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2011年5月 4日 (水)

「‘開発民俗学’への途 (第2部)」を開始します。

とはいえ、そんなに気合をいれて飛ばせるわけもないのでリハビリを兼ねてメモ書き程度に再開します。

1.再開に当たって

現場の学として‘開発民俗学’を考えるに、時代の要請、時代の風の流れというものを考え、いや感じなくてはならない。

今回、開発援助の現場から離れて3年にもなる私があえて、第2部に突き進もうと思うのは、2011年3月11日の午後2時46分頃に起こった東北関東大震災。いつのまにやら東日本大震災によび方も変わり、その過程で、福島第1原子力発電所の事故の問題も発生した多分、日本の戦後最大の災害に直面したからである。

確かに愛知県に蟄居している私に直接的な被害はなかった。しかし、これはすでに日本の一地方の問題ではなく、日本国民全ていや世界の多くの人たちにも大きな衝撃を与え続けている。

この国難にどのように立ち向かうすべがあるのか、それをこの‘開発民俗学’というものを一つの軸にすえて考えていきたい。

2. 方法論

開発民俗学とは、まだなんら学術的な定義も市民権も得た言葉ではない。勝手に私がいっているだけである。しかしながらいくつかの基本的な理念と方法をもったものだと私は考えている。ここでは、今までの考察は略させていただく。詳細は、開発民俗学への途(第一部)を参照していただきたい。

開発民俗学’への途(第1部)<連続講座> 2000年7月15日~2007年4月29日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm

とりわけ、この第2部で援用したい方法論と、とりあげたい課題は下記のとおりである。

1.復興事業における人的資源の活用。

もっとひらたくいうと被災現場におけるヒューマンネットワークの重要性とその構築方法。

2.復興のステージ分けと、それぞれのステージで求められるもの。

ステージによって現地のニーズも必要とされる資源も異なるということ。如何にそれを組み合わせ、また適切に移行させていくのか。

3.被災地における外部者の役割。

現場の中にいる人ではできないこと、気がつかないこと。外部者だからことできること。当事者と外部者との間に入ってコーディネイトするファシリテーター、カタリストの役割についての理論と、その実践の手法についてもいくつかの指針を示したい。

大きく、上の3つのテーマに沿って、もしくは前後したり混合しながら、多面的に東日本大震災の復興のシナリオと開発民俗学徒のあり方についての私見を述べていくこととする。

3. 論拠

私の手元に、2008年3月2日付けの、フィリピン国ミンダナオ島での復興支援事業の事前調査の一環としておこなった紛争地域でのNGO調査の報告書がある。これは日本の政府機関の委託調査でおこなったもので、当然、この成果品はその政府機関に所属する。

この調査で私は、ローカルコンサルタントと共に現地のいくつかの開発支援NGOを訪問して、彼らとワークショップをおこない、彼らが実践してきた紛争地域での復興支援のやり方、成果、失敗の数々を共有して報告書にまとめることができた。

これはまさしくフィリピンのローカルNGOというカタリストが試行錯誤して得た知識と経験の賜物である。

たぶん、この報告書は、限られた人しか閲覧できないはずであるが、私はこの調査のみならず、これまで地域開発、農業開発の専門開発コンサルタント会社で16年間、日本の政府開発援助に携わってきた経験を元に、開発コンサルタント・マインドというか、開発コンサルタントの思考方法について、平易に語っていきたい。

なお、この記事は、ブログおよびmixiのコミュニティにて同時に発表する予定である。

オープンテキストとして、各章ごとのコメントや質問にも答えつつ掲載を進めていきたいと考えている。願わくば、より具体的で実践的な集合知を目指していきたい。

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