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2009年10月

2009年10月31日 (土)

ちょっと大胆 発言! & 今日、アラビア語の同窓会があります。

今日、大阪で大阪外国語大学アラビア語専攻生の同窓会の設立総会が昼からあり、今から大阪に行ってきます。

古典アラビア文学研究の一人者の池田修先生(大阪外国語大学元学長)がこの春、叙勲されたとのことでこの同窓会の結成のきっかけとなったそうですが、もう20年前に直接授業をいただいた身としては、やはり感慨深いものがあります。

当時の助教授の諸先生方もちかぢか定年というような時の移りの早さに驚くと共に、折角の機会で学界に留まった同期や先輩達にも久しぶりに会いたいなというところ、昭和17年から平成21年までに大阪でアラビア語を専攻した卒業生の総数は、1,000名を越えるそうで、今日は何名いらっしゃるのか非常に楽しみです。

さてこの同窓会とは別に外大の恩師にアポイントをいただいています。

唐突な宣言ですが、あと10年以内に私は「博士号」をとります。

一旦、あきらめた研究者への道ですが、まあ人生流転の中でなんとなくチャンスが巡ってきた感じもしますし、「勉強はいつでも(どこでも)できるから」という母の言葉に結局、納得していなかったということですかね。別に‘博士号’がほしいわけではありませんが、自分の生涯といいますか生き方の‘ケジメ’として大学を卒業して18年(いつの間にか?)ぶりに‘取り’に行きます。

まあ別にそれが目的ではありませんが、若い人に私の今までの経験や知識を伝えていくにはそんな‘肩書き’もあったほうが便利かな?と。まあ、そういうポストに自分をおきたいというわけです。

すぐには進学することは現実とてもできませんが、10年スパンで、いろいろ情報収集と(先生方と)戦略会議ということで^^?

ではでは^^?

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2009年10月25日 (日)

同時多発的‘ネットワーク’ビッグバン @mixi

なんて、勝手に名づけてしまっていいのかしらんと思いますが、ミクシイのコミュがすごい。

最近、ミクシイを再開して、いろいろ発信をしだしたのですが(この日記もそのひとつ)いろいろ自分でもコミュを運営しているのですが、いろいろ私にブロフに足あと(これてミクシイ用語)を残していってくれる人が急増しているのですが、実に‘すごい’人たちに訪れてきていただいています。

特に、田舎で発信をしている30から40歳代の中年?パワーがすごい。つまり町おこしや村おこしの立役者というか実際にそういう活動をしている人たちで、ミクシイのコミュを‘自分’で運営するだけでなく、ブログやHPを‘自分’や仲間で立ち上げて、実際の活動だけでなく仮想のウェブ世界でのアピールもしっかり行っている。

ちょっと話が飛びますが、柳田國男が組織した民俗学の仲間が最初の実践的フィールドワーカーの第1世代、その第1世代のメンバーではありますが、宮本常一が育てたあるくみるきくの仲間を第2世代、鶴見良行や小田実がべ兵連で組織?した仲間が、第3世代、これはNGOブームの立役者でもあります、とすると今のムーブメントは、もう第4世代というか第5世代ということになるのではないか。

この勝手に私がなずけた‘世代’にはいろいろな側面や特徴があると思うが、この第4世代以降の特徴は、結構海外経験もありパソコンなど文明の利器?にもそれほどストレスを感じない人たちではなかろうか。

そしてさしづめ今の高校生や大学生は第6世代ということになる。

全くの思いつきであるが、世代ごとにリーダー格、活躍年代、その特徴を仮にあげると以下のようになる。

第1世代 柳田國男  
・大正~昭和初期 
・地元の好事家と中央のエリート(先生)との関係

第2世代 宮本常一(1907) 
・昭和の戦後~高度成長期まで 
・地元の好事家の発信。知的エリートと実力で十分張り合える人がでてきた。

第3世代 鶴見良行(1926)、小田実(1932) 
・戦後高度経済成長期 
・水俣に代表される公害問題や安保問題、べ兵連など政治と民衆の切捨てに対する異議申し立て、中央の学者が地方に赴き地元民と共闘をはる。

第4世代 小林よしのり(1953)、桑田佳祐(1955)
・1980年代から現代
・戦後の自由の教育の雰囲気を受けて団体行動というより一匹狼的な異才が多い。基本的に群れないが特定のグループ向けの煽動を行う。世界的なアナログからデジタルへの移り変わりの変化に戸惑う。一応デジタルにもついていけている。

第5世代 三木谷浩史(1965)、 堀江貴文(1972) 
・バブル前後から現在
・コンピューターネットワーク社会の寵児。ただアナログ思考の残存もあるが、あえて既存の価値観に異議申し立て。ただ逆に現場意識が希薄で、‘今までの’社会規範を逸脱しがち。

第6世代 10代、20代の活動家 
・これから 
・携帯デジタルメディアを使いこなす。基本的にデジタル思考、アナログなベタな関係に振り回されない。ステップが軽やか。

なにか思いもよらない展開になってきましたが、実は種本というか、こんなことを思い立ったのもこの本の影響かもしれません。

黒川祥子 『同い年事典 1900~2008』 新潮新書 2009年10月20日発行

実は出たばかりの新刊ですが、昨日本屋でみかけて思わず買ってしまいました。

以前より世代論には関心がありましたが、この本をみるとその仮説?の正しさ?に思わずにやり。いろいろこの本自体おもしろい読み方ができるので、この話題は別の機会に。

話を戻すと、この私のいう第4世代、第5世代が、いま個々にさまざまな場所、立場から発言をしだしているのが、今の‘ネットワーク’ビッグバンではないかというのが私の問題提起です。

ではでは^^?

たぶん、この話題は続く と思う。

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2009年10月23日 (金)

「開発ファシリテーションとフィールドワーク(FAFID)」 第10回勉強会 参加しました^^?

