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2008年12月

2008年12月28日 (日)

ブームの宮本常一?(『宮本常一 旅する民俗学者』を手にして)

ちょっとというかかなり以前に書いた記事ですが、いまだに宮本常一さんはブームみたいなので、便乗転載を^^?

開発民俗学についてはこちらからどうぞ。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/contents.htm

ではでは^^?

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2006年3月30日 作成

ブームの宮本常一?(『宮本常一 旅する民俗学者』を手にして)

Photo 佐野眞一責任編集 

『宮本常一 旅する民俗学者』 

「KAWADE道の手帖」

河出書房新社 2005

久しぶりに日本に帰国したときのこと(3月8日~13日)、わずか1週間弱(6日間)の滞在であったが、仕事や自宅への里帰りを別にした楽しみの一つが書店めぐりである。やはり地方だと大きな本屋が限られるので、今回は東京で会議があったのちの土曜日に東京の八重洲ブックセンターを、田舎の愛知県では名古屋に行って三省堂を覗いてみた。

ところで、マニラには日本の本を売る本屋がない。2万人とか5万人の日本人がマニラに住むといわれているのに、まったく本屋がないというのは、本当に不思議な話だ。その理由としてもしかしたら、東京からマニラまで3時間半から4時間半で着いてしまうという、その近さのゆえかもしれない。

ともあれ、わたしは本の背を読むというか、本は直接手にとってぱらぱら読んでから実際に購入するかを検討する。とてもタイトルだけでは実際に購入しようとは思えない。結構、わたしがほしいような専門書は、万とまではいわないが数千円(の後半)する本が多い。その分、本当に自分の求めるものなのか実物にあたって吟味しなくてはならない。また、大きな本屋の本棚をみるだけで、いろいろ世の中の動きというか学界の動向を知ることもできるのも楽しみである。

さて今回、日本で購入した本の中で掘り出し物だと思ったのは、名古屋で買った佐野眞一責任編集 『宮本常一 旅する民俗学者』 河出書房新社 2005である。「KAWADE道の手帖」というムックの1冊である。宮本学ブームの立役者の一人である編集者の佐野氏によると、今年2006年は宮本の生誕100年にあたるそうである。東京でも名古屋の本屋でも、確かに民俗学のコーナーに「宮本常一」コーナーがあって、関連本も著作集も続々出版されているようである。その中でも、この本は表紙の写真がよかった。また、単行本・著作集未収録コレクションや、彼を知る人のエッセイ、評論、ブックガイドなど非常に盛り沢山の内容で、宮本ワールドへの導入として最適の本ではないかと思う。

碩学へのアプローチの仕方として、その周辺から入る、つまり関連本や解説本から入る方法と、直接その著作に取り組むという二つの方法があると思う。学生時代は、ついつい時間の制限もあり、また単純に手抜きから安直に解説本を読んでレポートをまとめたりすることもあったのだが、やはり今思うと、これはと思う著者については一冊一冊こつこつ読み重ねていくほうがよいと思う。わたしにとっての、そのような対象は、すでにGiant Stepsで触れているが、宮本常一、前嶋信次、家島彦一、鶴見良行、鎌田慧らである。何とか死ぬまでに読みたいと思うのが、前嶋先生の『アラビアンナイト』であったり、家島先生のイブンバッツータの『大旅行記』であったり、宮本先生の『著作集』(現在、46巻プラス別巻2)であったりする。蛇足だが、これは音楽でも同じで、わたしは気に入ったアーティストのアルバムは、結果としてほとんど全部そろえてしまう。たとえば、ビートルズであったり、サザンオールスターズ、槙原敬之、スピッツ、ミスターチルドレンであったりする。これはまた別の話であるが。

さて、著作集が沢山ある著者を攻略する?にあたっては、やはりその著作の書かれた時代背景をきちんと押さえておく必要がある。というのは、やはり人は変らないようで考えが変っていることもあるので、その著作の書かれた順序と、彼をとりまく世の中の空気というものも押さえておかないと、とんでもない勘違いというか浅い読み方になってしまうことがある。たぶんそれを避けるためにも関連本というものの意味があるのであろう。また、彼を取り巻く周囲の人の肉声というのも、非常に興味深い。別のところでも紹介したが、たとえば鶴見良行については、アジア太平洋資料センター編『鶴見良行の国境の越え方』 アジア太平洋資料センター 1999は、非常に面白かった。

ということで、この宮本関連本も楽しんで読んでいる。まだ読んでいる途中であるが、気になる一節があったので、以下に紹介したい。

「前略・・・。

町づくりという未体系化なままの運動のようなもの、それに参加している人間には宮本常一の弟子と言わずとも、深く影響された者が非常に多い。・・・中略・・・。その誰もが急がず、早急な結論を出そうとしない。プランを立てる、つまり計画するという近代的な方法とは別な、先ず人々に聞いてみよう、現実を見続けてみようという、一見何の成果も得られるような姿勢をとりたがる。しかし、その歯がゆいような姿勢が急激な変化、進歩という名の闇雲な変化の速力にブレーキをかける役割を果す事がある。

民俗学は哲学と同じに、現代では何かを作る側に荷担する役割、機能を果すことはほとんど皆無に等しい。・・・ 後略。」 (太字は筆者)

石山修武 「座りながら立ち尽し 巨大な減速装置」 上掲書15ページ。

このような文章をみると思わず、ニンマリとしてしまう。わたしも開発コンサルタントの端くれとして、特に地域開発を志している。確かにタスクとしては巨大なインフラ整備だけではなく(それも扱っているのだが)、もっと草の根と目される生計向上などのプロジェクトなど具体的な施策を立案し、かつ実施しなければならない。

ただし草の根といわれるプロジェクトも結局、資本主義のパラダイムに則った近代化のためのものであることには留意しなくてはならない。断言はできないが、市民社会とかNGOの活動が開発援助の世界でODAに対するオルタネーティブとしていろいろな場でうんぬんされているが、所詮、‘資本主義社会’である現在世界を無視したプロジェクトはありえないし、あったとしてもそれは空想でしかないと思う。

フィリピンにきて、より現場に近づいて思うのは、本当にこの資本主義化、近代的なスキームの導入が本当にフィリピンの田舎の人たちに適合しているのかという根本的な疑問や気づきが、歩けば歩くほどでてくる。

とはいえ、わたしは学者でも批評家でもでもない。実務家(であるコンサルタント)として、わたしに何ができるのか。

日本の民俗学から世界に足を踏み出した『開発民俗学』の歩みとその問いかけは、まさに始まったばかりである。

蛇足ながら:

この本のサブタイトルに「旅する民俗学者」とあるが、「旅する」というところが形容矛盾ではないかと思った。民俗学をやるような‘泥臭い’人間が、‘旅’をしなくてどうするねん!と思わず突っ込みたくなったことも率直にふれておく。

(この項、了)

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2008年12月25日 (木)

質問その3 ‘開発専門家’と‘開発コンサルタント’の違いは? 『対談 開発コンサルタントとは?』

12 質問(その3) つかさ  2003/08/18 () 00:15

ふむ。ひょうたんつぎ。ピノコ。未知の領域です()

それはさておき本題^^。今まではフィールドで最先端にたって、「開発」を最終的な目標として活躍する開発専門家。それに対して、事業の一環として主に経済的な利潤を追求するドナー側の業者という形で捉えていました。開発コンサルタントに対しては、どちらかといえば後者に属するようなイメージがありましたが、どうやらそうとは限らないようですね。むしろ、その中間に属するといった感じでしょうか。なんとなく日本の援助体制のどこに、どういう形で開発コンサルタントの方々が位置付けられるのか分かってきたような気がします。

しばやんさんのフレーズで、「あるときには、背広をビシッときて国家元首と対峙し、またあるときは、作業着に地下足袋で現場を駆け巡る」というのがありましたが、これは私が描いている将来の自分の目指す姿とも重なる点があり、おぉ~かっこいいではないか~、と思ってしまいました。

ところで、開発コンサルタントがマスター・プラン、そしてプログラム・プロジェクトの立案を主に活躍の場所としていうということですが、モニタリング・評価の過程にどのように関わっているのかについては触れられていませんでした。この過程の重要性は、JICAや外務省がプロジェクトの評価体制の改善に努力していることからも明らかですが、評価自体はこうした機関に任せるという形になっているのでしょうか?外務省やJICAでは第三者的視点からのモニタリング・評価が行われようとしていますが、私はこういった分野にも開発コンサルタントが入ってきているのではと思っていたのです。つまり、自らが作成したプロジェクトを業者に委託して、それで終わりではなく、自らで、あるいは他の開発コンサルタントの手でモニタリング・評価していく。そして、その結果をJICAなりJBICなりに報告する。こうした体制が採られているのかな、と第三者評価のことを耳にしたときに漠然と思いました。この点についてコメントいただければと思います。

13 回答(その3) しばやん  2003/08/20 () 01:06

つかささま

なんとなくわかってきていただけたでしょうか^^?。

ところで、開発専門家って誰のことでしょう?
例えばJICA派遣のプロジェクト方式技術協力の主に日本の役所から派遣される長期専門家のことでしょうか。東京の国際協力研修所にいる国際協力専門員のことでしょうか。それとも青年海外協力隊の隊員のことかしら。NGOの現地駐在員みたいな専門性をもった方たちのことでしょうか。

野田直人さんが、「フィールドワーカー」という言葉を著書でさかんにとなえていらっしゃいますが、私にいわせれば、「専門性をもってドナーと受益者(これは相手国政府もエンドユーザーというか実際に援助の恩恵をこうむる住民をも含みます)に対して中立の立場で(これは、経済的にも精神的にも)開発に携わるものは、広い意味で「開発コンサルタント」なのです。

これは、欧米の開発コンサルタントが、援助機関の立案者であり、学者としての研究者・教育者であり、開発コンサルタントとしての専門家であり、このカテゴリーというか壁をたやすく越えるキャリアパスを築けるのは、本質的に、この開発専門家という手に職をもっているがゆえなのです。(多分、日本でもこのような流動的な社会に変わってくると思われます。)

それはさておき、質問の「評価」の分野についても、この5年ほど学者(大学の研究者)等の有識者による外部評価や援助機関の職員による内部評価のいずれの分野においても、開発コンサルタントを評価技術の専門家として、それは社会科学系の専門性をもった人も多いのですが、評価チームのメンバーとして雇用することが増えてきました。

すでに他の援助機関では、援助総額の何パーセントかを、事前評価、中間モニタリング、事後評価など援助効果促進にあててきたのですが、日本でも遅ればせながら、この評価分野に対して一定額の予算がつくことになり、原則、無償資金協力や有償資金協力について、かならず事後評価とフォローアップを行うようになりました。

ここで、ガイドライン策定などの面でも開発コンサルタントの活躍がめだってきており、評価という専門分野が生まれつつあるともいえます。

とはいえ、評価とは所詮、先人がやったことを評価するのであり、やはり最初に計画を立てたり、事業を実施する立場にたちたいとは思いませんか?

とりあえず、今回はここまで。

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2008年12月22日 (月)

開発コンサルタント論 ちょっとブレイクを^^?

いま、開発コンサルタントについての対談を再掲載しているわけですが、ちょっとブレイクを^^?

もう5年以上前の記事ですが、自分でいうのもなんですが熱いというか暑苦しいというかあっちっちといった感じですね。

でも基本的な考え方は変わっていませんし、自分がその(業界)世界から抜けたとはいえその実態は対して変わっていないというか変わらないのではないかと思います。

「コンサルタントはリサーチャーでもプランナーでもない」という話を、いろいろなところで書いていますが、今の世の中、本当のコンサルタントが住みにくいというか生き難い時代になっていると思います。

まずは、開発途上国自体も、それなりに成熟しつつある、もしくは第二次世界大戦後、50年も60年も経つのに、全く変わっていないもしくは戦前より状況が悪くなっているところもあり、ありていにいえば、「開発=成長神話」が崩れてきたともいえるでしょう。

もちろん、その開発援助の業界の内部にいる人たちは目の前の仕事をこなすのに手一杯で、自分が立っている場所を考え直す時間も余裕もないのは十分わかります。

しかしながら、前回も述べたように、われわれが正しいと思ってやってきたこと全てが間違った仮説というか間違った前提にたって努力してきたという可能性も(非常につらいことですが)考えてみる必要があるでしょう。

はっきりいって、私は「貧困と‘闘う’」というコロンボプラン以来唱えられているスローガン自体が気に入りません。

私は、その自分が立っている足場自体を今の時点で見直せということを言っているのです。

その見直すにあたってのひとつのキーワードが、「パラダイム(論)」です。

私は本気で、世界を変えたいと思っています。「パラダイム」を変えたらどうなるのか。正直、私はどうなるのか見当もつきません。

でも今、足元から「パラダイム」自体を見直すしか、未来を開く可能性はないと思います。

「お前の考え方が正しいか間違っているかは時代が証明するだろう」と嘯く友人がいるとしましょう。

私は、こう言います。「時代はわれわれ自身が変えるものであるし、変えることもできる」と。

P.S.

私は神(と呼ばれるもの)の存在を否定するものではありません。人間や生命以上のものが存在することを認めたうえでも、‘人類にとっての’未来は変えられると思っています。もし地球や世界が、人間を必要としなくなったら・・・ それはそれで事実として認めざるを得ないでしょう。

私はイージーな「持続的な開発とか成長」を語ることに、まったく意味を感じていません。そんな小手先の言葉遊びや自己満足に浸る以前に、もっと考えることややるべきことががあるだろうというのが、私のスタンスです。

ちょっと口が滑りましたが^^? 

発言するからには責任が伴います。まあ自分への戒めということで肝に銘じて生きていきたいと思います。

ではでは^^?

