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2011年5月

2011年5月25日 (水)

‘知’の継承者たち ・・・ しばやんの棚卸し(その2)

 まずは、こちらの冊子から。

11052500_2 人間文化研究機構・監修 『ヒューマン』 vol. 01 角川学芸出版 2011年2月

知の‘巨人’、梅棹忠夫が2010年7月3日に逝って、はや1年になろうとしている。

また、彼がプロデュースに関わった大阪万博の跡地にあり、まさに‘彼’が生み育てた『国立民族学博物館』にて、2011年3月10日~6月14日(火)まで「特別展 ウメサオタダオ展」がおこなわれているという。(まだ行っていないが)

さて、この雑誌、名古屋のJR高島屋の三省堂をぶらぶらしていたときに見つけた。

確かに、日本の大きな知性のひとりの梅棹先生は、他にも追悼特集号がいくつかでているようだが、なぜこの本をあえて購入したのか。

それは、片倉もとこ先生が、いの一番に追悼文を寄せていたからに他ならない。

最近、棚卸しということで自分の来て越し道を考え直している(今でも)のだが、顔や頭は東京に向きながらも、どうも体質的には自分は京都学派のDNAのほうが多いだろうなと感じていた矢先に、この特集号である。

いろいろ思うと、やはり私は関西の大学に進学させてもらって本当によかったと思う。

片倉もとこ先生とは、大学2年生のとき関西大学で第5回目か6回目の日本中東学会でお会いしたのが確か初めてであったと思う。開催校が関西で、しかも池田修先生の党友の藤本勝次先生が大会の実行委員長だったので、当然のことながら大阪外国語大学の先生も学生もバイトで駆り出されて?、私も2日間の日程のたしか初日に、バイト?というかたぶんタダのかばん持ちで参加して以来、なんとなく日本中東学会にも席を置いている。

さて、どうも話が進まないが、たぶんこの大学生のときから、私は大先生とか権威といわれるいわゆるその分野のボスやオーソリティーといわれるものに、畏れはあっても気持ち的には全く気後れすることなく対話というか話を聞いていただいてきた。今思えば赤面なずいぶんバナな質問などをしたことだろうと思う。

これは、今でも全然かわらないというか、どんなに‘偉い’とされる誰に対してもへりくだることなく話ができるということは、私の大きな武器の一つであると思う。

初対面であろうが、何か勉強会なりコンサートであろうがなんらかの会合など公私のきっかけというか‘縁’がありさえすれば、私は‘誰’とでも(自分が興味を持った人に限るが)直接、話しかけてきたし、そのうちの何人かとは、なんらかの親交関係を結んできた。

しかし、これは私が(いまだに)世間知らずの無鉄砲なバカな‘若者’であるからなのか。

いや、それは違うと思う。

たぶん、この(多感な)大学生のときに出会う機会のあった、多くの当世の‘一流’と世間でみなされている(た)人たちは、例外なく‘やさしく’かつ‘(器や懐?が)大き’かった。

つまり、‘一流の人’は、間違いなく謙虚で、全然とがっておらず、誰とでも分け隔てなく付き合うし、そもそも(先入観というか見かけだけで)選り好みもしないし、バカな若造の話にもちゃんと耳を傾けて聴いてくれた(受け入れてくれた)人ばかりなのである。

これは、大学生以来20年生きていているが、世界中どこにいってもトップを張るような‘一流の人’達が怒っているところを見たことがないし、実際にオーラがあるというか、とにかく包容力があって‘大きい’のである。

またどんな世界の果てのような‘辺境地’にいっても、そんな‘人物’はいた。そういう人は、例外なく、地域のボスでありリーダーであった。

これは、私だけが言っている事ではないと思うが、それにしても、私は自分の経験から間違いなく言える。

(表面的な)面子やプライドにこだわるのは二流以下の人であると。(ちょっと不遜な発言ではありますが^^?)。

かといって一流の人が、ノンポリでどうでもいい人かといえばそんなことは絶対なくて、もっと本質的なこだわりというか、プライドは持っています。間違いなく。たぶん、それは他人にいうことではなく自分を律するためのこだわりのような気がします。人にやさしく、自分に厳しい、そんなところがあるような気がしますね。

さて、私は、つらつら考えるに、「保守本流」とか「王道」、「(正統な)継承者」とかいう言葉に弱し、複数に人からもいわれましたが、結構、‘権威主義者’だと思う。でも、私はこれらの言葉は嫌いではないし、いやむしろ好きだ。

思えば、中学校3年生で、梅棹忠夫先生の『知的生産の技術』で、書籍のデータベースを始めて、少しずつでも自分で言葉をつむぐことを覚えたというか、意識的に文章を書くようになったのは、やはり梅棹先生のおかげであろう。

それは梅棹先生の‘技術’論が自分にあったというか、その‘知’を万人に解放しようとした精神、つまり経験主義的な精神論や徒弟制度に代表される‘根性スパルタ’が横行していた?昔の‘学会’に対して風穴をあけたばかりではなく、‘学会’の外に住む普通の人、誰もが‘知的生産者’になりうると、アジテートしたことに自分も共感したからだと思う。今、思うと。当然、当時は、そんなことは意識しなかったが。

そうだ、京都学派とはそもそも京都の公家さんやあきんど(商人)の‘おぼっちゃんの娯楽の学問と’いう側面が多分にあると思う。

11052502_2『私の履歴書-科学の求道者 今西錦司 福井謙一 河合雅雄 西澤潤一 小柴昌俊』 日経ビジネス人文庫 2007年7月

梅棹氏の師である今西錦司先生も西陣織屋のボンボンだし、梅棹先生も、知的な(余裕のある)‘遊び人’である。言い方は悪いが。

まあ、ともあれ文化・美術や学問はある程度、余裕がないと育たない。

京大学派におおらかさを感じるのは、そんな彼・彼女らの出自(生まれ )そのものから来ているのかもしれない。

なにか、話があまり進まずに文章が長くなってしまったので、まだ話は途中ですが、とりあえず筆をおきます。

ではでは^^?

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2011年5月24日 (火)

10.生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き) <外部者(異人)論 その2>

前回の続きですが、ちょっとおさらいを。今は、1項の途中です。

<開発民俗学のアプローチの特徴>

1. 科学的な‘カッコつきの人(間)’から‘平の人’の開放

2. ‘我彼’の二分論から‘我々’への橋渡し

3. ‘人として’ ‘人間’もっと卑近的に‘自分’の可能性を広げるための‘他者’の必要性と重要性の解き明かし。

-----------------------------------------

さて、20世紀までのパラダイムでは、あるべき‘人(間)’のモデルとでもいうべきもの(理想)があり、そのモデルに近づくことにより人類は‘幸せ’になれるとでもいう、‘~イズム(主義)’の時代でした。

これは、まるで岡田斗司夫(※)の世界ですが、我々はすでに‘一つ’の‘~イズム(主義)’が完遂できれば万人が幸せになれるという無邪気な世界ではないことに気がついてしまっているのです。

つまり、世界はすでに多様であり一つの考え方にまとまれるほど‘人間’は賢くもないし謙虚でもない、また一つの‘~イズム(主義)’や‘イデオロギー’が世界を支配することはありえないし、誰もが望んで‘さえ’いないということなのですね。

※1958年生まれの‘オタキング’の岡田斗司夫氏を、私は丁度12年先輩の現代日本における稀有な知性というか哲学者であると私はリスペクトしています。こちらの記事もご参照ください。彼が1995年に著した‘パラダイム論’についての私の感想文というかメモです。

岡田斗司夫 『ぼくたちの洗脳社会』 2007年4月23日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog069.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog070.htm

まあ、私が言うまでもないことですが^^?

さて、私が、この1項でいいたいのは、頭のいい?人が‘頭で考えた’あるべき(想像された)人(間)を基準に、現実の人間を判断するのではなく、あるがままの人間に向き合って、そこから、つまり平の人の現実から物事を考える、少なくとも‘考えること’をスタートさせるべきだということです。

もっというと、プロトタイプの‘農民’や‘漁民’がその地域にいるのではなく、その地域にいる人は、どういう人なのか、という考え方の逆転、というかあたりまえのことですが、現場から考えろということを強く強調したい。

今までの私が関わってきた国際機関の開発調査などで感じたことは、初めに‘農民’という言葉ありきで、実際にその‘住民’がどのような生業により生活(=生存)しているのかということが見落とされていたというか、その住民‘個人’の社会における役割の多様性や多面性についての理解と含みを持たせていなかったことが、のちの計画立案の妨げや足かせになった場合もあるということです。

固有名詞は出しにくいのですが、たとえば、ある地区の住民は‘農民’であるだけではなく、漁民でもあった、つまり半農半漁民であったり(ある湖の周辺にすむ人たちの例ですが、乾季は農業、耕地が水没してしまう雨季は漁業をして生業を立てます)、農民であると共に商人であったりと、普通の‘平の人’の生存戦略は、我々の想像を超えて多様であり多彩であります。

これは、ちょっと‘考えれば’わかることではなく、そのような実例をつぶさにみることにより‘見えてくる’ことなのですが、少なくとも現場経験のない少ない人は、そのような’現実’があるという可能性を、頭の隅においておくと、(開発の)教科書に書いてあることと、‘現場’との違いのギャップに驚くことも少なくなると思います。

この項は、単純にモデル化された科学的な‘カッコつきの人(間)ありきで開発の現場を考えるのではなくて、本当に普通の人(‘平’の人)のもつ、人(間)のアイデンティティの重層性と、生活の多様性の(ある)現実を、素直に受け入れ、かつ実体として考えていきましょう、というところで、一旦、締めくくらせていただきます。

第1項 了

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2011年5月22日 (日)

期待しないこと。折り合いをつけること。

最近、身近な人と衝突することが多い。これは、自分が能動的に、いわば本来の自分を取り戻したからなのだが(まあ、ネコをかぶっていたわけではないのですが)、昔から出る杭はなんとやらで、突っ張っていて衝突も多かったわけだが、今回は、さすがに反省。

まず、期待しないこと。

たぶんお互いに分かり合えるとどこかで思っているからこそ、人に期待し、また期待されて叱咤されるわけであるが、自分は、‘人’に期待することを今後、一切、やめようと思う。

自分の思い通りにならないからこそ、くやしかったり怒れてくるわけであるが、それはそれ、自分は自分、人は人であり、その人(他人)の信念や信条、彼・彼女が本質というかコアに思うことは、その人以外では絶対にいじったり外部から変えることはできない。これは自分にとっても言えることで、人のモノサシで図られ、お前は‘本質がわかっていない’とか、つまりコアの部分を否定(全否定であれ、部分否定であれ)されることは、非常につらい。

だからこそ、自分に期待することはあっても、人様の生き様を否定とか批判することは、今後、絶対にやめようと思った。

あと、折り合いをつけるとは、つまり世知辛い自分の思うようにならない‘世の中’そのもの全てを受け入れるということ。

気に食わないあいつも大好きな人がいるのも、この‘世の中’であって、がばいばあちゃんではないが、「二、三人に嫌われても、反対を向けば一億人いる」のであって、二人や三人とぶつかっても、過剰に反応せず、それもよしというかありとする。

もうつまらないことで(お互いに)消耗しまいと心に誓います。

自分に厳しく、人にやさしく。って書いたら、急にブルーハーツを聴きたくなりました。

そうだ、人にやさしくなろう。

所詮、自分のくやしさもがんばりも他人にはわからないのであるから。
自分の‘コア’というか‘プライド’はオモテッツラしかみれない‘他人’にわかるわけがないし、そんな簡単にねじ伏せれれるほど‘ヤワ’なものではない。

自分を律することができるのは‘自分’だけです。
他人の言動が、その自分を見つめなおすきっかけになったとしても、変わるのは自分であり、それを教えてくれた‘他人’ではない。

人をどうこういう前に、いかに自分を高め、グレードアップさせていくのか。そちらの方に力をそそいだほうがよっぽどかまし。

ということで、今日も、「憎まれっ子、よにはびこる(※)」です。

ではでは^^?


