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2009年2月

2009年2月22日 (日)

鶴見良行 『対話集 歩きながら考える』

最近、おもしろい本を公共図書館で発見したので、ここに紹介します。

09022200

鶴見良行 『対話集 歩きながら考える』 大田出版 2005年6月

実は鶴見良行先生については、私も学生自体に一度だけ直接謦咳に触れたことがあるのですが、非常にユニークな方でした。

この対話集は、1972年から1993年までにおこなわれた12本の対話を編集部が選んで再録したものです。確かに時代設定が古いというか問題意識として既に古いと思われるものもありますが、その時代背景を考えると、やはりその先見性というか足で歩いた問題意識の高さに今更ながら驚かされます。

実は、まだ自分でも読んでる最中なので、一概にコメントできませんが、その対談相手を見ても、非常に彼の幅広さと関心の高さを感じます。いくつかの対談は別の初出誌や対談相手の著作で読んでいましたが、これだけまとまった対話を一冊で読めるというのは、かなりお買い得だと思います。ご参考までに、対談者とタイトルをあげさせていただきます。

・アジアを歩きながら考える 加藤祐三

・「もうからない英語」を語ろう 國弘正雄・鹿野力

・「国際化」と土着 見田宋介

・一九二〇年代、闇の中の周辺文化 永川玲二

・アジアの民衆と日本人 鎌田慧

・越境する東南アジア 山口文憲

・アジアとは何か 板垣雄三

・チャハラ号航海記 内海愛子・中村尚司・新妻昭夫・藤林泰・村井吉敬・森本孝

・アジアと日本の<海の民> 網野善彦

・海民の世界から見直す日本文化 大林太良・網野善彦

・アジア海道 - 漂海民をめぐって 門田修

・<インタヴュー> 忘れられた海の歴史を追って <聞き手> 秋道智彌

・解説 無所有へのまなざし 花崎皋平

全521ページ 2800円+税

P.S.

以前、「歩きながら考える・・・ ‘世界’と‘開発’」というマイ名刺を持ち歩いていまして、この本のタイトルをみてどきっとしました。

でも考えてみれば、鶴見さんとの出会いも私のバックボーンのひとつとなっているのでしょうね。実際に。

いやはや^^?

今までに鶴見さんに触れた文章については以下も参照ください。

2000年2月5日

「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて 
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0008.htm

2004年9月2日

海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。
<アジア島嶼部研究のダイナミズム>

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00023.htm

なお、最近、「海洋民俗学」というものも始めました。ご関心のむきはこちらもどうぞ。

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/cat20842145/index.html

ではでは^^?

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2009年2月18日 (水)

「時代の子」の意味について <天才論 その3>

少し間が空いてしまいましたが、天才論のその3にいかせていただきます。

前回、天才は所詮、‘時代の子’であるというところで終わっていました。

ここから語り継ぐにあたって、‘時代’についての考察をもう少し深めてみます。もうネタばれになってしまうのですが、ここで私が言っている‘時代’を‘パラダイム’と読み替えてもよいでしょう。

これは歴然たる真実だと思うのですが、天才とされる人たちは、ほぼ例外なく「自分が何をやっているのか」について自覚している、もしくは確信しているということがいえます。前回、半歩先をいくトレンドメーカーの話を例にだしましたが、天才は‘天才的な’‘閃き’をもつばかりではなく、それがどれほどのものなのかを案外と自覚していると私は思います。

こんな話があります。ホイチョイ・プロダクションというトレンドメーカーの(マンガ家)集団の社長さん(代表?)が雑誌かマンガのインタヴュー記事(たしか対談記事)でこんな主旨のことを語っていました。

このホイチョイ・プロダクションは、つまりトレンドメーカーというか、たしかマンガ雑誌とかで若者向けとかいわゆるこれからはやりめのトレンドを分析して先取りして大衆?に示すという木村和人みたいないわゆる‘トレンドメーカー’なのですが、あるインタヴューでこの社長さんが、次のような質問を受けました。