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質問その2 経済インフラと社会インフラの違いとは? 『対談 開発コンサルタントとは?』

 質問(その2) つかさ  2003/08/10 () 01:47

なるほど、昨今では技術系に加えて社会科学系のニーズも若干ではあるが増えてきているということですね。

次に質問させて頂きたいのは、公共事業と一口にいっても様々なプロジェクトが考えられると思いますが、大雑把にいって経済インフラと社会インフラに分けられるかと思います。経済インフラ(道路・鉄道・港、等々)の場合ですと、建設費用が幾らで、その施設が対象国内外の流通量をどれくらい上げて、全体としてどれほどの経済効果があがるのか。といったことを計算するのが、開発コンサルタントの業務のように推測しております。ただ、社会系インフラ(人々のBHNに関する施設)の場合、開発コンサルタントがどのように関わっていっているのかが釈然としません。経済効果に対して社会効果というのは、非常に長期的なヴィジョンを必要としますし、何より"どうやって"計るか、で大分出てくる値が変わってしまうのが常です。

加えて、開発コンサルタントは民間の会社ですから、"利益"を出さない限りは、というより"利益"がでるところにしか行けないのではないのだろうか?というふうに素人としては考えてしまいます。その意味において、ODA案件に関していえば、アフリカ諸国よりアジア諸国、社会インフラより経済インフラを重要視しているのでは?と推測しています。長期的な視野とあやふやな結果しかでないかもしれない社会インフラに対して、開発コンサルタントがどのように関わっているのか、現状を教えて頂けたらと思います。

最後に、しばやんさんが案件受注のところでJICAを真っ先にあげたのは少し意外でした。どちらかといえば、JICAよりもJBICからの案件の方が多いのではと考えていたからです。経済インフラによく使用される円借款やOOFをとりしきっているのはJBICですからね。ここ数年の円借款部分の大幅な減少にともない、JICAからの案件受注の割合が高まった。その結果として、社会インフラの相対的割合も上昇し、社会学系の知識は開発コンサルタントにとってもより重要性を増してきている。ただの推測ですが、実際のところはどうなんでしょうか?


 回答(2-1) しばやん  2003/08/14 () 00:26

なかなかヘビーな議論になってきました。

手塚治虫風に言えば、なんとなくひょうたんつぎ*1か、ピノコのアッチョンブリケ*2をいれたい気分です^^?

さて、つかささんの質問の順に沿って、回答していきましょう。

まず、最初のフレーズ、「昨今では技術系のニーズ~」のフレーズについてですが、実は以前からニーズというか問題はそもそも存在していたのです。ただ、ハード中心に援助効率を求めてきたので、そこまで痒いところに手が届かなかったというか、構成団員のなかで、なんとかソフト配慮についてもお茶を濁してきたというのが、本当のところではないかと思います。

経済インフラと社会インフラの件、ちょうど15年ぐらい前から、BHNBasic Human Needs)という概念や、10年ほど前から「社会開発」というワードが勃興してきたのですが、ここで気をつけてほしいのは、開発コンサルの現場というか、実態としてはラベリング自体には大した意味がないというが、経済インフラも社会インフラも、我々にとっては同じことです。

まさに、つかささんのいう「経済効果に対して社会効果というのは、非常に長期的なヴィジョン」という問題は、われわれ開発コンサルタントやドナー、途上国政府の政策策定者みんながずっと長い間、あーでもないこうでもないと、日々の実践の中で考えつづけている古くて新しい問題なのです。

注:*1,2 共に手塚治虫のマンガのキャラクター。*1は、手塚がシリアスな場面でふっと力を抜きたいときにいれるバーバパパみたいな正体不明なへんなキャラクター、*2は、いわずとしれた、『ブラックジャック』のアシスタントの女の子です。(2004/5/10 加筆)

9 回答(2-2) しばやん  2003/08/14 () 00:29

まず、開発の実務的なステージとして、下記のステップがあることをご確認ください。

①国家政策のレベル(長期計画)
通例20年から50年先を見越した計画。マスタープラン、通称Master Plan(M/P)と呼ばれている。

②プログラムレベル(セクターレベル、中期計画レベル)

上記の国家政策課題を分野別(通例セクター、例えば電力とか鉱工業とか農業とかで分けることが多い)に短期(5年後)、中期(10年から15年後)をターゲットとする構想を立てる。

③プロジェクトレベル(個々の案件レベル)

上記②の個々の事業をプロジェクトといい、この近未来に実現しなければならない課題について、フェージビリティ(事業実施可能性)を調査する。俗にFeasibility Study (F/S)という。

④事業(プロジェクト)の実施

上記③の調査によって事業実施の効果、経済性等、投資に対して一定以上の実施効果が見込まれる場合に、ようやく事業の実施となります。

⑤事業の維持管理(OM)もしくはモニタリング評価(M&E

今までは、上記④の事業の実施だけでよかれとしてきましたが、この20年ぐらい事業実施後にうまくハード(施設や機材)の維持管理(Operation and Maintenance)がなされないという批判が高まり、OM計画の立案と実施体制の確立(受益者組織もしくは政府組織の能力強化)や、その後の、プロジェクトのモニタリングや評価について大きな関心がもたれるようになったのが、この15年ぐらいのことです。
(当然、援助の失敗の屍が累々と、顕著に見られるようになったのは、それ以前からでしたが、ドナーも被援助国もコンサルタントも、真面目にどうにかしようと組織的に動き出したのは、それほど大昔のことではありません。)

10 回答(2-3) しばやん  2003/08/14 () 00:31

ここで、つかささんの最後の質問に戻ると、上のステージを日本のODAの仕組みに当てはめると、①~③にかかる、相手国政府の国家計画づくりを手助けするのが、技術協力というスキームで、これこそ、まさにコンサルタントが、それぞれの得意な分野の専門家集団として国際開発の分野で貢献しているところなのです。

つまり、政策の立案レベルの計画から、具体的な施設の設計、そして、上記④でいう事業の実施にあたっては、先方政府やドナーの側にたち、技術的に中立の立場で、機材やサービスの調達(これには、機材自体の入札や建設業者や商社の選定や工程管理、施工管理などを含みます)を行うのです。

たしかに、JBICの円借款事業は金額も事業の規模も大きいので目立ちますが、その事業実施の前には、上記①~③までのすべてのステップを経て実現化しているのです。そういう意味でJICAに限りませんが調査段階(国際金融機関ではTA(Technical Assistance)と呼ぶケースが多い)から特定のプロジェクトに関わっていないと、事業実施(④の段階)まで受注することは、ほとんど不可能です。

したがって、「ここ数年の円借款部分の大幅な減少にともない、JICAからの案件受注の割合が高まった。その結果として、社会インフラの相対的割合も上昇し、社会学系の知識は開発コンサルタントにとってもより重要性を増してきている。」というつかささんの指摘は、事業実施のステージという面からは、ちょっと違っていますね。

ただ現在の国際援助の潮流からみると、特に③(個別案件の実現可能性調査F/S調査・日本ではJICAが実施)と④事業の実施(日本の例では、JICAが実施促進をする無償資金協力およびJBICが貸し付ける円借款の主に2つのスキームがあります)の、いずれの過程においても、社会学系の知識や実際に事業計画自体への反映は重要で、開発コンサルタントの間では、俗に「ソフト分野」といって、各社、腕のふるいどころです。

ちなみに、いままでの俗に箱物援助(さらには、橋や病院などの、道路整備などのそして、農地整備などでの開発と細かく言い分ける場合もあります)は、「ハード分野」といっています。

11 回答(2-4) しばやん  2003/08/14 () 00:32

以前、どこかの日本の総合商社のキャッチフレーズで、「宇宙ロケットからカップラーメンまで」というのがありましたが、開発コンサルタントというものは、開発の川上(国家政策レベル)から川下(個々の事業の実施)までトータルでコーディネイトする援助の専門家なのです。

以前、「大臣からこじきまで」といったのは、そういう現実的な意味もあるのです。あるときには、背広をビシッときて国家元首と対峙し、またあるときは、作業着に地下足袋で現場を駆け巡る、そんな職業なのです。

確かに民間企業という側面はありますが、欧米では医者・弁護士・コンサルタントという専門性・倫理性の高い職業ですし、現実に世界に通用する専門知識をもった専門家を雇用するということは非常に経営的には厳しいことです。(民間であるがゆえ、すべて競争入札で、競争に勝てなければ仕事にありつけません。)

そんな体力的にも精神的にも厳しい状況で頑張っている仲間が多くいます。開発コンサルタントは、通例、一年の半年以上、海外で仕事をしています。(これは一国に限りません。同時に2、3案件をこなしている人もいます。)

ですから、家庭の問題、奥さんは日本でお留守番が多いですし、子育てや子供の教育の問題など、本人の意思だけでなく、家族の理解が大いに必要な仕事なのです。

ちょっと、こちらもリキが入りすぎましたが、コメントをお待ちしています。

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2008年12月21日 (日)

そろそろ、‘ゼロベース’で考えるときなのでは?

ということを最近考えている。

まだ考えがまとまっているわけではないので、素描程度のメモでしかないが、気になる点を数点。

1.開発コンサルタントのダイナミクスは、国家元首から市井の人々まで広く付き合うことができる点がまずあげられる。

つまり上からも下からのアプローチも取りうる。現在、開発コンサルタントの知見の活用で国家レベルや国を超えたレベルでの全体構想をコンサルティング業務に入れていこうと動きがあるらしい。

しかしながら、その前提が、「国家ありきの開発」構想でよいのかという根本的な疑問が残る。実務家の世界では、最初から業務範囲(TOR)が定められていることは必須であるし別に珍しいことではない。

ただ私が引っかかるのが、与件を与件として全部認めなくてはならないのかということなのだ。この与件とは、俗に国際世論というか世界銀行やIMFや国連が提唱しているような「グローバル」なんとかというやつである。

私は、・・・ やはりこの与件自体を洗いなおす必要があるのではないかと思う。

全ての近代科学は‘与件’というか‘前提条件’がなければ‘論理’的な思考はできないとされている。でも、その与件や前提条件が仮にも間違えていれば、いくら‘論理’を重ねたところで間違った答えしか返ってこない。

私は、この与件や前提条件を疑えと言っている。

たんなる酔狂の叫びなのか誰にもわからない。自分もそんなに確信や自信があるわけではないが・・・ たぶん、この前提条件が間違っていると感じている。

具体的な論考は、今後の「開発民俗学への途 第2部 幸福論」や「開発コンサルティングを想う」の中で徐々に取り上げていきたいと考えている。

誠に歯切れの悪い記事ではあるが、とりあえず今日はここまで。

ではでは^^?

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2008年12月20日 (土)

質問(その1) 開発コンサルタントとはどんな人が働いているの? 『対談 開発コンサルタントとは?』

以下の記事を転載します。

「質問(その1) 開発コンサルタントとはどんな人が働いているの?」

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質問(その1) つかさ 2003/08/05 () 02:10

なるほど、要はインタビュー形式みたいなことをお互いの掲示板でやろうってことですね。面白そうですね。

では早速質問。

やはり開発コンサルタントといっても、どのようなことをしているのか実際には外からみてもあまりよく分からないのが現状だと思います。そこで、まずどのような経歴の人が働いていらっしゃるのか教えて頂けたらと思います。つまり、開発学の知識をもっている人が大部分なのか(修士号などをとって)、それとも民間会社で経験を積まれた人が途上国に関心をもって集まってきているのか。さらに、理系のバックグラウンドをもっていらっしゃる方が多いと聞きますが、文系のバックグラウンドをもっている人は一線では活躍しにくいものなのか。最後にもう一つ、やはりイギリス等で開発関連の修士号をとったとしても、新卒の状態では開発コンサルタントは狭き門なのか。

ズラズラと最初から質問攻めになってしまいましたが、要はどんな人が働いてるの?ってところをまずは押さえておきたいなっと思いました。

回答(1-1) しばやん  2003/08/09 () 00:43

つかささま

いきなり本題というか、するどい質問ですね^^?

まず、そもそも日本における開発コンサルタントについて説明しますと、例えば、端的にもうしますと、国際協力事業団*1JICA)という組織がありますが、JICAに、コンサルタント登録している日本の民間法人(会社:数千名~数人まで規模をとわず)、約1,5002,000近くあります。(これらの会社の一覧は、JICA本部のJICAプラザで閲覧できます)そのうち、実際に、JICAから業務を受注している会社は150200くらいです。たぶん契約額売上の上位50社で、JICA業務の6070%を占めているのではないでしょうか。

そもそも、日本の開発コンサルタントの歴史は、第2次世界大戦前に母体を遡れる会社がいくらかあるとしても、ほとんど全ての会社が、戦後に土木建設部門の戦後復興のための公共事業、例えば、黒四ダムや、新幹線、愛知用水、名神高速道路などは、世界銀行の借款として、技術者の大きな発給もととして、農水省や建設省等のエンジニアも交えた技術者集団が、アメリカ等、先進国のエンジニアリングを学んで、卒業というか、いわば独立して民間会社としての礎を固めました。

つまり、社会公共財(インフラ)といわれている公共事業の調査・計画・設計・調達・工事監督を行ってきたのが、日本の開発コンサルタントなのです。

このコンサルタントの仕事をするためには、技術士という国家資格(現在20部門)をもった技術士が一定の基準で所属していることが必要で、つまり旧来の日本のコンサルを建設コンサルタントというゆえんです。

そして、建設コンサルタントは、ほとんど例学なく日本国内で官公庁の仕事(公共事業)の設計等を行っており、その売上の、5%~30%等、会社の余力をもって、海外事業、ほとんどが、JICAや国際協力銀行(JBIC)の仕事を行っているのが現状です。(日本のODAより競争の厳しい世界銀行などの国際金融機関や国際機関の仕事を受注できる実力のある日本のコンサルは、ほんの数十社しかないのも事実なのです。)

注:*1 2003101日より「独立行政法人 国際協力機構」となる。ただし、英語名の’Japan International Cooperation Agency’は変わらない。



さて、つかささんの質問ですが、果たして、どのような経歴の人がコンサルタントなのかは、上記をみればわかるように、そもそも論として、理系の技術者が圧倒的におおく、多分昔から修士以上の学歴の方が他の職業に比べて多かったのではないのでしょうか。多分、私の直感的なつかみですが、経理や営業や会社の管理部門のスタッフを除いたいわゆる専門家の7080%が、技術的なバックグランドをもっており、国内の公共事業で実務経験を俗に8年~10年ぐらい積んでから海外要員として、海外の開発の仕事に携わるようになってきたのが、10年ほど前までの(ある意味では今でもですが)内実であったと思います。

しかし、1992年ぐらいを境に、日本国内でも、社会開発分野の開発学関係の学部や大学院が相次いで設立され、それらの社会科学系の人たちのコンサルタントへの入社が増えてきたと思います。(それまでは、経済学や政治学系の一部の人たちが、経済効果をはじくとか、今思えば限定された部門での需要を満たすために、やはり昔から一定数の専門家は必要とされており、経済学や財政学専門のコンサルタントもあるにはありました。)

今、多分、文系の開発学系の方が想像する社会開発専門の日本のコンサルタントというのは、社会の需要の変化により、約10年から15年ほど前から、どんどん設立されてきていますが、ほとんどが小規模(数名から数十人程度)で、実力のある会社は限られているのが実情です。