前から言っていましたが、ようやくというか初めて標記の勉強会に参加することができました。しかも第10回勉強会ということで、主宰の日本福祉大学の小國和子先生の、報告1「場を成す人々への注目 → 発表の題目は、フィールドワークがアクションになる場で -開発援助の現場におけるアクターの相互作用への注目-」という今までの勉強会の総括的な発表と、関西学院大学の吉野太郎先生の「震災後神戸の支援現場から:緊急支援から多文化なまちづくりセンターへの変遷とターニングポイント」という2本立ての発表がありました。

いずれも熱のこもった発表で、非常に学ぶ点がございました。しかも今回は、国立民族学博物館の鈴木紀先生と、日本福祉大学の穂坂光彦先生らのコメントや参加者の質問やコメントもあり、学界側の見方?も感じることができました。

でも重ね重ね思うことは、開発援助の現場と学界の乖離というかその距離感でした。3分間のコメント発表では全然、語れませんでしたが、自分の考えたきたことと勉強会の方向性の近いところと、やはり前提条件の立て方の違いからくる距離、でもその違いや距離なりがわかったことでどこに私が橋をかければよいのかがみえてきたともいえます。

まあ不十分なコメントなので、語れなかったことは別途、歩く仲間の記事として取り上げていきたいと思います。

とりあえず明日も仕事なので筆をおきます。

非常に満足な勉強会でした。

ではでは^^?

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2009年10月22日 (木)

【日本中東学会】第26回 年次大会研究発表 申し込み

を昨夜、E-mailでしました。

12月11日(金)が締め切りで、来年の年次大会は、2010年5月8日(土)9日(日)に中央大学で行われます。

日本中東学会のホームページはこちら!

http://wwwsoc.nii.ac.jp/james/

まあ、採用されるかどうかわかりませんが、一応、レジュメということで自分のメモとしてここにアップしておきます。もし通ったら、5月9日(日)に発表することになるそうです。(全ての研究発表は5月9日のみ)

題目: 開発現象と地域研究 ~開発民俗学の視角から~ (仮題)

概要:

私はアラビア語科出身者として、約16年間、国際開発コンサルタントとしてUAE、エリトリア、エジプト、イランなど中近東のみならずブルキナファソ、フィリピン(ミンダナオ)での農業・水資源・地域開発に携わってきた。これらの長短期の調査経験より、開発援助における調査・計画立案・事業実施の各段階においてどのような社会配慮が行われているのかについて国際協力機構による具体的なプロジェクトについて地域研究もしくは開発民俗学の視点より分析し、今後の国際協力及び地域研究のあり方についての提言を行うものとする。なお私の提唱する開発民俗学とは「…外部者として、途上国に入ることにより、現地の人たち自身の郷土への関心を呼び覚まし、彼らが‘民俗学’を自分の地で実践することにより、内部から社会を変えていくきっかけをつくる。この民俗学の主体は、当然、彼ら自身である。そんな開発‘民俗学’を創っていきたい。」と要約できる。

(399文字)

でもまあ、400字でプレゼンするのってなかなか難しいですね。

このタイトルで、しばらくこのブログに記事を掲載してみようかなと思います。

ではでは^^? 

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2009年10月17日 (土)

「イスラーム地理書・旅行記勉強会」を再開します!

アラビア語関係の研究は一旦、封印していたのですが、まあ転職して1年も経つことだし、ライフワークの3つの柱の一つとして、「アラブ・イスラーム地理書・旅行記勉強会」を再開することにしました。

手始めに、ミクシイで、「mixi イスラーム地理書・旅行記勉強会」というコミュニティを立ち上げました。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=4600043

なぜ、今なのかと問われれば、まずこのニュースをお伝えしたい。

09101702 イブン・ジュバイル 藤本勝次・池田修監訳 『イブン・ジュバイルの旅行記』 講談社学術文庫 2009年7月13日 第1刷発行

文庫本 1,450円(税別)

何が言いたいかというと大阪外国語大学のアラビア語学科の恩師、池田先生と関西のアラビストグループの翻訳となるこの本、実は私が20年前に大学のときに、まさに先生や院生の方々が取り組んでいたプロジェクトで、原本は、1992年3月に『イブン・ジュバイル 旅行記』として、関西大学東西学術研究所 訳注シリーズ 6 として発表されました。

以下が原本の表紙です。

09101704著者・監訳者は上記に同じ  『イブン・ジュバイル 旅行記』、関西大学東西学術研究所 訳注シリーズ 6

関西大学出版部 6,500円(税込)

A5版 ハードカバー

非常に立派な装丁なのですが、学術書でいかんせん定価がめちゃくちゃ高い。

もう、はしたないとかみっともないとか大人げないとか、なんといわれようとかまいません。

本当に、今の大学生が本当にうらやましい。そして悔しい。

開発コンサルタントというそれなりにチャレンジングな職業について世界を股に、自分もまた旅してきましたが、1992年の当時、自分がどうしてもやりたかったことが、アラビア語の地理書・旅行記の研究だったのです。

いろいろ理由があって紆余曲折があって、結局就職してアラビア語の世界からは一旦離れざるを得ませんでした。

でも社会人になっても日本中東学会なんぞに顔を出し続けたのも、まだ自分の中で不完全燃焼であったからに他なりません。その不満?が爆発したのが2003年から東京で有志を募って始めた「アラブ・イスラーム地理書・旅行記勉強会」なのですが、10回ほど続けることができましたが、初学者も多く、とても研究とまではいきませんでした。

どんなときでも常に視野というか頭の片隅にあったのが、アラブの大旅行家「イブン・バッツゥータの大旅行記」を写本の収集から現地踏査まで20年以上の月日をかけて完成させた家島彦一先生でした。もう20年前にたしか第5回か6回の関西大学でおこなわれた日本中東学会の総会で初めてお会いした家島彦一先生でした。そのご活躍を近くまた遠く背中をみながら、胸に暖めてきた情熱。

やっぱり、これはやってやろう。思えば池田修先生、日本人でアラブ・イスラームの地理書研究の一人者である竹田新先生の門下生として、やはり私がやらないといけないでしょう。(家島先生は、竹田先生のご紹介だったと思います。)

