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2009年12月27日 (日)

‘チェンジメーカー’としての‘ファシリテーター’ ファシリテーター原論

という記事を、「Life, I Love You!」に書き込みました。

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/12/post-cc1d.html

こちらの文中にも触れましたが、そもそも「ブログ版 歩く仲間」で扱うべき記事だと思いますが戦略的?にあちらでもあえて話を振るようにしています^^?

前に書いた「‘ワークショップ’~‘フィールドワーク’と‘ファシリテーション’をつなぐもの(試論)」 2009年12月19日

の続きの記事として読んでいただいて結構です。

さて、このような濃ゆい話題を、ミクシイの「開発民俗学~地域共生の技法」とコミュニティで展開しているのですが、やはり‘わざわざ’関心をもって自分からコミュに参加していただいているメンバーの目にさらされるということで、さっそく2名の方からコメントをいただきました。

思えば、私もインターネットを通じた情報発信は、2000年3月18日から「歩く仲間」というホームページから始めたわけですが、その後、HPとメルマガ(特定の友人にBCCで更新の便りを送るという原始的なもの)、掲示板(BSS)の導入(『歩く仲間の声』(2001年1月8日)などを経て、2005年4月23日からココログというこのブログを始めました。

今、新しい職場でインターネット通販というEコマースの最先端の営業企画をしているわけですが、今までの井戸端というか対面的なコミュニケーションとは、似て異なる(全く違うわけではない)新しい関係性の構築が始まっているというか、世界中がその流れにいっせいに大きく流されている。

でもまあ、基本的にアナログ世代の尻尾あたりのアラフォーとしては、やはり戸惑いも大きいわけです。

迷惑メールや2チャンネルや掲示板への悪意の書き込みが特定の個人を自殺までに追い込んだり、さらにはインターネット空間での話題?がきっかけで援助交際などの犯罪も今では当たり前のようにおきている。

仮想空間での「言葉」のやり取りだけで犯罪や自殺が起りうる。これってどういうことかと思いませんが。別に、物理的な暴力を振るわれた訳ではないのに、人間のココロを破壊してしまう。

そのような‘危険’なものでありながら、我々は既にインターナットやパソコンのなかった時代には戻れないというより、戻れなくなってしまっている。

いろいろ問題があるにせよ、インターネットという新しい公共空間の出現は、文字通り‘世界’を変えてしまった。

一言で言うと、インターネットは‘時空’を越えるタイムマシーンというか、ドラえもんの「どこでもドア」みたいなものです。

今、私は年賀状を準備していますが、葉書や手紙を書かなくてもE-mailを使えば、地球の裏側の友人とも瞬時にメールのやり取りができる。しかも今では、スカイプなどを使えば話し相手の顔を見ながらテレビ電話ができる。

ホンの数十年前には、夢のまた夢であったSF小説や映画の世界であったことの大方が現実のものとなってしまっている。

今の子供達は、携帯電話もパソコンもインターネットもあるのが‘当たり前’の世界にすでに生れ落ちてしまっている。落ちるといいましたが、人は「生まれる」のであり自分で生きる世界(場所と時代)を‘選ぶ’ことはできません。

これほどメディアが発達していなければ、自分の実際に目の見える世界(これもまた極端ですが)を中心に考えればよかった、世界のセレブの情報も貧困の情報も、知らなければ知らない(知るすべがない)ということで、全く生きていくのに問題なかった。しかも、冷戦時代には「壁」の向こうの世界は知る由もなかったというか情報操作もありメディアも相手陣営の中に入り込むことができなかった。

第一世界(資本主義世界)、第二世界(共産圏)、第三世界(発展途上国)などというレッテルが現にあり、それぞれが別のものとして存在し、互いの行き来も(表面上は)限られたものでしかなかった。

日本人は、‘島国'日本をでて、ちょっと第一世界の先進国(欧米)や第二世界、さらには第三世界を‘見て来る’だけで一端のコメンテーターや先生としてもてはやされた。

でも、今はもうそんな世の中ではありません。

大学生や高校生だって、文字通り世界中にいけることになった。テレビでもアフリカの、ホンの数十年前にはメディアがいけなかった辺境地に‘リアルタイム’でお笑い芸人などのキャスターが入り込んで‘実況’中継をしてしまう。

ここで忘れてはならないのは、「見る存在と見られる存在」は同じことであるということです。

我々は、貧しい途上国の人を「見ている」つもりが、同時に相手から「見られている」。つまり自分が(無意識にも)しているように相手から「値踏み」されているわけです。

こうなってくると「持てるものとか持てないもの」というマテリアルワールド(物質的・物理的な意味)での‘違い’は、実は全く本質ではなくなってくる。

確かに肌の色も言葉も食べているものも着ているものも‘違う’けれども、「あなたも私も」同じ‘人間’でしょということになる。

それぞれ生きてきた環境や世界がどれほど違おうとも、同じ年代の子供は子供だし、大人も大人、目の前に抱えている悩みや問題は、それほど違ったものではありません。日々の生活に、喜びもあれば悲しみもある。

フリーターの森毅先生流にいうと「ちょっとズッコケ」な‘普通の人’しか世界にいないわけです。

ほぼ10年前に、このようなバーチュアルな時代にこそ、本物が求められていると語りましたが、全く状況は変わっていません。

「2001年あるいは、21世紀の始まりに想うこと(あたりまえの時代もしくは本物(ライブ)の時代の到来)」 2001年1月28日

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00016.htm

でも、この10年を振り返ると、やっぱりなんだかんだ言っても、‘よい’方向に世界は変わっていると思います。少なくとも10年前より、内容はどうであれ情報量が圧倒的に増えた。インターネット検索で、テキスト(文字)から画像から音楽から地図はたまた衛星画像から世界中のあらゆるものが検索して‘見える’ようになった。

今までは「あることすらわからなかったもの」に誰でも簡単に‘アクセス’できるようになった。これは非常に大きな進歩です。

この世界の流れはやはり変えられない。当然、問題はいくらでもあるが、このインターネットが変えた世界を、さらには‘現実’の世界を変えていくのか、いかによりよいものにしていくのか、そんなことを模索していきたいと思います。

たぶん、そのための人と人の知恵を出し合う場と手法の一つが「ワークショップ」なのではないかと思います。

「フィールドワーク」や「ファシリテーション」が先に与件としてあるのではなく、よい「ワークショップ」をおこなうために「フィールドワーク」や「ファシリテーション」による個人個人の気づきをうながす「技法」が必要である。

私にいわせれば、「フィールドワーク」も「ファシリテーション」も「手段」であって「目的」=ワークショップによる「その場での知の融合」ではないということです。

たぶん、今後、この方向で「開発民俗学」の論を進めていくことになると思います。

ご関心のある方は、ぜひ、ミクシイのコミュニティに参加してください。

ではでは^^?

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