« ‘開発’の定義 しばやん流 2011年5月11日現在 | トップページ | Facebookが凄い! 突然目覚めました^^? »

2011年5月11日 (水)

しばやんの‘棚卸し’ 2011年5月11日現在

ってことで、この数日、自分の来て越し‘途’のことをずっと考えてきた。(当然、いつもじゃないけど)

よくよく考えるまでもなく、非常に幸せな半生であったことに気がついた。

人生30000日。もう、折り返し地点に来ているだろう自分。

嫌なこともあったが、それでも思い返すと、結果として失敗や挫折が次のステップへのバネになってきたことが、今なら痛いほどわかる。

あのときに出来なかったことには、その出来ないだけの理由があったということを。

しかし、考えたら今まで本当にやりたい放題やってきました。笑ってしまうくらい^^?

たぶん、一度目の挫折。

大学受験で、東京外国語大学のアラビア語を落ちたこと。中学生のときから、外国語大学にいく、しかも東京にいくと決めていた。

A日程の現役受験で失敗。B日程の大阪外国語大学には受かった。

ともかくA日程の結果がでてからB日程の試験があったと思うが、落ち込んでいた自分に、母方の在所の今は亡きおじいさんがこういった。

「体さえ丈夫なら、なんとでもなるで」

そして、自分は浪人するまでの勇気もなくて、東の空(自分の部屋の窓から本当の東の空が見えるのです)に向かって、絶対に東京にリベンジ(その当時こんな言葉はなかった)、いや「絶対に東京にいくぞ」と誓った。

でも大阪というか関西の水のほうが自分には合っていた。また、アラビア語をやるのであれば、大阪外大のほうが本家本元であることも後から知った。

いろいろな出会いや失敗。

それはちょっとはしょるとして、2回目の挫折は。

大学院への進学。つまり院浪。

大学3年生のときに起こった湾岸戦争で、エジプト留学(カイロ大学・エジプト政府の奨学金には受かっていました)にいけなかった自分は、まともに就職する気がしなくて、無謀にも外大以外の大学に進学しようとした。結果、本質を見ずに、ブランドというか看板だけで、一橋と京都を受けて、当然のことながら、両方とも玉砕。

4年生のときに、全く就職活動をしなかった私は親に出世払いを頼んで、京都で聴講生をさせてもらった。結局、また試験に落ちるといかん(2年も3年も浪人させるだけの親の余裕はなかった)ということで、親の命で、しぶしぶ就職活動をして、なぜだかそれにはまってしまい、いや京都で出逢った‘ある人’の影響もあったのかもしれないが、アラビア語の主任教授推薦の大阪の某一部上場企業(メーカー)の役員面接を落ちた自分は、これはいかん、大先生の推薦にもかかわらず落とされたのは、たぶん自分にやる気がなかったことが役員の人にもわかってしまったからだということで、自分が本気でやりたい職業を改めて考え探して、国際協力の途しかないと本気で就職活動をした結果、ある縁で、前職の開発コンサルタント会社に中途採用で拾ってもらった。

実は、これは卒業していたからできたことで、教授推薦を落とした自分は、このコンサルタント会社の最初の面接で役員(入社後、最初のボスとなった人)から、「大学院に受かったらどうするんだ」といわれたときに、「いや、明日からでも働きます」と大見得?をきって、結局、3回の面接だけで、なんの筆記試験もなく(論文はあったと思うが)この会社に受かってしまった。そして、9月6日から勤務開始ということで中途採用していただくことになったので、8月末には海外部のあった東京にまた引越し。

つまり、この年は、大阪から京都にそしてわずか半年もたたずに東京に引っ越したのでした。だから、このときの自動車の普通免許証には、大阪、京都、東京の住所が書いてあります。

さて、開発コンサルタントの門を叩いてからのことは、今までも散々、HP歩く仲間で書いてきたので省略するが、実は、小学校のたしか5年生のときに授業で将来の夢の絵を描いた(描かされた)のであるが、そのときの、「世界を股にかける人間になりたい」という夢は(絵)は、実は開発コンサルタントを16年やるなかで、かなえてしまっていたのである。