「(トレンドメーカーの)○○さんの今まであった映画で一番お薦めの作品は何ですか?」

答えて曰く、「その時々で、最高だとされているランキング一番のもの」

この話を読んで、ミュージシャンをやっている友達と話し合ったのですが、二人とも、「これは正しい」という話で落ち着きました。

つまりミュージシャンの彼と話したというところがミソなのですが、通例、このような場合、インタヴューアーも含めて、そんなトレンドメーカーといわれる人は、一体、どんなマイナーな素晴らしい(隠れた)名作を紹介してくれるのだろうと期待するわけです。しかし、一番平凡というか、世のランキングの一番。

友達と話したのは、「そうそう、生半可な奴ほど、(普通)人との違いを強調したがる。」ということでした。特にミュージシャンなんて、人との差別化が商売みたいなものです。また、私もかなりのへそ曲がりなのですが、世間ではやると逆に天邪鬼に、(音楽を)聴いたり(映画を)見に行きたくなくなるものです。そして、自分はこんなマイナーなすごいのを知っているとかついつい自慢したくなるじゃないですか。俺は、一般大衆と違う(すごい奴な)のだと。

でも、トレンドメーカーと呼ばれる人ほど、実際の普通の人が好きなものを熟知している。逆にそれを知らずして、「人の半歩先」を歩くことができないわけです。

ミュージシャンの友達との話に戻ると、「いくら通の間で評判が悪かったり、へたな奴(ミュージシャン)でも、大衆に受けるということは、それなりのものはもっているんだよね」ということです。

人を感動させるのは、緻密で計算しつくされた(心のない)演奏や技巧(テクニック)ではありません。‘へたうま’とはよく言いますが、なにかいくらつたなくても伝えたいもの、伝わるものをもっている、そもそも大衆に受けるとは、そんなことだと友達は言っていました。

ちょっと脱線が過ぎたようですが、つまり、どんな‘天才的なこと’であれ、その時代に受け入れられ、しかもそれなりに支持されないことには、まったく(その時において)意味を成さないのです。

ちょっと訂正、‘まったく’というのは言いすぎですね。よく「早世の天才」とか「時代が早かった」天才論がなされることはあることですが、そのような後から発見された「天才」がいないわけではありませんが、歴史をみてみても、そのような天才が後世において、発掘されることは非常にまれです。

大体、天才をでっちあげるというか後世で持ち上げる人というか黒幕が必ずいるわけです。ちょっといやな言い方をしましたが、そのような「発見された天才」は大抵、‘発見した人’の意図というものが間違いなくあり、それは取り上げられた‘天才’が望んだであろう‘評価’とは別の側面で価値づけされることが、ままあります。それがいいとか悪いとか、当然、個々の場合で違いますし、ここで一概にいうこともできませんが、後世の人が発見した「天才」は一般的にちょっと注意が必要です。

さて、後世で発見される場合にせよ、その「天才」は、発掘や発見されるだけの「なにか」を在命中に残さなくてはなりません。

その「なにか」とは、別に本や論文など‘書かれたもの’でもなく、単になんらかの‘物語’であればよいわけです。その天才の‘言動’が何らかの形で伝わればよいわけです。本人が残さなくても、周りにいる人がそれを語り伝えればよいわけですから、極端なこと、ひとつの‘武勇伝’となるような行動を一度でも起こせば、その‘武勇伝’が必要となる範囲でそれは、‘物語’となり‘伝説’となるわけです。そういう語り伝えの伝言ゲームの世界の中で、「田舎のおっちゃん」の「とある言動」が「天才」の「伝説」となりうるのです。

