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2008年12月 5日 (金)

第5講: 学問の世界と実践の世界

第5講:学問の世界と実践の世界

2003113

 

知的ワンダーランドとしての大学教育(あるいはわくわく感との出会い)

 

さて、学問の世界と実践の世界というテーマであるが、実践の世界にはいる前段としての、日本における高等教育について私見を述べたい。自分の体験以上のことを述べる気もないし、高所にたって発言する立場にはない。あくまで私にとっての価値である。今までの自分の経験だけいうと、非常に恵まれた環境に育ったと思う。親と上司は選べないというが、人間は環境の産物である限り、生まれ育った環境というものの影響は大きい。小学校、中学校まではともかく、やはり高等学校への進学というのは、一つの社会人デビューの過程なのではないか。誰もが感じていることだが、やはり進学するにつれて、友達のあり方に違いがでてくる。悲しいかな15年ぶりに小学校の同級会にいったとしても、ほとんどの‘昔’の友達とは話が合わなくなっていることを事実として認めざるをえない。これは、よい悪いの問題ではなく事実である。それをどう考えるか、私はある意味仕方がないことと思う。

ただ、考えておかなくてはならないことは、いくら高校や大学の進学率が高くなったとはいえ、現実、中学校卒で、つまり義務教育を終えて働いている仲間が少なからずというか多くいるという事実である。やれ、どこの誰それは、どこの高校に入った、どの大学に入ったとうわさにするが、例えどんな形であろうと‘学ぶ’機会を与えられたものは、それだけで素晴らしい。開発教育、これは文盲の人たちへの(初等)教育という面と、先進国における開発教育という両面があると思うが、この教育という問題についても関心があるのだか、文盲の人がはじめて文字が読めるようになったことについての次のエピソードを忘れられない。

正確な出典は忘れてしまったのだが、日本の戦後に夜間中学で初めて文字を習った老婆が、文字がわかるようになって、初めて夕日の沈むのをみて泣けてきたという話がある。これは、老婆に言わせると、「言葉が読めるまでは、太陽が昇ったり沈んだりすることについて、特に意識してこなかった。しかし、言葉を知ることによって、その事実を別の目で捉えることができるようになった。」というような話であったと思う。

今の日本では、文盲というのは、ほとんど限りなくゼロパーセント近くなっているのだが、それは、ほんの最近の出来事であることを忘れてはならない。特に、高齢の不安定な時代に生きた人たちのうちには、戦争や家庭の事情で小学校すらいけなかった方々が今で多くいらっしゃるのも事実なのである。

私は、これからの時代は、Respect (each other)という言葉とPrideという言葉がますます重要になってくると思う。またいやみな言葉であるかもしれないが、Nobles Oblige という言葉を胸に刻んでいきたい。誰もが、そもそも生まれながらにして優れたその人なりの才能をもっている。これを、Talent という。(これは、日本語のタレントとは違う。英語のtalentは、‘天賦の才能’という意味である。)そして、戦争や貧困に苦しまずに、平和に生きる中で、それぞれの好きなことをやって(自由)それぞれの個性や才能を思う存分伸ばすことができる社会が望ましいことは、地上の誰もが考えていることである。残念ながら、たまたま生まれたところが違ったばっかりに(子供には何の責任もないのに)限られた人間しか、その自由を享受していないことも、誰もがわかっていることである。

そのような限られた範囲での自由しかないかもしれないが、現世における人の生き方における共生・協業のあり方として、私は、{それぞれ(の個人)ができることをすればよい}と考えている。つまり、お金のある人はお金を、時間のある人は時間を、労力をだそうが、アイデアをだそうが、それぞれができる範囲で力をあわせるだけでかなりのことができると思う。それはともあれ、残念ながら、学問の楽しさに気がつかずに生きていかざるを得ない場合が、全地球的にみれば実はほとんどの人たちの現実であるかもしれない。学校を楽しいと思える、しかも経済的にも社会的にも長期の在学期間を認めてもらえる環境に生きていること、それは本当にそれぞれの個性をみがく、もしくは自分を見つめる時間が与えられるということで、極めてありがたいことなのである。

