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2008年5月

2008年5月31日 (土)

和田秀樹 『試験に受かる人落ちる人』 ~ 知のあり方について~

最近、精神科医としての‘新しい’看板を引っ下げてマスコミへの露出を富に増している和田秀樹氏の本を考察のネタ?として取り上げたい。

08053100 和田 秀樹

『試験に受かる人落ちる人』

幻冬舎 2003年1月

お薦め度: ★★☆☆☆

一口メモ: またあんたかよという感じで、「勝ち組の思想」の典型なパターンを見事に体現していると言ってもいいのだが、それだけでは話が終わってしまうので、自分の苦い体験に絡めて以下、少し愚痴につきあっていただきたい。

正直いってこの人は苦手というかものすごいアンビバレンツな不安感を与えてくれる。

まず世代論からいうと、彼は丁度われわれの10年 年上にあたり、第二次ベビーブーマーの真っ只中のわれわれ世代は、バブルの前後に大学受験を向かえたわけだが、まだその頃は、日本の高度経済成長は終わったといわれつつも、世界第二位のGNPを誇り、まだまだ日本の行け行けムードを引きずっていた。というより、まだバブルがはじける前だったから、その後の就職氷河期とか、失われた10年などとは、全く無縁の時代であった。

さすがに「末は大臣か大将か」という時代では当然なかったが、まじめに勉強していい学校に入っていい会社に入れば幸せな生活がおくれると、誰もが信じて疑わない時代だったと思う。

そんなときに、確か1988年かと思うが、この和田氏が、『受験は要領』などというふざけた?本を引っ下げて受験業界に切り込んできたのが、私の高校時代の最後の頃であった。確かに受験前に、この本に眼を通したと思うが、時既に遅しで、彼の‘実践的な’理論というか方法論の直接的な恩恵を受けられなかったし、もっと早く読んでいればと思ったことも偽らざる気持ちである。

それはさておき、今「開発コンサルタント」などという高度に知的集約産業の中にいる(実はかなり泥臭い世界なのだが)私の現前に、またもや「生涯教育」とか「ステップアップのための学習」、「資格試験」がこれからの競争社会で生き延びるのは今までにも増して重要ですよという時代の風潮にあわせて、彼がマスコミにカムバックしてきたのは、なんとも複雑な気分である。

前書きが長くなったが、二点ほど論評する。

① 彼は必死に否定しているが、このようなアンチョコな受験指南は確かに需要もあるし、言っていることには、かなりの程度の信憑性があるというか正しいといってもよい。

しかし、彼がいみじくも漏らしているように、幼年期から青年期にかけての社会や生活環境の影響は非常に大きい。ちなみに彼は「灘高~東京大学理三(医学部)」で、高校時代の学校(級友・先生もろもろ)の影響の大きさを認めている。逆に、よい環境は金を出してでも買えという自論を披露している。

② この本では、大学受験から資格試験まで人生のあらゆる局面における試験の突破法を説くわけであるが、確かに彼の経験を元にしているとはいえ、所詮、勝者の論理でしかないという致命的な欠点を持っている。

③ これが問題なのだが、そうであっても実は彼の言わんとするところというか気持ちは‘非常に’わかってしまうという悲しさがある。

というか、今日の日本のビジネスパーソンである限り、もう常識的にいろいろな面でのスキルアップがさまざまな局面で求められ、ほぼ強制的に‘自己啓発’や‘勉強’が、まさに強いられている。

いい悪いでもなく、自分もその中にいることは事実であるし、実は別に「自己啓発する私」が嫌いなわけでもない。

だが、少なくとも人間を機械の一齣のように扱う「近代的な人間開発論」は、途上国の現場では全く通用しない。

しかしながら、「人間開発」という名目で、どんどん近代的な価値観(パラダイムと言い切ってよい)の輸出というか押し付けが、日常のように繰り返されいる。

さいわい?にも途上国でも高等教育を受けられるほどのエリートにとっては、これらの近代的な価値観は全然違和感のあるものではなく、逆にわかってしまったがゆえに、上から目線で、普通の人たちを見下したりなんかもする。