最近はやりの経営コンサルタントやITコンサルタントの、日本のODA参入は、たかだかこの10年くらい前からのことではないかと思います。

詳細に入れないこともないのですが、まずは実情として、以上を報告します。

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対談 開発コンサルタントとは? (目次)

さっそくですが、歩く仲間HPの過去記事から、「対談 開発コンサルタントとは?」という記事を取り上げます。もう5年も前の記事ですが、しばやんの越し道の一端がわかるかと思いますので、よろしくおつきあいください。

なお、オリジナルの記事はこちらです。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc000.htm

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対談・開発コンサルタントとは?
(2003年7月23日~2003年9月16日:掲示板の記録)
All rights reserved by E. Shibata & T. Matsuyama© 2003-04

2004年6月1日

イギリスに留学して開発学を学んでいた“つかささん”としばやんが、お互いのHPの掲示板上で日本の開発コンサルタント業界についてトークバトルを繰り広げました。

質問内容も回答についても、たぶんに主観的なものが混じっており必ずしも統計的な正しさを保証するものではありませんが、その分、本音のトークとなったと思います。

 ただし、あくまで一例としてご覧いただけたら幸いです。

なお、つかささんのHPはこちらです。↓
『Development Studies: Hypocrisy or True Altruism』

http://members.at.infoseek.co.jp/tsukasamatsuyama/


               目 次

1.                初めてこの対談を読む方へ  (転載略)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc001.htm

2.                対談者略歴           (転載略)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc002.htm

(以下の3~17.の内容を、このブログに転載します。)

3.                開発コンサルタントとは? しばやん 2003/08/05

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc003.htm

4.                質問 (その1) つかさ  2003/08/05

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc004.htm

5.                 回答(1-1) しばやん  2003/08/09

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc005.htm

6.                 回答(1-2) しばやん 同上

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc006.htm

7.                質問 (その2) つかさ  2003/08/10

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc007.htm

8.                 回答(2-1) しばやん  2003/08/14

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc008.htm

9.                 回答(2-2) しばやん  同上

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc009.htm

10.          回答(2-3) しばやん  同上

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc010.htm

11.          回答(2-4) しばやん  同上

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc011.htm

12.         質問 (その3) つかさ  2003/08/18

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc012.htm

13.          回答(その3) しばやん  2003/08/20

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc013.htm

14.         質問 (その4-1) つかさ  2003/09/02

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc014.htm

15.         質問(その4-2) つかさ  同上

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc015.htm

16.         質問(その4-3) つかさ  同上

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc016.htm

17.          回答(4)(無事のお帰りを!) しばやん  2003/09/16  (転載略)

18.         対談を終えて しばやん 2004/5/10  (転載略)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc018.htm

19.         対談を終えて つかさ 2004/5/23  (略)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/ondc019.htm

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主に対談の実際のやり取りの部分を、このブログに再掲させていただきたいと思います。非常に的確かつ鋭い突っ込み(質問)をしていただいたつかささんに改めて感謝の意を表したいと思います。この質問がなければ、このような記事の展開にはなりませんでした。

同じような疑問をもっている人たちにとって、非常に参考になるのではないかと思います。

ではでは^^?

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2008年12月19日 (金)

ぼくたちの「未来日記」 ~ 開発コンサルティングを想う ~

というコラムを新連載します。

「開発コンサルタント」という生き方に関して今思うところを書き綴ろうと思います。

思えば大学卒業以来16年間、日本の政府開発援助の世界で働いてきたわけですが、その経験をふまえ、日本と世界の未来を語る、これからの開発コンサルティングを語るコラムとします。

思えば地域研究の世界から、まさにアラビアンナイトを原語で読むというような幻想的な世界から開発援助業界の只中に、なんの心の準備もないまま飛び込んで右も左もわからずに突っ走ってきましたが、会社内外の諸先輩方、よき同僚よき仲間に恵まれて、東方西走に世界を飛び回るチャンスを与えていただきました。

今は地元に戻って、マリン業界で新たな天地を開こうとしておりますが「コンサルタント」という生き方について常に考えていきたいと思っております。

このコラムでは、今までに私が書いてきたエッセイの再掲載も含め、未来志向の「開発コンサルタント」論をみなさまと共有していきたいと思います。

今後とも引き続きご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

ではでは^^?

P.S.

当然のいわずもがなのことですが、守秘義務規定に抵触するような記事を書くことはありえません。暴露的な記事を期待されても全く無駄です^^?

ただ、「失敗学」の考え方を援用するならば、なぜうまくいかなかったかという例をとりあげる可能性はありますが、特定の個人やプロジェクトを取り上げないように十分に気をつけるつもりです。

われわれが考えるべきは、、何をやってはいけない(いけなかった)のかと、何をこれからすればよいのか、行動や考えるにあたって、どこに気をつければよいのかというシンプルなことだけです。

他人の誹謗中傷をするつもりもありませんし、逆に受け付ける気もありませんので、その点はよろしくご了承ください。

ではでは^^?

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2008年12月17日 (水)

わたしのウインド初体験(ウインドウズではありません)

もう11年も前になりますが、前の会社の社内報に書いた記事です。わたしの「海洋民俗学」はあくまで自分の体験や経験から語り綴ろうと考えています。

よろしくご笑覧ください^^?

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平成9年(1997年)11月12日

わたしのウインド初体験(ウインドウズではありません)

11月X日(日曜日)、横須賀線快速電車にゆられながら、そういえば初めてウインドサーフィンをやったのは、一昨年(1995年)だったなあと思いおこしていた。

 大学時代、体育会でヨットをやっていた。東京で勤めだして3、4年目であろうか。そろそろ仕事や生活にも慣れてきたが、なにか物足りないなと思い出したとき、友人から逗子海岸の或るウインドサーフィンスクールに誘われた。

 一昨年は、11月に、一日体験コースでおもちゃみたいなセールで水辺をまっすぐ走って終わり。去年は、結局、春から秋まで10回ほどスクールに通ったのだろうか。(夏には逗子海岸に海水浴にきているおねーちゃん達をしり目に、海水浴場の端っこで集団でスクーリングを受けていたのを思い出す。)そして、今年の8月に、念願の自分の道具を購入した。

 ここで、なぜ僕は海が好きなんだろうと考えてみると、「自然にいじめられる快感」を知ってしまったからではないかと思った。原体験としてこんなことがあった。

 ヨット部1年のオフ直前11月に、初めて先輩と小さな2人乗りのヨットでレースに出場したときのこと。なんどか沈して(ヨットが横転すること)びしょ濡れになったレースの後、涙だか鼻水だかをながしつつ、吹きっされしの雨まじりの海上で冷たい昼飯を食いながら、ふと「僕は誰に泣かされているのだろう」と考えた。それは、自分でも先輩でもなかった。まさにその時、「自然にいじめられること」を知った。そのことは、「人から」いじめられるのと違って全然悔しくなかった。

 海と言ってもほんの水辺で遊んでいるだけで外洋は知らないし、山のことも知らないけど、自然相手のスポーツとは、きっとそれが楽しいのではなかろうか。「自分」との闘いという人もいるけど、人知や体力の及ばない世界があることは否応ない事実だし、自然との「闘い」というと、ちょっと違うような気がする。

 ともあれ、水と風さえあればどこでもできるスポーツなので、興味のあるひとは、ぜひ一緒に遊びましょう。(ヨットも可)

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(2008年12月17日 付記)

残念ながら既にウインドサーフィンの道具も手放してしまっていますが、手元にはスクールで受験させてもらったウインドのバッジテストの認定証があり、また経験としてわずかな期間ではありましたが習ったことを体が覚えている(はず)です。

また田舎に戻ったのを機会に、マリンな生活にも近々復帰できそうな気がしています。

ではでは^^?

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2008年12月15日 (月)

海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。

200492

 海への憧れ-海は隔てるものではなく、つなげるものである。

 

<アジア島嶼部研究のダイナミズム>

フォト:フィリピン・ボラカイ島http://homepage1.nifty.com/arukunakama/y2005.htm

海から陸地を見てみると

もう10年以上も前に、たしか大学時代の何かの寄稿として既に書いた覚えがあるのだが、残念ながら原稿をなくしてしまったので、思い起こす限りで以下に再現してみる。

「海には道がない。今まで、海は人を隔てるものだと考えてきたが、家島彦一先生のインド洋世界のダウ船についての講義(注)の中で「海は人を隔てるものではなく、つなげるものである。」という話を聴いたことと、実際にヨット部活動を行う中で、本当はどうなのだろうかという疑問が湧いてきた。

ヨット部では、ディンギーという二人のりの全長5メートルかそこらの小さなヨットでレース競技の練習をしていた。板一枚下は海という状況でセーリングをしながら海から陸地をみてみると、そうだ確かに、海には陸上の道路みたいな構造物としての道はないかもしれないけど、ちゃんとそれぞれの大きさの船が通る道やルールがあるではないか。

しかも港へは原則、海からしかアクセスできないということに気が付いたとき、先の家島先生の言葉が胸にすとんと落ちた気がした。港は陸の道からしてみれば終点なのかも知れないが、海の道ではスタート地点(始点)なのだ。広大な海の向こうには、まだまだ未知の世界が待っている。世界の国々は海というものを隔ててつながっているのだ。」

確か、ヨット部の部報への投稿であったと思うが、海から陸をみたときに感じた既存の道に縛られない自由さ、陸地にしか道がないと思っていたら、実は、海にも道があることを知った時の感動と、そのような海の道について、丹念に掘り起こして研究をしている人がいることは、その後も、ずっと頭の片隅にへばりついていた。

注:東京大学東洋文化研究所の板垣雄三先生を中心に日本のイスラームに少しでも関係のある研究者を総動員して行われた『イスラームの都市性』という文部省重点領域研究に絡んで、1990年の夏休みには東大で1週間のサマースクール、1991211日に『大学と科学』公開シンポジウムとして『都市文明イスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』というセミナーが行われた。サマースクールについては、特にまとめられていないが、公開シンポジウムの記録は、非常に多様な問題点と最新の学問成果がコンパクトにまとめてあり、書店では手にはいりにくいが、極めて貴重な記録である。残念ながらこの感銘を受けた家島先生の講義がサマースクールの時の話しだったかセミナーだったか、覚えていない。しかし、確か2回とも家島先生の講義はあったはずなので、その両方ともが相まって自分の頭に染み込んだのであろう。

 5回「大学と科学」公開シンポジウム組織委員会編 『都市文明とイスラームの世界 シルクロードから民族紛争まで』 クバプロ 1991

また、19905月に関西大学で、日本中東学会の全国大会が開催されたこともあり、大阪の大学ではいたが、比較的、関東を拠点に活躍されている先生方にも多く知り合う機会を得ていた。自分自身、よく東京へも通ったものだとは思うものの、当時の池田修アラビア語科教授をはじめとする多くの先生方のお誘いがあってのことである。

その他、多分当時にあって、非常に多くの先生方にお会いして知見を広めることができたのは、『地球環境論』を企画いただいた神前進一先生や深尾葉子先生をはじめとする大阪外国語大学の諸先生方のおかげである。あらためて感謝いたします。

大阪便り[008]<http://homepage1.nifty.com/arukunakama/o0008.htm及び地球環境論<http://homepage1.nifty.com/arukunakama/h000.htmの項も参照ください。)

フィリピンにて改めて海を考える

 さて、フィリピンに住みだして約5ヶ月がたつ。フィリピンは日本国土の8割の面積をもつと大小7000もの島からなる東南アジアの代表的な島嶼国家だ。確かに、アジアの島嶼部での仕事についたのは、2001年の東チモールが初めてだが、1992年にヨット部の仲間とタイからシンガポールまで卒業旅行で周ったときから、海とそこに暮らす人たちに関心を払ってきた。特にプーケット島で初めて感じた南の海の美しさは本当に忘れられない。

大学時代に淀川の河口で下水みたいに汚れた海でヨットを練習していた身としては、南国そのもののヤシの木と白浜を見た日にはまるで別世界かのように思えた。しかしながら、ほんの100年前までは、日本も世界有数の美しい浜をもつ島国であった。

陸地を海から眺めてみると何がみえるのだろう。どう考えても大陸の陸続きの国々と海に浮かぶ島々の社会構造は全く異質のものに思えてくる。地球の7割が海であるというのに、(くしくも人間の体の7割は水分である)私達は、その存在をあまりにぞんざいに扱ってきたのではなかろうか。

 フィリピンにきて早々に鶴見良行氏の『東南アジアを知る』という岩波新書を読み返してみた。もう5年ほど前に読んでいたはずだが、今回は、なぜか印象が全く違って迫ってきた。アメリカの国籍をもち東京大学の法学部という学歴を持ち、国際文化会館の企画部長という西欧のエリートと日常的にやり取りする立場にあったはずの鶴見氏は、1965年にべ平連の運動に参画するアジアを意識するようになる。

彼は、1970年に44歳からこのフィリピンからアジアを本格的に歩きだしたといってよい。彼が最初に取り上げたバタアン州のマリベレス保税(輸出)加工区(ここは、くしくも太平洋戦争時のバターン死の行進の出発地点でもある)やスービックの米軍基地跡地については、実は私も実際に休みに行って来た(通った)ところではないか。岩波新書で1982年に出版された『バナナと日本人』の舞台のミンダナオ島なんて会社が長年、仕事をしてきたところではないか。実際、私も7月に1週間ほどダバオとコタバトと現地調査に行ったばかりだ。

「鶴見さんが歩いた道を、30数年後に自分も歩いている。」何かそんな気がして、鶴見氏の存在自体がとても他人事ではなく思えてきた。

その気で手元の本を読み返してみると、「歩く仲間」の大先達として尊敬する、宮本常一氏も日本史家の網野善彦氏も最終的には海から日本や世界を見つめ直そうとしている。網野氏本人が、宮本氏と鶴見氏にかなり近いところにいたことは、『歴史と出会う』という新書にふれられている。

さらに傑作であったのが、鎌田慧氏が、1984年に『アジア絶望工場』というルポルタージュの中で、「《特別対談》アジアの民衆と日本人」というタイトルで、鎌田慧氏と鶴見良行氏が対談を行っている。しかも、その話題の中で、鶴見氏が、東京外国語大学の三木亘先生から、家島彦一先生のダウ船の論文をもらったなどと話しており、私は思わずうーんと唸ってしまった。私の尊敬する5名(Giant Stepsを参照)のうちの3名がすでに1984年の段階でクロスオーバーしている。もう20年以上も前である。まるで関係のないような分野の人たちでも、なぜか互いに惹かれあうものがあったということであろう。私の人間関係にとっても、まるで別々のルートで知った人たちが、実は、私などが知る数年も前から知り合いであった。本当に、人の縁の不思議さを感じる。家島彦一先生とは、1990年頃に、鶴見良行先生とも、1990年にはじめて、全く別の場所でお会いしている。(「歩きながら考える008」および「地球環境論」の項目を参照。)

それはともかく、今回、しばやんの本棚に「フィリピン・アジア島嶼部関係」という項目を新たに設けることにした。東チモールからたまたま入った東南アジア島嶼地域の世界。天の意思というか、まったくこれまでパズルとも思っていなかった断片断片が、今になって急速にパズルとしての全体像を結ぼうとしているような気がする。当然、まだまだ欠けている断片があるのは当然のことだが、それは今度のお楽しみということで。

しかし、フィリピンに駐在になって、仕事としては、全くイスラームから離れてしまうのかなと、実はちょっとがっかりしていたのも本音だが、まさかミンダナオ島のイスラーム教徒地域の開発というテーマで、まだまだ新たにイスラームにかかわりあうことになるとは。本当に天の配材というか、塞翁が馬というべきか、まさに‘海’がつないだ‘縁’としかいいようがない。

私は、海の人と山の人と平地の人は、かなり違った価値観をもって生きてきたし実際に今でも違うのではと感じている。別のところでも書いたが、マニラというかフィリピンのあちこちで見かけるマリア像と海の関係など、非常にいろいろな疑問やなぜがいっぱいで、本当に見るもの触れるものが新鮮で、本当にわくわくしている。特に{宗教と開発}の関係について、多分みんな重要と感じてはいるだろうが、具体的なモノグラムとしての経験なり体験を踏まえた研究はまだまだ世にそれほど多くないのではなかろうか。

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東チモールでの経験 なぜ彼らはポルトガル語を公用語にしたのか?