ということで、とりあえずミクシイで‘仲間’を募りつつ独学を続けていきたいと思います。

09101703

さて、これはエジプトで仕事をしたときにエジプト人の秘書にカイロの大本屋で購入してもらったイブン・バッツゥータの『旅行記』の原書です。

1999年2月28日 カイロで購入とメモがあります。

ともあれ、家島先生の平凡社 東洋文庫版の全8巻の完訳もあるし、まあぼちぼちとやっていきます。

そうそう、開発援助の現場で足で歩いた世界の感触・体験から説き起こす「開発民俗学」、ヨット部経験から現職につながる「海洋民俗学」への途は、この「アラブ・イスラーム地理書・旅行記研究」と全く矛盾しないどころか互いに補完しあうものであることを申し添えておきましょう。

この3つのテーマをひとりで縦横に語れるのは、日本広しといえども‘私’しかいないと思います。

たぶん^^?

そのうちに学界にカムバックするからな!と勝手に東の空をみて思う今日この頃です^^?

ではでは^^?

(おまけ)

家島先生の力作。

09101705_2 イブン・バットゥータ イブン・ジュザイイ編

家島彦一訳注 『大旅行記』 (全8巻)

平凡社 東洋文庫 1996年6月10日 初版~2002年9月25日 初版

また、サイドストーリーとしてこんな本もだされています。

09101706 家島彦一 『イブン・バットゥータの世界大旅行 14世紀イスラームの時空を生きる』 平凡社 平凡社新書 2003年10月20日

ところで、いろいろ偉そうに書いていますが、まだ和訳すら読んでいません^^?

でもいつか読もうと本棚を温めて?積読状態を維持しておりました。最近は、特に専門書はそもそも印刷部数が少ない上にあっという間に本屋の本棚から落ちてしまいますので、気がついたときに市中在庫だけと思って購入しないとすぐ手に入らなくなってしまいます。それはそれとして。

まあ開発コンサルタントの仕事が忙しかったのもありますし、老後の楽しみ?に取っておいたという側面もありますが、本棚にあるこれらの本の背をなんとはなしにみてはじりじりとしたプレッシャーを感じていたのも事実です。

はっきりいって仕事をしながら、全く仕事と関係のない専門書やアラビア語の本を読むのは不可能とはいえないまでも、現実として自分にはできませんでした。

現在もマリン業界に身をおいているため、当然、それほど趣味に時間をさくわけにはいきません。とはいえ、本職に力をいれるのは当然のことですが、目先の売上げや人間関係などだけに一喜一憂するのはどうしたものかと私は思います。

もう少し、ロマンを持って生きて行きたいなと、常々思っていますし、好きなことをする息抜きもないと人間、すぐに煮詰まってしまいます。

以前、進学をあきらめたとき、「勉強ならいつでもできるから」と母親には諭されました。それは事実ですが、もし職業としてそれを生業にするのなら、つまり研究者になるためには、その全く儲けにならないどころか勉強をさせていただくためにお金を払い続けなくてはならないつらい時期は、やはり当然‘その時’に経験しなければならない‘壁’というか‘道’であったと、今にして思います。

あの時やらなければ、職業「勉強家?」には成れなかった。続けていたとしても果たしてどうなったのか、今となっては全くわかりません。

でも現実として、私は就職して、全く違った分野で一から経験や勉強を実社会でさせていただきました。16年間も海外の仕事に携わることができ、毎年1年の何ヶ月かを開発途上国で働いてきました。最後は4年あまりの駐在員経験もできました。もともと政府開発援助の仕事なので、民間企業とはいえ、これは会社の経費というより「国民の税金」を元に世界を旅することができました。

思えば、1995年にアラブ首長国連邦のドバイを皮切りに、エリトリア、エジプト、ブルキナファソ、イラン、東ティモール、フィリピンなど短期や長期に住み込んで「歩きながら考える」機会を与えていただきました。多分、100回以上、国際線の飛行機に乗っていると思います。

ともあれ、たまたまというか日本の地元に戻りましたので、それらの経験をやはりなんらかのかたちで社会に還元していきたいと思っています。

そんなかんなで、常に「歩く仲間」を求めて自分の生きる途を追求していきたいと思いますので、関心や興味をいだく方がおられましたら、まずちょっとだけでも一緒に歩いてみましょう。

これは、まさに、10年前に「歩く仲間」プロジェクトを立ち上げたときの言葉のそのままなのですが^^?

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0000.htm

ともあれ、これからもよろしくお願いいたします。

ではでは」^^?

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2009年10月13日 (火)

自分に足りなかったのは「責任感」と「自覚」だったのでは?

というようなことを最近考えている。

転職して1年経ったことを既に報告したが、確かに世の中、いろいろ人生には起りうる。不本意なこともままならぬこともある。

改めてこの1年後の自分と1年前の自分とを考えてみると、やはり1年前には自分の人間力に足りないところがあったのではないかと思う。

最近、ミクシイの自己紹介のブロフを書き直した。

東京でがんばっている大学の同期とかバリバリで海外でがんばっている前の業界の仲間を思うたびブルーになることもあった。つまり1年前は前の会社名も、転職後の会社名も書きたくなかったし、自分の身の回りのことについて、自分の経歴について何も語ろうと思わなかった。

だが、今の新しい会社で働くうちに、東京で働く仲間をはじめとした日本人ってずいぶん(国内だけでなく海外でも‘世界’に対峙した上で)がんばっているではないか。自分も(その当時は当たり前でなんとも思っていなかったが)前の会社でがんばっていたのではないかということを、何の感傷も感慨もなく思えるようになっていた。

つまり、自分は、さいわいというか中学校では10番以内で県下の一番の進学校(高校)に進み、国立の外国語大学でアラビア語を学んだ。はっきりいって塾に通ったことも通信教育を受けたことも浪人もなしで、全て現役で突っ走ってきた。

