間のひとりひとりであると地面に立ってみませんか。そもそもあなたと彼らとの間には、川もなければ溝も谷もありません。みんな、泣いたり笑ったり歌ったり踊ったりする、あたりまえの人間です。たまたまあなたは先進国で教育を受けた‘権威’ある人かも知れませんが、権威と、人間の‘尊厳’とは全くなんの関係もありません。

自分達の物語を書くでもなく、彼らの物語を書くのでもなく、われわれの物語を書いてみませんか。調査する側でもなくされる側でもなく、同じ地球を共有する人間として物語を。

蛇足ながら:

ここまで書いてしまうと、どうしても‘開発’という行為や‘開発コンサルタント’という立場に身を置く自分自身に言及をせざるを得なくなってくる。

しかしながら、この問題は、今後ずっと考えつづけていく宿題として残しておきたい。自分は何をやっているのか、誰のために、何のために生きているのか。言葉にしたら‘ウソ’になりそうで、たぶん、その時々で‘ブレ’そうで正直言って重く辛い宿題だ。

ただ私自身は、‘偉そう’に言っているぐらいのことは実践しようとしている、少なくと実践しようと思っていると自分に言い聞かせたい。

とかなんとか言っているけど、でも本当は、結構、この環境というか、こういう立場を楽しんでいるというのが本音である。自分は、幸い人が好きだし、難しい問題にぶち当たったときほど燃えてくるほうだし、お人よしの馬鹿というかそもそも楽天的な人間だし。そのとき、そのときの情況や人とのやり取りを楽しんでいる。

深刻ぶって考えても、結局、評価は他人がするものであり、所詮、人間は自分の顔すらリアルタイムで自分の目でみることができないのだ。自分だけのための自分もいないし、誰かさんのためだけの自分でもない。

まあ適度に自分の周りの世界をかき回して、そういえば、あんなやつがいたなあとか、楽しい‘仲間’がいたなあと、なにかの折に人に想い出してもらえれば、それだけでも生まれてきた価値があったのではなかろうか。

あえていえば、それが‘私にとって’の「われわれの物語」ということにしておこう。

(この項 了)

注1,2は、次ページに移動しました。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000281.htm

注1: 文化人類学の1990年代を振り返る 

そもそも門外漢の素人であるしばやんごときに、このような問題提起を受けること自体、専門の文化人類学者の方々にとっては片腹痛いことかもしれない。以上の論点は、「文化人類学」に対する非常に極端なステレオタイプな見方の一つであることも承知している。もしかしたら、すでに終ってしまっている(克服された)問題なのかもしれない。

特に1990年代以降の文化人類学会や、日本のマスコミをつぶさにみてみると上記に述べたような課題を克服すべく多大な努力が行われてきたことは敬意に値する。

たとえば、文化人類学の現在については、以下のキーワード集が参考になった。

○  山下晋司・船曳建夫編 『文化人類学キーワード』 有斐閣 有斐閣双書Keyword Series 1997

○  綾部恒雄編 『文化人類学最新術語100』 弘文堂 2002

これらのキーワード集をぱらぱらめくってみると、いかに文化人類学が自己脱皮を果たそうと苦戦している様子が垣間みられる。

テレビ・マスコミは、そもそもあまり見たいのでよく知らないが、『世界不思議発見』や『世界うるるん旅行記』などの啓蒙番組、『猿岩石』に始まる同時並行ドキュメンタリーなとは、私の幼少時代に見た川口浩の怪しげな探検隊(タイトルを失念)のドキュメンタリー(といえるのか)とは隔世の感がある。

また最近、新しいシリーズの始まったNHKの『シルクロード』1984を始めとする良質な映像番組は日本人の啓蒙に非常に大きな役割りを果たしてきた。また近年ブームの、『ユネスコの世界遺産』にかかる映像番組は、あらゆる世界の叡智や不思議を茶の間に身近なものにしてくれたと思う。