また、ちょっと脱線するが、東チモールが1999年のインドネシア軍と民兵による騒乱の後、国連の暫定政府の統治下におかれたのだが、その後の独立する際に、何語を国語とするのかで、援助にかかわる外国人の中でも大変話題になったことがある。

東チモールは、日本の長野県とか本当に県ほどの面積しかないチモール島の東半分と西の飛び地の部分が領土で、西側は西チモールとして依然としてインドネシアの領土下にある。

15世紀頃から、東南アジアの島々はスペインとポルトガルによって植民地とされてしまう。今のインドネシアの大部分はオランダの植民地、このチモール島のまさに東チモールの部分のみポルトガルの植民地であった。オランダの植民地であったインドネシアは、海上貿易という商業活動によりイスラーム化していくが、このチモール島はポルトガルの影響で、キリスト教、カトリックでありつづけた。

さて、われわれが調べたところ、この東チモールの部分だけで50近くの地方言語があり、そのうち主要な言語は4つあるといわれている。したがって、1975年以前のエリート層は、ポルトガル語を話す。部族語というか民族語を除けば、ポルトガル語が文明語というか公用語といっていいだろう。しかし1975年にポルトガルが植民地としての東チモールを放棄した際に、東チモールのある政治勢力は、一旦、独立を果たそうとするが、インドネシアに武力併合されてしまう。そのポルトガル語の教育を受けた独立派の指導者達は、モザンビークなど他のポルトガル語圏の国に亡命していく。今回、独立にあたって初めての大統領に選ばれたサナナ・グスマンは、この典型的な例である。今回選ばれた政治リーダーの多くはポルトガル語のわかるエリート達であったのだ。

そして、インドネシアは新たに国土とした代わりに、懐柔政策として、徹底的なインフラ整備と補助金による農業支援(これは農作物の流通も含む)や、若い人材のインドネシア人かを図る。これは、優秀な学生をインドネシア本土たとえばジャカルタやスラバヤに留学させることによって、親インドネシアのリーダーを育てることが目的だ。したがって、1975年以降に生まれた今の若い世代にとっては、インドネシア語が国語であったといってよい。

そのような複雑な歴史的な経緯があったため、国連の暫定統治政府は、英語、ポルトガル語、インドネシア語、ティトゥン語(4つの主要言語のひとつ)の4ヶ国語を公用語として、すべての公文書を4つの言葉で作った。これはまた大変なことであったのだが。

2002522日に国連暫定統治下の3年間の国家建設というか復興の助走期間を経てようやく独立するわけであるが、その際に、一番の話題になったことのひとつに、国語を何語にするのかという問題があった。当然、主権国家なのでチモールの人びと自体が決定すべきことであるが、外国人の援助関係者の間でも、非常に話題となった。

ところでこの3年間の復興期には、国連等国際機関の外国人専門家やプロジェクト関係者目当てに、主にインドネシアのスラバヤ商人(中華系も多く、華僑も含まれる)やシンガポール系の華僑、オーストラリア人が国連景気を充てにして大挙して首都であるディリに押し寄せた。復興成金といってもよい。彼らは、本当にずる賢いといってよいのだが、復興期の数年、例えば3年や5年で元がとれるような商売のやり方をしたのである。最初から、居着いて復興に尽くす気はさらさらない。国連の外国人職員の外貨(ドル貨)だけが目当てなのだ。彼が、外国人が引き上げれば、残された東チモールの人びとは、とても高価な車やパソコン等、最先端の消費物資を買えるわけがない。ともあれ、国連統治下には、ドル貨が唯一の通貨として利用されていた。

さて、国語制定問題に戻るが、援助関係者は、やはりインドネシアとの今までの経緯から言うと、インドネシア語の利用価値は未だに十分あるわけだが、国民投票をして独立を決めたという経緯上、特にその後にインドネシア軍と民兵に、町々のインドネシア時代の社会基盤を散々に破壊された経緯上、インドネシア語は絶対に国語にしないだろう。また経済上の隣国のオーストラリアや英語経済圏との結びつきを考えれば、やはり英語だろう。まさかポルトガル語ではあるまい。ティトゥン語は、主要言語のひとつといっても、当時でも人口の40%にも満たない人しか利用していないではないか、などとうわさをしていた。

果たして、東チモールの人たちは何語を選んだのであろうか。結果は、ポルトガル語とティトゥン語の2つが公用語と制定された。まさに援助関係者の外国人当然、私達日本人も含むがえーといった感じだが、その後、自分で考えてみて、このようなこともいえるのではと思った。

「そうだ、カトリック教徒である彼らにとっては、やはりポルトガル語しかない。なぜならば、お墓がすべてカトリックのキリスト教徒の名前でないか。その人名の多くは英語のアルファベットにはない、いわばポルトガル風のカトリックの名前が多いのだ。これは、先祖の墓参りにいくときに、アルファベットの名前がない言語を使うのは、やはり嫌だろうなと。」

これは、ディリから現場に向かう道沿いにある村むらの墓地をみて思ったことである。また、ここでも海のマリア信仰がある。そもそも、これらのアジアの島々には女性の海の神様に対する信仰があったのではないのだろうか、それにキリスト教のマリア信仰が乗っかっただけではないかという仮説もなりたつのではないか。このことは、フィリピンでも見られるので、今後の課題として調べてみたいと思っている。

多分、国語制定理由に関する常識的な考え方は、先にも述べたことだが、大統領をはじめとする指導者層がポルトガル語の教育を受けているからということと元宗主国であるポルトガルとのさまざまな外交上、文化上のしがらみからというのが普通に考えられる理由であろう。しかし私は、上記の「墓参りに困る」などという普通の人々の心情的にも英語を公用語として使うのは、抵抗があったのではなかろうかとも思う。

しかしまあ本当に一番かわいそうなのは、この国の未来をになうべき子供達である。今までインドネシア語で教育を受けていたのがいきなりポルトガル語になってしまったのだから、この教育の現場の混乱は察するにあまりある。現地の話によると小学5年生以上の学童が一番辛かったらしい。この学年以上は、ある程度の知識をインドネシア語で学習してしまったからだ。しかも国連の暫定統治下では、生活手段としての英語、実際にちょっと英語ができるだけで国際機関の外国人相手の仕事が、少なくとも首都のディリでは突然ふってわいたわけだから、ちょっと目鼻のきいた若者の英語の学習熱は非常に高まったらしい。それが、また27年も前に、インドネシア語の前に教えられていたポルトガル語に、また戻ってしまうとは。

 これを一家族の中でもいうと祖父や祖母はポルトガル語、今3040歳代の若いお父さんお母さんはインドネシア語、これから小学校に通おうとする子供はまたポルトガル語(実際、ほんの数年前までは現地語とインドネシア語で生活していた)で教育を受けるという非常にねじれてしまった状況になっている。これは、国家という枠組みが変わるという事が、どれほどそこに住む人々の生活に影響を与えるかという、ひとつの研究課題といってもよいであろう。国家と言葉の問題については、田中克彦氏の一連の著作が参考になろう。

宗教と社会との関わりを考える

しかし、宗教と社会とのかかわりって非常に強いものであることを、このフィリピンにきても、いろいろなところで感じる。特に地方にいけば言語も違い、その多様性については以前より多く語られてはいるが、宗教規範の社会への影響は、もう少し社会を緩やかに結び付けているのではないかと思う。つまり言葉が少しぐらい違っても宗教が違うことによる違和感よりはそれぞれの人間関係における影響が小さいのではないかと思うのだ。あくまで仮説ではあるが。

「宗教と社会との関わり」というテーマは、もっともっと援助の現場で考慮されるべきではないか。また隣国のイスラーム教徒の多い(88%)インドネシアのことも調べてみたら非常に面白い比較ができるだろうなと思っている。

ともあれ、現場を歩くことの面白さ、勉強の面白さって、やはり自分の知らない世界を新たに知ることの‘わくわく感’にあるのではなかろうか。

かといって、やたらに歩くだけでもいけない。問題意識をもたないと。例えば、ミンダナオ島のダバオにある博物館をみても思ったのだか、先住民ほど山奥に追いやられる傾向がある。それも、鶴見良行さんの「バナナと日本」を読んでいたから気が付いたことだ。

現在を歴史の中で捉えること。歩く学問は、ただ歩くだけではいけない。ちゃんと前後左右をみて、さらに時間軸を押さえたものでなくては。

さて、より具体的ないろいろな世界の“人”たちに近づくために、しばやんと一緒に、いちど海から世界を見てみませんか。

<補筆>

 これまで、しばやんの個人的な関心からのみ海の世界を論じてきたが、2000年より岩波書店から「海のアジア」という6巻のもののシリーズが出版された。これは、上記の家島彦一先生や、上智大学の村井吉敬先生(鶴見良行先生と一緒に歩いた仲間)のみならず、近代中国史の濱下武志先生(京都大学東南アジア研究センター)、人類遺伝学の尾本惠市先生(桃山学院大学)らが中心になって、「二十一世紀の新しいパラダイムといった場合に、国民国家を海から見た場合に、果たしてこれでいいのか」という問題意識を元に、「「中央がつくり出す正しい歴史観」」に対するいわばひとつのアンチテーゼというか実際に海という現実のフィールドからの発信を行おうとする野心的な企てである。私自身、まだ第1巻しか入手していないが、これから海から世界を見ようとする人にとっては、このアンソロジーは最新の学問的成果という意味でも、ひとつの出発点として非常に参考になるのではないかと思う。

 この項了。

(参考)

本文で触れたお勧めの本

 網野善彦 『歴史と出会う』 洋泉社新書y 2000

 鎌田慧 『アジア絶望工場』 講談社 講談社文庫 1987

 鶴見良行 『バナナと日本人』 岩波書店 岩波新書 1982

 鶴見良行 『東南アジアを知る-私の方法-』 岩波書店 岩波新書 1995

 シリーズ『海のアジア』 岩波書店 20002001 

その他の関連本については、「しばやんの本だな」「フィリピン・アジア島嶼部関係」の項をご覧ください。

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2008年12月12日 (金)

第8講: 残された課題と展開の方向性 <第1部 完結>

第8講:残された課題と展開の方向性

2007429

2000715日に筆を起こして、結局、ほぼ7年間にわたって講座を書きついできたが、一旦、筆を置くこととしたい。当然、私の開発民俗学への途は続くわけであるが、当初想定していた目次に立ち返り、何が原因で執筆が止まっていたのかを検証するとともに、今後の残された課題と展開の方向性を述べたい。

第8講 ‘開発民俗学’を考える100冊 (道具箱=ブックガイド)

<今の時点での総括と今後の展望>

当初の構想としては、前半部で、開発学にはじめてふれる方に対して、まず現場からの問題の立て方を紹介しようとした。まず現場に立つこと(開講にあたって、第1講)、そして、「開発」を考える際に、主に2つのアプローチがあることを紹介した。一つは、開発経済学に代表される社会科学的なアプローチであり、また一つは工学的な科学・技術的なアプローチである。一見、違った入り口にみえ、ソフトとハードという違った事象を扱っているようにみえつつも、実は両方とも「近代科学」に基盤をおく、ひとつのイデオロギー(パラダイム)に則ったコインの両面であることを指摘した(第2講)。第3講では、この近代科学という専門知識をもった「専門家としてのバイアスめがね」を一旦置いておいた上で、現実をどうとらえるのかについて言及した。ここでは率直に、科学的なデータと現実世界(現状)の乖離について問題意識を提起した。第3講の補論では、民俗学の視点を紹介した。引き続き、第4講では、開発学研究入門として基礎的な方法論について言及した。ここでは、社会学を中心とするリテラシーと調査・研究方法、情報処理論、フィールドワーク論、開発学の基本的なリファレンスとその使い方の手引きを紹介した。

ここで、基本的な文系の学問の作法というかリテラシーについて、ある意味、紹介しきってしまっている。第5講と第6講では、なぜ、わたしが「開発民俗学」なるものに関心をもつようになったのかを語った。第7講では、日本における“人類学(民族学)”と“民俗学”の現状について主に文化人類学の教科書を比較することにより報告した。当初、想定していた民俗学と開発との関係については言及できなかったため、それを第8講の課題とした。しかしながら、第7講でも触れたようにそれは、民俗学の範疇のみにとどまるものではないため、一旦、この講義とは別の形でふれることとしたい。

第9講 貧困の定義を考える (社会福祉と開発・援助の間にあるもの)

