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2009年1月28日 (水)

いわゆる「天才(主義)」について <頭の整理>

ミクシイというSNSのとあるコミュニティで、トビ主(トピックを立てた人)とコミュニティのメンバーの方々と延々と、とある議題で盛り上がっているのを斜め横からみつつ、どうも自分自身も頭がこんがらがってしまいそうなので、あえて私自身のブログで私の考えの整理をしたいと思います。

ちなみに、元のトピックでのトビ主と参加者のやり取りに触発されたとはいえ、あくまで以下の論考での理解と分析は私にございますので、コメントは私までお願いいたします。

元のトピックを読まなくても文章として理解できるように論述するつもりですが、論理に飛躍がございましたらごめんなさい^^?

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1: 問題の所在: そもそも「天才」とはなにか?

元のトピックでは、トビ主が「天才」の定義なしに、議論を進めていますが、私は議論を進めるために、まず自分の理解する「天才」を定義しようと思います。

「天才」とは、文字からすれば「天賦の才能を持った人」。英語では「タレント」ともいわれますが、一般的な意味合いでは、これまで生きてきた実在の突出した人物をさしていることが多いと思います。まず定義としては、「今まで生きてきた」ここがポイントです。未来の来るべき「天才」は、今、現在の時点では定義も想定もできません。

では、今まで生きてきた実在の天才はと具体的にいうと、たとえば私の身近に感じる(考えるではない)ところは、スポーツ界では、野球選手の「イチロー」、将棋界では、「羽生善治」、フィギュアスケート女子の「浅田真央ちゃん」、マンガ界では「手塚治虫」でしょうか。芸術界でもいろいろありそうだし、さらに研究者という括りでは、さらに多くの「天才的」な人々が上げられるでしょう。

ここで、私は「天才的」という言葉をあえて使ったことに気がつきましたでしょうか。

私の問題提起は、果たして生まれてから死ぬまで一生「天才であった」人は実はいないのではないかということです。

勝負師やスポーツ選手など芸術や技術を‘みせる’人たちは、「天才」としてわかりやすいのでまず例に取り上げたいのですが、たとえばイチローは「4割以上」の打者でしょうか。棋士の羽生さんは、百戦練磨なのでしょうか。羽生さんでも今までの対戦成績は、7割にちかい6割で、それぞれの分野での一人者とも「天才」といわれる人でも100%の「天才ぶり」(=あえていうと)を発揮することはできないし、実際にそれは今の時点で不可能であるといえます。

つまり何がいいたいかというと、「天才」と呼ばれる人たちでも「100%完璧はない」。しかし、では何が凡人と違うかというと、「天才的な」瞬間を多くもっていたり、「天才的な」瞬間を長く再現できる、自分の意思で「天才的な」瞬間をコントロールできるという面で、人から大きなアドバンテージを得ている=それが勝負強さや成果(結果)につながっているといえると思います。

逆にいうと、誰にでも「天才的な」瞬間はあるのです。あってもその頻度が低いか、本当に神がかりというか自分ではコントロールできない「ひらめき」。

「天才性」というのは、そんな「天才的」な「ひらめき」をいうのだと私は定義したい。

つまり、誰もが「天才性」をもっている、「天才的」な「ひらめき」は、人生の中で何度か味わうことができることを、まず最初に述べさせていただきます。

2. では「天才」と呼ばれる人たちは、凡人とどう違うのか。

上記の「天才性」や「天才的」なものと、実際に「天才」とみなされる人たちとの具体的な関連は、また凡人との違いは一体何なのでしょうか。

これは、上記のイチローや羽生さん、真央ちゃんをみていただくとすぐにわかると思いますが、彼らは、突出した「天才的な」技術やひらめきをもっているだけではなく、その業界の中で、人一番努力し続けているということがいえると思います。

そうだ、柔道の「柔ちゃん」こと田村(谷)亮子選手を忘れていました。彼女が確かアテネオリンピックの前のインタヴューで語った言葉は、「世界一の練習をしたから負けるわけがない」。