ただ大学院では他の学校にすすもうとして当然のごとく浪人して思いつきというか主旨換えで突然、就職することにして「開発コンサルタント」の業界に身をおくことができた。1992年というバブルの尻尾というぎりぎりのタイミングであったからこそ、3回の面接だけ!で拾ってもらうことができた。

たぶん、まともに就職活動をしていたら当時でも入れないような会社であったし、入る前は夢にも思わなかったが、実は日本の農業土木分野では草分けの国内外で業界ナンバー1の会社で、自分の希望通りの海外部に所属していた。

悲しいことに当時の自分にはその超一流の企業にいるという「自覚」が全くなく、会社の看板の下で、好き勝手に無邪気に自由奔放に遊び?つつ、仕事もさせていただいていた。というより会社のために働くというより自分の趣味で‘仕事’みたいなものをさせていただいていた。本当の意味で会社に貢献した‘仕事’は、ほとんどなかったのではないかとも思う。

しかも、自分は、本当に情けないことに「周りの人からみた」自分がどのようなものなのか、全く考えていなかった。いろいろ業界でもやんちゃなことができたが、これは業界トップの会社の社員であるから、‘許された’ことであり、あまりに無防備で無邪気でありすぎた。

今、前の会社から離れて、ようやく距離を置いて振り返ってみて初めてわかったことである。

あと、外から求められるものとしての「責任感」に徹底的にかけていた。周りは○○の柴田に対して、それなり以上の期待をしており、その立場なりの「責任」を求めていたのである。

もう振り返って(後悔して)も仕方がないことだが、今後の生きる指針として、自分の立場について「自覚」して、それにふさわしい「責任」を果たしていくことを、改めてこの場で誓いたいと思う。

ところで、これもまた最近知ったことであるが、転職先は、実はPWC業界で日本No.1 の会社であった。私は図らずもトップ企業、マリン業界でも売上げ日本の10位以内に入る会社に席を置いていた。

つまり転職1年目にして既に、他者(社)からは、そのような会社の社員であると見られているのである。

自分自身、人並みにずいぶん回り道も挫折もしてきたと思うけど、なぜか自分の意思?とは関係なくトップを狙えるところに身をおいてきた。これは運というか縁というか、自分の能力とは関係ないところの天の采配であると思う。

となると、そのような立場で、責任を全うするしかない。

ということで、私は当然?のごとく、新しい会社で業界のトップを目指していく。

トップを目指すなかで見えてくるもの、トップにしか見えないものは当然あるはずだと思う。

今、改めて新しい地平線というか水平線を見切ってみたいと考えている。

その先に、また何か新しい何かがあることを信じて。

ではでは^^?

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2009年10月12日 (月)

「世間知らずはまだ許されるが、世界知らずは罪ですらある」 リトルワールド散策レポート(その1)

昨日、歩く仲間オフ会第1弾である野外民族博物館リトルワールドの散策に‘ひとり’でいってきました。

結局、メンバーが集まらなかったということですが、ひとりだったので、オフ会の‘下見’ということで第0回ということにしておきます^^?

Pict0136

さて、もう10何年かぶりに行ってきたのですが、結論から。

「世間知らずはまだ許せるが、世界知らずは罪ですらある」というのか私の今回のリトルワールド散策で気がついたことです。

どういうことか。

昨今、これほどメディアが発達し、地球の裏側のニュースが瞬時に映像で伝わってしまう現代世界に生きるわれわれは、もっともっと世界に対する関心と責任を持たなければならないということです。

‘世間’があっての‘世界’があるのではなく、‘世界’があるからこそ‘世間’があるのだと思います。つまり、世界、この場合、社会と読み替えたほうがよいかも知れませんが、‘世界=社会’があるからこそ、‘世間=社会規範’があるのです。

特に、若い人は、世間知らずでもいい、というか知らなくて当たり前です。ただ心は‘世界’に開いておいてほしい。

郷にいらずんば郷に従えといいます。‘世界=社会’によって‘世間’の常識は違っていて変わっていて当たり前なのです。

その原理さえわかっていれば、別に日本の‘世間’に生き難さを感じる必要はありません。私は16年間、多くの地域・国で仕事をしてきました。フィリピンにも4年3ヶ月、駐在員として住んできました。

結論は、それぞれの場にふさわしい立ち居振る舞いをせよ。ということです。日本では、日本の‘世間’にあわせる(たふり)をすればよいのです。

まず、前提は、世界は違うということ。それはかなり恣意的にゆがめられたものであることを実感として胆に命じること、というか感じるしかないのでしょうね。実際には。

世界の民族博物館ということで、このリトルワールドには、いわゆる少数民族や極限に生きる人たちの住居が村のごとく、ピンではなく、もう少し広い範囲で復元されています。

Pict0192

欧米のキリスト教徒という‘異教徒’に征服されて絶滅させられた種族や民族の住居をみると本当に涙がでてきます。

宣教というプロパガンダの元に、いかにひどい侵略と略奪がおこなわれたのか。

独りよがりの‘正義’や‘良心’がいかに、異なる人たちを壊滅まで追い込んでしまったのか。欧米の知識人に、どこまで自分の立っている大本に暴力と傲慢があるのかを自覚して気がついている人がいるのでしょうか。

サイードがオリエンタリズムをいったところで、結局、本質的に自分を絶対安全圏の知的特権階級においている人は、多分、死ぬまでわからないのでしょう。

ともあれ、われわれはさいわい、ほどほどに理知的であり感覚的です。はっきりいって、理知的に論理的にというより感情に流され、日々を生きています。

そんな普通の人の感覚を共有すること。これを、文化人類学者の片倉もとこ先生は、「平のひと」の感覚と呼び、普通の人を、その‘生きる社会そのものの中’で捉えることを提唱されました。