<今の時点での総括と今後の展望>

開発や援助を考える際に、‘貧困’をどう捉えるかという根本問題にぶち当たる。そもそも論であると言ってもよい。この講義では、NGOや社会福祉論が考える‘貧困’概念と、今まで開発・援助の世界で言われてきた‘貧困’概念についての比較検討を当初、想定していた。

現在、開発を考える際に、‘NGOの役割’は軽視することができなくなってきている。また‘宗教共同体として受益者の共同体をとらえること’や、社会福祉論にいう‘セーフティネット’という考え方の援用が必要となってきた。

NGOが多く唱える‘人間としての共感’論とか‘開発支援’という考え方は、実は開発援助の特にODAの世界ではあまり重視されてこなかったと思うし、厳密にいうと出自を別にしていたのではないかと思われる節がある。実際には最近のODA関係者や開発をめざす若者はNGO活動を通じて途上国に関心をもったり、そのNGO的なマインドを十二分にもっていることは当たり前でもあるが、その根底となる考え方や行動原理はずいぶん異なるものであった。

NGO論については私の専門ではないが、実務上の必要や個人的な関心より、2000年以前より、個人的に日本のNGOの方々と接触するようになった。その中で感じたのは、NGOの基盤は、そもそもミッション(社会的な使命感)が創立の動機となっていることと、キリスト教や仏教などの宗教的なバックボーンをもったいわば宗教的な慈善団体を発祥とするものが意外と多いことに気がついた。そもそも宗教とは全体的なもので、経済・政治・あらゆる人間生活を規定し共同体としての一体感を求めるものである。わたしも開発における宗教の役割と重要性については、すでにいろいろなところで言及している。それはさておき、開発を考えるのに、当然対象受益者に向かい合うのに、この宗教・共同体として理解することが必要不可欠である。また、援助や支援をする側のNGOを、ミッションによる共同体(実際は、もっと緩やかなつながりである場合が多いが)と捉えることもできる。

つまり、NGOや地元の受益者をミッション共同体としてとらえること、その共同体の理念の中にある貧困問題への社会的な対応を考えることは、社会福利論と非常に重なるところがある。

そのような問題意識から、NGOとの対話、社会福祉の立場からみた開発へのコミットについて研究をすすめようとしていた。その過程で、2003年頃から、特にセーフティネットと貧困をどう社会福利論の立場で考えているのか、実践に生かそうとしているのかについて解き明かそうとした。

しかしながら、今の時点で社会福祉論自体に、わたし自身が物理的に深入りできないので、読者に対して私の問題意識を上記に示し、今後の手がかりとなるであろう教科書をここで示すこととする。(*未読)

○ 庄司洋子・杉村宏・藤村正之編集 『貧困・不平等と社会福祉』(これからの社会福祉②) 

有斐閣 1997 *

○ 岩田正美・岡部卓・清水浩一編 『貧困問題とソーシャルワーク』 

(社会福祉基礎シリーズ⑩公的扶助論) 有斐閣 2003 * 

○ 古川孝順、岩崎晋也、稲沢公一、児島亜紀子 『援助するということ 

社会福祉実践を支える価値規範を問う』 有斐閣 2002

また、社会福祉分野の研究を進めるのに道先案内として、以下の本も上げられる。

○ 平岡公一、平野隆之、副田あけみ編 『社会福祉キーワード[補訂版]』 有斐閣 

有斐閣双書キーワードシリーズ 2003 (初版1999)

特に、日本でも高齢化社会の進展や、いじめ社会にたいする関心の高まりなどから介護や福祉系の仕事や学部に人気が高まっているようで、1990年代の後半から非常に多くのシリーズや教科書が出版されているようである。そういう意味で、今の若者は、これらの切り口から開発援助や開発支援を考えてくるのに違いない。*

それは、それで非常に好ましいことで、経済効率や短期的な視野に陥りがちな今の援助業界の閉塞性を打ち破ってくれるひとつのきっかけになるのではないかと思う。社会福祉の問題は、社会開発や教育開発の問題とも重なり合ってくる。‘開発民俗学’を考える際に、この社会福祉論の知見は必須であると考えられる。この方面での思索と研究は今後も続けていきたい。

*:昨日(2007428)、たまたまグーグッていて今、大学一年生となった女性のブログをみたのだが、開発‘支援’という言葉を使っているのをみて非常に驚いた。これは、開発援助ではなく開発支援という言葉を使うということは、哲学的にも非常に大きな意味があると思う。全然、違うパラダイムで若者は動こうとしているのかもしれない。

10講 誰のための開発?(内発的発展論から参加型開発へ)

<今の時点での総括と今後の展望>

この講義では、1990年代から日本の援助業界、特にNGO活動の理論的バックボーンとなった鶴見和子や西川潤らのいう「内発的発展論」と1990年代に大幅な進化を遂げた「参加型開発論」について、自分なりのその連関と今後のその発展可能性について整理を試みようと考えてこの講を置いた。しかしながら、現実の援助業界の動きの激しさに巻き込まれて落ち着いて考察する時間がなかったこと、すでにビックネームがいろいろな総括をしているので、あえて私がこれをする必要性が薄れてきている気がする。

また、そもそも学界も実業界も、さまざまな概念がぶつかりあって、時には融合して社会の大きな潮流をなっている。たとえば、ビックネームとして、鶴見和子、西川潤、原洋之介、池本幸生、ロバート・チェンバース、アマルティア・センが上げられるのはもちろんであるが、今の国際開発学会の先生方でも、少なからず上記の2つの潮流の影響を受けたうえで発言や論文の執筆を行なっていることであろう。つまり、今の若い学生諸君にとってはあたりまえすぎる言葉であるかもしれない。

逆に、私自体は上記の論者の本をほとんど読んでいないし、直接に影響を受けたと思っているわけでもない。つまり、この点でこの項を書くのに私は不適切であるかもしれない。

しかしながら、これらの概念につらなる1980年代から90年代の学問的な潮流の中で、多くの日本人の第一線の実務者・研究者に接する機会があり、実際に、彼らは間違いなくその潮流の中におり、互いに影響を与え合っていた。私としては、鶴見良行氏、片倉もとこ先生とか家島彦一先生とか鎌田慧氏らのフィールドワークを実践する人たちの現場感覚と、‘内発的発展論’と‘参加型開発’という理論とどうクロスオーバーするのかという観点での私論は展開できると思う。

その面で、引き続きフォローしたいテーマではあるが、少し旬を逃してしまった感があるので、また別の切り口で勝負をしたい。

11講 ひとびと(現地の人と専門家と第三者(市民))をつなぐべきもの

12講 ‘開発民俗学’のめざすもの ~Over the Rainbow 新たなる挑戦~

 <今の時点での総括と今後の展望>

10講までに上記のような検討を行った上で、自分としての‘開発民俗学’のめざすものを展開するのが、第11講と第12講である。

タイトル自体は悪くないし、今の段階でも暫定的なことがいえるのかもしれないが、まだまだ時期尚早であるという気がしてきている。

多分、私のいう‘開発民俗学’は、かなり開発倫理学に寄ったものとなるであろう。

しかしながら、今まで強調していたことは、A.いかに現状を認識するかに関して、‘フィールドワークの技術’や ‘リサーチメソッド’などの方法論にも配慮が必要なこと、B.様々な‘既存知’を縦横に利用する必要性があること、C.細かい細分化して分析することも必要ではあるが、本当は全体として捉える‘ホーリスティックなアプローチ’が必要であることの3つで、主にテクニックや心構えといった初歩的なことであった。

これらのことについては、実は第7章までにそのエッセンスを語りつくしている気がしている。つまり今の私のレベルで他人に示せるものは出し尽くしたといえる。バリエーションはあれ、基本的に考えかたは変わらないし、歩く仲間HPの他のページでも同じ問題意識にもとづき実例やその理論(まで至っていないけど)の検証を積み重ねようとしている。

すでに必要な道具はお渡ししました。あとは実践あるのみである。

ということで、『開発‘民俗’学への途 (第1部)』を完結させていただきます。

第2部では、第1部での積み残しやその後の実践を踏まえた上で、次のステージ、‘21世紀のパラダイム論’にまで踏み込んだ考察を行ないます。

ここまで、長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。特に、これから開発や援助を考えてみたい人や、実際に実務者を目指す人のツール箱の一つとしてご活用いただけたら幸いです。

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2008年12月11日 (木)

第7講:日本における開発と“人類学(民族学)”と“民俗学”

7:日本における開発と“人類学(民族学)と“民俗学”

2005531日 着手 / 2007218日 完成

この講では、私の提唱する開発民俗学を、日本の学界のどこに同定するかについての試論を述べたい。まず二つの断りがある。これは、‘日本における’と前もって断わっている理由は、欧米の応用人類学(Applied Anthropology)の一部として確立しつつあるとみられる開発人類学(Development Anthropology)とは別のものとして本稿を扱うのではなく日本における‘二つのミンゾクガク’の範疇で、日本の研究者の問題意識と‘開発人類学’の現在を押さえておきたいからである。

1.日本における文化人類学の守備範囲

まず日本における文化人類学の教科書を比較してみた。日本における標準的な教科書って一体なんだろうと考えると意外にこれ一冊で完全というのは少ない。そもそも一つの学問分野の構成を概観するというのは非常に難しいことではあるし、学問は日々どんどん細分化し進化している。結局、項目的に広く押さえているものとして、祖父江孝男の『文化人類学入門』(初版1979、増補改訂版1990)が一番、網羅的であるということがわかった。

祖父江孝男 『文化人類学入門 増補改訂版』 中公新書 1990(初版1979の目次立てによるAE5冊のテキストの目次・内容の比較表 筆者作製(2005

<元のHPを参照ください。http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r007.htm >

ここでは、この詳細にたちいることはさけたい。ただ言えることは、これらのオーソドックスな教科書からは、なかなか現在社会と切り結ぶ文化人類学というところまでなかなかたどり着けないことだ。

したがって、特に、これから文化人類学の世界に触れようとする初学者の人については、上述の祖父江『文化人類学入門』と、1990年以降の研究の成果を知るためのショートカットとして、以下のキーワード集を手元に置くことをお薦めしたい。 

山下晋司・船曳建夫編 『文化人類学キーワード』 有斐閣 有斐閣双書KEYWORD SERIES 1997

綾部恒雄編 『文化人類学最新術語100』 弘文堂 2002

2. 開発の人類学を正面にだした論文集

 ここで、「開発人類学」、「開発の人類学」をタイトルにした論文集を概観する。

 岩波講座 『開発と文化』 岩波書店

 青柳まちこ編 『開発の文化人類学』 古今書院 2000

 足立明「経済2 開発現象と人類学」 米山俊直編 『現代人類学を学ぶ人のために』 世界思想社 1995

 前川啓治 「開発の人類学」 綾部恒雄編『文化人類学最新術語100』 弘文堂 2002

→参考文献 前川啓治 『開発の人類学―接合から翻訳的適応へ』 新曜社 2000

 Gardner, K and D. Lewis, Anthropology, Development, and the Post-Modern Challenge, London: Pluto press, 1996

 栗本英世 「開発と文化-開発は誰のために行われ、その社会・文化的影響は難だろうか」 山下晋司、船曳建夫編 『文化人類学キーワード』 有斐閣双書 2001

→参考文献 岡本真佐子 『開発と文化』 岩波書店 1996

佐藤幸男 『開発の構造-第3世界の開発/発展の政治社会学』 同文舘 1989

玉置泰明 「開発と民族の未来-開発人類学は可能か」 会田・大塚和夫編 『民族誌の現在』 弘文堂 1995

結局、日本では、系統的な『開発人類学』の教科書は、まだまだ確立していない発展途上であることがわかる。開発援助の現場からの声を反映しているものは、ほとんどないといってよい。以上のうち、実は、青柳編(2000)および岩波講座『開発と文化』については、その掲載論文を全部読破したわけではない。特に、岩波講座に至っては、1巻しか所有していない。当然、日本にいれば図書館なども活用して全巻の内容を最低でもレヴューすべきなのであるが、20044月より海外駐在のためそれもままならない状況である。

したがって、これ以上、日本の文献のレヴューが物理的にも不可能であるため、ここで、一旦、筆を置くこととする。(2005531日)

2007218日 加筆分

3.マニラ駐在による制約条件と今後の考察方法について

前回、上記のところまで書き進んだところで、筆が止まってしまった。これからどうか続けていくのか、日本語ではあまり参考になる教科書がないということだけで、この項を切り上げてしまっていいのだろうか。

言い訳になるが、マニラ駐在の私は、日本での出版状況に関しては年に2,3回の一時帰国の際に、主に東京の大型書店(新宿 紀伊国屋本館および南館、八重洲ブックセンターなど)を駆け足でチェックしているに過ぎない。朝日新聞の読書欄や業界紙『国際開発ジャーナル』などをチェックしているとはいえ、最低でも手にとって中味を検証できないかぎり無責任なコメントはかけない。

ほぼ1年半経つが、あまり有用な情報を書き加えられそうにないので、一旦、ここでHPにアップロードすることにする。

ただし、私自身の整理として以下の作業は引き続き行いたい。

1.欧文(主に英語になってしまうが)の基本的な教科書の内容と援助業界における人類学の適用状況の確認。ただし、これだけで大きな作業となってしまうので、主に日本人で学説史みたいな整理を試みる方がいるとしたら、ぜひ、その知見を参考にさせていただきたい。

⇒ そのような研究動向の確認と紹介を行うこととする。

2.開発人類学のすべての側面を取り扱おうとすると膨大な作業となってしまうので、当面、私自身が目指そうとする「開発民俗学」の理論的な枠組み(前提といってもよい)を構築するのに参考となるであろう主に日本の民俗学、地域研究、社会学、経済学、環境学などの到達点の整理を行う。これには、歴史学など周辺領域にも目を配ったものとしたい。

その際に、できるだけ具体的な分析・論証を行ったものを中心に検討し、形而上学的なものは必要ないかぎり取り上げない。視野にいれないという意味ではないが、実践の学問である「開発民俗学」においては、抽象的な理論や精神論はとりあえずおいておきたい。再現可能であるとまでいわないまでも、誰もが具体的に想像や理解できる、いわば‘事実’や‘もの’に基づいた論考の方が面白いし、理論的にも応用の幅が広いと考えるからである。