※1 島田洋七 『がばいばあちゃんの笑顔で生きんしゃい!』 徳間文庫 2005 p102

※2 歩く仲間通信 2001年1月20日(日) を参照。非常に恥ずかしいエピソードです。リンクをみるのも面倒くさいので、一部、引用しておきましょう。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030018.htm

前略 

そういえば、数年前、会社の上司らと何かの雑談をしていたときのこと。

「そうそう、憎まれっ子世にはびこるっていいますやん。」(しばやん)

「???。。。 それはお前のことや!」

と、その場の全員から突っ込まれたしばやん。



うーん。いつもどこかで、ひとりで勝手に波風(ムーブメント)を起こしてきたような気が・・・。(下記<主な更新の「地球環境論」とその周辺>を参照)

地球環境論』とその周辺(大阪外国語大学1990年度講義)
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/h000.htm


注:「憎まれっ子世に憚る(はばかる)」が正しいです。念のため。

-------------------- 引用終わり。

間違って引用しないようにしてくださいね。恥をかきますから。

ではでは^^?

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2011年5月21日 (土)

恩師 竹田新先生の業績のページ @イスラーム地理書・旅行記勉強会

どうも、忙しいとき?に限って、よけいなことをやってしまうみたいで、開発民俗学への途(第2部)を書きつつも、休止状態のmixiの「イスラーム地理書・旅行記勉強会」のコミュについつい書き込んでしまいました。

初出: イスラーム地理書・旅行記勉強会

恩師 竹田新先生の業績のページ

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62485855&comm_id=4600043

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私は、1988年から1992年まで大阪外国語大学外国語学部アラビア・アフリカ語学科アラビア語専攻に学びました。

その時の主任教授の池田修先生は、だれもが知る古典アラビア語の大家のひとりですが、その時の助教授で3名の先生がいらっしゃいました。

竹田新先生、高階先生、福井先生といずれも個性豊かなアラビア語の達人の先生でありましたが、後者2名がどちらかといえば古典語など言語学に造詣が深いのに較べて、竹田新先生は、もう少し文化一般というか平たい授業をされていたような気がします。

ともあれ、アラビア語がやりたいとたたいた外大の門ではありましたが、やっぱりアラビア語は難しかったです^^?

田舎の学校では、それなりに英語ができたつもりでいましたが、外大生のレベルは凄かった。大学に入る前に、2,3ヶ国語マスターしていた人がごろごろいたし、アラビア語は特に難しい言葉の一つだったので、いろいろな意味でチャレンジングな学生が多かったような気がします。

ちょっと話がずれましたが、実は、竹田新先生が、私が以前から興味のあったイスラームの古典的な知の体系、特に地理書研究の分野では、当時より一人者でありました。

正直、外大の院をけって飛び出そうとした若気のいたりというか、たぶん素直には入れてくれなかったかもしれませんが、竹田先生のもとを離れてしまったことは、少しだけ今でも後悔しています。

ともあれ、ここでは竹田先生の業績や研究についてまとめて紹介していきたいと思います。

竹田先生の業績リストです。

○竹田新 「イブン=ホルダーズベの『諸道と諸国の書』」 『大阪外国語大学学報 43』 1979

○竹田新 「Juhaの笑話について」 『学報 第72-3号』

○竹田新 「Ialim考-Yaqutと基に-」 『オリエント 26-2』 1983

○竹田新 「アラビア語の地理文献について(I:西暦8世紀)」 『大阪外国語大学大学院修士会 外国語・外国文学研究 7』 1983

○竹田新 「アラビア語の地理文献について(II:西暦10世紀-1)」 『大阪外国語大学大学院修士会 外国語・外国文学研究 8』 1984

○竹田新 「アラビア語の地理文献について(III:西暦10世紀-2)」 『大阪外国語大学大学院修士会 外国語・外国文学研究 9』 1985

○竹田新 「ムカッダスィーの『諸州の知識に関する最良の区分の書』について」 『大阪外国語大学学報 第六十四号』 1984

○竹田新 「Juhaの笑話について」 『大阪外国語大学学報 第72-3号』 ?

○竹田新 「『ビラウハルとブーザーサフ物語』の補遺 -三つの仏教説話-」 『大阪外国語大学論集』第2号 1989

○竹田新 「マスウーディー著『黄金の牧場と宝石の鉱山』の第三~第六章をめぐって(1)」 『大阪外国語大学論集』第4号 1990

○竹田新 「マスウーディー著『黄金の牧場と宝石の鉱山』の第三~第六章をめぐって(2)」 『大阪外国語大学論集』第5号 1991

○竹田新 「アラビア語文献に見られるスィーラー」 ?

○竹田新 「アラビア語地理書の世界 ムカッダスィーの世界観・地域観」 辛島昇、高山博編 『地域のイメージ』 (地域の世界史2) 山川出版社 1997

以上

実は、それ以後の研究についてうかがっていないので、また伺ってアップデートする予定です。

 

ではでは^^?

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9.生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き)

<外部者(異人)論 その1>

ステークホルダー分析の途中ではあるのですが、ここで、ステークフォルダーの一部でもある‘外部者’というものについて考えてみたいと思います。

私の提唱する「開発民俗学」では、現地の人(土の人)に対する外部者(風の人)の役割や、その両者の‘関係性’の重要性について認識し、かつ、その相互が出会うことによる‘ケミストリー(化学反応・融合)'や、その‘グループダイナミスク’の仕組みや可能性に光をあて、いやむしろその‘ケミストリー’をいかにベターのものにするかについて考察していきたいと考えています。

ここのところが開発民俗学の最重要の胆のひとつなのですが、何が今までのアプローチと違い、‘新しいのか’、その理由を3つにまとめたいと思います。

1. 科学的な‘カッコつきの人(間)’から‘平の人’の開放

2. ‘我彼’の二分論から‘我々’への橋渡し

3. ‘人として’ ‘人間’もっと卑近的に‘自分’の可能性を広げるための‘他者’の必要性と重要性の解き明かし。

まあ、思いつきですが、私が‘外部者(異人)論’にこだわるのは、上の3つの理由からです。簡単に、かつ具体的に上記の説明を試みます。

1. 科学的な‘カッコつきの人(間)’から‘平の人’の開放

私の思想の根底にあるのは、分断され細分化されつくしてしまった‘近代(的)な’「人(間)論」の限界をやぶるというか、‘枠’そのものをはずして、‘人(間)’そのものに向き合わないことには、21世紀は一日たりとも進んでいかないのではないかという‘危機感’があります。

今までにいろいろなところで書いてきましたが、20世紀は、‘イズム’の世紀で、それこそさまざまな‘あるべき人(間)’像が語られ、またそれを理想として、世界の各地で‘望ましい人(間)が住む(であろう)ユートピア’の建設が夢見られてきただけではなく、それを目指して現実に(建設が)おこなわれてきました。

直近の卑近な例で言えば、「資本主義社会(‘第1世界’)」も「共産主義社会(‘第2世界’)」も、‘あるべき人(間)’のための、‘国家’建設でした。でも、結局、この分類で、‘第3世界’と呼ばれたのは、その他大勢の、あまり「資本主義社会」とも「共産主義社会」とも違う、「開発途上国」でした。

「開発途上国」といわれる地域や国の、伝統・歴史やその多様性については、まったく無視され、「資本主義」か「共産主義」のどちらかであるか、という観点のみから‘世界地図’のそれぞれの‘ピース(地域・国)’の色分けをおこなおうとしました。

これが、俗に言う「(東西)冷戦」って奴ですが、1992年以降に生まれた若い世代の人については、もう過去のことで、教科書で習うような‘歴史的’な事実です。

でも少なくとも、1970年生まれの私達の世代にとっては、「冷戦」は教科書に書かれたことではなく、生活の中での‘リアル(現実)’でした。

1945年の第二次世界大戦後に、‘世界’は平和と秩序と安定を取り戻したといわれていましたが、実は、太古から今日の今に至るまで、この地球という‘世界’に戦火の止んだ‘瞬間’はありません。

今のこの瞬間にも、‘世界’のどこかで銃声がとどろき、なんの罪のない、普通の'平’の人が殺され死んでいます。

この項は、途中ですが、一旦、筆をおきます。

実に重要なポイントなので、少し頭を冷やして書き継ぎます。

ではでは^^?

バックステージ:

‘みえてしまった人’というのは実際にいたし、これからもいるであろうし、いや、‘今’の自分は、その領域に足を突っ込んでしまった?のではないかという気がしている。

なんというのであろうか、人(間)の行く末が、私には直感的にわかるというか、まだ言葉にするには時間がかかるが、今まで生きてくるなかでたぶん幼少のことから感じてきた獏とした不安みたいなものに対する‘解き明かし’が、この数年、‘自分’の‘言葉’として問わず語りに、まさに頭から‘こぼれ落ちてくる’ような気がしているばかりか、実際にこうして手が勝手に文字を綴っている。

しばやんも‘預言者’の仲間入りか^^?というような無邪気な話でなく、正直、なんで自分がこんなことを、‘誰のためにでもなく’書いているのかがよくわからない。

これを書いて、果たして、‘金’になるのか → 全然そんなことは考えていないし、今のところは‘一銭’にもなっていない。

自己顕示欲もしくは自己満足。 → まあそうであろうけど、‘偉そう’にこんなことを書いて、誰が喜ぶかとか考えると、おもしろいといってくれる人と、今までとは違った‘世界’を見せつけられることで‘既得権’や自分の‘心の安定(平安)’を奪われることで、不愉快に思われ反感を持つ人も多いであろう。

たぶん、半数以上は‘不愉快’じゃないかあ。自分が今、‘立っているところ’に‘ケチ’をつけるような私の物言いに対して、しかも‘自分のことを棚にあげて’ ^^?