もうここでお気づきになられた方もいらっしゃるかと思いますが、つまり「天才」や「英雄」はそんな「世の中」の雰囲気の中でつくられていく場合が多いし、その「天才」なり「英雄」が重宝されるのは、みんなの役に立つというか好ましい言動だけがその「伝説」として語り継がれるのです。

結局、「天才」とは過去であれ未来であれ、その「時代」を生きる普通の人たちが評価するものであり、決して「自称天才」はありえないというか、そもそもお呼びではないのです。

話を戻しますと、「天才的な」ひらめきや言動をもった人は、間違いなく自分の言動が世間にどのように評価されるかということを自覚して行動しています。

卑近な例で言うと、将棋の羽生棋士や大リーグのイチロー、フィギアスケートの浅田真央さんでも、自分がやろうとしていること自分がしていることを、非常に冷静に‘世界’の中に位置づけていると思います。そうです。彼らは確信をもって‘天才的’なパフォーマンスを世界に見せ付けてくれているのです。逆に無意識にまたは無自覚に‘天才的な’ことをする人は、非常に珍しいのではないのでしょうか。

つまり、何をすれば‘世界’や‘世間’が認めてくれるのか、その壁なり頂点を見極めた上で努力を続けているのか「天才」の世界だと思うのです。

話を学問の世界にもっていっても、いわゆる「大先生」といわれるような方は、私が知っているだけでも例外なく、謙虚にしかし貪欲に‘世界’のスタンダードというものを知ろうとしています。学問の世界でも、どの世界でもそうですが、プロの世界では年の老若は実はあまり関係がありません。手塚治虫が、最晩年まで同業の漫画家やクリエーター達に嫉妬してどんな若い人に対してでもライバル心を抱き続けたことは非常によく知られた話ですが、大家といわれる人ほど、新しいもの好きで、若者の動きもしっかりウォッチしているのが世の常のようです。

ちょっと話が飛ぶようですが、「天才的」な人ほど、‘世界’のレベルを知っているし、‘大衆が求めているもの’を知っている、もしくは知ろうとしている、さらには、彼らにわかってもらえるような伝達の手段を考えている。こんな気がします。

「天才の俺様のいうことがわからない‘大衆’はバカだ」という天才は古今東西をみても、絶対にありえなかったと私は思います。

逆にわかってしまった「天才」には、彼や彼女なりが達しえたものを広く‘大衆’に伝える義務があります。その「天才的な」ものを広く人と分かち合うことができてやっと人は彼や彼女を「天才」だと認めるのです。

そういう意味で、天才は「大衆性」をもたなくてはならないし、その言動は、いわば誰にでもわかる「普遍性」をもたなくてはならないのです。もし「天才」として‘世界’や‘世間’に認めてもらいたいのであれば。

その‘世界’なり‘世間’を考えると、いよいよ「パラダイム」論に入っていかなくてはなりません。

とりあえず、今日のところはここまで。

ではでは^^?

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2009年2月10日 (火)

歩く仲間通信 2009年1月18日 <アーカイブ>

「歩く仲間通信」というメルマガ?を不定期でお世話になった方々に配信しております。以前の記事ですが、こちら(ブログ版 歩く仲間)にも自分の覚えとして転載しておきます。

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たびたびお騒がせして、申し訳ありません。

しばやん@愛知です。

今回は、みなさまのお力をお借りしたくて連絡させていただきます。

昨日、後述のような日記(ブログ)を書いたのですが、やはり本当にこんな現状であってよいのかということで問題提起させていただけたらと思います。

「知は力なり ただしそれは開かれたものでなくてはならない」

これは、私が大学時代に学んだというか悟った?ことで、20年来のクルド(信条)としていることですが、残念ながら‘知’を悪用というか自分のことだけに利用している方が最近、とみに多いように見受けられます。

当然、ご察しのとおり、‘知’というのは「知識」とか「科学技術」だけでもなく、もっと平たくいえば‘人類が獲得してきた知の体系’と申しましょうか、人の秘め事とか弱点を‘知る’こととか、原子力開発などあらゆるレベルの‘知’で、それは、やはり人を貶めたり傷つけたりする‘ため’のものではないということです。