先のボスは、「たとえエンジニアでなくとも、1年の4分の1は、海外に行け」と、さまざまな政府開発援助(ODA)のプロジェクトに業務調整(Coordinator)ということで入れてくれた。実際、わたしほど、何の専門能力もない学卒者でODAのプロジェクトに関わった人間はいないであろう。

たぶんJICA(国際協力事業団と以前は言った)の業務調整の参加回数は日本で、一番私が多いのではないかと思う。というのは、‘普通’の開発コンサルタントは、業務調整なんて仕事はできて一回で、次からは彼・彼女の「専門家」としてでしかプロジェクトに参加できないのが常であるからである。こんな甘いというか余裕のあった会社はなかったであろう、今でも。

ともあれ、多くの開発コンサルタントの大先輩達と世界を一緒に‘歩く’中でいろいろなことを教わった。まさに‘世界’の見方をOJT(実地訓練)で教えていただいたのである。

農業開発とは、すなわち地域開発である。今でもそう思うが、日本で一番の農業土木の開発コンサルタント会社で、私は地域開発の手法と実践を学んだ。

脱線するが、以前、日本福祉大学の小國和子先生の勉強会に参加して、その後の懇親会で話したときに、「コンサルタントってDNAがあるよね」といわれた。

実は、私もそう思う。

大体、開発コンサルタントになるひとは、ほぼみんなが「ドリーマー」だ。私の知る限りの超一流の開発コンサルタントの先輩は、実や予算やスキームを超えて、本気でその(途上国)の人たちのために持てる知識や技術をふりしぼって、本当に現地の人たちのことを考えて調査し計画して、さらには事業の実施までおこなってきた。

シャー革命前のイランで、○○天皇とまでいわれたたぶんもう今は80歳を超えるでろうある‘伝説’のコンサルタントの先輩は、副社長という肩書きがありながらも、自分の会社のことや日本の援助ということを考えていなかった。というか、それを超えたプランニングをしていた。

この先輩の卒業旅行というか40年ぶりのイランのプロジェクトに私も参画させていただいたが、テヘランの西にあるガズヴィン平野は、今でこそ緑にあふれたイラン有数の穀物地帯であるが、実は川がないため沙漠地帯であった。それを北側の山脈の下をトンネルでぶち抜き山の向こう側の川から導水したおかげで植生も街も、つまりそこに住んでいた人々の生活の全てをたった一つのナショナルプロジェクトが変えてしまったのである。

人と自然は、争うだけの関係ではない。自然を手なづけ、自然をうまく使うことにより人間の生活を高めることができる。この一面の緑が、実は人間の叡智と努力が創りだしたものであることを目の当たりにしたときの感動は、とても口では言い表すことができない。

脱線したが、自分自身、そのような多くの先達が考え実行してきたことを、その現場を一緒に‘歩く’ことにより、さまざまな経験と知恵を直に教授していただいた。

もし、開発コンサルタントのDNAがあるとしたら、それは共に学ぶことでしか身につかないであろうといってしまうと元も子もないので、とりあえず私は、自分の開発民俗学の検討の中で、全て自分が学んできたことをできる範囲でオープンに情報提供している。

ともあれ、私は、その「開発コンサルタントのDNA」を現実に実際に引き継いでいると思う。

昔はよかったという気はないが、日本の敗戦後の56年にわたるODAの黎明期から関わったシニアの開発コンサルタントの先輩の諸氏のトライアル&エラーには、本当に頭が下がる。そのフロンティアを切り開いてきたということに、すでにある意味、道ができた後の我々世代は、一種の悔しさを感じることも事実である。

というには、全くの白紙の中から、開発コンサルタントの先輩は、政府や当然、相手国政府と現地の人たちと、ODA事業そのものを創ってきたのだから。

開発コンサルタントは、プランナーでも研究者でもない。ましてや批判家ではない。自分の頭で考え現地の人と共に何かをつくっていく‘実務家’である。

修士号や博士号を持つのが世界的にみても当たり前の「開発コンサルタント」の世界で、学卒でアラビア語をホンの少しかじったくらいの人間が、その中で生きてこれたことは今思うと奇跡に近いことなのかもしれない。