ところで、本文で文化人類学批判をしてはいるのの、その文化人類学に対して個人的には非常に思い入れというか期待感があるのも事実である。実際、人文地理学に関心のあった私は、大学受験に当たって南山大学の文化人類学科とかスペイン語、愛知大学の地理学科も併願していた。第一希望は、東京外国語大学のアラビア語、第二希望が大阪外国語大学のアラビア語であったが・・・結局、大阪外大のアラビア語に進んだ。

そもそもこの文化人類学に対する近親憎悪?については、中学生や高校時代に読んだ本多勝一の一連のルポルタージュによるところが大きい。本多勝一の本領は、『アラビア遊牧民』や『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』などの文化人類学の成果に数えられるルポルタージュよりもむしろ、その後の『戦場の村』、『アメリカ合州国』『中国の旅』などの中期の作品から明確な哲学として現れてきたと思う。

私はリアルタイムの読者ではないが『殺される側の論理』『殺す側の論理』などの視点は、少なくとも日本人で人文科学を志すものにとって、すでに古典というか常識になっていると思うのだが、果たして今の高校までの学校教育ではどのように扱われているのだろうか。

この数年、開発学や途上国のことに関心をもつ大学生や大学院生と話すことも多い。そんなときに結構、本多勝一を知らない人も多くて愕然とすることもある。

特に、開発学については、まだまだ日本語で読める本も少なく(この10年、ねずみ算的に急激に増えていることは知っているが)特に理論面や実践面では外国語の翻訳本を読むのもよい。

しかし、もっと日本人自身の葛藤というか問題意識といったものも押さえておいたほうがよいのではないか。いろいろなところで強調しているが、私は日本人のセンスというのは、世界的にみてもそれほど悪くないのではないかと思っている。だからこそ、この「歩く仲間」の‘日本語版’では、日本人の業績にこだわりたいと思っている。

‘英語’版では、日本人以外の英語を読める読者のために別の観点から切り込みたい。できれば、5年以内に本格的にスタートできればと思っている。

注2: 地政学と地域研究について 

文化人類学の兄弟みたいなもので地政学というものもある。その地政学的な観点からの地域分けは意味があるというおっしゃる方がいると思うが、これは「地域研究」自体の危険性に踏み込むことになるので、「地域研究」と「開発学」との絡みで別途論ずることとしたい。

以 上
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今回、久しぶりに自分の文章を読み返したわけですが、‘5年以内に英語版’を書くと2005年7月3日に自分が書いたのをみて、ちょっと赤面。やはり修論は英語で書かなくてはならないのか?ということなのでしょうか^^?

今日は、もうちょっと先までと思いましたが、引用だけで終わってしまいました。大体、私が書いているようなことはすでに了解済みのことだと思いますので、次回は、‘リアリティ’というキーワードで切り込みます。

ではでは^^?

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2011年6月12日 (日)

ビジネス講座 「グローバルコミュニケーションと日本人~英語を母語とする人・しない人」

初出: じゃんだらりんでいこまい 2011年6月12日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/jandararin/2011/06/post-0a63.html

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ということで、今日は、隣町の幸田町図書館に行ってきました。

◆ ビジネス講座 「グローバルコミュニケーションと日本人~英語を母語とする人・しない人」

「日本の常識は世界のヒジョーシキ?」

外国人と交流したり、海外に行くと、日本との違いに驚いたことはありませんか?英語圏の国々を中心に、講師の豊富な体験談を交え、日本と諸外国の文化を比較しながら、国際理解や異文化交流を学びます。

日時: 2011年6月12日(日) 午前10時~正午

場所: 幸田町立図書館 2階学習閲覧室

講師: 諏訪 純代氏 (岡崎女子短期大学経営実務家専任講師)