情報化社会といわれて久しいですが、そのような高度な情報を持ったものがもたないものを差別したり支配しようとする動きがあるかに思われる現況があるように思います。たとえばこの20年くらいのアメリカのハリウッドの近未来を扱った映画など。もとよりこれは原作があってものもあるでしょうので、映画というより文学、マンガ、ゲーム?などのあらゆる分野のクリエーター達が体感的に予言していることなのかもしれませんが。

獏とした話になってしまってすみませんが、最近、ミクシイというSNSの世界で、「Life is Life 」というバンドルネームをもつ方をお見かけしました。元は、マザーテレサの言葉の一節ということですが、下記に孫引きさせていただきます。

「マザーテレサの言葉  Life Is ... 

Life is an opportunity, benefit from it.
Life is beauty, admire it.
Life is bliss, taste it.
Life is a dream, realize it.
Life is a challenge, meet it.
Life is a duty, complete it.
Life is a game, play it.
Life is a promise, fulfill it.
Life is sorrow, overcome it.
Life is a song, sing it.
Life is a struggle, accept it.
Life is a tragedy, confront it.
Life is an adventure, dare it.
Life is luck, make it.
Life is too precious, do not destroy it.
Life is life, fight for it. 」

私は彼女にもコメントしたのですが、「Life is life, fight for it」という最後の一節がピンと来ませんでした。「fight =闘う」ものなのかと。

昨日、会社の帰りによったブックオフという古本屋で、たまたま、峠三吉の『新装・愛蔵版 原爆詩集』 合同出版 1995 をみつけて早速、購入しました。詳細は、別の機会に紹介することになると思いますが、そうだ、私も「fight for 」しているテーマがあることを思い起こしました。

中学1年生のときに、この詩と「にんげんをかえせ」という10フィート運動でアメリカから買い戻した広島原爆のドキュメンタリー映像(映画)に出会ってから25年間、私も確かに「闘い」続けてきたのでした。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog088.htm
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r005.htm

「知識」や「知ること」自体は、すぐには即物的には何の「力」にもなりません。

でもそれをきっかけに何かに「気づき」、「行動する」ことにより大きな「力」になりうるし、もう日本だけに限らず、世界中は「気づいてしまった」仲間が多くいることを私は体験というか実感として知っています。 なぜなら今、このメールをご覧になっている皆様は、私がそのような方と思ったからこそご連絡を差し上げているのですから。

(否定される方もいらっしゃるかもしれませんが^^?まあ一方的なラブレターということで流してください。)

今年の「歩く仲間」ではやはりというか引き続き次のテーマをしつこく追っかけていきたいというか、いかないといけないと改めて思いました。よろしくご高覧とコメントをお願いいたします。

「‘わたし’の平和学~冬が来る前に!」
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/cat20091295/index.html

長文、失礼いたしました。これに懲りずにたまにはしばやんに絡んでやってください。

今年もよろしくお願いいたします。

ではでは^^?

-------------------------------(昨日の日記の引用です)------------

2009年1月18日 (日)のブログ 
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/01/post-cf28.html

14年目の阪神大震災と、今現在のパレスチナ情勢に想うということで、今日は阪神大震災の記事を書こうと思ったのですが、実は今、現在のパレスチナ情勢のほうが気になってしまって・・・。

とりあえず後者については「ブログ版 歩く仲間」でちょっと力を入れて取り上げています。

★ 混迷のパレスチナ情勢にアラビスト・しばやん起つ^^? 2008年1月8日
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c5fe.html

★ なぜ今、中世アラブ・イスラーム地理学・旅行記なのか? (2002年の記事の再掲です。) 2008年1月8日 
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-0af2.html

★ マザーテレサは、「愛の反対語は、無関心」 といいました^^? 2009年1月14日http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-c75d.html

★ ガザのこどもたち さらーむ(アラビア民族学者の片倉もとこ先生のメッセージです。)2009年1月16日 

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-6cf2.html

★ アラブ・イスラーム学習ガイド(資料検索の初歩) ((c)1991) の目次です。2009年1月17日

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/1991-b295.html

ぺこぺことキーボードを叩いている場合かと思いつつも、「今、この場所で、自分のできることをやる」しかないと思います。

とりあえず今日は、おやすみなさい^^?