先の章の最後の部分を書いているとき、ふと急に、マイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」が聞きたくなって書くのをやめました。つまり、マイケルも‘世界が見えてしまった人’なのではないかと。

まあ、マイケルと自分(しばやん)を並べるのもおかしいし、そもそも‘不遜な’ことですが・・・^^?

ではでは^^?

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2011年5月20日 (金)

‘平凡’な‘平和’ No Music No Life! 歌う心を探る

基本的に、思いつきで書いているけど!

自分の部屋で、プリンセス・プリンセスのCDを聞いて、ミクシイのレヴューをみていたら不意に泣けてきた。

時代と共にある、唄の数々を思った。

時代がどんなにいいときも、悪いときでも、いや辛いときほど、人は悲しみ悼む歌ばかりでなく、それでもどれほどつらいときでも‘明日を信じる’唄を歌ってきた。

歌のフォーマットには、3つしかないという話を聞いたことがある。

1. 出会いの歌

2. 別れの歌

3.、その他

ミクシイの人のレヴューをみていると、唄はそれぞれの人の心の中にずっと生き続けて折節に、その人を、その社会を、その世界を支え、力を与えてきた。

自分には、何の唄をつくる力もない。でも、人の唄を共有し、一緒にみんなで歌うことはできる。

私は、政府開発援助の仕事で、青パス(厳密にはグリーンパス)という半分外交官みたいなパスポートをつくってもらって国の予算で、途上国で仕事をしてきた。

いわば‘国’の予算で留学させてもらったといってもよい。

途上国は、単に‘貧しい’だけではない。いや、経済的な問題より、政治的な、もっといえば一部の‘人間’の利権や権益だけのために、紛争に巻き込まれている地域や国があまりに多すぎる。その一部の‘人間’の影には、実は先進国のフィクサーたちの影がある。(あまり突っ込むと自分が危ないけど)

実は、途上国の問題は途上国だけでは解決できない。

もっと根本的に、世界の(国々)のあり方、いや‘生き方’をかけないことには、いたちごっこで何の解決にもつながらない。

私には、本当の敵が見えている気がするのだが、一人ではとても立ち向かえないし、今は、そのときではない。

まあ、‘正しさ’がへたに‘力’を持つと、‘悪’が‘力’を持つ(持っている)よりさらに始末が悪いということも歴史が証明しているので、あまり‘正しさ’というか‘正しいと思われること’を追究することは控えたほうがよいのだが、でももう少しなんとかならないものか。

本当に、今の福島の原発ではないが、人類は自滅への道を歩んでいるようにしか思えない。

もう、頭のよい人や声の大きな人のいうことや方向性について、疑問をもって、自分の身の回りの‘平凡’な‘平和’を考えて、いや‘平和’に生きてよいのではないか。

戦うべきは、高所から見下ろした‘平和’や‘ユートピア’であって、自分がすでに持っている‘幸せ’を守り広めていくところにこの21世紀の人類生き残りのポイントがあるのではないか。

と私は思う。

間違っているかもしれないけど。

ではでは^^?

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2011年5月19日 (木)

8.生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き)

<ステークホルダーとは (続き)>

前回、‘現地(現場)’におけるステークホルダーの一部について触れました。とりあえず、‘地域住民’と‘行政’についてのみ述べましたが、このわけ方は、あまりに大雑把過ぎるし、それぞれの中身そのものも可変的なものであり、つまり‘定義'付けにより、どのようにでも切り取れるということに言及しました。それぞれの中身を議論することは、一定の意味はあるものの、この講義では、そこには踏み込みません。

なぜか?

さて、ここで考えなくてはならないことは、誰がその‘定義’をするのかということなのです。つまり「ステークホルダー」を規定するのは、ステークホルダーの範疇に入っている‘人(たち)’ではなく、その‘現地(現場)’のいわば‘外部’にいるものであること。しかもそれは、一定の‘力’を持っている‘外部’者が、ステークホルダーの‘枠組'自体を決めてしまっているということ(事実)です。

これが、開発民俗学の一番の胆の部分です。

つまり、私が今までの社会科学全般について‘不信’を感じるところなのです。

‘科学’的であろうとすると、どうしても‘客観性’を求められ、‘恣意’的なものを排除するように求められます。しかし、それが論理の一貫性を欠く根本的な原因であり、近代‘知’の致命的な欠陥なのです。

近代科学は、‘枠’がないと成立ちません。その‘枠’は通例、森羅万象を、ある人(通例個人)が、彼(彼女)のめがね(バイアス)をもって分解することによって、いわばある一つのものを細かくわけて、しかも極限の分子や‘素粒子’まで分解して、その素粒子なりの分析結果をもって、部品を組み立てなおすことによって全体(一つのもの)を定義づけ‘わかろう’とします。

しかし、‘素粒子’そのものを見ることは不可能である(作用・反作用の関係)で、見るために何らかの力(光、レーザー、ビーム?)をあてた時点で、‘素粒子’自体が‘変質’してしまい、元の‘かたち’をすでにとどめていないのです。

つまり、分解しつくすという‘プロセス’そのものが、方法(論)として破綻してしまっているのです。物理学というか、‘(西欧的な)科学’の限界なのです。

‘(西欧的な)科学’を、もっと広く‘知’の一部だと考えると、‘知’の可能性は、一気に広まります。つまり、閉じ込められた‘(西欧的な)科学’を素直に、広くその(それを規定する)‘枠組み’から解き放つことにより、それ自体がもつ呪縛から解き放たれ、さらなる深化(進化)の可能性が生まれます。

今、私が開発民俗学で考えていることは、今までの常識とされてきた考え方の‘枠組み’自体を相対的に、'ひとつ’の‘知(恵)’と捉えなおすことにより、今現在の‘危機’を乗り越えようというところなのです。

これが、私なりの、「近代の超克」なのです。

明治や戦前の「近代の超克」と私の思想が根本的に違うことは、‘哲学’を語るのに、難しい‘言葉’はいらない。ということなのです。

その時世で広く認められた‘エスタブリッシメント’とされるものに組せず、‘平の人’の感覚で、‘常識’を疑い、足元から構築しなおす。その行為自体が‘エスタブリッシメント’そのものであるという、自己矛盾はおいておき、まあ21世紀のパラダイムは、今この時点で作っていくものなのではないのでしょうか。

かなり脱線してしまいましたが、この項では、‘外部者’が彼(彼女)の‘枠(フレームワーク)’でもって、‘現地(現場)’を規定しているという、今までの社会のあり方(通念)、そのものに疑問を持つ必要があるという問題を提起させていただきました。

次回は、いよいよ‘外部者’とはなにかについて論を進めます。

この項、了

なにか自分で書いてきて、楽しくなってきました。‘外部者’論そのものが、‘異人論’であり‘カタリスト’論なのです。まあ、次回も期待して?続きをまっていてください。

ではでは^^?

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2011年5月17日 (火)

7. 今、起こっている危機。原発=原爆 しばやんのコミットメント!

さて、昨日(5月17日)のニュースで、実は福島第1原発の第1号炉が、地震直後の時点で、すでにメルトダウンを起こしていたことが報道されました。

ある程度は想定されていたこととはいえ、目が真っ暗になりました。やはりというか・・・。

それにしても、やりきれないです。ウランやプロトニウムという‘心’がないものとの、‘目に見えない’、終わりがあるともないともいえない(半減期○○万年ってどういうこと。人間の感覚では認識出来ません)戦いとの始まり。終わりの始まりというか、すでに原子力の扉を開けてしまった時点で想定、いや‘偉人’といわれるキュリー婦人でさえ、‘天才’といわれるアインシュタインでされ、彼らの‘天才とされる頭’でも想像できなかったのでしょう。

でも、まあ本当にアインシュタインはとんでもない‘天災’ですなあって、だじゃれを言っている場合ではない。

アインシュタインは、第三帝国(ドイツ)が原爆の開発を進めているから、この究極の力をヒトラーに先に手にいれられるくらいなら、アメリカがその力を持つべきだとトルーマン大統領に進言して、マンハッタン計画が始まったわけですが。

この魔物(原爆=原発)をいったいどうしたものでしょうか。

おっと、前フリが長くなってしまいましたが、私と原爆=原発との闘いについては、こちらをご覧ください。

‘わたし’の平和学~冬が来る前に! 2007年5月6日~ 連載中

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/cat20091295/index.htm

えい、まあついでにちょっとだけ転載してしまいましょう!

連載第2回:

なぜ‘冬が来る前に!’なのか? 2007年5月7日

初出: ブログ版 歩く仲間

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_122a.html

今回、「歩く仲間ブログ」に、‘冬が来る前に!’というカテゴリーを作成しました。このテーマについては、2007年の‘歩きながら考える’の特集記事として「歩く仲間HP」で今年の通年テーマとして考えています。

2007年 新年のご挨拶
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/y2007NewYear.htm

冬が来る前に (その1) 2007年を迎えるにあたってhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00031.htm

冬が来る前に (その2) ダーウィンの悪夢をみてhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog046.htm

すこし以前の記事ですが、こんなんもあります。

アメリカ同時多発テロと東ティモールのPKF http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030024.htm

チェチェン武装勢力のモスクワ劇場占拠事件に思うhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030028.htm

剣を取る者はみな剣で滅びる(マタイ26-52) 映画“パッション(キリストの受難)”をみてhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00021.htm

しばやんのアウティング@スービック(米軍 海軍基地跡とピナツボ火山噴火の後をみて思ったこと) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00027.htm

イギリス・ロンドン同時多発テロ勃発

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030041.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog011.htm

誰のための旗? 国旗を掲げるということ。http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog033.htm

テーマは、‘開発(援助)’というより、それ以前からの私の問題意識、例えば、差別、原爆のこと、死の商人のことなどを扱います。その中で、私自身の‘反西洋思想’をも扱います。書きたいことがいろいろあるのですが、まとめて書くのもしんどいので、断片的になってしまうかもしれませんが、折節につづっていきたいと思います。

想定されるテーマ

1.なぜ、私が原爆や平和や差別にこだわるのか?

2.私の(擬似)被爆体験 ~1985年4月11日 人間をかえせ をみて~

3.平和のハットトリック・プラス・ワン(被爆地巡礼(広島、長崎、夢の島)+ゲルニカ@マドリッド)~

4.死の商人とは(ちょっと気が重いテーマ、でもある程度ふれざるを得ない)

5.差別と辺境地 ~異人論考~

6.‘知は力なり、ただし、開かれたものでなくてはならない’ しばやん@1991

7.なぜ、今、平和憲法が必要なのか。日本国憲法・再考

8.21世紀に求められる総合的な知の体系(パラダイム)とは?

う~ん。いかにも難しそう^^?でも、そんなに肩の凝るような話ではないです。なぜなら、私の体験というか経験からおこした話のなので、決して理論や理屈や、形而上学の話ではないからです。

過去のネタもいろいろあるのですが、やはりビビッドな感動を与えてくれた映画や考えるきっかけをつくってくれた本など関連する最新の話題についても同じカテゴリーで紹介していきたいと思います。

また裏の目的として、日本国憲法施行60周年に対する‘しばやんなり’の議論のネタだしということを考えています。 ← これは、ちょっとというか‘かなり’本気です。

よろしくご高覧ください^^?