これを、「ホーリスティック・アプローチ」と呼びます。

分断して、細かくして世界するというアプローチは、依然として有効ですし、この日本でも男性的な‘会社’社会では、それなくして回らないのは周知のとおりです。

しかし、‘会社’の逆さ読みが‘社会’ではありません。これは当たり前のことですよね。

‘社会’あっての‘会社’であり、その逆は絶対にありえません。

男の‘会社’に対する女の‘社会’、老人や子供の‘社会’、そういう全ての清濁併せ呑むのが‘文化人類学’や、‘民俗学’的なアプローチです。

あと、リトルワールドで思ったのは、人間、五感を使って‘世界’や‘社会’を見なければならないということ。

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「神々は細部に宿る」といいますが、細かいところに気がつかずして‘人間’や‘社会’の理解はありえません。

野外展示の家屋や、その庭先を見つつ、結局、400枚くらい写真を撮ってしまいました。つまり、それだけ私には‘発見’というか‘気になる点’があったということです。

私が、こういう風景をみて、何を感じたのか。たぶん言われるとあ~あということばかりだと思いますが、ぜひ、‘歩く仲間’達とシェアーしたかったですね。

まあ、今回は‘下見’で第0弾なので、次回の第1回も同じフィールドで開催しちゃいましょう。

11月か12月に実施したいので、関心のある方は、メッセください。

日程を決める際に優先的にご希望を伺うようにいたします。

とりあえず、レポート(その1)ということで。

ではでは^^?

(この項、了)

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2009年10月10日 (土)

いわゆる京大スクールについて<覚書>

最近、どうも京大スクールの地域研究グループのことが周辺で話題になるというが自分の眼の届く範囲に頻繁に登場するので、ちょっとしたメモを残したい。

以前、梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』が私の知的?生活の始まりと書いたが、今、自宅に戻って実際に読書記録の「京大カード」を手に取り直してみると、間違うことない、「1986年12月7日」が000番で、それがまさにこの書名が記載されていた。

もう22年も前のことになる。ちょうど高校2年生の冬の話。確かこれをきっかけに1年間に100冊の本(雑誌を除く)を最初から最後まで読むということを目標にしてやってきたのだが、確かに数年前まで、そのペースを保っていた。(十何年か前からパソコンで読書管理をしてきたのだが、ファイルを壊してしまったこともあって、この数年は記録をしていない。)

57冊目 1987年7月10日 読了 本多勝一 『戦場の村』 朝日文庫 1981

59冊目 1987年7月12日 読了 本多勝一 『殺される側の論理』 朝日文庫 1982

64冊目 1987年7月16日 読了 鎌田慧 『現代社会100面相』 岩波ジュニア 1987

66冊目 1987年7月18日 読了 本多勝一 『殺す側の論理』 朝日文庫 1984

67冊目 1987年7月18日 読了 本多勝一 『職業としてのジャーナリスト』 朝日文庫 1984

68冊目 1987年7月18日 読了 本多勝一 『事実とは何か』 朝日文庫 1984

74冊目 1987年8月26日 読了 岡倉古志郎 『死の商人 [改訂版]』 1962 

ちょっと脱線したが、この記録を見返すとすごい。私の問題意識は、高校時代に既にインプットされていたようです^^?

閑話休題。

私の研究スタイルがどうも京大学派にあるらしいということで、京大の人物列伝。こんな本を読むと京大人脈の一端がうかがわれるのではないかということで、今手元にある内幕暴露的な本の書名をちょっとだけ紹介。

○藤本ますみ 『知的生産者たちの現場』 講談社文庫 1987

※梅棹忠夫氏の秘書による京大人文科学研究所の人物とその現場の空気を伝える。(未読)

○高谷好一 『地域研究から自分学へ』 京都大学学術出版会 学術選書 2006

※京大東南アジア研究センターの創設からを個人の研究史と交えて語る。(未読)

○川勝平太 『文明の海洋史観』 中公叢書 1997

※生態史観-戦後京都学派(今西学派)ということで、唯物史観と親和性の高い東大アカデミズムと対置して歴史観について述べる中である程度詳しく言及している。(未読)

○早瀬晋三 『歴史空間としての海域を歩く』 法政大学出版局 2008

※歴史研究と地域研究の架橋を試み、海域史の構築を試みる筆者のフィールドノート及び書評。京大学派への直接の言及はこの本では控えているが、彼の研究の延長上で、鶴見良行と京大東南アジア研究センターの地域研究に対する強烈な対抗意識があることは本人も明言している。(『海域イスラーム社会の歴史 ミンダナオ・エスノヒストリー』 岩波書店 2003 の「はしがき」を参照)  (未読)

どうも未読の書の紹介ばかりですみませんが、‘フィールド’を重視する地に足のついた「地域研究」と「歴史研究」も視野にいれた「開発民俗学」や「海洋民俗学」を考えるには、(戦後)京大学派は絶対に押さえておかなくてはならないことを改めて確認した次第。

ではでは^^?

蛇足ながら

20年前の学生時代は全く意識していなかったというかわかりませんでしたが、人と人のつながりは特に学問の世界では非常に重要。誰が誰と交友関係があり、どのような学問的な刺激を受けて、また与え合っているか。この人のつながりがみえてくると思考パターンが見えてくるというかおもしろい、ということにようやくこの10年ぐらいで気がつきました。

先行研究や研究者間の交流を調べて読み解くことは後進にとっては非常に重要なことだと思います。

ではでは^^?