名古屋大学大学院国際開発研究課博士後期課程修了。ルフトハンザ航空(ドイツ)、エミレーツ航空(ドバイ)にて国際線客室乗務員として勤務後、現在にいたる。

対象: 一般、 定員 30名 → 出席 25名。 参加費 無料

こういう市町村の行事とかイベントでうれしいのは参加費が無料なこと。最近、特に地元のイベントに積極的に参加しようとしているのは、自分の関心のある演題の講師の方との交流とは別に参加者でいい人がいないかという婚活活動の一環として。 そもそも地元の枠内に治まらない生き方をしてきたので、少しでも海外に目の向いた人のほうが話が合いそうなので、とにかく類友の法則?を信じて、いろいろなイベントに参加したいと思います。

なんか、学生時代や、東京での駆け出しのコンサルタント時代を思い出しました。

他流試合の記録として、参加記録が残っていますが、よくもまあ、いろいろなところに顔をだしたものです。

◆他流試合の記録 セミナー・勉強会など @HP 歩く仲間

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/b002.htm

まあ、物怖じせずに誰とでも話せるというのは私の強みです。(今のところは負の影響はほとんどないです。)

さて、今回の講座ですが、英語を客観的に見直すのに、とてもためになりました。先生は、ぎりぎり国際語として使えるジャパニーズイングリッシュのボーダーを探ろうとする言語学者で、客席乗務員すなわちスチュワーデスの仕事も博士論文のための実務経験で休学して働いたという恐るべき経歴の人。大学をでてアメリカでデザインを学んでデザインを教えていた人が名古屋大学の院に入って‘コミュニケーションツール’としての英語に取り組もうというのだから、純税培養の言語学の学徒とは、まったく違った実践的なアプローチの仕方の片鱗を、今回の講義でもみせてくれました。

いかにもアメリカ的だなと思ったのは、2時間の講義の前半が、座学で1時間、残りの1時間をアクティビティにあてて、25名の参加者を5つにわけてのワークショップをおこなったこと。

自分自身、ワークショップは好きでフィールドワークでは必ず現地住民とのワークショップの機会を設けるのですが、確かにグループワークやワークショップは、理念や言葉ではわからない、さまざまな‘きづき’を与えてくれます。

アクティビティの内容は、5人一組で、架空の国をつくり、他の4つの国と交流を行おうというもの。国の名前から挨拶の仕方、言葉の特徴、気質、タブーなどを参加者で話し合って決めて、他のグループと挨拶をして、そのそれぞれの感じたことを発表する ~挨拶編~と、自国をPRするとうので、情熱的にとか、理性的に、協調的に、自由に、と、その気質になりきって国内で議論し、その国のPR案をまとめるというもの。~ 自国PR編~ 。その中で、果たして自分はどの気質があっているのかを考えると共に、他者の言動からある程度のその人のパターンというか気質を見抜くという訓練。

国のイメージと、その見られている印象の中での立ち居振る舞いを意識的に考えること。異文化の中での日本人の立ち位置を考えるという内容の講義でした。

先生のまとめは、以下のとおり。

グローバル・コミュニケーションツールとしての英語に関して:

「グローバルコミュニケーションとは、世界が舞台であること、共通のコミュニケーションツールを持つこと、それは異文化交流でもあるということ。 → 常に日本代表であるということを意識すること。」

アクティビティの最後のラップアップで示された:

「何が常識で何が非常識になるのか考える。

頭を柔らかくする! = 異文化理解に繋がる!