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とりあえず、今日の講義はここまで。

うーん。単に東日本大震災からの復興について書けばいいと思っていたのに、原発=原爆についても同時並行で考えなくてはならなくなってしまった。

困ったけど、やりましょう。私が。

まあ、まかせなさい。 1985年4月11に‘心に被爆’してしまった私にしか負えない十字架があるとすれば、死ぬまで‘自分’で闘い続けるしかないのでしょう。まあ、夢が破れても、私の屍を乗り越えていってくれる仲間が一人でもあることを信じて。

ではでは^^? 

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2011年5月16日 (月)

6. 生活支援と復興支援の違いと留意点について (続き)

<ステークホルダーとは>

さて、タイトルはそのままに、続きといきますが、ステークホルダーという言葉がでてきました。

初めてステークホルダーという言葉を聞く方も多いかと思いますが、少しでも‘開発援助’をかじった人は、この言葉の持つ重要性が容易にわかるかと思います。

つまり平たくいうと、「誰が関係者なの」ということです。

東日本大震災の場合で考えてみましょう。思いつくままに、書き出してみてください。

・地域住民 → 住民って誰のこと?

・行政 → 町役場の人?、市役所の人?県や国の役人の人?

ところで、上記の書き出しってなにか薄っぺらくて浅いものだと思いませんか。

地域住民と一言でいっても、いろいろな切り出し方があります。性別(男女)、年齢、生産年齢(乳児、幼児、小中学生、高校生、大学生、大人(職業人)、老人など。でも特に大人と老人はもっと細かくわけて考える必要があるようです。

職業や業種別にわけるのは基本として(たとえば病院関係者、運送業、製造業、土木業、漁業、農業、製造業(工場労働者)、事務方、現業(土木作業員、運搬業、・・・)、サービス業、細かく分ければガソリンスタンド業者なりサービス業でも洋飯、すし(職人)、ファミレス(チェーン店)、喫茶店、床屋、美容室もう際限なくいくらでもリストができるでしょう。

それに加えて正規社員なのか契約社員なのか自営業なのか、アルバイトなのか家内労働者なのかなど、就業形態も考えたほうがよい場合もあるでしょう。

そうそう、介護をうけて老人擁護ホームにいる人と、自宅でヘルパーの支援を受けている人、家庭で老人や病人を介護している人など、はっきりいって、援助の手を差し伸べる‘側’の都合によって、地域住民ひとつを採ってみても、その定義や範囲が、簡単にころころ変わってしまいます。

‘地域’住民といいましたが、東京など外部に出ている労働者、学生などは、その地域に住んでいない(年に2,3回は帰ってくるとしても)ということで、「‘地域’住民ではない」ということができるのでしょうか。

行政についても、自分でシュミレーションしてみてください。

村役場のひと、町役場など属する組織がカバーする地域で分けるのか、職能、たとえば上水道・下水課、道路・橋梁、公園、教務、総務、消防、救急、もう先ほど地域住民で検討した以上に、分け方によっていくらでも切り口があることにうんざりするに違いありません。特に、門外漢にとっては、行政の組織やその役割区分については思うほど簡単にわかりません。

たとえば、道路一つを取ってみても、国道、県道、市道、農道、私道など管理区分がそれぞれ分かれて担当部署が違うということをあなたは知っていましたか?歩いたり車で走れば普段全く気がつかないことですが、‘行政’的には、ちゃんと杭があって管理区分が分かれて(分けて)いるのです。はたから見れば、全く同じ道じゃん。このライン(線)の手前と向こう側と何がどう違うの?

これから普及工事が始まるでしょうか、ここからここまでは県の予算で普及して、このライン(線)の向こう側は市町村の管轄だから直せません、というようなバカなことが起こらないとも限りません。

‘お役所仕事’と今までもマスコミなりに散々叩かれていますが、行政の側のルールというのは、到底、普通の我々には理解できませんが、その細分化こそが、強みである場合もあります。

現業部門には、必ず国から市町村にいたるまで行政のラインがあります。そう、縦割り行政と散々非難されてはいますが、組織の筋を横ではなく縦にとっておくことは‘組織の存続’を考えるときに唯一ではないにせよ、非常に合理的で必要な措置であり考え方なのです。

ちょっと脱線しましたが、地域住民と行政の二つを考えるだけで、その難しさと考える我々の側の知識や経験不足による‘不安’を感じませんか。

つまり外部から、ある地域なりをみるということは、これほど難しいことなのです。いや、想定や想像もできない、見落としが必ずとはいえなくとも、たぶん99%以上は、その‘見落とし’のリスクがあることを、特に外部の我々は頭の隅においておくべきです。

私はなにげに、‘我々’といっていますが、外部者、特に支援を考えたりする側の人間は、自分の能力と知識や経験の限界を自覚しておかなくてはなりません。

この部分は、いわば‘私’の講義の肝の部分なので、次回、もう少し深めてみるつもりです。

とりあえず、今日はここまで。

(続く)

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5. 生活支援と復興支援の違いと留意点について

実は、今までの引用※で半分くらい答えを出してしまっているのですが、生活支援にせよ、復興支援にせよ、どこで誰を対象に何時までに何をやるかということが問題となります。

※初出: ブログ版 歩く仲間

‘ワークショップ’~‘フィールドワーク’と‘ファシリテーション’をつなぐもの(試論) 2009年12月19日 

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-69c2.html


ここで、またちょっと脱線しますが、コンサルタントは、「プロジェクト」という考え方でやるべきことを計画・実施・モニタリング・軌道修正(Plan, Do, Check, Action)というプロジェクトサイクルという枠組みで考えます。

なぜ、といわれる方も多いと思いますが、PDCAのプロジェクト方式が実は一番、「効率」がよいのです。

当然、一つの紛争後の平和構築、復興支援には、あらゆる理系文系の知見とアプローチが可能であるし、人間の生活全般に関するきめ細かい‘支援’の枠組みが必要なのですが、支援する側にとっても、それを一つの団体としてみたときに当然のことながら、できること、できないことがあります。できるならやったほうがいいこともあるにはあるでしょうが、逆に医療行為や法律相談など、‘(有資格者でないと)やってはいけないことも、多々存在します。

つまり生活支援にせよ、復興支援にせよ、さまざまな団体がそれぞれができること(支援)をするというのが基本であり、やるべきことなのです。

限られたマンパワーと物資の制約がある中で、無計画に手当たり次第に救援物資をばら撒いたり、手当たり次第にであった人の順に、医療行為やメンタルケアをおこなうことのおろかさは、改めて私が言うまでのないでしょう。

確かに災害や紛争直後の混乱期では支援に回る団体もやるべきことがわからないくて右往左往し、無駄なことをやってしまうことは多々ありうるし、それを否定することはできません。

しかし、最初期の混乱時以降は、やはりそれなりに秩序だった支援の‘輪’が必要となってきます。

私は、‘支援の輪’という言葉を使いましたが、まさに一つで万能の支援団体がないなかでは‘支援する(団体の)輪'をつくること、そのようなネットワークを作り上げることが最重要な課題なのです。

次回の講義では、ステークホルダーとして、誰を考えるかについて説明します。

とりあえず、今日はここまで。

ではでは^^?

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2011年5月14日 (土)

4. 緊急援助、支援時にまず考えるべきこと <東日本大震災を考える>

4.まず考えるべきこと

緊急援助、支援を考えるときに、当然のことながら、地域開発の総合的な視点が必要なことは言うまでもありませんが、‘緊急’ならではの留意点がいくつかあります。とりあえず列挙してみましょう。

1. 紛争直後、自然災害の直後というのは、人災であれ天災であれ、「戦後処理」であることをまず考える必要があります。

では、戦争状態とはなにか。戦争は、全てを焼き尽くし破壊し、粉々にまで、人間の生活環境と、人の心を壊してしまいます。つまり、すべて破壊されつくされた‘跡’にいる人を救うということなのです。

この状況を理解することは、実は容易なことではありません。少なくとも平和な日本にいる限りは。ただ、いろいろな疑似体験をする、想像力をやしなうための努力というかトレーニングの仕方はあります。でも、それは置いておいて、先に行きましょう。

2. 戦争直後の現場で考えることは、まず人命救助です。これは、東日本大震災をみても明らかですよね。まず人は‘人’を探すことに一番力を使います。

消防団や、警察、自衛隊の活動とかをみてもわかると思うのですが、多くの被害者がいる場所で、効率よく救援活動をおこなうためには、ほぼ例外なく、トリアージ方法(triage〔負傷程度に応じて治療優先順位を決めること〕)が採用されます。これは、もともと医療で使われていた言葉だと思いますが、日本でも近年それなりに市民権を得てきた言葉だと思います。

確か聞いた話では、国境なき医師団が救援に入った現場で、負傷者を3つにリボンをつけてわけたことが始まりです。

wikipedia では、もっとフランスの軍隊までさかのぼれるそうですが、それはそれとして、どうリボンをつけるかをWikipediaで引用してみましょう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8

黒 (Black Tag) カテゴリー0(死亡群)
死亡。生命にかかわる重篤な状態であるが、その救命には現況以上の医療能力(救命資機材・人員)が必要であり、結果全傷病者の救命に不利益となるため、該当する時点での救命の適応がないもの。

赤 (Red Tag) カテゴリーI(最優先治療群)
生命に関わる重篤な状態で一刻も早い処置をすべきもの。

黄 (Yellow Tag) カテゴリーII(待機的治療群)
赤ほどではないが、早期に処置をすべきもの。
一般に、今すぐ生命に関わる重篤な状態ではないが、処置が必要であり、場合によって赤に変化する可能性があるもの。

緑 (Green Tag) カテゴリーIII(保留群)
今すぐの処置や搬送の必要ないもの。完全に治療が不要なものも含む。

あれ、しばやんさんは、3つと言いましたよね。いえ、3つで正しいのです。というのは、‘黒’は、すでに死んでいなくてもその現状では、‘治療できないもの’と一旦は、切捨てられてしまうのですから。

「治療できないものおよび、治療対照群(治療不要も含む)が3段階と、計4段階に分類している。」 (Wikipediaより引用)

ここまで書いてきて、かなり自分でも辛くなりました。

そもそも善意だけのボランティアでは、救える命(赤、黄、緑)ですらも救えない場合があるのです。

限られた時間内に、最大限の‘効果’を出すためには、心を鬼にしてでも救うものと見捨てるものを分けなくてはなりません。

これは、はたから見ても辛いことです。

私も聞いた話ですが、内臓に損傷がある場合と外傷が激しい場合とどちらが生命が危険なのかは、素人では傍目にわからない場合が多いそうです。

医者に限りませんが、生命のぎりぎりで闘おうとするプロフェッショナル(専門家)には、その言動に対する裏づけと覚悟が必要です。闇雲にがんばってもできないことはできないのですから。