つまり天才的な資質に加えて日々の努力をしていること、これが天才のひとつの典型であり条件の一つなのでしょう。

また浅田真央ちゃんがいっている「自分のベストをだしきる。最高の演技をする」という言葉にも、天才の秘密のひとつが隠れされています。

つまり、天才(的)な人は、たとえ百万とライバルがいようとも、自分を高めることに精一杯で、人を引きずり落とそうとか、人の足を引っ張ったりとか、ましてやライバルの失敗を祈ったりとか、そんなことは、‘全く’考えません。

自分のベストを出し切ることが‘全て’であると信じきっているのです。

別の言い方をすれば、「天才」は「自己責任を常に意識している」、自分を信じている(自信を持っている)ともいうことができましょう。

結局、ありきたりの答えになってしまいますが、天才とは、

「自分の能力を信じて、‘天才的なひらめき’を大切に、その才能や‘ひらめき’を磨き続ける、追究し続けるための日々の努力を怠らない人」ということもできましょう。

でも、こうして考えると、結局、「天才」も所詮は人間だなあと思いませんか。

‘天才的なひらめき’が、何であるのかは当然人によって違うのでしょうが、自分が「天才的だ」と思える自分の‘何か’を信じてそれを大切に磨いていく、そうすることが、それぞれの人生における「天才的」なものをなんらかの具体的なモノに変えていくことができるのです。

これは、あなたにも私にもできることです。そう自覚して自分を信じることさえできれば。

3. 客観的な「天才」とは。

「天才的」な「ひらめき」の大切さについては、前項で理解いただけたと思いますが、では本当の?いわゆる客観的にいわれる「天才」とは?

それは、「天才的な」ひらめきを他人から客観的に「具体的な見える‘モノ’」にまで昇華した人だけが、客観的な「天才」を名乗ることもできるし、人からそう称されるのです。

つまり、‘かたち’として具体的に実体をもった「天才性」を明示することができなければ、少なくとも他人からは「天才」として認められることはありません。

「自称天才」そんなものに全く価値がないことは、自称する‘本人’が一番わかっていることなのであえて繰り返しませんし、前述の「天才」を‘名乗る’人が本当にいるのか、私は疑問です。

何がいいたいかというと、「天才」は他人が評価することであって、自分で名乗るものでもことでもないのです。あと、真央ちゃんみたいに、自分の‘天才性’を案外自覚していない人(天才)がいるのかもしれない^^?

ただ、凡人のせめてもの慰めとして、「天才的な」瞬間が誰にでもあることは、互いに認めてもよいと思います。

自分を「天才」とはいわないまでも、「あれ、今の俺って‘天才的’じゃん」と自覚することは大いにありなのです。

ちょっと脱線しましたが、本論に戻ると、「天才」とは他人に認められるものであるし、認められるだけの‘何か’をモノにした人、時系列でいうと、誰にでもある‘天才的’な‘ひらめき’を、「誰でもみることができるモノ」にしてしまうことが、その人が「天才」たる最低条件なのです。

とりあえず、私が「天才」とは、と仮に問われたときに、上記のような理由と背景で‘定義づけ’するであろうことをここに表明いたします。

ところで、ある「天才」の「天才的」な部分と、そうではない部分が、当然のことながら同じ人間に同居することも申し添えておきますね。

「天才」だからって、「天才性」を発揮している部分に限らず、人として生きていくことに最低限必要なマナーなりルールを守らなければならないこともまたいわずもがななことです。

「天才」は何をやってもいいのか、自分の「天才性」を発揮できる分野でもわがままな好き勝手なことをしていいのか。当然、そんなわけはありません。

自称天才にありがちな話かと思いますが、そんなバカな話はありませんので、くれぐれも注意しましょう。自分の「天才性」を自分で褒めてあげてもいいです。そこまでは認めますが、それを盾に社会に楯突くというか反逆することはできません。常識で考えても。

そもそもいわずもがなの蛇足ではありますがあえて述べさせていただきました。

ではでは^^?

(天才論 1部 この項 了)

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