ではでは^^?

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2009年2月 7日 (土)

等身大の‘世界’を知る・感じるということ

「Life, I Love You!」のほうに、アメリカ合州国の新しいオバマ大統領の就任演説について記事を書きました。

オバマ大統領就任演説 <アメリカ合州国に目が離せない> 2009年2月7日http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2009/02/post-dff9.html

本当にこれほど時代の移り変わりといいましょうか、世界の動きの激しさに右往左往してしまうとき、どこに自分のアンカー(碇)を置くのか。どこに自分のコンパスをかざすのか、それが非常に大切なことになっています。

情報の爆発というか、もう何がなんだかわからなくなっているこの時代、2001年の9月11日以来、世界が変わったといわれますが、混迷を続けるこの21世紀の10年を見ても、一概に一方的に世界が悪くなったとも思えない。

新しい何かが生まれつつある、そんな予感を感じています。

情報爆発、これは、今までの大本営報告(情報)のみを信じなくてはならない時代とは一線を画し、誰もがどのような情報にでも(ある程度の限度はありますが)、以前に比べて格段に簡単にアクセスできるようになりました。

ゴミ情報も増えたが、本当の貴重な情報(それは個人の発信が多い)にも触れやすくなった、さまざまなリアリティ(現実感)がより身近に感じられるようになった、そのメリットは非常に大きいと思います。

世界に対して、ビビルことなく、ありのままにとらえていく、見せ掛けだけの虚勢や虚言に惑わされない、‘理念’より‘実践’や‘実態’そのものを見据えていく、そんなことが必要な世の中だと思うし、いい加減、口先だけの‘政治家(屋)’や、‘先生(有識者といわれる人たち)’にうんざりしているのが、今の日本だと思います。

そういう意味では、老若男女を問わず、個々の生き方そのものが問われている、それは、やはり時代の流れであるし、そういう意味では‘厳しい’世の中になったといえるかもしれません。

ともあれ、われわれは、居心地のよかった(と思える)昔に戻ることはもうできません。悲しいけれど、パラダイム自体が変わりつつあるなかで、‘変わらない’という選択肢を選ぶことは、非常に厳しい。でも、それでもあえて‘変えなくてもよい’ことはあるはずだし、勇気を振り絞って‘変えないこと’を選択することは、非常に難しいが必要なことでもあるといえます。

今までのように、誰か偉い人がいて、みんながみんながといって、わけのわからない‘世間’に流されていれば良しという時代は過ぎ去りました。これからは、自分で判断をしていかなくてはなりません。

そんなときに必要なことは、自分の‘等身大’の感覚をまずは信じることなのでしょう。だって、難しいことをいわれたって、‘自分’にはわからないのだったら、‘わかること’から始めていく信じてみることがまずもっては必要だからです。

自分で、みてきいてかんがえて、そんな歩みを続けていけたらと思います。

ではでは^^?