日本人であることに誇りを持つ

→ 場数を踏む」

という2つのポイントに集約されると思うのですが、実際に、海外で‘英語’を使って仕事をしてきた自分にとっても、120%合意できる内容でした。

また、先生の質問で、「ジャパニーズ英語は世界で通用するか?」という問いかけについて、私も参加者として答えたのですが、「実はジャパニーズイングリッシュは、文法もしっかりしているし、へんな訛りもないし、少なくともアメリカ人やイギリス人、インド人の英語より、はるかに(相手に)わかりやすいし、十分世界で通用している」と発表したところ、先生が、「そうです。YESです。実体験からくる言葉ですね。」といわれたので、別に自分の経歴を話したわけではないのですが、わかってくれてありがとうといったところでちょっと感動しました。

実際に、東ティモールで多くの国際機関の専門家(オフィサーやコンサルタント)とも会話をしましたが、オージー(オーストラリア人)の英語なんて、訳がわからないし、アメリカやイギリス英語を話す人が、その他大勢の英語を母国語としない参加者の中で評価されていたとは思えない。まあ、国際会議では話す内容が問題ではあるのですが、わかりやすいのは、非英語圏のアジアン英語(ジャパニーズ英語であったりフィリピン英語など)のほうが、はるかにコミュニケーションのツールとしては‘使え’ます。間違いなく。

ちょっと誤解をあたえそうなので慎重に聞いていただきたいのですが、ある程度、コミュニケーションが成立するとその後にくるのは‘人として’共感できるかという普通の日本人同士の付き合いと全く変わらないどろどろした部分が見えてきます。結局、バカはバカというか、肩書きやタイトルに関係なく尊敬できる人は尊敬できるし、どうかなという人は現実にいます。だからいろいろな国やいろいろな肩書きの人と接するうちに、なんかわかってしまったというか、当たり前のことなのですが「人として」どうなのかが問題であり、見かけや肩書き、貧富の差なんてなんなのさという気になってきます。言い方によっては非常に難しいのですが、本当に、世界中探しても、普通の「平の人」しかいません。

そういう意味で、別にアメリカのオバマ大統領だって普通に‘人’として話せるんじゃないかなあと思います。私にとっては誰でも同じことで、所詮‘人間じゃん’ということなんですわ。まあ、フィリピンのアロヨ大統領と握手しているし、東ティモールのサナナ・グスマン大統領にもあっているし、日本の開発コンサルタントってなんだろうなって思いますね。今、思うと。

あと、先生と後で雑談したのですが、「今の時代は、アメリカ英語とかイギリス英語などと言っている場合ではない、そんな考え方はもう古い」というところで、アメリカやイギリス留学組になんとなくコンプレックスをもっている私も、大いに納得。そうだ、そうだ、もっともっとジャパニーズ英語で「‘中身’を発信すべき」というところで講師の先生と大いに共感したところでした。

でも、まあ今の大学のスタイルも大きく変わりつつあるなあということを思いましたね。

逆に、このような授業なら、私が’もっとも得意とする’ところで、どっかで集中講義でもひとコマの授業でもさせてくれないかしらん。

とマジ!で思っています。

しばやん for Sale!ということで、じわじわと学会に売り込みをはかっていきたいと思う今日この頃です。

ではでは^^?

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2011年6月 8日 (水)

‘雲の上の人’になりたい!のかな? クラウド(コンピューティング)の可能性

初出: mixi開発民俗学-地域共生の技法-  2011年6月8日

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62907106&comment_count=2&comm_id=2498370

というトビをたててみました。

いつものごとく、しばやんの気まぐれではあるのですが、この自分のまわり、このわずか1ヶ月間の間に起こったTwitterとfacebookという‘嵐’?の激しさと、このわけのわからなさに、翻弄されつつも楽しんでいる自分を振り返り、ままよ、これは実は大変な地殻変動というか天地がひっくり返るような、そういわばパラダイムシフトの渦中にいるのではないかと、クラウドについて考えてみるトピックです。

実はしばやんは元マッキントッシュのエバンジェリスト(伝道師)でもあったのでした。そんなしばやんと電子世界との馴れ初めなどにも触れてみたいと思います。

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その1  2011年6月8日

そもそも、クラウド(コンピューティング:ただし以後は、クラウドと略します)と、‘開発民俗学’と関係があるのか?というツッコミが入りそうですが、まじめに大いにあります。