(この項 了)

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フィリピンにて改めて海を考える 「海への憧れ (その2)」 2004年9月2日

さて、フィリピンに住みだして約5ヶ月がたつ。フィリピンは日本国土の8割の面積をもつと大小7000もの島からなる東南アジアの代表的な島嶼国家だ。確かに、アジアの島嶼部での仕事についたのは、2001年の東チモールが初めてだが、1992年にヨット部の仲間とタイからシンガポールまで卒業旅行で周ったときから、海とそこに暮らす人たちに関心を払ってきた。特にプーケット島で初めて感じた南の海の美しさは本当に忘れられない。

大学時代に淀川の河口で下水みたいに汚れた海でヨットを練習していた身としては、南国そのもののヤシの木と白浜を見た日にはまるで別世界かのように思えた。しかしながら、ほんの100年前までは、日本も世界有数の美しい浜をもつ島国であった。

陸地を海から眺めてみると何がみえるのだろう。どう考えても大陸の陸続きの国々と海に浮かぶ島々の社会構造は全く異質のものに思えてくる。地球の7割が海であるというのに、(くしくも人間の体の7割は水分である)私達は、その存在をあまりにぞんざいに扱ってきたのではなかろうか。

 フィリピンにきて早々に鶴見良行氏の『東南アジアを知る』という岩波新書を読み返してみた。もう5年ほど前に読んでいたはずだが、今回は、なぜか印象が全く違って迫ってきた。アメリカの国籍をもち東京大学の法学部という学歴を持ち、国際文化会館の企画部長という西欧のエリートと日常的にやり取りする立場にあったはずの鶴見氏は、1965年にべ平連の運動に参画するアジアを意識するようになる。

彼は、1970年に44歳からこのフィリピンからアジアを本格的に歩きだしたといってよい。彼が最初に取り上げたバタアン州のマリベレス保税(輸出)加工区(ここは、くしくも太平洋戦争時のバターン死の行進の出発地点でもある)やスービックの米軍基地跡地については、実は私も実際に休みに行って来た(通った)ところではないか。岩波新書で1982年に出版された『バナナと日本人』の舞台のミンダナオ島なんて会社が長年、仕事をしてきたところではないか。実際、私も7月に1週間ほどダバオとコタバトと現地調査に行ったばかりだ。

「鶴見さんが歩いた道を、30数年後に自分も歩いている。」何かそんな気がして、鶴見氏の存在自体がとても他人事ではなく思えてきた。

その気で手元の本を読み返してみると、「歩く仲間」の大先達として尊敬する、宮本常一氏も日本史家の網野善彦氏も最終的には海から日本や世界を見つめ直そうとしている。網野氏本人が、宮本氏と鶴見氏にかなり近いところにいたことは、『歴史と出会う』という新書にふれられている。

さらに傑作であったのが、鎌田慧氏が、1984年に『アジア絶望工場』というルポルタージュの中で、「《特別対談》アジアの民衆と日本人」というタイトルで、鎌田慧氏と鶴見良行氏が対談を行っている。しかも、その話題の中で、鶴見氏が、東京外国語大学の三木亘先生から、家島彦一先生のダウ船の論文をもらったなどと話しており、私は思わずうーんと唸ってしまった。私の尊敬する5名(Giant Stepsを参照)のうちの3名がすでに1984年の段階でクロスオーバーしている。もう20年以上も前である。まるで関係のないような分野の人たちでも、なぜか互いに惹かれあうものがあったということであろう。私の人間関係にとっても、まるで別々のルートで知った人たちが、実は、私などが知る数年も前から知り合いであった。本当に、人の縁の不思議さを感じる。家島彦一先生とは、1990年頃に、鶴見良行先生とも、1990年にはじめて、全く別の場所でお会いしている。(「歩きながら考える008」および「地球環境論」の項目を参照。)

それはともかく、今回、しばやんの本棚に「フィリピン・アジア島嶼部関係」という項目を新たに設けることにした。東チモールからたまたま入った東南アジア島嶼地域の世界。天の意思というか、まったくこれまでパズルとも思っていなかった断片断片が、今になって急速にパズルとしての全体像を結ぼうとしているような気がする。当然、まだまだ欠けている断片があるのは当然のことだが、それは今度のお楽しみということで。

しかし、フィリピンに駐在になって、仕事としては、全くイスラームから離れてしまうのかなと、実はちょっとがっかりしていたのも本音だが、まさかミンダナオ島のイスラーム教徒地域の開発というテーマで、まだまだ新たにイスラームにかかわりあうことになるとは。本当に天の配材というか、塞翁が馬というべきか、まさに‘海’がつないだ‘縁’としかいいようがない。

私は、海の人と山の人と平地の人は、かなり違った価値観をもって生きてきたし実際に今でも違うのではと感じている。別のところでも書いたが、マニラというかフィリピンのあちこちで見かけるマリア像と海の関係など、非常にいろいろな疑問やなぜがいっぱいで、本当に見るもの触れるものが新鮮で、本当にわくわくしている。特に{宗教と開発}の関係について、多分みんな重要と感じてはいるだろうが、具体的なモノグラムとしての経験なり体験を踏まえた研究はまだまだ世にそれほど多くないのではなかろうか。

参考:

Giant Steps: http://homepage1.nifty.com/arukunakama/gsteps.htm

「フィリピン・アジア島嶼部関係」 @ 『しばやんの本棚』:http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blistpa.htm

「歩きながら考える008: 「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて 2000年2月5日」 : http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0008.htm

「『地球環境論』とその周辺(大阪外国語大学1990年度講義)」: http://homepage1.nifty.com/arukunakama/h0003.htm

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2009年10月 5日 (月)

その先にある世界 ~今、考えていること~ 「歩く仲間通信10月4日号の補足」

昨日(10月4日)送信した「歩く仲間通信」の続きですが・・・^^?

その先にあるものとして、やはり「ひとりではいけない(たどり着けない)世界」に虹?の橋をかけることを考えています。

つまり、私のライフワークの究極としては、「人を育てたい」というのがあります。

このこと自体、やはりもう10年ぐらいずっと暖めていた構想なのですが、しばやんスクール(学派)をつくりたい。

「歩く仲間」という‘オープン’・フォーラムを言いながら、なに権威主義的な俗っぽいことをいっているのだとたしなめられそうですが、本音としては、‘自分’学派を創りたいと思っています。

古代アレクサンドリア図書館のことをご存知の方があるかと思いますが、エジプト古代文明の頃から、‘知の殿堂’は人類の発展の大きな原動力となってきました。

アレクサンダー大王の師のアリストテレスでさえも、アレクサンドリアの門下生でした。その知の殿堂が、ギリシアでムセイオン(今のミュージアムの原型)となり、ギリシア・ローマでは、さまざまなスクール(学派)が生まれました。