さて、救援活動も重要ですが、災害直後の、残された人々のケアが同時に必要となります。

ところで普通、紛争後や災害復興時のステップは3つあると考えられています。

1.緊急支援:短期 たとえば2週間から1ヶ月に集中。
    人命救助、避難場所の確保など、当面に最優先してやること
    人命救助の場合、生存率が高いのが災害後、72時間、つまり3日以内です。

2.生活支援:中期的 仮設住宅の設置、ライフラインの確保、生活環境の整備   
    学校や公的サービスの復旧を含む。
    この場合は、あくまでも‘仮’に生活を安定させるもので、住む場所ですら仮のものでしかありません。
    今、まさに東日本大震災がこのステージです。

3.復興支援:長期的に社会基盤からの再構築をおこなう。

1は、比較的短期間で終わらせ、順次、2,3に移っていくのですが、ご案内のとおり、2と3は同時並行的に関連をもっておこなわれます。ある程度、先の見通しをもって事業をおこなわないと2のステージに割いた資源が無駄になることが多いからです。しかし、実際には、2の場合は、使い捨てになることも覚悟して当面の被災者の生活補助(保護)にあたらなくてはなりません。

いうまでもなく、3の復興支援は、ちゃんと計画期間(時間)をもって、長期的なビジョンをもって粛々と事業を進めなくてはなりません。

さて、今、我々は、東日本大震災では、どのステージにいるのでしょうか。
間違いなく、2と3のステージにいます。

次回の講義では、生活支援と復興支援の違いと留意点について、お話したいと思います。

この項 了。

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2011年5月13日 (金)

Facebookが凄い! 突然目覚めました^^?

ほんの数日前からTwitterに登録したかと思ったら、今日はfacebookのつくりこみをやっています。

これは、凄いことになった。

特に、多くのコンテンツをもっている私みたいな書くの大好き人間にとってみればたまりません。

つぶやきひとつが世界に発信されるわけですから。

「開発民俗学」の提唱に、これは絶対に使える。

在宅で世界につなげるとはこれは大変なことです。

HP x ブログ x mixi xtwitter x Facebookと、どうメディアミックスさせるか、いろいろ考え出したら

わくわくしてきました。

とりあえず、今日はここまで!

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2011年5月11日 (水)

しばやんの‘棚卸し’ 2011年5月11日現在

ってことで、この数日、自分の来て越し‘途’のことをずっと考えてきた。(当然、いつもじゃないけど)

よくよく考えるまでもなく、非常に幸せな半生であったことに気がついた。

人生30000日。もう、折り返し地点に来ているだろう自分。

嫌なこともあったが、それでも思い返すと、結果として失敗や挫折が次のステップへのバネになってきたことが、今なら痛いほどわかる。

あのときに出来なかったことには、その出来ないだけの理由があったということを。

しかし、考えたら今まで本当にやりたい放題やってきました。笑ってしまうくらい^^?

たぶん、一度目の挫折。

大学受験で、東京外国語大学のアラビア語を落ちたこと。中学生のときから、外国語大学にいく、しかも東京にいくと決めていた。

A日程の現役受験で失敗。B日程の大阪外国語大学には受かった。

ともかくA日程の結果がでてからB日程の試験があったと思うが、落ち込んでいた自分に、母方の在所の今は亡きおじいさんがこういった。

「体さえ丈夫なら、なんとでもなるで」

そして、自分は浪人するまでの勇気もなくて、東の空(自分の部屋の窓から本当の東の空が見えるのです)に向かって、絶対に東京にリベンジ(その当時こんな言葉はなかった)、いや「絶対に東京にいくぞ」と誓った。

でも大阪というか関西の水のほうが自分には合っていた。また、アラビア語をやるのであれば、大阪外大のほうが本家本元であることも後から知った。

いろいろな出会いや失敗。

それはちょっとはしょるとして、2回目の挫折は。

大学院への進学。つまり院浪。

大学3年生のときに起こった湾岸戦争で、エジプト留学(カイロ大学・エジプト政府の奨学金には受かっていました)にいけなかった自分は、まともに就職する気がしなくて、無謀にも外大以外の大学に進学しようとした。結果、本質を見ずに、ブランドというか看板だけで、一橋と京都を受けて、当然のことながら、両方とも玉砕。

4年生のときに、全く就職活動をしなかった私は親に出世払いを頼んで、京都で聴講生をさせてもらった。結局、また試験に落ちるといかん(2年も3年も浪人させるだけの親の余裕はなかった)ということで、親の命で、しぶしぶ就職活動をして、なぜだかそれにはまってしまい、いや京都で出逢った‘ある人’の影響もあったのかもしれないが、アラビア語の主任教授推薦の大阪の某一部上場企業(メーカー)の役員面接を落ちた自分は、これはいかん、大先生の推薦にもかかわらず落とされたのは、たぶん自分にやる気がなかったことが役員の人にもわかってしまったからだということで、自分が本気でやりたい職業を改めて考え探して、国際協力の途しかないと本気で就職活動をした結果、ある縁で、前職の開発コンサルタント会社に中途採用で拾ってもらった。

実は、これは卒業していたからできたことで、教授推薦を落とした自分は、このコンサルタント会社の最初の面接で役員(入社後、最初のボスとなった人)から、「大学院に受かったらどうするんだ」といわれたときに、「いや、明日からでも働きます」と大見得?をきって、結局、3回の面接だけで、なんの筆記試験もなく(論文はあったと思うが)この会社に受かってしまった。そして、9月6日から勤務開始ということで中途採用していただくことになったので、8月末には海外部のあった東京にまた引越し。

つまり、この年は、大阪から京都にそしてわずか半年もたたずに東京に引っ越したのでした。だから、このときの自動車の普通免許証には、大阪、京都、東京の住所が書いてあります。

さて、開発コンサルタントの門を叩いてからのことは、今までも散々、HP歩く仲間で書いてきたので省略するが、実は、小学校のたしか5年生のときに授業で将来の夢の絵を描いた(描かされた)のであるが、そのときの、「世界を股にかける人間になりたい」という夢は(絵)は、実は開発コンサルタントを16年やるなかで、かなえてしまっていたのである。

先のボスは、「たとえエンジニアでなくとも、1年の4分の1は、海外に行け」と、さまざまな政府開発援助(ODA)のプロジェクトに業務調整(Coordinator)ということで入れてくれた。実際、わたしほど、何の専門能力もない学卒者でODAのプロジェクトに関わった人間はいないであろう。

たぶんJICA(国際協力事業団と以前は言った)の業務調整の参加回数は日本で、一番私が多いのではないかと思う。というのは、‘普通’の開発コンサルタントは、業務調整なんて仕事はできて一回で、次からは彼・彼女の「専門家」としてでしかプロジェクトに参加できないのが常であるからである。こんな甘いというか余裕のあった会社はなかったであろう、今でも。

ともあれ、多くの開発コンサルタントの大先輩達と世界を一緒に‘歩く’中でいろいろなことを教わった。まさに‘世界’の見方をOJT(実地訓練)で教えていただいたのである。

農業開発とは、すなわち地域開発である。今でもそう思うが、日本で一番の農業土木の開発コンサルタント会社で、私は地域開発の手法と実践を学んだ。

脱線するが、以前、日本福祉大学の小國和子先生の勉強会に参加して、その後の懇親会で話したときに、「コンサルタントってDNAがあるよね」といわれた。

実は、私もそう思う。

大体、開発コンサルタントになるひとは、ほぼみんなが「ドリーマー」だ。私の知る限りの超一流の開発コンサルタントの先輩は、実や予算やスキームを超えて、本気でその(途上国)の人たちのために持てる知識や技術をふりしぼって、本当に現地の人たちのことを考えて調査し計画して、さらには事業の実施までおこなってきた。

シャー革命前のイランで、○○天皇とまでいわれたたぶんもう今は80歳を超えるでろうある‘伝説’のコンサルタントの先輩は、副社長という肩書きがありながらも、自分の会社のことや日本の援助ということを考えていなかった。というか、それを超えたプランニングをしていた。

この先輩の卒業旅行というか40年ぶりのイランのプロジェクトに私も参画させていただいたが、テヘランの西にあるガズヴィン平野は、今でこそ緑にあふれたイラン有数の穀物地帯であるが、実は川がないため沙漠地帯であった。それを北側の山脈の下をトンネルでぶち抜き山の向こう側の川から導水したおかげで植生も街も、つまりそこに住んでいた人々の生活の全てをたった一つのナショナルプロジェクトが変えてしまったのである。

人と自然は、争うだけの関係ではない。自然を手なづけ、自然をうまく使うことにより人間の生活を高めることができる。この一面の緑が、実は人間の叡智と努力が創りだしたものであることを目の当たりにしたときの感動は、とても口では言い表すことができない。

脱線したが、自分自身、そのような多くの先達が考え実行してきたことを、その現場を一緒に‘歩く’ことにより、さまざまな経験と知恵を直に教授していただいた。

もし、開発コンサルタントのDNAがあるとしたら、それは共に学ぶことでしか身につかないであろうといってしまうと元も子もないので、とりあえず私は、自分の開発民俗学の検討の中で、全て自分が学んできたことをできる範囲でオープンに情報提供している。

ともあれ、私は、その「開発コンサルタントのDNA」を現実に実際に引き継いでいると思う。

昔はよかったという気はないが、日本の敗戦後の56年にわたるODAの黎明期から関わったシニアの開発コンサルタントの先輩の諸氏のトライアル&エラーには、本当に頭が下がる。そのフロンティアを切り開いてきたということに、すでにある意味、道ができた後の我々世代は、一種の悔しさを感じることも事実である。

というには、全くの白紙の中から、開発コンサルタントの先輩は、政府や当然、相手国政府と現地の人たちと、ODA事業そのものを創ってきたのだから。

開発コンサルタントは、プランナーでも研究者でもない。ましてや批判家ではない。自分の頭で考え現地の人と共に何かをつくっていく‘実務家’である。

修士号や博士号を持つのが世界的にみても当たり前の「開発コンサルタント」の世界で、学卒でアラビア語をホンの少しかじったくらいの人間が、その中で生きてこれたことは今思うと奇跡に近いことなのかもしれない。

というのは、前の会社はちゃんと筆記試験もあって何度も面接があってと、表門からだったらたぶん当時、絶対に私は受からなかったからであろうから。

卒業して聴講生をしていたおかげで、「明日からでも働きます」といえたからこそ、いやもっというと教授推薦の一部上場企業に滑らなかったから(通例というか絶対にありえないことらしい)、そんな分野(開発援助)にすすむことなんて、全く夢にも思っていなかった。