私は、改めて自分を振り返ってみて、大学教育をワンダーランドと思えるほど幸せな学生時代をおくることができたのだが、そうは言いつつも、学べば学ぶほど自己矛盾というか、好き勝手に自分のためだけに勉強するだけでよいのかという気もしてきた。これは、やはり湾岸戦争という時代背景もあったとは思うのだが、その疑いの種はもっと以前にまかれていたような気もするのである。

“学問とはすべからく現実社会と闘うためのものである。

またまた挑発的な言葉であるが、私は、「勉強すれば勉強するほどバカになる。」ということを、この数年いろいろなところで語っている。字句どおりにとっていただいても結構なのだが、あえて、解説すれば以下のようになる。

 すなわち、大学、大学院(私はその教育を受けていないので語る資格がないのを承知の上での話だが)と、‘勉強、勉強すればするほど、先達の‘既成概念’や、考え方の‘枠組み’に取り込まれてしまって、普通の人の、もっと素直にいえば自分の気持ちや主観や感覚に対する自信を失ってしまう可能性があるという側面があるということだ。確かに、今まで営々と築かれてきた学問の成果を批判する気も否定する気もない。ただ、俗にディスプリンをいわれているものは、西欧の分割して理解するという手段の発達によって、素直に全体に受け止めればよいものを、社会、経済、政治、科学など、限られた切り口のみで理解しようとしてしまう。そして、その学問伝統は、その学問自体が育った環境(国、言語圏、地域)などの地理的、時代背景という時間的な制約を受けていることを、あまり意識しないまま、完成された手法、体系として所与のものとして存在を主張する。

 私は、はっきりいって、20世紀は主義(ism)の時代であったと考える。つまり、国民国家主義、資本主義、帝国主義、社会主義、共産主義等々、それは、確かに分析概念としては非常に便利であるし、現在でもそれなりの意味をもっているが、限られた地域での経験に基づいて導き出された理論や概念を、分析手法や概念、様式として、他の地域なり国なりの現象を分析するのに流用すると、理論に現実をあわせるという本末転倒なことが起きてしまって、実際の社会と理論がまったくでないにせよかみ合わなくなってしまっているのが、現代の状況であると思う。

実は、先日(2003112日)、早稲田大学で開かれた『イスラームとIT』という国際シンポジウムの「アレクサンドリア図書館とイスラム的“知”の可能性」というセクションで、くしくも高橋一生先生が、「今後の学問体系はどうあるべきなのか」という吉村作治先生の質問に対して答えた言葉は、「たとえば19世紀のヨーロッパで生まれた自然、社会、人文科学という学問体系も、当初は、その当時の実社会の実態に即した仕分けであったが、それが時代を経るにつれて学問と社会の乖離が起こってきた。20世紀にアメリカで生まれてきた国際関係学や学際的な現場志向が強い、プログラム志向の学問とは、そのヨーロッパの学問分類が現実にそぐわなくなってきたことへの反省から生まれてきた。今後の学問のあり方をあえていえば、現場志向がより重要であることはみな結論としてわかってきており、やはり研究対象が問題であって、道具として何学を使うのか、結果として何学になるのかについては、あまり意識されなく(問題にならなく)なってきているのではないか。」というコメントをしていた。現実の分析結果としての、学問体系、確かに私自身が考えていることと、全く同じではあるが、たとえば今の私のこの文章に対して社会的な評価はどうなるのか。素人のたわごととして片付けられてしまう可能性の方が、今の世の中では、はるかに多いことであろう。 