⇒ そのような問題意識にたって、いわば100冊の本のような開発民俗学の基礎理論を支えるような論考を取り纏める。今の段階では、日本人の研究者の到達点を明らかにすることを目標とする。つまり、原則、日本語の本ということになるが心配するなかれ、良質の研究者は当然、彼・彼女の対象分野の欧米の学説はきっちり押さえているので、博士論文クラスの研究書なら、それなりのレファレンスがついているので、初心者がいきなり億兆の欧米のいわば洋書にあたる必要はない。

また、当然のことながら同時に良質な翻訳書も取り上げる。翻訳には翻訳のよさも問題点もあるのだが、まず手っ取り早く相手(欧米の研究者)にタックルするのなら、翻訳書の数をこなして、欧米の研究者の問題意識に向き合うことが肝要であると考える。

という方針で、今後の考察(注1)を進めたい。ただし、‘歩きながら考える’および‘開発民俗学 雑記’においても同じようなテーマに触れたものがあるので、注2に紹介したい。

(この項、了)

注:

1.当初、第7講で扱う予定であったブックガイドは上記の理由により、「第8講 ‘開発民俗学’を考える100冊 (道具箱=ブックガイド)」ということであらためて取り上げる事としたい。

2.タイトルとリンクは以下のとおり。実は、このHP全体が同じテーマで記載されています。特に、“歩きながら考える~世界と開発~”のコーナーには関連する記事は多いので、関心ある方は、その目次を参照ください。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000.htm

関連1 ひとりNGOの勧め -ODA50周年に寄せて- (2004101日)

     (歩きながら考える024http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00024.htm

関連2 われわれの物語を紡ぐために: 文化人類学への問い。(200573日)  (歩きながら考える028-1http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00028.htm

関連3 文化人類学の1990年代を振り返る  (2005年7月3日)

     (歩きながら考える028-2http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000281.htm

関連4 ブームの宮本常一?  (200641日)

     (歩きながら考える030http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00030.htm

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2008年12月 7日 (日)

第6講:開発‘民俗’学の構想

第6講:開発‘民俗’学の構想

2003113

開発‘民俗’学の構想

最近、開発’民俗’学なるものへの関心が、個人的に高まっている。この2年半ほど東チモールやフィリピンでの実際の開発事業の現場に足を踏み入れたのだが、計画といういわば青写真の段階ではなくて、パイロット調査とか円借款、無償資金協力の工事の現場では、実際に地域住民や役所の人たちと、まさに現実のモノに対して言葉を交わす機会が増えた。現場では、まあ、だましたりだまされたりではないですが、実際に生きている人たちと外部者であるわれわれと、結局、援助なんて生身の人と人の関係なんだなと考えさせられることが多々あった。その中で、いわば入り口であるモノを作ること自体は、ある意味で簡単だが、果たして実際に作られるモノなりを使う人たちのことをどこまで理解しているのかについて反省する機会がいろいろあった。

つまり技術や習慣などを切り売りで、よいとこだけをとってもってこようとしても、結局うまく機能しない。その技術をささえる人々の心というかソフトの部分で納得してもらわないと、ぜんぜん受け入れられない。そんな光景を、図らずも数件みる機会があった。

また、日本人の民俗学者の宮本常一氏の著作から継続的に学んできた影響であると思うが、宮本氏のいうところの、「民俗学という学問は体験の学問であり、実践の学問であると思っている」という言葉を無意識に咀嚼しつつあったからかもしれない。この民俗学を「開発学」と読み替えれば、まさにそのままではないかと、最近、折にふれて感じている。

宮本常一氏は、明治から大正、昭和と日本の発展を、地球を4周したと言われるほど日本をくまなく歩いて農民の文化を伝えるとともに、農業技術や新しい伝聞を体ひとつで伝えてまわった。この世間師の姿に、ひとつのすぐれたコンサルタントとしてのあり方がシルエットのように透けてみえてくるのである。

宮本氏は、民俗学者であると同時に、日本を歩いて回る中で農業技術指導を行い、地方の篤農とか、身のまわりの世界を少しでも自分たちでよくしようとそれぞれの土地でがんばっている人たちのネットワークを作るような仕事を行った。そして離島や林間地の村々の調査をするだけでなく、その現状と苦境を肌で感じて、著作を通じて広く世間に訴えるだけではなく、庇護者であった渋沢敬三(明治時代の立役者のひとりであった渋沢栄一の孫)の友人であった政治家や役人に対して離島振興法や山間地振興にかかる法律などのいわば開発のための法律立案などに関して政策提言も行っている。これは、今はやりの言葉でいえばアドボカシーそのものである。(詳細については、自伝的著作である『民俗学の旅』 講談社学術文庫 1993を参照。)

以前から何度か書いてきたことだが、結局、開発開発というけれど、現地に実際に住んでいる人たちが、自分たちでなんとかしようと思わない限り、世の中というか世界は変わらないのではないか、そんな実例を、昨年、フィリピンのある農業開発の現場で見てきた。歩きながら考える No019 Three Maria’s Tale(http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00019.htm)を参照。

先日も、国連/世界銀行のイラク復興緊急調査に唯一日本人で参加されたコンサルタントの方と話す機会があったのだが、「特にイスラーム地域の復興なんて、とても外国人ではできない。ただし‘カタリスト’としての外国人の意味はあるのでは」というコメントをいただいた。

ところで、学問として開発人類学というものがある。この人類学にはいろいろな分類があるのだが、その別称として‘民族’学という言い方がある。この民族学とは、外部世界の見聞を自分の世界にもってかえって、同国人の気づきを促すという効用をもっている。今までの歴史上では、これは先進国の研究者が、未開な地域を訪れて、そこで収集した経験(事物も含む)を自分および自国民のために役立てるというケースが多かったのだが、私は、逆に、外部者として私たちが介入することにより、現地に住んでいる人たちの気づきをうながし自分たち自身のことを自分で研究してよりよい世界を自分たちで創造していける、そんな、開発‘民俗’学というものがあってもよいのではないかと考えるようになった。

この日本語に特有の「民族学」と「民俗学」という2つのミンゾク学は、実に示唆に富むと思う。この日本語にいう「民俗学」は、柳田国男にいう、いわば日本文化の元の形(基層文化)を探るという側面があるのだが、それだけではなく、宮本氏のいう、実際に生きている人たちの生きる糧となるような学問のあり方、自分の足元を知ることにより、日々の生活をよりよいものにつくり変えていくという‘実践の民俗学’という側面もあると思う。

つまり外部者として、(途上)国に入ることにより、現地の人たち自身の郷土への関心を呼び覚まし、彼らが‘民俗学’を自分の地で実践することにより、内部から社会を変えていくきっかけをつくる。この民俗学の主体は、当然、彼ら自身である。そんな開発‘民俗’学を創っていきたい。かってな造語だが、そのようなものがあってもよいのではと、最近考えるようになった。

(実は、ある席で、開発民族学を研究している人と、上記のようなことを話したら「確かにそれはあるうる」という言葉をいただいた。大体、人間の考えることにそれほど違いはない、しかもこのような考え方自体も時代の要請というか、多分、多くの方も考え始めていると思う。)

最近、英国の社会人類学という学問や応用人類学の開発人類学といったものに、現状を認識するための‘ツール’としての魅力を感じている。もちろん、この人類学的な調査は単なる学問的な興味だけでもなく、開発する側の調査をちゃんとしてやったという免罪のためや、事業の実施にあたって対象地の人や土地を標本のごとくモノとして扱い記述するためだけの、いわば自己満足のためにあるのではない。これは、あくまでも、彼ら自身にバトンというか自分自身をみなおす視角を提供(これだけで、かなり傲慢で高所にたった言い方であるが)するための、いわば現状理解のための手段にすぎない。

つまり、社会構造を分析するツール自体に関しての理解を深めた上で、それを使って何をどうするかについては、自分たちで白紙の状態から考えてみたい。例えていえば、いわば包丁の持ち方と使い方だけを知っていて、何をどう料理したらいいのかについては、相手と一緒に考えながら料理をつくっていくといったことがしたいと思っている。

ツールや学問のその限界を承知した上で、その先にあるものを考えていきたいと思う今日この頃である。

(了)

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2008年12月 5日 (金)

第5講: 学問の世界と実践の世界

第5講:学問の世界と実践の世界

2003113

 

知的ワンダーランドとしての大学教育(あるいはわくわく感との出会い)

 

さて、学問の世界と実践の世界というテーマであるが、実践の世界にはいる前段としての、日本における高等教育について私見を述べたい。自分の体験以上のことを述べる気もないし、高所にたって発言する立場にはない。あくまで私にとっての価値である。今までの自分の経験だけいうと、非常に恵まれた環境に育ったと思う。親と上司は選べないというが、人間は環境の産物である限り、生まれ育った環境というものの影響は大きい。小学校、中学校まではともかく、やはり高等学校への進学というのは、一つの社会人デビューの過程なのではないか。誰もが感じていることだが、やはり進学するにつれて、友達のあり方に違いがでてくる。悲しいかな15年ぶりに小学校の同級会にいったとしても、ほとんどの‘昔’の友達とは話が合わなくなっていることを事実として認めざるをえない。これは、よい悪いの問題ではなく事実である。それをどう考えるか、私はある意味仕方がないことと思う。

ただ、考えておかなくてはならないことは、いくら高校や大学の進学率が高くなったとはいえ、現実、中学校卒で、つまり義務教育を終えて働いている仲間が少なからずというか多くいるという事実である。やれ、どこの誰それは、どこの高校に入った、どの大学に入ったとうわさにするが、例えどんな形であろうと‘学ぶ’機会を与えられたものは、それだけで素晴らしい。開発教育、これは文盲の人たちへの(初等)教育という面と、先進国における開発教育という両面があると思うが、この教育という問題についても関心があるのだか、文盲の人がはじめて文字が読めるようになったことについての次のエピソードを忘れられない。

正確な出典は忘れてしまったのだが、日本の戦後に夜間中学で初めて文字を習った老婆が、文字がわかるようになって、初めて夕日の沈むのをみて泣けてきたという話がある。これは、老婆に言わせると、「言葉が読めるまでは、太陽が昇ったり沈んだりすることについて、特に意識してこなかった。しかし、言葉を知ることによって、その事実を別の目で捉えることができるようになった。」というような話であったと思う。

今の日本では、文盲というのは、ほとんど限りなくゼロパーセント近くなっているのだが、それは、ほんの最近の出来事であることを忘れてはならない。特に、高齢の不安定な時代に生きた人たちのうちには、戦争や家庭の事情で小学校すらいけなかった方々が今で多くいらっしゃるのも事実なのである。

私は、これからの時代は、Respect (each other)という言葉とPrideという言葉がますます重要になってくると思う。またいやみな言葉であるかもしれないが、Nobles Oblige という言葉を胸に刻んでいきたい。誰もが、そもそも生まれながらにして優れたその人なりの才能をもっている。これを、Talent という。(これは、日本語のタレントとは違う。英語のtalentは、‘天賦の才能’という意味である。)そして、戦争や貧困に苦しまずに、平和に生きる中で、それぞれの好きなことをやって(自由)それぞれの個性や才能を思う存分伸ばすことができる社会が望ましいことは、地上の誰もが考えていることである。残念ながら、たまたま生まれたところが違ったばっかりに(子供には何の責任もないのに)限られた人間しか、その自由を享受していないことも、誰もがわかっていることである。

そのような限られた範囲での自由しかないかもしれないが、現世における人の生き方における共生・協業のあり方として、私は、{それぞれ(の個人)ができることをすればよい}と考えている。つまり、お金のある人はお金を、時間のある人は時間を、労力をだそうが、アイデアをだそうが、それぞれができる範囲で力をあわせるだけでかなりのことができると思う。それはともあれ、残念ながら、学問の楽しさに気がつかずに生きていかざるを得ない場合が、全地球的にみれば実はほとんどの人たちの現実であるかもしれない。学校を楽しいと思える、しかも経済的にも社会的にも長期の在学期間を認めてもらえる環境に生きていること、それは本当にそれぞれの個性をみがく、もしくは自分を見つめる時間が与えられるということで、極めてありがたいことなのである。

私は、改めて自分を振り返ってみて、大学教育をワンダーランドと思えるほど幸せな学生時代をおくることができたのだが、そうは言いつつも、学べば学ぶほど自己矛盾というか、好き勝手に自分のためだけに勉強するだけでよいのかという気もしてきた。これは、やはり湾岸戦争という時代背景もあったとは思うのだが、その疑いの種はもっと以前にまかれていたような気もするのである。

“学問とはすべからく現実社会と闘うためのものである。

またまた挑発的な言葉であるが、私は、「勉強すれば勉強するほどバカになる。」ということを、この数年いろいろなところで語っている。字句どおりにとっていただいても結構なのだが、あえて、解説すれば以下のようになる。

 すなわち、大学、大学院(私はその教育を受けていないので語る資格がないのを承知の上での話だが)と、‘勉強、勉強すればするほど、先達の‘既成概念’や、考え方の‘枠組み’に取り込まれてしまって、普通の人の、もっと素直にいえば自分の気持ちや主観や感覚に対する自信を失ってしまう可能性があるという側面があるということだ。確かに、今まで営々と築かれてきた学問の成果を批判する気も否定する気もない。ただ、俗にディスプリンをいわれているものは、西欧の分割して理解するという手段の発達によって、素直に全体に受け止めればよいものを、社会、経済、政治、科学など、限られた切り口のみで理解しようとしてしまう。そして、その学問伝統は、その学問自体が育った環境(国、言語圏、地域)などの地理的、時代背景という時間的な制約を受けていることを、あまり意識しないまま、完成された手法、体系として所与のものとして存在を主張する。

 私は、はっきりいって、20世紀は主義(ism)の時代であったと考える。つまり、国民国家主義、資本主義、帝国主義、社会主義、共産主義等々、それは、確かに分析概念としては非常に便利であるし、現在でもそれなりの意味をもっているが、限られた地域での経験に基づいて導き出された理論や概念を、分析手法や概念、様式として、他の地域なり国なりの現象を分析するのに流用すると、理論に現実をあわせるという本末転倒なことが起きてしまって、実際の社会と理論がまったくでないにせよかみ合わなくなってしまっているのが、現代の状況であると思う。