まあ、書き切れないし恥ずかしくていえないような多くの失敗をしてきたが、結果的に、自分はまあやりたいことは‘全部’やってきたといえる。

これが幸せな人生でなくてなんであろうか。

実は3年前、田舎に戻ることになったときに(3度目の挫折)、正直、本当にどうしたものかと思った。

ある意味、夢もかなえてしまっていたし(そのときはそんなことを考える余裕はなかったが)、なにか自分以外の‘力’に人生が曲げられてしまったことに諦めみたいなものを感じていた。

ただ今思うと、原因は外部ではなく、やはり自分が蒔いた種というか自分のあり方に悪いところがあったから、こそ今のようなことになったのだと、今なら思える。

反省はするが、いつまでも後悔ばかりしているわけにはいかない。

最近、ようやく子供の頃の「世界を股にかける人間になる」を超える?、次の目標というか夢を描けるようになった。

たぶん人間は、それぞれの夢を実現させるべく生まれて必死で努力して死んでゆくものなのであろう。

私は自分のハッピーエンディングがみえたような気がする。

もう道に迷ったり、世を嘆くことはすまい。

なぜなら、私には、私がやるべき、私にしかできない‘ミッション’があることに気がついてしまったから。

ただ、信じる途を、愚直に歩くのみである。

すばらしい能力をもつ先輩や仲間の間にあって自分に自信を持てないことが何度でもあった。

しかし、テンぱってまったく自分の周りが見えなくなった状態のときに、自信をもつということは、絶対に不可能である。

そんなときは、どうすればよいのか。

2011年4月25日の日刊スポーツの記事にあった斉藤祐樹選手の言葉。

「自信が増えるというよりは、不安が消えていく感じ」

まあこの言葉の前後の文脈を置いておいても‘いいこと言うわ’と、正直、私は唸ってしまった。

そうか、自信を持てないような心理状態のときは、自信を持つ(増やす)ことより、不安を消すことを考えて行動すればいいんだ。

やっぱり、祐ちゃんは‘もっている’わと思いました。

あと自画自賛ですが、自分も‘もっている’と思います。

‘天上天下唯我独尊’なんて言葉は、お釈迦様しか言ってはいけないことかと普通は思われていますが(たぶん)、でも、これって普通の人でも使っていいのではないかと、今は思います。

自分も、そう思うから。

何の根拠も理由もないけれど。

でも平たくいうと、人間は一人一人、それぞれが、それぞれにとって尊いということって、当たり前のことという気もします。

なぜなら、その‘人’の人生は、‘他の人’では背負うことも、生きることもできないからです。

それぞれの‘夢’なり‘ミッション’を、この世で達成するために人は生まれて生きている。

そんな、それぞれの‘個人’を尊重することから始めていきたい。

自分が、‘尊重’されるためにも。

そんなことを今は思っています。

ではでは^^?

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2011年5月10日 (火)

‘開発’の定義 しばやん流 2011年5月11日現在

mixiの「開発民俗学」のコミュであった質問を元に私なりの今時点(2011年5月11日現在)をまとめてみました。

問い: 根源的質問です。(開発民俗学で取り扱う) 開発対象は「未開発」ということでしょうか?

回答: 「‘開発’の定義 しばやん流 2011年5月11日現在」

1.ある人にとって、今現在より、少しでもその人にとって‘より幸せ’を感じられる状態になることを‘開発’とする。

2.開発←→未開発などの2分割する考え方(二元論)には組しない。それはどういうことかというと、ある‘一部分’を切り取って得られた指標をもって、線(ライン)を引いたり範囲を決めることに対して、まったくその必要性と意味を感じないからである。

3.私が言うのは、あくまで‘人間’それも‘一個人’における満足度をもって‘開発’の意味を考えたい。

ちょっと解説すると、私がこの「開発民俗学」で強調してきたというか現場で学んできたことは、「人間を考えるときには‘全体’を見なければならない」ということです。まあはやりの言葉でいうと、‘ホーリスティック’アプローチでないと意味がない(と言い切ってもよい)ということです。

たとえば、ある事象からとある指標を取り出し、統計学的にその‘数値’の分布を調べ、そのどこかにライン(線)を引くとします。でもこれって所詮、‘二次元’的な把握なんですよね。また、2つとか3つの因子もしくはそれ以上の因子を分析して、ある範囲に含まれる‘もの’を‘良し’をするとします。でも、それでも結局、二次元よくても三次元的な把握でしかありません。

私が、開発民俗学の学びを通じて考えてきたことは、時間軸を加えた四次元もしくは、今では想像もつかないけど、五次元、いや‘次元’にとらわれずに、‘全て’をそのまま、それを‘之’としてみるいうことなのです。

少なくとも、前後左右上下の三次元プラス時間軸の‘四次元’把握は最低でもしなければならないし、今の時点でその気になれば十分でないにせよ、少しでも‘出来る’ということです。

さて、‘之’(=現実、現在)を出発点にして、‘之’がどのように変わっていくのか。その‘変わった’結果の移動点が、‘之’にとって‘どのような意味’を持つのかが重要なのであって、‘之’以外のものにとっては、出発点と移動点自体を把握することは、科学的にいっても不可能です。

このことは量子物理学が明らかにしたことですが、ある‘もの’の大きさなりを測ることは絶対にできません。というのは、その‘もの’を測ろうとした時点で、その‘もの’は変化してしまっているからです。ある‘もの’を測ろうとレーザー光線なりを当てた瞬間に、なんらかの‘変化’を起こしてしまうためなのだそうです。

これを‘理系’的な一例とすれば、たとえば、‘文系’的な言語学をとってみると、全く同じ‘もの’を複数の人が、全く同じように把握することも‘不可能’なのです。よく引き合いに出される会話の例では、Aさんが‘リンゴ’といったときにBさんは、Aさんが言う意味での‘リンゴ’を把握しているかは非常にあやしい。つまり、「語るもの」と「語られる」ものとの間には、なんの理論的な結びつきはありません。共同幻想というか、この‘範囲’のものを‘リンゴ’だとAさんもBさんも思っているので会話が通じている‘気’になっているだけです。

これを極論すれば、AさんとBさんは、決して一生死ぬまで‘理解’し合えないでしょう。それでも、なんとかAさんとBさんは‘闘ったりつぶしあう’ことなく、なんとなく生きている。なぜなら、たぶん私の仮説ですが、お互いに‘理解’しえないことと、完全に‘理解’することをよい意味であきらめてしまっているというか、‘理解’できてしまうことの危険性を本能的にわかっているからなのです。できもしないのに、‘理解’できるという思い込みが、今までのいくつの悲劇を起こしてきたことでしょうか。

これらのことから導きだせる結論は、‘一つ’の‘価値観’だけが支配する世界は今までもこれからも永劫ないであろうということと、‘一つ’という‘価値観’を創造(創造)することと意味がないということです。

これは、今までの西欧近代の‘パラダイム’、分割して理解するというパスカル的な世界観・宇宙観との決別の時期に我々はすでにきているということです。

唐突に聞こえるかもしれませんが、ダーウィンが‘進化論’を考える基礎というか土壌になったのは、西欧の探検の時代以降に始まった‘分類’学といわれています。

つまり、自分(達)が今まで知らないものを知ったときに、それを‘理解’するために、分けて考える‘それ’をひたすらに因子に‘分解’して‘分類’していく。

この分解・分析能力というのは、人間が今までに獲得した能力平たく‘知恵’といってもいいですが、よい意味での‘知恵’の一つですが、致命的な欠点があります。というのは、古今東西‘普遍的な’分類は、今までもなかったしこれからも多分‘絶対に’現れないであろうからです。

分類には、必ず‘一つ’の基準というか‘モノサシ’が尺度が必要なのです。これは一つでは、なにもわからない、二つ以上のものを並べて較べてやっと、それぞれの意味がわかるということなのですが、二つを較べるときに、かならずどちらかを‘一’とする必要が生じます。つまり、‘一’を定めないことには比較できない。

仮に、AさんとBさんがもっているある同じような‘モノ’を持ち寄って較べようとしたときに、どちらとも、自分が持っているものを‘一’としたがるし、‘一’に較べられて、その一より勝る勝らないで悔しがったり、それを不服としてケンカをする場合もあるでしょう。何の根拠もない‘一’に踊らされて一喜一憂する、それはそれで必要なことかも知れませし、一概に否定もできませんが、ライン(線)や範囲を決めるということは、そのような危険を常にはらんでいますし、なにがボーダー線上であるかということが常に議論になります。

でもね、AさんとBさんがいくら俺のほうがお前より勝っていると争ったところで、Cさんからいれば、どっちもどっちじゃん、俺からみれば、AもBも同じじゃんというのが、今までに何度も繰り返された滑稽でもあり悲しみでもあります。

たとえば、Aさんがキリスト教徒、Bがイスラム教徒、Cが仏教徒としましょう。何がいいたいのかわかりますよね。

つまり世の中、‘世界’は、その程度のものなのです。簡単にいってしまうと。

あと歴史的な事実として、絶対に忘れてはいけないことは、その‘一つ’の基準の、‘一’を決めたのは、力があるとされたものです。勝てば官軍といいますが、覇を競って、‘勝った(とされる)もの’だけが、自分が‘一’であることを宣言できるのです。

でも負けたものはともかく、その争いに入っていない、土俵にすら上がっていないものが、覇者の‘一つ’の基準で評価されてしまうのって、非常に傍迷惑な話ですよね。

これが、南北問題や‘開発’問題の本質です。極論すると。

私は、ミレニアム・デヴェロップメント・ゴール(ズ)とか、貧困線(コーラ一缶=100円)を、議論することに全くの価値を見出していません。ただし、それぞれの‘具体的な’課題の実質的な‘中身’の議論に参加することについては、やぶさかではありませんが。

ちょっと脱線しましたが、私は「開発民俗学」を通じて、今述べてきたような‘ものの見方’を鍛えていきたいと思っています。

蛇足ですが、学術的にいうと「文化絶対主義」や「文化相対主義」のどちらをも乗り越えるための‘言葉’を見つけたいし、今までの知のパラダイムを、もう一度、ゼロベースで学びなおした上で、構築しなおしていくことが「開発民俗学」の隠れた裏側の目的です。権威者がつくってきた‘尺度’をぶち壊して、‘平の人’たちが心から共感できる‘尺度’で世の中をみていこう。そのためには、世界を広く‘時空を超えて’旅する必要があります。

これが、「歩きながら考える-世界と開発-」ということなのです。

なんか、うまくまとまっちゃったけど。

P.S.

まったくの偶然かもしれませんが、「No Limits No border」という新しいブログ(プロジェクト)を立ち上げました。これが、私のスタンスです。

No Limits No Border, Shibayan on the Road!

東方西走の‘地域活き生きアドバイザー’のしばやんが贈る、世界をまたに駆ける男旅の物語。 I am your consultant. Always, to be continued.

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/no_limits_no_border/

ではでは^^?

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2011年5月 9日 (月)

あらたなる旅立ち! こんなん始めました^^?