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2009年2月 1日 (日)

山泰幸、川田牧人、古川彰編 『環境民俗学 新しいフィールド学へ』 未来志向の民俗学(帯より)

ようやく時代がしばやんに追いついたのか、しばやんが時代に追いついたのか、今後、開発民俗学を考えていくのにあたって、非常に参考にある教科書が発売されました。

09020100 山泰幸、川田牧人、古川彰編 

『環境民俗学 新しいフィールド学へ』 

昭和堂 2008年11月11日 初版

お薦め度: ★★★★★

一口コメント:

実は2ヶ月前に発売されたばかりの本ですが、ようやくでたというか、私的にはちょうどこんな道案内がほしいと思っていたところに、ひょんなきっかけで、たまたま豊橋の大型書店にのぞいた際に見つけました。

鳥越皓之氏らの「環境民俗学」の動きは横目で気にしてはいたものの、なにか胡散臭くてちょっと距離をおきたいなあと思っていたのですが、当然、それをもふまえて近年の人類学や社会学、分野では共有論(コモンズ論)や資源論、自然論をふまえたうえで、これからの‘環境’民俗学の俯瞰図を示していただいたということで、すぐ役にたちそうな内容です。

最近(この2,3年ほど)、関心をもちだした野本寛一氏や秋道智彌氏、民俗学からは当然のことながら、柳田国男、宮本常一、千葉徳爾、坪井洋文、香川洋一郎、赤坂憲雄、京大の人文研や東南アジア研究所、探検部?など京大の地域研究のグループ(今西錦司、川喜多次郎、梅棹忠夫、米山俊直、高谷好一、福井勝義など)、民間人の鶴見良行氏のグループ(村井吉敬、宮内泰介なども含む)など、私が今まで開発民俗学の視野の中にいれてきた研究者達が、当然のことながら含まれていることも非常にうれしく自分のやってきた方向性にほのかな自信?をもちました。そうそう、これまた当然ですが、内発的開発論の鶴見和子も上がっていますね。

ともあれ、今日購入したばかりですが、じっくりと読んでみたいと思います。

ではでは^^?

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東南アジアで聴くアメリカ音楽~クリスマスインサマー@フィリピン

開発民俗学のコミュへの書き込みに対する私のコメントですが、なにか楽しげな話題なので、ちょっと引用させていただきます。

開発民俗学 「地域共生の技法」
想い出の唄を語ろう! <フリーセッション>

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=37638846&comment_count=6&comm_id=2498370

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(前略)

でも本当にバンコクやマニラで洋楽が聴けるというのも考えてみればへんな話ですよね。

マニラというかフィリピンは20世紀の始めにアメリカの植民地であったので、太平洋戦争後の歴史もふまえて、まあアメリカ文化の影響が大きいのはわかるのですが、タイや他のアジアの国でもアメリカ文化はあふれています。これが都市部だけの問題なのかわからないのですが。

あと笑ってしまうので、フィリピンのクリスマスデコレーション。
クリスマスツリーや、電飾の飾り物が9月から街を彩るのですが、ホワイトスノーのクリスマスツリーやサンタクロースの飾り物はないだろう!と思うのですが、なにげにマニラのモールでは欧米のクリスマス用品が売られています。

日本では手に入らないようなおもしろいクリスマスグッズがあるので、私は個人的に非常にフィリピンの「クリスマス・イン・サマー」も好きなのですが、文化的にみたらどうなんでしょうか。

また世界中がケーブルテレビネットワークで結ばれて、都会では24時間世界中の最新のニュースや情報が入るようになっているので、特に都会のエリート層にとっては(文化的に)なんでもありの状況になっているのは、日本の東京の例をとるまでもなく途上国でも同じなんだろうかなあと思います。

フィリピンのマニラで暮らしておもしろかったのは、日本を相対的にみれることでしょうか。NHKなんて、大本営発表ではないですが、かなり恣意的なニュースしか流していないこともよくわかりましたし、(CNNやBBCのみならず、他の国のテレビと比べてしまうと)フィリピンのマスメディアも結構すごかったです。あと、フィリピンでも韓流がブームだったなあ。

でもそのようなグローバルな地平線の中で、選ばれていく‘情報’ってなんなのだろうと思いますね。

なにかかなり脱線してしまったような気もしますが^^?

ではでは^^?

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