中近東でも、イスラーム世界でも、「バイト・ゥル・ヒクマ(知の家)」、「ダール・アル・ヒクマ(知の館)」など、いろいろな名前で、さまざまな王朝下で、知の殿堂の火は脈略と継承されていきました。

その伝統に則るわけでもありませんが、師と途を求めるものが集い互いに精進しあう場は古今東西、どの世界でも必要でしたし、いつでもどこにでもあるのです。実際に。

近くの衆議院選の話題でいえば、「松下政経塾」、ちょっと100年さかのぼれば、早稲田大学、慶応義塾、松下村塾、すべてきわめて特異な‘個人’を元に生まれた‘私’塾です。

ちょっと話が飛びますが、たとえば10年間はマリン業界でベストな営業企画マンを目指しますが、その先には自分の名前だけで生きていきたいと思っています。

京大の森毅先生ではないですが、「フリーター」とでも言いましょうか。鶴見良行、鎌田慧ではありませんが、あえて「裸足の研究者」なり‘個人’のルポライターを目指したいと思います。

宮本常一さんや鶴見さんではありませんが、現役最後の10年ぐらいは、大学で学生を教えたいと思っています。そういえば、宮本さんも鶴見さんも後輩の育成に心と力を砕きました。

やっぱり高校生、大学生くらいの若い人たちと共に語り、自分のできたことできなかったことを謙虚に振り返りながら、‘その先にある世界’を模索していきたい。そんなことを思っています。

今の段階では、そこにいくまでどんなルートがあるのか全然わかりませんが思っていればなんとかなるのでしょう。きっと^^?

ちょっとした未来予想図!?

2013年、 歩く仲間25周年記念誌 「歩く仲間~歩きながら考える アラブ・イスラーム×開発(民俗)学×海洋(民俗)学」とでも言った本を出版します。

2020年 ? 

ただ今ふと思ったのは、今でも講義もできるし、論文を書くことも出来るわけだ。

でも、今の本業は「マリングッズ屋のお兄さん」なので、そこでベストをつくします。夢は夢として。

「夢をもちんしゃい。所詮、夢は夢だから」 by 佐賀のがばいばあちゃん

ではでは^^?

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2009年10月 4日 (日)

【歩く仲間通信】 転職1年目のご挨拶

本日、転職1年目ということで『歩く仲間』の皆さんに、本当に久しぶりにメールを出しました。(ほぼ1年ぶりですか)。若干、内容を修正して、ここにアーカイブしておきます。

ではでは^^?

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みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

ご無沙汰しております。
しばやん@愛知です。

昨年(2008年)6月にフィリピンのマニラ駐在から帰国後、事情により10月1日にマリングッズの販売店に転職したわけですが、おかげさまで転職1年目を無事勤め上げる?ことができました。

この半年ほど全く連絡が取れない(とりたくない)時期(つまりくじけそうなとき)もありましたが、ようやくこの1ヶ月でなんとか本来の自分といいますか自信を取り戻すことができました。

本当にとあるきっかけなのですが腐っていた時に、ホンの1ヶ月ほど前のとあるきっかけで、自分のプライドというかやる気にスイッチを入れられたような気がします。

気が向かないというか心が入らないときって必ず誰にもあると思います。心を閉じてしまうと何も頭に入らないし、体も動きません。生ける屍という言葉がありますが、朝起きて食って寝てという何の目的も感動もない生活をしばし送っていましたが、その気になれば、なんとかなるものです。

というか、「何とかなる」と思っているうちは、何ともなりません。

自分で、「何とかしなければならない」と思わない限り「何ともならない」。

当たり前のことかもしれませんが、今回、改めてそんなことを思いました。

そういえば、(大学)進学のときも、就職のときも一旦ダメかと追い詰められて、何とか自分で(できることを)しようと人生に立ち向かったときに突然、道は開けたというか物事が動き出したことがありました。火事場の馬鹿力と申しましょうか、‘本気’で取り組んだら、結果というか成果がついてきた。まあ、そんな経験は誰しもあると思いますが、私にとっては3回目の転機だったような気がします。

では、簡潔に近況をご報告します。

マリングッズや通信販売部門にいるのですが、10月決算なので、そのとりまとめと来年度の事業計画の具体化を専務の骨太の方針を受けて、考えています。とりあえず今、来年度のカタログ作りの準備に取り掛かりだしました。

あんた、転職一年目の人間が、ボート用品やセーリング用品、アウトドア用品の担当と
してお客様の質問の回答や商品企画、広告企画をしているわけですから。

まあ、やるしかないし、自分にはできるからやらしていただいているわけですし、そこにしかこの場にいる‘存在理由’がない。与えられた場で全力で取り組むしかない、そんなことを考えています。

公の場は、そういうことにして、私の部分では、「海洋民俗学」に取り組みたいと思っています。

人生10年説というのをどなたかに聞いたか本で読んだ記憶があるのですが、それによると私の場合、こんな感じです。

        時 期            テーマ              アウトプット
1期: 大学~開発コンサルタント時代 (1988~2003)  「アラブ・イスラーム研究」  「アラブ・イスラーム学習ガイド(1991)」、「アラブ・イスラーム地理書・旅行記勉強会(2001頃)」

2期: 開発コンサルタント時代  (1992~2008)     「開発民俗学の提唱」    「開発民俗学への途(第1部)」 (2000~2008)」 その他

3期: マリングッズ屋のお兄さん(これから) (2008~)  「海洋民俗学の研究」    これからの課題

ということで、まあ人生、‘一粒で二度おいしい’どころか、三味めを楽しもうと思っています。

傍からみるとてんでばらばらみたいですが、どれも私の根源的な問いかけ、経験からでた必要性に駆られてやってきたことで、自分の中では全てリンクしており、補完関係にあるものです。

ともあれ、そのときそのときの場で多くの人生の師というか、学問の師にめぐり合ってきました。
別に特別な経験をしたわけでなく、その場で教わったことを自分なりに書き留めてきただけともいえます。