 私も、大学を卒業して仕事をしながら、いろいろ考えかつ考えを文章化してもきた。確かに5年ほど前までは、「ディスプリンがなくても、リテラシーされあればどうにかなる」と思って、いや思い込もうとして生きてきた。しかしながら、この2年程前から、そうはいっても‘タイトル’なり、‘ラベル’なしに世の中と闘うことに疲れてきたのも事実である。特にイスラーム分野にかかる総合的な学際的な研究現場とその成果を横目でみてきたものとしては、学際的な研究とは、それぞれの学問分野の専門家が協業してこそ成果があるという、結局、学際を目指すものはそれぞれのディスプリンを持たなければならないということも事実としてみてきた。これは開発の現場でもそうである。総合的に全体を把握すること自体は、以前にまして非常に仕事の上でも重要になっているのだが、それは個人のやるべき部分をこなした上で求められることなのである。

 今まで仕事を続ける上で、社会人ならディスプリンはなくても何とかなると思っていたのだか、やはりここらで素直にかぶとを脱ぐ。「やはり学問にも仕事にもディスプリンは必要だ。」ただし、この但し書きだけはつけておく。「学問は、すべからく現実社会と闘うためにある」ということを。

‘開発学’とは体験の学問であり、実践の学問である。(宮本常一氏の言葉のもじり)

 さて、ここで実践というか生きる糧としての‘開発学’をめぐる私の研究の方向性を以下に示したい。以前より、海外の社会に対する関心と共に、日本の社会自体自体のあり方についても関心を払ってきた。その現在、まさにわれわれが生きている地球世界を考える上で、実は以前より非常にこだわっている問題があり、それが‘開発学’における学問というのを超えて実践というものへと心をかきたてるのである。

あまり人には話してこなかったが、‘開発という現象’以前に、私が‘開発’された状態であるとされる近代科学や近代世界に疑問を抱くようになったもともとのきっかけは、1982年の中学校一年生の時に、たまたま市の施設(岡崎の太陽の城という青少年施設)で『人間を返せ』という映画を見たことに始まる。これは『10フィート運動』による映写会であった。これは日本の市民団体が寄付金を募り、広島の原爆投下直後にアメリカ軍が記録した映像記録を、まさに10フィートづつアメリカから買い戻していくという運動である。

これは、たぶん30分にも満たない上映時間であったと思うが、実は私は映画の途中で気持ち悪くなりというか、本当にぶっ倒れてしまった。その映画のタイトルでもあった峠三吉の「人間をかえせ」という詩自体は、多分、教科書では知っていたが、モノクロ(白黒)ではあったが、原爆直後のとても人間とは思われない形相の人たちの映像を見たときに、自分の中に強く刷り込まれることとなった。(今となって思えば、モノクロでよかったと思う。あのケロイドややけどで焼け爛れた、とても人間とは思えない形相の人たちの映像は、とても今でもカラーでは直視できないであろう。)多分、その時に意識したことは、「人間の尊厳」という言葉であったと思う。なぜ、日本だけがアメリカに原子爆弾を2発も投下されなければならなかったのか。これは、今でも疑問だし、西欧文化、特に白人優越主義に対して、初めて疑問を持った瞬間だともいえよう。

そのときの気持ちや考えの結果は2つに集約された。「将来外交官になって、アメリカとソ連を握手させてやろう」、もう一つは、「西洋近代主義のアンチテーゼとして何かがあるのではないか。人間として平和で平等な世界を何とかして築けないものなのか。そのためには、どのような思想がありえるのか」ということであったと思う。

 結局、一つ目の夢は大学時代の1991年に冷戦構造が終わったことにより果たされない夢となってしまった。(実際には、大学1,2年では、外交官試験を受けることも考えて法律とか勉強しようとしていたが、アラブ・イスラームの勉強と両立できなかったことと、なぜ西欧の知識体系だけを、‘万国’共通の規範(ルール)として学ばなければならないかについて、自分の中で納得できない部分があって、結局、法律・経済等の外交官試験に受かるため(だけ)の勉強を投げ出してしまっていたという現実もある。)

 だが、二つ目の問題については、未だに解決に至っていない。これは、その後、えた・非人など被差別部落のことなど偏見や差別の問題や、当時、南北問題といわれていた先進国と後進国(発展途上国)との貧富の差の問題等、いろいろバリエーションを代えて中学校、高等学校と学習の対象となっていったが、私にいわせれば、根源的には、‘人間の尊厳’をどう考えるかという問題である。