No Limits No Border, Shibayan on the Road!

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/no_limits_no_border/

というブログを新たに開始しました。

新たなる旅立ち!

みなさん、初めまして!

しばやん@愛知です。

国際開発コンサルタントとしての16年間の経験を元に、ひとりの個人コンサルタントとして新しい旅に乗り出すことにしました。

No Limits No border 情念は時空を超えて。古今東西、この世界を駆け抜けます。

風になりたい!

尊敬する先達: 前嶋信次(アラブ・イスラーム学者)、家島彦一(イスラーム史)、宮本常一(民俗学者) その他、多くの諸先輩や仲間の歩みに勇気づけられながら、今日というたった一度の日々をかみ締めて生きてゆきたいです。

人生たかが30000日。

声がかかれば、すぐに駆けつけます。

仲間のために。

For Your Smile.

世界は生きるのに値するほど素晴らしい!

I am your consultant.

地域活き生きアドバイザー 

柴田 英知

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2011年5月 8日 (日)

歩く仲間通信 (2011年5月3日) 柴田英知@愛知

しばやんこと柴田英知@愛知です。

新年のご挨拶もないままに、すでに5月となってしまいました。

日本に帰国してほぼ丸3年、転職して2年半となります。ほぼ2年ぶりのお便りとなりますが、みなさま、お元気でしょうか。

ずいぶんご無沙汰してしまったことをお許しください。

正直、この2年結構辛かったです。覚悟の転職とは言え、全くの畑違いで勝手も違えば、とにかく30名弱で年間14億円の売上げ、ダイレクトに上司の下でボート用品の企画営業、インターネットの事業とはいえ集客して実際に買ってもらわなければ売上げに結びつかない。
仕入れて売る、問い合わせに対応する、趣味で好きで買いに来てくださるお客様とはいえ、一円でも安く買いたいし商品に不備があれば文句の一つも出てくるし、マリングッズは
物によっては命にも関わる。たとえばミニボートとか船外機とかライフジャケット、商品の性能や使い方だけが正しいだけではどうしようもならない、自然という外部要因もある。

とても片手間でやれる仕事ではありませんでした。

最近、ようやく腰を入れてこの場でがんばるしかないと腹をくくりました。ちょっと詳しくはかけませんが、悔しくて今のままでは終われない。次に移るとしたら独立しかないと、当面はマリングッズ屋のお兄さん?を本業にがんばってみようと思います。

閑話休題

ところで、3月11日の東北関東大震災、いつのまにやら東日本大震災と呼び方も二転三転しておりますが、福島第1原発の件など、まったく予断を許しません。震災にあわれて亡くなられた方のご冥福を祈ると共に、多くの愛しいものを一度に失った多くの被災者の皆様に心よりのお見舞いを申し上げます。

この2年間、全然、ホームページもブログもmixiも書き込みができませんでした。いろいろなきっかけはあったにせよ、やはり世界は私を黙らせておいてはくれなかったようです。この1,2ヶ月でしばやんも完全復活。いろいろ活動を再開しました。

とりあえず、この場を借りて一つの提言。

change "a" world

今日は実は先月の休日出勤の代休で一日お休みなのですが、近所を散歩しながらつらつら考えました。

まずこの記事から。

ウサマ・ビンラーディン氏殺害 2011年5月1日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/201151-b8d7.html

ちょっと引用:

まいった、困ったことになったなあというのが、私の今の率直な感想である。

昨日から日本でもニュースになった、まさにビッグニュースなのであるが、私の心は晴れない。

昨夜、このニュースをみたとき、まさか本当なのか、ダミーの偽者ではないかとか、オバマ大統領の選挙前の成果のデモンストレーションではないかと半分以上懐疑の気持ちが強かったが、今朝、コンビニで各社の朝刊を買って、このニュースの重大さを改めて感じた。

ただ、私は、まだ本物が死んだとは半分以上思っていないし、仮に本人であろうと偽者であろうと、今後の世界中で起こるであろうビンラーディン氏の殺害をよしとしない人たちによる彼らを敵視するアメリカや日本を含めた地域や国民に対する報復のほうを真剣に恐れている。

以下略

今日は朝から、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」を聴きながら、上記の記事を書きました。

まったくやりきれない思いです。このアルバムがでたのか40年前、10年前にアメリカ同時多発テロが起こり、今年は、また報復の応酬へのトリガーが引かれてしまった気がします。

このアルバムというか「明日に架ける橋」へのコメントはこちらも参照ください。(ジョンレノンのイマジンについても触れています)

歴史への問い イギリスよ、おまえもか? 1991年2月7日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/o00011.htm

そうだ、ちょうど20年前に湾岸戦争が起こったんだ!この記事は、少し校正されて朝日新聞に載りました。
大学3年生のときだったかな。ちょっとアラビア語の指導教官に小言をいわれたことを思い出しました。

確かに青臭くて独りよがりの言説ではありますが基本的に私の考え方も行動パターンも変わっていないなあとちょっと苦笑い^^?

話を戻すと、change "the" worldは、いわずもがなのエリック・クラプトンの1996年の大ヒット曲。名曲中の名曲だといってもいいと思うのですが、今日、歩いていて思ったのは、change "a" worldという言葉。

フランス語ではル・モンド、英語ではザ・ワールド、定冠詞をつけると“世界”や“地球”という意味になりますがもし一般名詞として扱って、a をつけたらどうなるのか。その用法もありなんですよ。だって、代表例としてDisneyの’It's a small world" 千葉幕張の東京ディズニーランドで私が一番好きなアトラクションの一つでもあります。

つまり、the world(世界)を変えることはできないかもしれないけど、ひとつの世界( a world)ならば変えることができるのではないかという提言です。

そういえば、「世界で一つだけの花」という唄もあったなあと脱線しまくりですが、今、自分の生きている一つの世界から変えてゆく、自分にとっても自分の周りの人や物にとっても愛おしい一つの世界は実現可能なのではないか、いや、そこから始めようという話です。

手塚治虫の名作、『ブラックジャック』にこういう話があります。

「病院ジャック」(単行本 第11巻 第95話)

あらすじ: ブラックジャックが執刀中の病院の手術室にテロリストと思しき覆面組が乗り込み、病院の手術中の患者を人質に、政府に交渉を持ちかけます。つまり手術中の患者が死ぬのが1時間、その間にテロリストの要求を呑めということで、結局、この交渉は失敗しテロリストはその腹いせに病院の電源を全て破壊して逃亡、ブラックジャックは真っ暗な手術室で手探りで患者の手術を完了しますが、病院としては停電のため重症患者5名の死者を出してしまいます。

逃げそこなって警察に捕捉されたテロリストとすれ違いざま、彼はこのような言葉をテロリストに浴びせます。

「たいしたやつだな・・・・・・・・・」 
「簡単に五人も死なせるなんて」

「こっちは・・・・・・・・・・・・」
「ひとり助けるだけで せいいっぱいなんだ・・・・・・・・・」

現実の世界では、確かに自分や自分の家族など身の回りのことにかまうだけで手一杯であることも真実です。確かに、他人やましてや‘世界’にかまっているほど暇でもお人よしばかりではないことも明らかです。

でも、「世界」(the world)にかまえなくても、一つの(私)の世界( a world)ならかまえる人は多いと思います。

また、すれ違った「ひとり」の重要さもいわずもがなです。

同じく『ブラックジャック』の掌編。「ある老婆の思い出」 単行本15巻 第135話

一言でいってしまうと、ブラックジャックがたまたま通りかかって救った赤ん坊の話。その親子の乳母となったニューヨークの病院の看護婦の回想の物語です。

「その人はいった・・・ / この宇宙の中で / 人の一生なんてゴミのようなものだが
それでも ちゃんと / 歴史の中で / 決められているとおり / 生まれ いつかは
死んでいく・・・・・・・・・」

「もし人の命を救うことで その人の人生をかえたなら
もしかしたら歴史もかわることになるかもしれない
医者や看護婦は そういった役目なんだ・・・・・・と・・・・・・・・・」

50年後の回想の終わりにでてくるのは、立派に成人した赤ん坊の姿でした。

「ただいま メアリお母さん」 「お帰りなさい 大統領閣下」

マンガといってしまえばそれまでかもしれませんが、この話を読むたびに目頭が熱くなります。

自分に何かできることがあれば、自分が動くことによって何か一つでもひとりでも(a)世界が変われば、大きな世の中や世界も変わっていくかも知れない。

そんなことを思いながら、「開発民俗学」への途を歩んでいけたらと思っています。

長々の長文を読んでいただきありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしています。

がんばろう 日本

柴田 英知

P.S.

mixiのコミュ「開発民俗学 -地域共生の技法-」では、それなりに気合をいれて
書き込みをおこなっております。ぜひお立ち寄りください。

http://c.mixi.jp/kaihatsu_minzokugaku

mixiのメンバーでない方は私から招待しますので、ご遠慮なくお問い合わせください。

おまけ;

遊びのブログ: Life, I Love You!
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/

固めの記事: ブログ版 歩く仲間 歩きながら考える-世界と開発-
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/

ではでは^^?

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拝啓 15のあなたへ!?

昨夜、中学3年生の時の同級会に行ってきました。

実は田舎では結構やっていたみたいで、私もたまたまブログをやっているのを担任の先生に見つけられて声をかけていただいたのですが、アラフォーのオヤジやオバサンとはいえ、やっぱり同級生なんだよな。

久しぶりに職場ではいえないような話題で盛り上がりました。

実は、田舎に帰ってきて3回目くらいこの会に参加していて、ようやく今になって自分のバカさかげんとか、悔しさとか本音で、25年前の友人達に向かい合えた気がしました。

べろべろに酔って帰って今朝、いろいろ昨夜のやり取りを思い出して、思わず、泣いてしまいました。

これ以上はいえないけど、かれら、仲間に対して恥ずかしくない生き方をしなければと、心底、思いました。

そりゃみんな、40年も生きてこればいろいろな経験をしているわけで、自分の生きてきた道を考えたときに、これでよかったのかということと、大体、みんなそれぞれの挫折や悔しさを抱えているんだ(あたり前のことですが)を実際に聞いて、それぞれの立場で必死でがんばってきたことを思うと、本当に自分の未熟さというか、いかに甘ちゃんであったかということを思い知りました。

あと中学校のときに好きだった子が、それなりに私を意識していたという話を聞いてちょっと苦笑いというか甘酸っぱい想いが。

彼女とは、10年前に、卒業15周年の初めての同級会で再開して、デートに誘い出したのですが、そのとき実はすでに婚約していました。

ファンキーモンキーベイビーズの「告白」ではないけど、中学生のあのとき気持ちを伝えていればとマジで思いました。

チャンスは前髪しかない、苦いけど、たぶん同じ間違い?を繰り返さない教訓?となったと思います。こんなところで書くことでもないけれど・・・。

昨日は、ちょっと充電させていただきました。

みんな、ありがとう。

ではでは^^?