話を戻すが、でもまあ、このような‘効率一辺倒’の世界って、近道を示しているようで実は大きなロスというか大きな見落としをしているような気がする。

ただ、近代人の私としては、方法論的にはそれなりの魅力もある。

でも「方法」と「目的」は違うし、なにより「知っていてもそれを使うかどうかは別の話である。」 しかしまあ、日本人は本当に勉強の好きな人たちだなあと思う。ただ、それが「生きる」ための勉強であるかどうか、「よりよい社会を築くため」の学問であるかは、誰も知らない。

試験の致命的な欠点は「答えがわかっている」と思われることしか設問できないことと、得てして、その「答え」は体制やその社会で力を持った‘モノ’に都合のよい「答え」でしかないということ。

和田氏のメソッドは、その体制におもねる限り、最短で「答え」にたどり着くことは意味も価値もあるが、逆に、その体制というか前提条件が変わったときに自分で考えて答えを見つけ出す力をつけるという場面は全く想定していない。

私は、「世界を変えうる人間(のひとり)」であると自覚している。それなりに現体制というか社会システムにお付き合いはするが、それが全てであるとは思っていない。

そのような人間は、学問の世界に限って言えば、回り道でも学説史を辿りなおしたり、現場から問題を立て直して、それに答えていくことに関心が向いているし、世間の定説にはあまり興味はない。一応はおさえておく努力はしているつもりであるのだが。

誰か偉そうな人や権威が言ったとされる正しい「答え」に対しても、ある条件下での蓋然性は認めても、前提条件や背景抜きの「答え」だけ覚えることには全く関心がないし意味がないと思っている。

ともあれ、一見、賢そうな人たち(識者といってもよいが)と‘原点’に立ち返ってやりあうのはきっと楽しいであろうし、個人的には大いにやりたいと思っている。‘借り物’の言説ではなく‘自分の言葉’としてどこまで意味があることを語り合えるかについて非常に関心がある。まあこれからはそのような時代になりつつあるし、すでにそうなっているところもあると思う。

過去の権威を持ち出して語ることがいかに不毛であることか、みんなうすうすわかり始めてきていると思う。

そういう意味で、この和田氏は反面教師というかおもしろい‘定点’を示してくれているような気がする。

別に揶揄するわけでもなく拒否するわけでもないが、かなり古いパラダイムでの必勝パターンモデルの提示ということで紹介を終えさせていただきたいと思う。

ではでは^^?

(この項、了)

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2008年5月28日 (水)

伊藤亜人 『文化人類学で読む日本の民俗社会』 ~ まず‘違い’を認めるということ

最近、伊藤亜人著 『文化人類学で読む日本の民俗社会』という本を読んでいるのだが、これがまた知的刺激に富むというか、一言でいうと非常におもしろい。

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08052800 <コラム1>

伊藤亜人

『文化人類学で読む日本の民俗社会』

有斐閣選書 有斐閣 2007年12月発行

お薦め度: ★★★★★

対象レベル: 中級以上

一口コメント: 

補注が全くないので、ある程度の予備知識や専門知識がないと何を言おうとしているのかわかりにくいのではないかと思う。

つまりこの本だけでは氏の考えの根拠をトレースしにくい。しかし取り上げている項目は非常に多岐にわたり、おもしろい視角を提供している。

日本の民俗学の死角をついているというか、(文化)人類学との比較の視点が私には新鮮であった。

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つまり概説書でもなく教科書でもないのだが、氏の長年の日本の及び韓国、中国での民族学調査の経験を元に、東京大学系の文化人類学の重鎮としてのキャリアから、日本の民俗と民俗学を逆照射している点が非常におもしろい。

特に私の興味を引いたのは、日本の民俗学(者)や、われわれ日本人が自明だと思っている概念や事実がそうではなく、民俗学者が民俗語彙として使っている専門用語でさえも(文化)人類学の範疇では、かなりの厳密な用法上の注意がいるということ。

開発‘民俗’学を語ろうとしている私にとって、世界と対話するには、ちゃんと文化人類学とか社会学など近接人文社会科学で使われている専門用語の裏側にまで注意を払わなければ、対話が成り立たないということがわかっただけでも大きな収穫であった。