というのは、前の会社はちゃんと筆記試験もあって何度も面接があってと、表門からだったらたぶん当時、絶対に私は受からなかったからであろうから。

卒業して聴講生をしていたおかげで、「明日からでも働きます」といえたからこそ、いやもっというと教授推薦の一部上場企業に滑らなかったから(通例というか絶対にありえないことらしい)、そんな分野(開発援助)にすすむことなんて、全く夢にも思っていなかった。

まあ、書き切れないし恥ずかしくていえないような多くの失敗をしてきたが、結果的に、自分はまあやりたいことは‘全部’やってきたといえる。

これが幸せな人生でなくてなんであろうか。

実は3年前、田舎に戻ることになったときに(3度目の挫折)、正直、本当にどうしたものかと思った。

ある意味、夢もかなえてしまっていたし(そのときはそんなことを考える余裕はなかったが)、なにか自分以外の‘力’に人生が曲げられてしまったことに諦めみたいなものを感じていた。

ただ今思うと、原因は外部ではなく、やはり自分が蒔いた種というか自分のあり方に悪いところがあったから、こそ今のようなことになったのだと、今なら思える。

反省はするが、いつまでも後悔ばかりしているわけにはいかない。

最近、ようやく子供の頃の「世界を股にかける人間になる」を超える?、次の目標というか夢を描けるようになった。

たぶん人間は、それぞれの夢を実現させるべく生まれて必死で努力して死んでゆくものなのであろう。

私は自分のハッピーエンディングがみえたような気がする。

もう道に迷ったり、世を嘆くことはすまい。

なぜなら、私には、私がやるべき、私にしかできない‘ミッション’があることに気がついてしまったから。

ただ、信じる途を、愚直に歩くのみである。

すばらしい能力をもつ先輩や仲間の間にあって自分に自信を持てないことが何度でもあった。

しかし、テンぱってまったく自分の周りが見えなくなった状態のときに、自信をもつということは、絶対に不可能である。

そんなときは、どうすればよいのか。

2011年4月25日の日刊スポーツの記事にあった斉藤祐樹選手の言葉。

「自信が増えるというよりは、不安が消えていく感じ」

まあこの言葉の前後の文脈を置いておいても‘いいこと言うわ’と、正直、私は唸ってしまった。

そうか、自信を持てないような心理状態のときは、自信を持つ(増やす)ことより、不安を消すことを考えて行動すればいいんだ。

やっぱり、祐ちゃんは‘もっている’わと思いました。

あと自画自賛ですが、自分も‘もっている’と思います。

‘天上天下唯我独尊’なんて言葉は、お釈迦様しか言ってはいけないことかと普通は思われていますが(たぶん)、でも、これって普通の人でも使っていいのではないかと、今は思います。

自分も、そう思うから。

何の根拠も理由もないけれど。

でも平たくいうと、人間は一人一人、それぞれが、それぞれにとって尊いということって、当たり前のことという気もします。

なぜなら、その‘人’の人生は、‘他の人’では背負うことも、生きることもできないからです。

それぞれの‘夢’なり‘ミッション’を、この世で達成するために人は生まれて生きている。

そんな、それぞれの‘個人’を尊重することから始めていきたい。

自分が、‘尊重’されるためにも。

そんなことを今は思っています。

ではでは^^?

|

« ‘開発’の定義 しばやん流 2011年5月11日現在 | トップページ | Facebookが凄い! 突然目覚めました^^? »

近況報告いろいろ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/101961/51639457

この記事へのトラックバック一覧です: しばやんの‘棚卸し’ 2011年5月11日現在:

« ‘開発’の定義 しばやん流 2011年5月11日現在 | トップページ | Facebookが凄い! 突然目覚めました^^? »