最近、私は‘ハイブリッド’という言葉が頭にリフレインしています。そう‘プリウス(トヨタ)’や‘インサイト(ホンダ)’のハイブリッド(車)のことが、すぐ頭に浮かぶと思いますが、そもそもの英語の名詞としての語義は、雑種とか交配種、合成物、混成物という意味があります。

つまり、今、生きている人間って、そもそも‘混成物’ではないか?という疑問というか意識なのです。

東西交渉史を紐解くまでもなく、人とモノの伝播については現在の我々では想像もできないほどの多くの年月をかけて地球上を多くの人たちが動き回り、モノや情報、いいもの悪いものを運びまくりました。

地球の裏側や全然想像もつかないところに同じ風俗や風習、モノや考え方など有形無形なモノの伝播をみると日本人単一民族説なんて、ちゃんちゃらおかしくて地球の孤島や辺境地の端っこ?に住んでいる人ですら他の地域や人と交流があったのであって、日本人なんかいろいろな民族の人たちの混合でしかないと思えてならないのです。

いや、ハイブリッドであったからこそ、人類はその生を今までつないで来れたともいえます。

つまり、多くの異人達が地上・海上(20世紀以降は空の上も)を行き交ったのです。

海外の現場を歩いてみると、驚くほど似てたり思ったより似てなかったり、それぞれの土地や地域にいろいろな人やモノがあります。

思えば、人間が地球を一周するのは、ホンの1000年前はほとんど不可能でした。世界一周を試みた(記録が残っている)大航海時代は、わずか500~600年前でしかありません。しかし、今では、ホンの数日もかけずに飛行機で地球を一周することもできるし、個人の冒険野郎(別に女性でもいいのですが)普通の人が地球を一周することができます。近くは、間寛平ちゃん(さん)のアースマラソンが記憶に新しいところですが、私だってあなただって、その気になれば地球一周は可能な世の中になったのです。

そんな20世紀を経て、21世紀になって出てきたのが、クラウドという世界。すでに人類は時間と距離を一瞬にして乗り越えることができる‘世紀’に突入したわけです。

ここで言いたいのは、開発民俗学が対象とする人もモノも地域も、そのクラウド時代の考え方、もうパラダイムといったほうがいいと思いますが、その新しい考えた方を持った若い世代の力が増そうとするときにそれを無視することはできないのが一つ、あと開発途上国だからといって、旧態依然の‘古い’モノばかりを使わなくてはならないという法はありません。

つまり、ソフトの面でも、ハード(パソコンや携帯など)の面でも、この‘クラウド’時代というものを見逃すというか見過ごすわけにはいかないのです。

開発民俗学の心のひとつに、私は、「なんでもよいものは取り入れろ、使ってみろ」ということを考えています。これは人間のハイブリッド化、いや平たく言うと、なんでもありのいいとこ取りをするのは人間の習性でもあるし、それを否定してはいかんと思うのです。

ということで、私はこのクラウド(とそれがもたらす世界、パラダイムシフト)についても、頭の片隅に置くだけではなく、腰を据えて正面から取り組んでもよい‘開発民俗学’の課題だと考えます。

とりあえず、前口上はこんなところで。

ではでは^^?

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2011年6月 6日 (月)

しばやんの棚卸し(その3) デスティニー(Destiny)ってか^^?