差別や偏見をもたらしているもの、それは結局、個人の心の問題であると思う。自分にプライドを持つこと。それは、とりもなおさず、自分を除く人間すべてが同じものをもっていること。自分が相手を恐れているのと同様、相手も自分を恐れている、多分、人を先に威嚇したり、力で押さえつけようと攻撃を仕掛けるのは、自分に自信がないからである。(これは、はっきりと欧米人の今までの、彼ら以外の民族や人種に対して行ってきた性癖を意識して発言している。)

そういう意味で、相手を対等に同じ‘人間’として認める。という個々人の心のレベルでの国際化やグローバリズムについては、まだまだ諸についたばかりだ。(私は、少なくとも自分の年齢より若い世代については、この点では、きわめて楽観している。特に国際化、国際化などと声をあげなくても、すでに日本には多くの外国人が生活しており、すでに社会環境として国際化されてしまっている。今の子供たちは、今の私たちより、はるかに先入観のない世代であってほしいと願っている。)

原爆への嫌悪というかショックについての話にもどるが、その後、広島には大阪外国語大学の入試を受けた後に、瀬戸内海地方の一人旅にでかけ、広島、尾道とユースホステルを使って脚を伸ばしたこと、その後、大学4年の時に、九州一週を行った青春18切符の旅の過程で長崎を訪ねたこと、この2つの被爆地を実際に自分の足で訪れ、自分の目で現場をみたことを、ここに述べておく。青臭い正義感かもしれないが、まだ私の中では、第二次世界大戦(大東亜戦争)は終わっていない。

今(2003年)現在では、はるかに戦後生まれの人の方が人数的には増えていることは事実なのだが、戦前、戦中に生きた人々は、まだまだ多く在命中だ。私は、勝手な若輩の言い草であるかもしれないが、ここらでちゃんと第二次世界大戦の総括を、それぞれの個人がしておかないと、みんな死ぬに死にきれないのではないかと思う。確かに、非常に辛い体験であったと思う。人に言えないようなことが誰しもあるに違いない。しかし家族にも何も告げずに、全て自分で抱え込んで墓場まで持っていこうというのは、一見、子孫というか子供にやさしいようにみえて、結果的には、子孫を、日本人を駄目にするのではないか。

未だにファナティックに、未だに南京大虐殺はなかったといってみたり、‘自虐史観’反対なんていう‘プチ・ナショナリズム’が近年蔓延しつつあるようだが、もっと素直に、自分たちの過ちについて、事実を事実として語るべきではないのか。

今、イラク戦争に関して、アメリカの言語学者のノーム・チョムスキーが9・11以降にアメリカや世界中で講演しているのは、アメリカの帝国主義だけが過ちを犯しているのではなく、今までの力のあるものは常に暴力をふるってきたことであり、いくつもの9・11が歴史的に繰り返されてきたということである。これは、イスラーム研究者である東京大学名誉教授の板垣雄三先生の最近の講演会で聞いた話でもあるのだが、「パレスチナのユダヤ人問題についても、幾度となく歴史の過程で繰り返されてきたものである」というのと呼応する。

 

 あまりに脱線してしまったが、いろいろな経緯を経て、たまさか、私は‘開発’の現場に足を踏み入れてしまった。はっきりいって、近代化や西欧への‘開発’が全てと思っているわけでもなく、もし仮に外部者として、ある社会に介入するとすれば、以下にその開発による負のインパクトを小さくするかの方に関心がある。これは、近代科学を否定するものではないし、自分の立っている立場をわきまえた上での、自分への挑戦である。しかし、あくまで自分の小さな胸につかえた刺をとるための努力と実践を考えて続けていきたい。それは、すなわち、「偏見や差別のない平和な社会をつくること」それは、「一人だけではできなくても、同じことを考えている仲間はかならずいるということ」を信じて生きていきたい。

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