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2009年1月29日 (木)

「天才」とその時代性について <天才論 その2>

天才論の続きです。

3. 天才の大衆性と普遍性

その1では、天才そのものについて考察しましたが、天才を取り巻く外部環境についてもふれておく必要があります。

今までのおさらいでは、「天才性」とか「天才的」なひらめきは全ての人が持ちうる。ただし、それを客観的な外部の人が認めるかたちやモノにすることが非常に困難である。しかし、それを成し遂げて「天才」と目されている人たちは、例外なく本人の「天才性」に自信を持っており、天賦の才(タレント)に加えて、他人との競争ではなく「自分自身の限界というか可能性を極めるべく、日々、努力していることを述べました。

ところで、そもそも論に戻りますが、誰が「天才」を認定するのでしょうか。それは間違いなく、同時代もしくは後の時代の普通の人たちです。繰り返しになりますが、‘未来’の「天才」をわれわれは知ることも想像することもできません。

ここで、「早すぎた天才」などという言葉を思い出していただきたいのですが、つまり同時代であれ、過去の「天才」であれ、他人が、もっと平たくいえば、われわれ自身が、‘誰か’を「天才」と認定しなければ、客観的に「天才」とは認められない。

もっと厳密にいうと「世間」が認めないと、どれほど能力があり才能があり「天才的」なひらめきをもっている人でも「天才」とはみなされないのです。

唐突ですが、よくマーケッティング論でいわれているのが、「時代の半歩先を歩く」というトレンドに関する理論?があります。

つまり「時代」に早すぎていては、われわれ一般大衆といいましょうか「世間」は反応できないし、トレンドを創りだすことはできないのです。

これはトレンドのみに限らず、「天才」論についても同じことがいえましょう。「天才」は時代に、‘半歩’というか‘一歩’先んじた存在でなくてはなりません。

時代の‘半歩’なら、まだわれわれの想定内であれ、ちょっと目利きの人なら十分わかる範囲の突出性です。まあトレンドメーカーというか凡人に少し毛が生えた程度と考えてもいい。しかし、「天才」と目されるには、もう少し突出している、時代の先を行っていなければなりません。しかし、‘一歩’というのがミソです。

現実には、天才は2,3歩先を行っている、もしくは本当には100歩先をいっているのかもしれませんが、一般大衆が理解できるのは、せめて‘一歩’とか2、3歩先のみであるといってよいと思います。

なにが結局いいたいかといいますと、「天才」とはその彼の生きている「時代」もしくは、その「大衆」に理解できることやモノを成し遂げた人であるともいえるのです。

そうそう、‘高い再現性’をもってというのも「天才」の条件にいれておきましょう。これは「天才性」の「ひらめき」を持続して、常にどんなときにでも客観的にみえる‘モノ’にまで昇華するというところで述べたことと重なりますが、「天才」は、当時の世界の、一歩先、2歩、3歩先のことやモノを、なんども「大衆」が納得するまでみせつける必要性があるのです。

とりあえず、「天才」の「大衆」との絡みといいましょうか接点について、つまりは「時代性」に触れた上で、さらに「天才」の「普遍性」について述べたいと思います。

まずは、「コロンブスの卵」について。

特にスポーツ界では、常に記録は破られる運命にあり、逆にそのためにスポーツがあるともいえましょう。団体戦はともかく、個人戦では、水泳でもマラソンでもスケートでもなんでも新しい技や時間を競う競技では、タイムにおける新記録の樹立が目的であり、「天才」たちがしのぎを削るところです。

ところで、常のことですが新しい記録がだされた場合、それ以前のレコードホルダーの価値は全くなくなってしまうのでしょうか。タイムトライアルでは、そう考えられがちですが、実は走ることひとつにおいても革新的なタイムが現れるには、なんらかのそれまでとは違った技術なりの「ひらめき」があり、それを型もしくは今までの言葉でいうと‘モノ’に定着させた人が必ずいます。

フィギアースケートや体操競技を思い出していただくとわかるように、常に「技」という‘モノ’は進歩しており、あらたな型や‘モノ’が常に模索されています。昔は「超ウルトラC」であった技が、今では、誰でもこなせる難易度の低い技になってしまったということは誰でも簡単に思い当たるでしょう。

しかも昔は、10年くらい新しい‘モノ’の賞味期限?があったのですが、今では日進月歩というか日時の単位で新しい‘モノ’はライバル達に研究され、普通の‘モノ’化されています。

これは将棋界などスポーツ以外の競技の世界でも全く同じで、羽生さんを始め、どの棋士も時代の流れの速さを実感を込めて語っています。

しかし、ここで忘れてはいけないのが、「最初の一歩」を踏み出した人の人間世界への貢献です。新しい記録や技術が生まれたからといって、過去の「天才」の相対的な位置がかわるにせよ、その「天才性」についての価値がなくなるわけではありません。

もうひとつ付け加えると、「天才性」の再評価は、常にありえます。でも、その話はおいておいて、「普遍性」について話を戻すと、過去の「天才」と目される人たちは、その記録や発見、業績自体が一般的なものとなってしまっても、記録が破られたとしても、初めてその域に達した「先駆者」としての‘価値’や、その‘先見性’や‘生き様’において時代を越えて共感や感動を与える、いわば「普遍性」といったものをもっていますし、その突出性の輝きは失われることがありません。

つまり単純な成績(記録)や業績だけが「天才」を決める要素ではないということでもあります。

ここでは、「天才」のもつ「普遍性」について、舌足らずながらも触れてみました。

4. 天才とその時代性について

さて、前項で「天才」のもつ「普遍性」について触れてみましたが、ここでいう「普遍」とは厳密な意味での「普遍」ではありません。「普遍性」という言葉をあえて使っている意味がわかりますでしょうか。

結論からいいますと、「普遍」とは実は未来永劫に存在しません。わかりやすくいうと、‘絶対’「普遍」の‘モノ’はないということです。「普遍性」とは「普遍」につながるであろう(可能)‘性’という意味で私は使っています。つまり、その「天才」がモノをなした時代において、かなりの「普遍性」を有したし、その時代の文脈からいって、未来の人たちも、「天才」の成したモノの「普遍性」を感じる確度が高いということを前段ではいっているのです。

このように「普遍」な‘モノ’がないということを前提にすると、何に照らし合わせて「天才」の「普遍」(性)を評価するのか。これは結局、彼なり彼女の生きた時代と地域に照らし合わせて判断するしかありません。

結論的なことをいってしまいますと、結局

「天才とは、所詮、‘時代’の子供なのです。」

次項(その3)では、この「時代性」について、考察をさらに進めます。

とりあえずこの項は了ということで。

ではでは^^?

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