近況報告です。

先週、5月27日~29日まで東京に行ってきました。
その顛末は、こちらに簡単にレポートしてあります。

◆ JICAコミュオフ会 IC-HUBに参加してきました。(5/27)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1731194753&owner_id=11744733

◆ 東京プチ旅行 駆け足報告 手塚治虫のブッダ展 行ってきました (5/28-29,2011)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1731360124&owner_id=11744733

まあ、こちらのイベントの書き込みにも載せているので、あえてこちらに載せるなといわれそうですが…。 
帰ってからが、そのよく月、火曜日がやたらと仕事が忙しかった。先週は、土曜日まで仕事だったので、今日は久しぶりに休日といったとことです。

でも、いろいろ人と逢って話したり、街の風景をみるたけでも刺激になるし、いろいろ東京で考え直すことも多かったです。

ただ、思ったのは、人生、好きなことをやらんといかんなあということと、いいタイミングで‘降りる’ことができたなということです。

5月27日は、愛知県から新幹線で品川で降りて新宿での飲み会に参加したのですが、たしか夜10時頃の品川駅に下りたとたんに帰宅途中とか移動中のたくさんのスーツをきた男性女性をみてそして山手線で満員列車に揺られながら、思わず、「24時間闘えますか、ビジネスマーン、ビジネスマーン、ジャパニーズ・ビジネスマーン」のあのリゲイン(という滋養強壮ドリンク)のテーマ曲が頭にフラッシュバックしました。

そうだ、3年前やめていなければ、そして海外に転勤になっていなければ、ほぼ99パーセント間違いなく、私も、この蒸し暑い中、ネクタイをしてスーツをきて満員列車に乗っていたんだ。 

かたやそのときの私の服装は、綿パン(チノパン)にヘリーハンセンというヨットブランドのベストと上着でシャツは青いボタンダウン、当然、ネクタイはしていませんし、革靴でもない。

JICAコミュのオフ会なので、当然、仕事帰りの人たちが集まっている中に、こんなラフな格好で参加してもよいのやら(でもこれが仕事で着ている服だし)ということで、ふと、1990年の大阪外国語大学の地球環境論の講義で、ゲスト講師の、鶴見良行さんが、汚い(くみえた)釣りのベストをきて非常にラフな格好で講義に来られたことを思い出しました。

いまさら、東京で働く気もないし、サテライトオフィスでももって出張で(交通費をだしてもらって)こればいいし、今の愛知の片田舎で好き勝手なことをやるのもありかなと、改めて思いました。

マリングッズの営業企画も、本気を出して取り組みだしたら、それなりにおもしろいし、確かに給料が低いですが、やるだけやったら自分の好きな研究?もできるし、ブログやインターネットは時間と場所を選ばないから、もう今この場所で将来のキャリアのためにできることをなんでもかんでもやれるだけやろうと思うと、いくらでも工夫する余地もあるし、とりあえず今は充電のときかなと、道具だけは磨いて次のステップに備えています。

やっぱり、50歳前には大学に戻りたいので、マスターもドクターも取りたいと思うと時間がなさ過ぎる。

あと、結婚もしたいし^^?

実は、30歳のときに2年、36歳から40歳まで結婚相談所に登録していわゆる婚活で、もう10回以上お見合をしてきましたが…。 

最近、気がついたのは、たぶん普通の(平凡な)幸せを求める人(女性)には、私は向かないのではないかということです。

今頃、気がつくなよと突っ込まれそうですが、今の職場の女性スタッフに聞いても、どうも私の感覚が日本人ではないようでとても異質なものにみえるそうです。まあなんでも慣れればそんなものかと思うようになると思うのですが、自分のスタイルをアジャストはしても根本的に変える気はないし、正直、海外の空気のわかる人の間にいるほうが、私は自分がだせて楽だし、やりやすいしって、自分の都合ばかり優先させてもいけないのですが^^?

今、思うこと。

‘会社人’にはなれなかったけど、‘社会人’として‘大人’の責任を果たしていきたいと思います。

最近、自分の棚卸しの記事を1,2書いているのですが、やっぱり思うことは、自分は非常に恵まれた環境で、素晴らしい上司や同僚に囲まれてのびのびやりたい放題に生きてきたということ。

高橋しんの「いいひと。」の主人公の北野ゆうじくんの言葉ではないのですが、「今まで、やりたいことでやれなかったことはない」(実力がなくて出来なかったことはいくらでもありますが^^?)

