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2009年1月11日 (日)

一筋の挑戦が‘わだち’となり‘道’となる 開発民俗学への途 再開

別のところでも触れましたが転職して地元に戻ったので、いろいろな意味で生活パターンが変わりました。

とりあえず海外駐在から戻ってうれしいのが当たり前といえば当たり前ですが、日本語の書籍の多さです。別のトビにも書きましたが、地元の公共図書館が、それぞれリニューアルしており、かなり使えるところがこれまたうれしいです。

最近、雄山閣の『講座 日本の民俗学』を紐解いています。とりあえず、年末に、「第11巻、民俗学案内」、今日、それを返して、「第1巻 民俗学の方法」を借りてきました。

実は学説史って私は好きで、知の系譜というか、誰がどの時点(時代背景)でどのような問題意識をもってどのような研究や著作を著したかが非常に気になります。あと研究者間の師弟関係とか影響の与え合いなど。

いろいろ仕事や今までの経験を振り返ってみて、結局、人間、他者(モノでもよい)との交流なり接触がないのと、個人として成長しないのではないか、というようなことを考えています。

個人も知識も個(孤)として存在しているわけではなく、異なった他者と他者ががスパークというかぶつかったときに、なにか新しいモノがあらたに生まれる、結局、小さなその積み重ねが今日の世界を形作っているような気がします。

夢を描く人、それを実行する人、人はいろいろな立場で世界や社会と向き合い、お互いに影響を与えながら社会に貢献し、またその便益を得ています。

としてみると、この世に無用な生はありえないのではないか。まったく無駄ないらないものは、そもそもこの世にはないのではないかという気もします。

ちょっと脱線しましたが、過去の道筋を振り返りつつ、その先の途を模索する。そんな人生を歩んでいきたいですね。

脱線ついでに思い出した言葉を。

松本零士のマンガで、『わだち』という四畳半世界を描いたものがあります。内容は忘れてしまっているのですが、確かその最初の導入のところで、

「誰かが歩いた‘わだち’が 新しい道となる」といったような格言?が書かれていたようなおぼろげな記憶があります。

山での海でも誰かが新しい道を見つけようとして(世界に)挑戦を試みます。当然、道なき道の先に何があるのか誰も知りません。行き倒れたり自然の障壁に生命すら落としてしまう可能性は多分にあったのでしょう。でも、誰かが通った一筋は、多くの人がその後を歩くことにより‘わだち’となり、いずれかは‘道’となります。

思えば、地上も海上にもそんな無数の一筋があり、そのいくつかが目に見える‘道’として現前にあるという言い方もできるのかもしれません。

そんな時空も遠く離れた遥かかなたの歩く仲間である先人達のことを思いつつ、新しい時代への一筋を模索していきたい。

ふと、そんなことを思いました。

なんか話が終わってしまったので、本の紹介は改めて書き直します。

ではでは^^?

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