実は、先日(2003112日)、早稲田大学で開かれた『イスラームとIT』という国際シンポジウムの「アレクサンドリア図書館とイスラム的“知”の可能性」というセクションで、くしくも高橋一生先生が、「今後の学問体系はどうあるべきなのか」という吉村作治先生の質問に対して答えた言葉は、「たとえば19世紀のヨーロッパで生まれた自然、社会、人文科学という学問体系も、当初は、その当時の実社会の実態に即した仕分けであったが、それが時代を経るにつれて学問と社会の乖離が起こってきた。20世紀にアメリカで生まれてきた国際関係学や学際的な現場志向が強い、プログラム志向の学問とは、そのヨーロッパの学問分類が現実にそぐわなくなってきたことへの反省から生まれてきた。今後の学問のあり方をあえていえば、現場志向がより重要であることはみな結論としてわかってきており、やはり研究対象が問題であって、道具として何学を使うのか、結果として何学になるのかについては、あまり意識されなく(問題にならなく)なってきているのではないか。」というコメントをしていた。現実の分析結果としての、学問体系、確かに私自身が考えていることと、全く同じではあるが、たとえば今の私のこの文章に対して社会的な評価はどうなるのか。素人のたわごととして片付けられてしまう可能性の方が、今の世の中では、はるかに多いことであろう。 

 私も、大学を卒業して仕事をしながら、いろいろ考えかつ考えを文章化してもきた。確かに5年ほど前までは、「ディスプリンがなくても、リテラシーされあればどうにかなる」と思って、いや思い込もうとして生きてきた。しかしながら、この2年程前から、そうはいっても‘タイトル’なり、‘ラベル’なしに世の中と闘うことに疲れてきたのも事実である。特にイスラーム分野にかかる総合的な学際的な研究現場とその成果を横目でみてきたものとしては、学際的な研究とは、それぞれの学問分野の専門家が協業してこそ成果があるという、結局、学際を目指すものはそれぞれのディスプリンを持たなければならないということも事実としてみてきた。これは開発の現場でもそうである。総合的に全体を把握すること自体は、以前にまして非常に仕事の上でも重要になっているのだが、それは個人のやるべき部分をこなした上で求められることなのである。

 今まで仕事を続ける上で、社会人ならディスプリンはなくても何とかなると思っていたのだか、やはりここらで素直にかぶとを脱ぐ。「やはり学問にも仕事にもディスプリンは必要だ。」ただし、この但し書きだけはつけておく。「学問は、すべからく現実社会と闘うためにある」ということを。

‘開発学’とは体験の学問であり、実践の学問である。(宮本常一氏の言葉のもじり)

 さて、ここで実践というか生きる糧としての‘開発学’をめぐる私の研究の方向性を以下に示したい。以前より、海外の社会に対する関心と共に、日本の社会自体自体のあり方についても関心を払ってきた。その現在、まさにわれわれが生きている地球世界を考える上で、実は以前より非常にこだわっている問題があり、それが‘開発学’における学問というのを超えて実践というものへと心をかきたてるのである。

あまり人には話してこなかったが、‘開発という現象’以前に、私が‘開発’された状態であるとされる近代科学や近代世界に疑問を抱くようになったもともとのきっかけは、1982年の中学校一年生の時に、たまたま市の施設(岡崎の太陽の城という青少年施設)で『人間を返せ』という映画を見たことに始まる。これは『10フィート運動』による映写会であった。これは日本の市民団体が寄付金を募り、広島の原爆投下直後にアメリカ軍が記録した映像記録を、まさに10フィートづつアメリカから買い戻していくという運動である。

これは、たぶん30分にも満たない上映時間であったと思うが、実は私は映画の途中で気持ち悪くなりというか、本当にぶっ倒れてしまった。その映画のタイトルでもあった峠三吉の「人間をかえせ」という詩自体は、多分、教科書では知っていたが、モノクロ(白黒)ではあったが、原爆直後のとても人間とは思われない形相の人たちの映像を見たときに、自分の中に強く刷り込まれることとなった。(今となって思えば、モノクロでよかったと思う。あのケロイドややけどで焼け爛れた、とても人間とは思えない形相の人たちの映像は、とても今でもカラーでは直視できないであろう。)多分、その時に意識したことは、「人間の尊厳」という言葉であったと思う。なぜ、日本だけがアメリカに原子爆弾を2発も投下されなければならなかったのか。これは、今でも疑問だし、西欧文化、特に白人優越主義に対して、初めて疑問を持った瞬間だともいえよう。

そのときの気持ちや考えの結果は2つに集約された。「将来外交官になって、アメリカとソ連を握手させてやろう」、もう一つは、「西洋近代主義のアンチテーゼとして何かがあるのではないか。人間として平和で平等な世界を何とかして築けないものなのか。そのためには、どのような思想がありえるのか」ということであったと思う。

 結局、一つ目の夢は大学時代の1991年に冷戦構造が終わったことにより果たされない夢となってしまった。(実際には、大学1,2年では、外交官試験を受けることも考えて法律とか勉強しようとしていたが、アラブ・イスラームの勉強と両立できなかったことと、なぜ西欧の知識体系だけを、‘万国’共通の規範(ルール)として学ばなければならないかについて、自分の中で納得できない部分があって、結局、法律・経済等の外交官試験に受かるため(だけ)の勉強を投げ出してしまっていたという現実もある。)

 だが、二つ目の問題については、未だに解決に至っていない。これは、その後、えた・非人など被差別部落のことなど偏見や差別の問題や、当時、南北問題といわれていた先進国と後進国(発展途上国)との貧富の差の問題等、いろいろバリエーションを代えて中学校、高等学校と学習の対象となっていったが、私にいわせれば、根源的には、‘人間の尊厳’をどう考えるかという問題である。

差別や偏見をもたらしているもの、それは結局、個人の心の問題であると思う。自分にプライドを持つこと。それは、とりもなおさず、自分を除く人間すべてが同じものをもっていること。自分が相手を恐れているのと同様、相手も自分を恐れている、多分、人を先に威嚇したり、力で押さえつけようと攻撃を仕掛けるのは、自分に自信がないからである。(これは、はっきりと欧米人の今までの、彼ら以外の民族や人種に対して行ってきた性癖を意識して発言している。)

そういう意味で、相手を対等に同じ‘人間’として認める。という個々人の心のレベルでの国際化やグローバリズムについては、まだまだ諸についたばかりだ。(私は、少なくとも自分の年齢より若い世代については、この点では、きわめて楽観している。特に国際化、国際化などと声をあげなくても、すでに日本には多くの外国人が生活しており、すでに社会環境として国際化されてしまっている。今の子供たちは、今の私たちより、はるかに先入観のない世代であってほしいと願っている。)

原爆への嫌悪というかショックについての話にもどるが、その後、広島には大阪外国語大学の入試を受けた後に、瀬戸内海地方の一人旅にでかけ、広島、尾道とユースホステルを使って脚を伸ばしたこと、その後、大学4年の時に、九州一週を行った青春18切符の旅の過程で長崎を訪ねたこと、この2つの被爆地を実際に自分の足で訪れ、自分の目で現場をみたことを、ここに述べておく。青臭い正義感かもしれないが、まだ私の中では、第二次世界大戦(大東亜戦争)は終わっていない。

今(2003年)現在では、はるかに戦後生まれの人の方が人数的には増えていることは事実なのだが、戦前、戦中に生きた人々は、まだまだ多く在命中だ。私は、勝手な若輩の言い草であるかもしれないが、ここらでちゃんと第二次世界大戦の総括を、それぞれの個人がしておかないと、みんな死ぬに死にきれないのではないかと思う。確かに、非常に辛い体験であったと思う。人に言えないようなことが誰しもあるに違いない。しかし家族にも何も告げずに、全て自分で抱え込んで墓場まで持っていこうというのは、一見、子孫というか子供にやさしいようにみえて、結果的には、子孫を、日本人を駄目にするのではないか。

未だにファナティックに、未だに南京大虐殺はなかったといってみたり、‘自虐史観’反対なんていう‘プチ・ナショナリズム’が近年蔓延しつつあるようだが、もっと素直に、自分たちの過ちについて、事実を事実として語るべきではないのか。

今、イラク戦争に関して、アメリカの言語学者のノーム・チョムスキーが9・11以降にアメリカや世界中で講演しているのは、アメリカの帝国主義だけが過ちを犯しているのではなく、今までの力のあるものは常に暴力をふるってきたことであり、いくつもの9・11が歴史的に繰り返されてきたということである。これは、イスラーム研究者である東京大学名誉教授の板垣雄三先生の最近の講演会で聞いた話でもあるのだが、「パレスチナのユダヤ人問題についても、幾度となく歴史の過程で繰り返されてきたものである」というのと呼応する。

 

 あまりに脱線してしまったが、いろいろな経緯を経て、たまさか、私は‘開発’の現場に足を踏み入れてしまった。はっきりいって、近代化や西欧への‘開発’が全てと思っているわけでもなく、もし仮に外部者として、ある社会に介入するとすれば、以下にその開発による負のインパクトを小さくするかの方に関心がある。これは、近代科学を否定するものではないし、自分の立っている立場をわきまえた上での、自分への挑戦である。しかし、あくまで自分の小さな胸につかえた刺をとるための努力と実践を考えて続けていきたい。それは、すなわち、「偏見や差別のない平和な社会をつくること」それは、「一人だけではできなくても、同じことを考えている仲間はかならずいるということ」を信じて生きていきたい。

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「特集 人類学と開発援助」 『国際開発研究 Vol.17, No.2 2008年11月』 

国際開発学会の標記の特集号が、ようやく手元に届きました^^?

Photo 国際開発学会に入って何年ぐらいになるのでしょうか。今年の6月までフィリピンのマニラに駐在していたので会社宛に送付してもらっていたのですが、転職もしたことだし、そろそろ住所変更の手続きをしなければ。

とにかく、もとの会社から転送してもらって手元に届いたばかりなので、じっくり読ませていただこうと思います。

私も着目している同世代の気鋭の研究者達が投稿しているので、彼らが何を書いているのか、今から楽しみです。

別に気負っても仕方がありませんが、彼らが学界というか研究者から開発に入ったのに比べて、自分は開発援助業界の中で問題意識を高めてきたという自負があります。

大学の友達からしばやんが営利企業に入るとは信じられないといわれつつも援助業界にもまれて実務をやってきました。

ちょっと事情で、一旦、開発援助の世界から離れましたが「開発民俗学」への途を決してあきらめたわけではありません。

今は、別のステージで修行中というか充電中といったところでしょうか。私は私の途をゆく。ただ、それだけのことです。

論文を読み終わったら、別途、報告させていただきます。

ではでは^^?

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2008年12月 2日 (火)

第4講:開発学研究入門(基礎理論編)(道具箱=ブックガイドその1)

第4講:開発学研究入門(基礎理論編)(道具箱=ブックガイドその1)

2000815

 

 道具箱というコーナーを設けたのは、適宜、情報ソースの整理をして読者の便宜を図るということに加えて、この講座を順番に読むことを通じて、読者に同時に一緒に考えてもらいたいという意図がある。

 

今、IT革命などという言葉が巷をにぎわせているが、やはりそれは一方的な情報の受け手(消費者)になることではなく、イントラクティヴ(双方向的)な人間同士の対話を目指すべきであろう。

 

ここで基本理論編として取り上げたのは、自分で考えていくためには、それなりの方法論があるということがまず一点。そして学ぶことの究極の目的は発信することにあり、そのためのテクニックが必要不可欠(表裏一体)であるということが一点。また、1990年代のコンピューターの発達と普及に従って、既存の知の枠組みや道具立て自体が変わってしまったことが一点。それら新しい知の体系として開発学を考えるための道具と、‘開発’学の入門書とリファレンス類を厳選して取り上げた。

主に、1990年代以降の動きを扱う。情報処理技術についての‘初歩の初歩’については、注1を参照のこと。

 

 追記;

Wakate-kai」協調プロジェクトとして「開発援助へ関心のある方へ(情報源へのアクセスについて)」において、おすすめの「ホームページ」および「基本文献」の紹介を行った。情報的に新しいので、こちらも参考のこと。(20021015日)

民俗学および地理学の現地調査(フィールドワーク)に関するマニュアル類については、第3講の補論も参照のこと。(2005626日)

 

A1990年代以降の知の世界

 

41 野村一夫 『社会学の作法・初級編 社会学的リテラシー構築のためのレッスン【改訂版】』 文化書房博文堂 1999 (初版 1995) (1,600円;価格はあくまで参考。適宜確認のこと。)

 

42 東郷雄二 『東郷式 文科系必修研究生活術』 夏目書房 2000 (1,900円)

 

43 坪田一男 『理系のための研究生活ガイド テーマの選び方から留学の手続きまで』 講談社ブルーバックス 1997 (760円)

 

44 中川昌彦 『図解 自己啓発と勉強法 楽しみながら自分を育てる』 日本実業出版社 1996 (1,262円)

 

(概説)

1990年以降に決定的に変わったのは、知の地平線や水平線がはるかに広がったことがあげられよう。ここでは詳細は述べないが、網野善彦、阿部謹也、家島彦一などが、それぞれ日本、ヨーロッパ、イスラーム世界の中世史において、今までの文献資料中心であった歴史学・社会学において、それ以外の全人間的なアプローチを駆使し、新たな学問の地平線を切り開いた。その世界は深く広いが、その前提と主体的に現代と切り結んだところに意味があるのではないかと思っている。それぞれが、自分と現在(現実世界)との格闘を語っている。(別途、「歩きながら考える」で取り上げます。)

 

 そこで、まず取り上げたいのは、現代社会に生きるということはどういうことかを考えようとする41である。私は、以前、大学院への進学を試みたことがあったが、その際に、悩んだのは「外大生にはディスプリンがない」という俗説であった。母校や後輩の名誉のためにもあえていいたいが、結局、今では「そもそもディスプリン(パラダイム)にこだわることより、作法(リテラシー)を身につけることのほうが重要ではないか」と思うようになった。

 

今の大学の世界では、三文字学部というものがなくなりつつある。(つまり、文学部、農学部など)単に、看板が変わっただけと思ってはいけない。80年代から、「学際的interdisciplinary」とかいう言葉が出てきたが、その当時は、それぞれの「専門」のディスプリンをもった人たちが集まって研究するというスタイルであったと思うが、今では「理系」や「文系」という考え方自体がなくなりつつあり、「マルチ・ディスプリン」があたりまえという時代に突進している。決して専門家を否定するわけではないが、あえてどこかに足場を置くとしたら、まず「読み書き作法」であるというのは、あながち見当違いではないであろう。また、野村氏のいう<見識ある市民>とは、今だからこそ求められていると思う。

 

そして、42(文科系)と43(理系)では、今の時代の研究スタイルを端的に語っている。前者の著者が1951年生、後者が1955年生、あえていえば、41の著者は1955年生まれである。つまり、今の学生が教わるであろう先生方のある標準的な感覚ともいえよう。