まあ、棚卸しで気がついたのですが、「世界を股にかける人になりたい」というたしか小学校5年生のときの夢はかなえてしまったし、ちょっと環境も変わって‘燃え尽き’ていたのですが、次の目標というか夢もでてきたし、まあやるしかないといったところで。

デスティニー(Destiny)という言葉、日本語にすると運命や宿命となるようですが、最近、そんなことを思います。

たぶん、そうなるために今までがあったのだと。明日の‘自分である’ためのステップであると考えれば、今の辛さは想定内というか、やるべき宿題だと思えば、悩んだりガタガタいっている前にやってしまうべきで、やらないことを考えること自体が無駄だと思うようになりました。

ともあれ、まだまだ私の人生、終われないしまだ、途の半ばも来ていない。とはいえ、人生30000日の半分はきてしまったわけなので、あせることなく着実に一歩一歩歩いていこうと思います。

ではでは^^?

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2011年6月 1日 (水)

外国語(特に英語)の勉強方法について書いてみました(かなり以前だけど^^?)

このトビを紹介させていただきます。

「(開発民俗学における)外国語の重要性」について語ろう! <理論各論> 2009年01月05日 @ 開発民俗学 -地域共生の技法-

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=38535644&comm_id=2498370

というのは、前回、JICAコミュのオフ会に出たときに、やっぱり英語は勉強しなきゃねえという話になったのですが、そういえば、以前書いた記事があったなあと思ったら、すでにこのコミュの中ではアップされていました。

その記事とは、歩く仲間HPのコンテンツの一つです。

オリジナル: 「実践的」外国語の身につけ方   2003年8月31

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/rc001.htm


ところで、今、狭義の「英語」ではなく、国際語としての「英語」が話題になっているそうです。イギリス英語でもアメリカ英語でもなく、いや非英語圏の人が習ってつかう「英語」の方がよいというような本を先日、本屋の本棚で見かけました。

なにがどう違っていてよいのか詳しくみていませんが、確かにアジア圏の英語、特にフィリピンの英語は、変な発音のクセがなく文法も言い回しも非常に素直で‘わかりやすい’英語だなということはフィリピン駐在中も感じていました。

隣国の韓国や中国の若者の、フィリピンへの英語留学が、この10年ブームみたいですが、フィリピンの英語教育を考えると確かにレベルが高いと思います。フィリピンのどんな田舎にいっても韓国人の若者を見かけるのはなぜ?といったら、どうも地方の大学や(英語の)語学学校に留学しているからだそうです。

確かに海もきれいだし、アフタースクールのアクティビティとしてすぐ周りに素晴らしい自然があるということは、東京や先進国の大都市に留学するのと、まったく趣が違います。

って書いていたら、フィリピンのまったり時間と素晴らしい空と海とさわやかな風を思い出しました。

ということで、フィリピン留学って実はお薦めで最高ですよ。

人もいいし、勉強したらすぐに海や山の自然の中で遊べるのですから。

そうそう、しばやんも、何年かぶりかに英語の勉強を再開しました。

というのは、ひょんなきっかけで、国連平和大学の奨学金に応募してみたいなと思ったからです。7月1日から日本財団の奨学金の案内がアップされるそうです。

自分としては来年のそれに応募できるように英語の資格(TOFEL)も取り直さないといけないし、英語で修士論文を書くことになるので、今から英語で論文を書く訓練をしておきたいということです。

まあ特別なことをするわけではなく、今、日本語で書いている「開発民俗学」にかかるトピックを英語で書き直すだけですが^^?

最近、facebookでの活動を始めたので、英語での発信も徐々に増やしていきたいと思っています。

だれか(どっかの大学の先生など)がみて声をかけてくれるかもしれないし。←ちょう楽観的希望的な観測。

という感じで、いろいろやることが多くて忙しくなりそうです。

ではでは^^?

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