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2011年5月 6日 (金)

リアル(現実)とはなにか・・・鎌田慧に思う

昨日、地元の比較的大きな書店にいって驚いた。

鎌田慧の原発に関する著作が、旧作と最近の雑誌記事を取りまとめた論集の2冊が、大震災と福島第1原発関係の平棚に他の書籍や写真集と共に山積みにされていたのだ。

実は、鎌田慧の論集が、岩波書店から出された10何年か前も、違和感を感じたいのであるが、今回は、そのときよりもっとサプライズであった。

と同時に、やはり世の中、現実の‘生’の声を知りたいのだ。それに飢えているのだということを感じた。

鎌田慧は、私が就職して働きだしてから出合ったジャーナリストで、その肩書きよりむしろ‘歩く先達’として尊敬してきた。

いろいろなところで彼の人となりや著作にも言及してきた。

今回の地震の問題、原発の問題、実は心ある人たちはすでに何十年も前から予測しその危険性を訴えてきた。

鎌田慧は、もともと東北の青森県出身で、六ヶ所村の核のリサイクル施設と地域的にも深い関係があり、もう40年以上も前から日本の原発について取材し、その実態と問題について深くコミットしてきたジャーナリストの一人である。

今、求められているのは、その場しのぎの気休めや机上の理論や、人をけむをまかせる適当な理想論や希望的観測論ではない。

我々がほしいのは、本物の現場にたったリアルな情報。それは、特にへんな思い込みや脚色のない生の素材そのものである。

一つの事実だけで全てを語ろうとする輩もあるなかで、鎌田慧が積み上げてきたのは、その場に生きる‘生’の人の‘声’だけなのである。もっとも彼が無色透明であるとまでは言っていない。いや、過剰に彼は自分のスタンスというものを自覚し、それをも、彼の言説の前提条件として‘客観的に’わかるように言明している。

そして、現場の人の声が多いのも彼のルポルタージュの大きな特徴である。聞き書きそのものではないが、現代の‘民俗誌’とでもいえるような職人芸的なルポルタージュなのである。そう、現代稀有の‘フィールドワーカー’のひとりでいっても過言ではあるまい。

ともあれ、根のない空虚な議論ではなく、現場の人の声をふまえて、これからの復興などを考えることは非常に望ましいことだと思う。

ちょっと上から目線の言い方になってしまってよくないのだけれども、ふとそんなことを決して今まで通は知っているけど平置きされたことはあまりなかったであろう鎌田慧氏の本を山とこの目で見て深く感じた。

ともあれ、まずは知ることから、そして動くことから、歩く見る聞くが現場のリアルに近づく地味で時間もかかくけど確実な方法であろう。

我々もまた自分の歩を進めることにしよう。

先達の背を横目に見つつ、自分自身のリアルをつかむために。

(この項、了)

私における鎌田氏の位置づけについては、下記を参照ください。

◆ Giant Steps! 巨人達の足跡 2001年2月5日現在

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/gsteps.htm

◆ 「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて 2000年2月5日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0008.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0009.htm (←特にこちら)

◆ 2001年あるいは、21世紀の始まりに想うこと(あたりまえの時代もしくは本物(ライブ)の時代の到来) 2001年1月28日 

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00016.htm

ではでは^^?

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2011年5月 4日 (水)

「‘開発民俗学’への途 (第2部)」を開始します。

とはいえ、そんなに気合をいれて飛ばせるわけもないのでリハビリを兼ねてメモ書き程度に再開します。

1.再開に当たって

現場の学として‘開発民俗学’を考えるに、時代の要請、時代の風の流れというものを考え、いや感じなくてはならない。

今回、開発援助の現場から離れて3年にもなる私があえて、第2部に突き進もうと思うのは、2011年3月11日の午後2時46分頃に起こった東北関東大震災。いつのまにやら東日本大震災によび方も変わり、その過程で、福島第1原子力発電所の事故の問題も発生した多分、日本の戦後最大の災害に直面したからである。

確かに愛知県に蟄居している私に直接的な被害はなかった。しかし、これはすでに日本の一地方の問題ではなく、日本国民全ていや世界の多くの人たちにも大きな衝撃を与え続けている。

この国難にどのように立ち向かうすべがあるのか、それをこの‘開発民俗学’というものを一つの軸にすえて考えていきたい。

2. 方法論

開発民俗学とは、まだなんら学術的な定義も市民権も得た言葉ではない。勝手に私がいっているだけである。しかしながらいくつかの基本的な理念と方法をもったものだと私は考えている。ここでは、今までの考察は略させていただく。詳細は、開発民俗学への途(第一部)を参照していただきたい。

開発民俗学’への途(第1部)<連続講座> 2000年7月15日~2007年4月29日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm

とりわけ、この第2部で援用したい方法論と、とりあげたい課題は下記のとおりである。

1.復興事業における人的資源の活用。

もっとひらたくいうと被災現場におけるヒューマンネットワークの重要性とその構築方法。

2.復興のステージ分けと、それぞれのステージで求められるもの。

ステージによって現地のニーズも必要とされる資源も異なるということ。如何にそれを組み合わせ、また適切に移行させていくのか。

3.被災地における外部者の役割。

現場の中にいる人ではできないこと、気がつかないこと。外部者だからことできること。当事者と外部者との間に入ってコーディネイトするファシリテーター、カタリストの役割についての理論と、その実践の手法についてもいくつかの指針を示したい。

大きく、上の3つのテーマに沿って、もしくは前後したり混合しながら、多面的に東日本大震災の復興のシナリオと開発民俗学徒のあり方についての私見を述べていくこととする。

3. 論拠

私の手元に、2008年3月2日付けの、フィリピン国ミンダナオ島での復興支援事業の事前調査の一環としておこなった紛争地域でのNGO調査の報告書がある。これは日本の政府機関の委託調査でおこなったもので、当然、この成果品はその政府機関に所属する。

この調査で私は、ローカルコンサルタントと共に現地のいくつかの開発支援NGOを訪問して、彼らとワークショップをおこない、彼らが実践してきた紛争地域での復興支援のやり方、成果、失敗の数々を共有して報告書にまとめることができた。

これはまさしくフィリピンのローカルNGOというカタリストが試行錯誤して得た知識と経験の賜物である。

たぶん、この報告書は、限られた人しか閲覧できないはずであるが、私はこの調査のみならず、これまで地域開発、農業開発の専門開発コンサルタント会社で16年間、日本の政府開発援助に携わってきた経験を元に、開発コンサルタント・マインドというか、開発コンサルタントの思考方法について、平易に語っていきたい。

なお、この記事は、ブログおよびmixiのコミュニティにて同時に発表する予定である。

オープンテキストとして、各章ごとのコメントや質問にも答えつつ掲載を進めていきたいと考えている。願わくば、より具体的で実践的な集合知を目指していきたい。

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2011年5月 3日 (火)

ウサマ・ビンラーディン氏殺害 2011年5月1日

まいった、困ったことになったなあというのが、私の今の率直な感想である。

昨日から日本でもニュースになった、まさにビッグニュースなのであるが、私の心は晴れない。

昨夜、このニュースをみたとき、まさか本当なのか、ダミーの偽者ではないかとか、オバマ大統領の選挙前の成果のデモンストレーションではないかと半分以上懐疑の気持ちが強かったが、今朝、コンビニで各社の朝刊を買って、このニュースの重大さを改めて感じた。

ただ、私は、まだ本物が死んだとは半分以上思っていないし、仮に本人であろうと偽者であろうと、今後の世界中で起こるであろうビンラーディン氏の殺害をよしとしない人たちによる彼らを敵視するアメリカや日本を含めた地域や国民に対する報復のほうを真剣に恐れている。

Aera010930

アエラ No.42 9/30号 『緊急増刊AERA 新「世界戦争」が始まった』 朝日新聞社2001年9月30日

Sankei011019

「サンケイスポーツ特別版 10月19日号 戦慄フォト特集 速報 米国炎上 同時多発テロ」 産経新聞社 2001年9月13日発行

あれから10年も、これから10年も 実はあのセプテンバー11からちょうど10年目にして、オバマ政権にしてようやくの成果?ではあるのだが、結局、あのときから今まで一体、テロリストといわれる人たちの、もっと狭めてもアルカイーダという組織の何がわかったのであろうか。

1988年に大阪外大のアラビア語の門をたたき、いろいろイスラーム圏も歩いてきた私にしても、まったく何が間違っているのか正しいのか、そもそもアメリカ側とイスラーム過激派(としておこう)の主張の軸がまったくといっていいほどわからない。

オバマ大統領の「正義が成し遂げられた」というコメントに対して、私は疑問を突きつけずにはいられない。

そもそも何が‘正義’なのですかと。

ともあれ、2011年は世界も日本も大変な年であるのは間違いない。今年の10大ニュースどころではない教科書にも載るような多くの出来事が、この1年に起りうることは間違いない。だって半年もたたないのにいくらも事件があるのだから。

ビンラーディン氏は殺害され既に水葬されたと聞く。

直接、‘悪の親玉’の言明を聞くことは永久に不可能である。

これでよかったのか、アメリカよ。オバマ大統領よ。

私は、私なりの‘正義’を考えていかなくてはならないし、イスラーム過激派とされる人たちの‘正義’も考え公にしていかなくてはならないと考えている。

それが、日本人の我々のできることではないのですか?

と、少なくとも私は思う。

世界の片隅で。

柴田 英知

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2011年5月 2日 (月)

東日本大震災に関する総合トビ

私は、mixiをやっているのですが、その中の話です。基本的にmixiのメンバーでない方はみることができないのですが、「開発民俗学-地域共生の技法」というコミュニティを運営しておりまして、その中に上記のトピックを立てました。 mixiのメンバーにしかあまり意味ないリンクですが、ご参考までちょっとだけ引用。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62010713&comment_count=1&comm_id=2498370


2011年3月11日午後2時46分頃に起こった東北関東大震災。いつのまにやら東日本大震災によび方も変わり、その過程で、福島第1原子力発電所の事故の問題も発生、いまだ解決の糸口も見えない中、われわれができることは何があるのでしょうか。

ここトピックでは、東日本大震災について、みなさんの実際の体験談や思うことのシェアーをする場としたいと思い開設させていただきます。


実は、このトビのメンバーで震災に遇われた方やもしかしたら亡くなられた方もいるかもしれません。亡くなられた方、残された方、そしてそれを側で見守ることしか出来ないもの、それぞれ立場は違っても復興にかける想いは共有できるはずだと思います。

最後になりますが、亡くなられた方のご冥福と、多くの愛すべきものを失われた被災者の方々にお見舞い申し上げます。

がんばろう、日本。

引用終わり。

基本的に思いつきと勢いで筆を進めてしまうのですが、少しずつでも思うところを書き継いでいきたいと思います。私の書き込みのみについては、このmixiのトピックと、このブログでも紹介していきたいと思いますのでコメントやつっこみをお願いいたします。

ではでは^^?

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