 

また、1990年代の必須アイテムとして浮上してきたのが、パソコン・インターネットを利用した新しい学習スタイルである。残念ながら、私が注1を書いた90年代初頭は、この新しい研究方法の体系ができていなかった。4123とも、最新のリファレンス情報が盛り込んであり、いずれも持っていて損はない。(特に、31は、今、現代社会を主体的に生きようと考えるときに必携である。)

 

 44は、ビジネス書であるがあえてここに紹介する。私は、はっきり断っているように一介のビジネスマンに過ぎないが、逆に‘仕事をしながら(もちながら)考えていく’道を、この本ははっきりと示してくれた。また、パソコン、インターネットについて、「マルチメディア時代の自己啓発」として1章をさいてあつかっている。

 

入社して5年目くらいまでは、なかなか学生時代みたいに専門書を読むことができず、頭を休ませる(冷やす)ために、ずいぶん俗にいうビジネス書や血液型や相性の本、人生論や人間関係の本を、息ぬきとして読んだものである。

その中で感じたのは、ビジネス書は、現場に密着しているためトピックも早いし、実務に関する専門的な技術面については、はるかに具体的でくわしい。確かに玉石混交ではあるが、非常に興味深いジャンルではある。(学生さんとかはあまり関心がないと思うが、学問とは全く別の次元で理論が展開されていて結構参考になります。)

 

 

B.情報処理論の最前線

 

45 メイヤー,JJ./黒川康正 『ビジネスマン奇跡の整理術・時間活用術』 三笠書房 1998 (1,400円)

 

46 壺阪龍哉 『超図解 奇跡の整理術 パソコン以前の33の法則』 かんき出版 1997 (1,300円)

 

(概説)

456は、あえてビジネス書という分野から、最新の実践的な情報処理理論を持ってきた。45は、まさに‘目からうろこ’の本で、読後、仕事がずいぶんはかどるようになった。(別に、タイムマネジメントの手法や考え方を礼賛するわけではないが、「仕事をする」という実務上は、大変役に立つ知恵ではある。)

また、46も、‘パソコン以前’といっているが、逆にパソコン時代でこその情報処理理論である。

 

 

C.新しい調査・研究手法

 

47 佐藤郁哉 『フィールドワーク 書をもって街へ出よう』 新曜社 ワードマップ 1992 (1.800円)

 

48 佐藤誠編 『地域研究調査法を学ぶ人のために』 世界思想社 1996 (1,950円)

 

49 古川久雄 「現地調査―歩く・見る・聞く」、矢野暢編『地域研究の手法』 弘文堂 (講座現代の地域研究 一)1993 (4,800円)

 

410 赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊・編 『路上觀察學入門』 筑摩書房 1986 (ちくま文庫版あり)

 

411 中村尚司・広岡博之編 『フィールドワークの新技法』 日本評論社 2000 (2,000円)

 

412 嘉田由紀子・槌田劭・山田國廣編著 『共感する環境学 地域の人びとに学ぶ』 ミネルヴァ書房 2000 (2,500円)

 

 

(概説)

主に、フィールドワーク、地域研究、現地調査にかかる本を上げる。時代はフィールドワークというか、社会科学系の学問においても、かなり実証的な地域や地に足のついた研究がでてきたが、これはやはり時代の要請といえると思う。また、ようやく以前から地道にその調査に取り組んできた人が学会の前面にでてきたともいえるし、これは自然科学からの応用という見方もあろう。なお、47の著者は1955年生、48の編者は1948年生で、やはり新しい感覚ともいえよう。

 

49は、本格的な現地調査論で具体的な示唆に富む。また、489に関連するが、特に第三世界に関する地域研究(Area Study)についても現在ブームの観があり、なおかつ「開発」学ともからむのだが、これら第三世界をあつかうのには、かなり周到な準備が必要だと思う。90年代に入って、地域研究のみならず、歴史、社会学やあらゆる学問分野にかかるシリーズものの研究書がいろいろ組まれており、なおかつ最新の研究の成果が織り込まれているが、ここではあえてふれないし、その場ではない。ただ、本当に「地域研究」や「開発」に取り組もうとすると、かなりローカルな問題を考えなければならないし、さらに言えば、その地域の言葉に対しても関心をもたないといけないであろう。

 

410は、ある意味で民間での取り組み。実は最近、地理学や民俗学、考現学、(文化)人類学などの隣接科学が面白い。本当に「歩く」学問がポピュラーになってきたと思う。(注2

 

 全く最近であるが、京都よりまた「歩く」学問の概説書がでた。411は龍谷大学の先生方、412は京都精華大学の先生方がまとめたもの。いずれも今までの学問の枠を越えたセッションをおこなっている。わかる人はわかると思うが、例えば中村氏、槌田氏、山田氏は、すでに30年以上現場を歩きつづけている大ベテラン。(実は、私は1990年度の大阪外大での鶴見良行氏と同じく『地球環境論』というリレー式な講義でお会いしている。まったくもって当時の神前、高山、津田、松野、深尾先生方の人脈と先見の明に深く感謝しております。)

この「歩く」学問は間違いなく、21世紀の学問の一つの方向性を示すものであろう。

民俗学および地理学の現地調査(フィールドワーク)に関するマニュアル類については、第3講の補論も参照のこと。(2005626日)

 

D.‘開発’学入門

 

413 アジア経済研究所・朽木昭文・野上裕生・山形辰史編 『テキストブック開発経済学』 有斐閣ブックス 1997 (2,300円)

 

414 佐藤寛編 『援助研究入門 ― 援助現象への学際的アプローチ』 アジア経済研究所 アジアを見る眼 1996 (1,442円)

 

415 坂元浩一 『国際協力マニュアル 発展途上国への実践的接近法』 勁草書房 1996 (2,500円)

 

416 国際開発ジャーナル社編 『国際協力ガイド 20002001年版』 国際ジャーナル社 1999 (1,000円)

 

(概説)

 近日の、開発や援助を巡る学会、民間、市井の動きは、非常に激しく、毎日のように、開発にかかる新刊書や情報が流れている。今回の「基礎理論編」ではあえて‘開発’学にかかる本は最小限とする。

 

 413は、開発経済学の入門テキストであり、比較的新しく90年代の日本人学者の最新成果を踏まえているため、次の段階へのステップへとなろう。(「今後の学習案内」や「用語解説」が充実。ただし、この時点では翻訳されていなかったM・トダロの開発経済学(第6版)』国際協力出版会 19987,000円)があることには留意のこと。)

 

 414は、313と同じくアジア経済研究所が中心となってまとめた「開発経済学」以外からの開発へのアプローチが述べられている。本講座も、特に開発経済学を扱ったものではないし、今後はこのような学際的なさまざまな分野の知恵を「開発」や「援助」に持ち込むことになるのであろう。必ず413と併読してほしい。

 

 415は、経済屋としての視点が強いが、援助の実践の場で、どのような段取りが求められているかが垣間みられる。途上国の資料へのアクセス方法等、資料編が充実しており、一種のチェックリストして使える。

 

 416は、月刊の業界紙である『国際開発ジャーナル』が取りまとめた国際機関、政府系機関、民間、NGO、研究機関など日本の援助とその周辺のガイド。年度版であるため比較的情報が新しいこと、また現場の声が多く掲載されていることが業界に関心のある人の参考になるであろう。

 

 

E.レファレンス

 

417 編集協力 国際協力事業団 『国際協力用語集 【第2版】』 国際協力ジャーナル社 1998 (初版1987) (3,000円)

 

418 海外経済協力基金開発援助研究会編 『経済協力用語辞典』 東洋経済新報社 1993 (2,400円)

 

419 二宮書店編 『データブックオブザワールド 世界各国要覧 2000年版』 二宮書店 2000 (520円)

 

420 帝国書院編 『綜合 地歴新地図 -世界・日本― 三訂版』 帝国書院 1997 (1,500円)

 

421 M.L. (Mert) Yockstick “Concise Earth Book World Atlas” Graphic Learning International Publishing Corporation, Boulder, Colorado, USA. 1987

 

 

(概説)

 編者にみられるように、417は、主に技術協力、無償資金協力の窓口である国際協力事業団(JICA)、418は有償資金協力(円借款)の窓口である国際開発銀行(JBIC;海外経済協力基金(OECF)は輸出入銀行と統合されてJBICとなった)が取りまとめている。トピックや記事の解説に濃淡があるため、可能であれば両方とも常備することが望ましい。

 

419は、倹価であるがコンパクトに世界各国の統計資料が掲載されている。

 

420は、高校向けの地図帳(アトラス)ではあるが、サテライトイメージや歴史的な地名が重ね書きしてあるので、現地の重層的かつ立体的な理解に非常に役に立つ。

 

4 - 21は、例外的に英語の本を取り上げるが、実際日本語で気のきいたアトラスは少ない。この本の特徴は、地上のでこぼこが立体的に書いてあること、地名が結構詳しいこと。以前、Timeの定期購読のおまけでもらったものだが、非常にコンパクトで重宝している。もし、機会があったら気の利いた英語のアトラスも探してほしい。(海外でも利用しようとするとき、カタカナの地名が書いてあるような日本製のアトラスはほとんど使い物にならない。現地調査に使える道具については、49を熟読・参照のこと。)

 

これらのリファレンス類は、全般的かつ一般的なものなので、ぜひ手元においてほしい。(特に、419420のような資料は最新版を手に入れること。)

 

 

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注1:柴田英知 「第ニ部 リファレンスワーク入門」『アラブ・イスラーム学習ガイド 資料検索の初歩』 シーシャの会 1991(電子ファイル版2000)にて、リファレンスワーク、ビブリオグラフィーという観点から、主に文系の書籍データへのアクセス方法について論じた。

 

注2:柴田英知 「「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて」『歩きながら考える(008009)』 2000において、それぞれ宮本常一、鶴見良行、鎌田慧を取り上げて、市井における「歩く」学問を論じた。宮本常一および民俗学の視点については、第3講の補論を参考のこと。

 

(この項 おわり)

 

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自分に恥ずかしくない生き方

実家に戻ってきたとは以前にも報告しましたが、部屋の片付けをしていて自分の昔のノートなり手帳なりをもう20何年かぶりで読み返してみると、

「中学生や高校生のときのほうが文字がきれいではないか」ということに気がつきました。

当然、ワープロもパソコンもない時代、達筆ではありませんが、丁寧に文字を書いていたんだ。

なんか自分に恥ずかしくなりました^^?

せめて今からもう少し丁寧に心を込めて文字を書こうと思いました。

ではでは^^?

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2008年12月 1日 (月)

「歩く仲間プロジェクト」20周年を迎えるにあたって <予告編その1>

基本的に思いつきで行動しているので深い意味はないのですが、ようやく転職後の生活も落ち着いてきたので、来年度の抱負を(徐々に)語りたいと思います。

「歩く仲間プロジェクト20周年」にあたって

最近、ふと気がついたのですが「歩く仲間」のホームページを立ち上げたのが、2000年3月18日なのですが、そのもととなる「歩きながら考える世界と開発」のエッセイの初めの部分を書き出したのが、1999年1121のことでした。つまり、「歩く仲間」プロジェクトの10周年となります。

「始めに(今、僕達はどこにいて、どこへ行こうとしているのか」http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0001.htm

また、同時に大学生時代に始めた個人通信「大阪便り」の第1号「創刊の辞」は、1989年12月15日となっています。つまり、この「歩く仲間‘前史’」を含めると、しばやんの発信は、ちょうど20周年を迎えることになります。

「大阪便り」 第1号 1999年12月15日http://homepage1.nifty.com/arukunakama/o0001.htm

上記に鑑み、以下のような「歩く仲間」20周年事業を考えました^^?

第1弾 「開発民俗学への途 第2部 ‘幸福論’ 編」 の執筆

ちょっと休止していた「開発民俗学への途」の第2部を「幸福論」というサブタイトルで開始します。

2007年のテーマとして「‘わたし’の平和学~冬が来る前に」ということをとりあげましたが、世界の状況は、ますます厳しいものとなりつつあるようです。アドレスは下記のとおりですが、この方面での書き込みは現在ちょっと控えています。というか、正直いいましてかなり重過ぎますわ。テーマ的に^^?

「‘わたし’の平和学 ~ 冬が来る前に!」

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/cat20091295/index.html

ご案内の方もいらっしゃるかと思いますが、日本でも本格的に「貧困論」の研究がすすみつつあるようです。

手元にチラシがありますが、「初の貧困研究専門誌、10月に創刊」ということで、青木紀編集長、岩田正美、布川日佐史、福原宏幸、松本伊知朗の4氏の編集委員からなる「貧困研究会」による『貧困研究』が年2回刊を目指して、明石書店より創刊されます。

今、その創刊号の目次をみて、私は次のような事を思いました。既に今までにいろいろなところに書いていますが、今までの西欧近代化資本主義のパラダイムに則った「貧困」や「開発」研究には、全くとは言いませんがほとんど追究する‘意味がない’と私は考えています。

現状認識が間違っている、つまり問題を立てた世界と現実の世界が違ってしまっている現状でいくら特殊などの時代と世界状況に立脚した理論モデルをだましだまし使っても新しい次の地平線にはいけませんよというところに、素人で在野ではありながら果敢にも(無謀にも)挑戦しようと思います。

大思想家とされる先人たちも、そもそも時代の子であり、必ずしもその生きていたその時代にその思想の真価が世の人たちに評価されたわけではありません。

ともあれ、今までの「貧困」研究の延長として現在の先進国の貧困と、開発途上国の貧困や開発問題を考えていいのかについて、私は今までの経験から、かなりの疑問を感じていますので、逆に裏をかいて、「何が幸福か」ということを考えることにより、「貧困」の意味、もしくは今の世の「貧困」というラベルにこめられた意味をあぶりだすことができるのではないかと考えています。

第2弾 その他 いろいろ

ということで、まずは、「開発民俗学」における「幸福論」の追及、たぶん、次の優先順位としては「海洋民俗学」の執筆準備、今までの開発コンサルタントとして関わってきた国々の想い出の整理、具体的には写真の整理とウェブへの掲載、ちょこちょこと買い集めた世界の現場で手に入れた「宝物」の整理と紹介みたいなことにも取り組んでいきたいと思っています。

あと、HP自体の大きな構成換えも考えています。

ということで、20周年目の「歩く仲間」は、さらにパワーアップしていきたいと思います。

ではでは^^?

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