ただ、間違いなく言えるのは、1期では、大阪外国語大学の池田修先生、竹田先生のみならず板垣雄三先生を筆頭に日本中東学会の多くの先生方の謦咳に直接触れてきたこと、2期では、日本の開発コンサルタントの草分けのひとつである企業に勤めて、まさに日本の政府開発援助の生き字引であるような諸先輩方に仕事を教えていただく機会があったこと、しかもどんなときも、志や関心を同じくする‘仲間’が、自分の周りにいたということです。

自分が学んだこと、感じたことを社会に還元するというとおこがましいですが、私はともかく接してきた先輩方が、当代その分野の一流の人たちばかりであることは自信をもっていえます。

(だからどうだといわれても困るのですが^^? それをふまえて私は‘自分’のためのメモを残してきました。)

ということで、今は愛知の田舎にいますが、海も空も世界につながっておりますし、私は私で今後もブログ、HPやミクシイのコミュニティで発信を続けてまいります。

適当に覗いてやって、たまには声をかけていただけるとうれしいです。

HP: 『歩く仲間 ・・・ 歩きながら考える 世界と開発』 http://homepage1.nifty.com/arukunakama/

ブログ: 『ブログ版 歩く仲間』 http://arukunakama.cocolog-nifty.com/
      『Life, I Love You!』 http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/
      『じゃんだらりんでいこまい WE♡岡崎@三河の國』 http://arukunakama.cocolog-nifty.com/jandararin/

ミクシイ: 『ブロフ』 http://mixi.jp/show_friend.pl?id=11744733
  コミュニティ管理人  『開発民俗学~地域共生の技法』 http://mixi.jp/view_community.pl?id=2498370
               『海洋民俗学~海からみる世界』 http://mixi.jp/view_community.pl?id=4578156
※ミクシイの記事は、SNSのため会員しかみることができません。もし関心がございましたら、私までご連絡ください。

この地球の空の下、どこかでまたお会いしましょう。

ではでは^^?

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2009年10月 3日 (土)

海洋民俗学ことはじめ 『海への憧れ』 その1 海から陸地をみてみると

さて、ミクシイで最近、『海洋民俗学~海からみる世界』というコミュニティを立ち上げました。まあ、この歩く仲間でも『海に生きる(海洋民俗学の世界)』というトピックを持っているわけですが、これと連動させながらしばやん流、海洋民俗学を徐々に綴っていきたいと想います。

とりあえず過去記事ですが、HP 歩く仲間に書いた記事のアーカイブから一篇をご紹介します。

全文はこちら: http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00023.htm

2004年9月2日

海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。

<アジア島嶼部研究のダイナミズム>

 

フォト:フィリピン・ボラカイ島

その1 海から陸地を見てみると

 

もう10年以上も前に、たしか大学時代の何かの寄稿として既に書いた覚えがあるのだが、残念ながら原稿をなくしてしまったので、思い起こす限りで以下に再現してみる。

「海には道がない。今まで、海は人を隔てるものだと考えてきたが、家島彦一先生のインド洋世界のダウ船についての講義(注)の中で「海は人を隔てるものではなく、つなげるものである。」という話を聴いたことと、実際にヨット部活動を行う中で、本当はどうなのだろうかという疑問が湧いてきた。

ヨット部では、ディンギーという二人のりの全長5メートルかそこらの小さなヨットでレース競技の練習をしていた。板一枚下は海という状況でセーリングをしながら海から陸地をみてみると、そうだ確かに、海には陸上の道路みたいな構造物としての道はないかもしれないけど、ちゃんとそれぞれの大きさの船が通る道やルールがあるではないか。

しかも港へは原則、海からしかアクセスできないということに気が付いたとき、先の家島先生の言葉が胸にすとんと落ちた気がした。港は陸の道からしてみれば終点なのかも知れないが、海の道ではスタート地点(始点)なのだ。広大な海の向こうには、まだまだ未知の世界が待っている。世界の国々は海というものを隔ててつながっているのだ。」

確か、ヨット部の部報への投稿であったと思うが、海から陸をみたときに感じた既存の道に縛られない自由さ、陸地にしか道がないと思っていたら、実は、海にも道があることを知った時の感動と、そのような海の道について、丹念に掘り起こして研究をしている人がいることは、その後も、ずっと頭の片隅にへばりついていた。

注:東京大学東洋文化研究所の板垣雄三先生を中心に日本のイスラームに少しでも関係のある研究者を総動員して行われた『イスラームの都市性』という文部省重点領域研究に絡んで、1990年の夏休みには東大で1週間のサマースクール、1991年2月11日に『大学と科学』公開シンポジウムとして『都市文明イスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』というセミナーが行われた。サマースクールについては、特にまとめられていないが、公開シンポジウムの記録は、非常に多様な問題点と最新の学問成果がコンパクトにまとめてあり、書店では手にはいりにくいが、極めて貴重な記録である。残念ながらこの感銘を受けた家島先生の講義がサマースクールの時の話しだったかセミナーだったか、覚えていない。しかし、確か2回とも家島先生の講義はあったはずなので、その両方ともが相まって自分の頭に染み込んだのであろう。

 

○     第5回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員会編 『都市文明とイスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』 クバプロ 1991

 

また、1990年5月に関西大学で、日本中東学会の全国大会が開催されたこともあり、大阪の大学ではいたが、比較的、関東を拠点に活躍されている先生方にも多く知り合う機会を得ていた。自分自身、よく東京へも通ったものだとは思うものの、当時の池田修アラビア語科教授をはじめとする多くの先生方のお誘いがあってのことである。

その他、多分当時にあって、非常に多くの先生方にお会いして知見を広めることができたのは、『地球環境論』を企画いただいた神前進一先生や深尾葉子先生をはじめとする大阪外国語大学の諸先生方のおかげである。あらためて感謝いたします。

(大阪便り[008]及び地球環境論の項も参照ください。)

<その1 了>

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