まだ読了していないので、詳細はコメントは後に譲りたいが、ここで3点ほどメモ書きを。

1.開発‘民俗’学は、広義には、世界で言われるところの「開発人類学」や「開発民族学」の一部門であることは疑いようもないし、事実であろう。

2.しかしながら、日本の「民俗学」の発展過程で培ってきた概念用語や方法論は、十分、世界に通用する普遍性をもつ可能性はある。

これは、今、あわせて読んでいる上田和男他編 『民俗研究ハンドブック』 吉川弘文館 1978 の内容(柳田国男以降の研究史)を見ても十分証明?できると思う。

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08052803 <コラム2>

上野和男、高桑守史、野村純一、福田アジオ、宮田登編

『民俗研究ハンドブック』 吉川弘文館 1978

お薦め度: ★★☆☆☆

対象レベル: 中級以上

一口コメント:

‘古い’といわれて久しいが、やはり‘民俗学’のオーソドックスな学説史の簡易なハンドブック(当然、1970年代まで)としての価値はまだあると思う。柳田国男の高弟たちが分担執筆している点でも興味深い。

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3.ただし、そのためには世界的に通じる共通言語をもたなければならない。つまり、適当な翻訳語を無自覚に使うのではなく、たとえば英語のもつ意味と、日本語の民俗語彙の持つその‘違い’をふまえたうえでの議論をしなければ、専門用語で書かれた論文であったとしても、言葉が通じないばかりか全く意味が通じない可能性が非常に高いということである。

私は、そもそもは、日本人の開発に関わるひとりとして、日本人のセンスや知見について、特に日本人自身の注意を喚起するつもりで、「開発民俗学」などを提唱してきたが、やはり本当のターゲットは、日本人だけではなく世界の誰もが共有できる知を提示することにあることに気がついた。

結局、仲間内で盛り上がるだけの‘閉じた世界’ではだめなのだ。

私は自信をもって、日本の民俗学の知見を世界に発信していきたいと思う。

そのためには、相手の‘土俵’に乗ることも必要であろう。だが、相手の概念用語だけを使う必要は全くない。新しい‘土俵’を新たに作り出すことも必要だと思う。

とにかく、いかに日本の民俗学と世界の人類学との距離があることにきずかせてくれたこの本は一つの手引きになろう。

まず‘違い’を認めた上で、共通なものや共感できるモノやコトを探っていく。それが21世紀の知のあり方であると思う。

詳細や具体的な論考は今後に待て、といったところでとりあえず今日は筆をおかせていただきます。

ではでは^^?

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2008年5月25日 (日)

ジョジョの奇妙な冒険DVDとコーラン問題

mixiの日記で、先日取り上げた記事ですが、どうも気になるのでこちらにも転載させていただきます。

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<関連の新聞記事>
「アニメ「ジョジョ」イスラム圏の批判で一部出荷停止」(共同) IZAβ版 2008年5月22日 22:38
「コーラン」登場の批判、昨年から数百のサイトに-アニメ「ジョジョ」」 時事ドットコム 2008年5月22日 20:31
「アニメ 「ジョジョの奇妙な冒険」 中東で高まる批判」 FujiSankei Business i 2008年5月23日

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「あまりに安易な行動だったのではないかと思います。」  2008年5月24日

「ジョジョDVD コーランで批判 」の毎日新聞の記事について

ジョジョの原本を見ていないし(基本的に今マニラだし)限られた情報だけでコメントするのも難しいので一言だけコメントを。

ニュースに対するミクシイの書き込みでもずいぶん紛糾していますが、アラビスト(しかしムスリム(イスラム教徒)ではない)としてのしばやんとしては、また余計なことをやってしまったなあという感じです。

作者(漫画家)ではなくて、アニメの製作スタッフがなにげにコーランだと知らずに文字をそもそも何も書いていない本に転記してしまったという説明はたぶんそれなりに正しい(うそではないと思いたい)と思いますが、でも配慮がないよなあ。

たまに他のマンガでも見かけますが、とんでもないアラビア文字が何の脈略もなく書かれていることがあります。

なんで、こんな場面にこんな言葉が・・・?もう絶句という感じで。

イスラーム書道(カリグラフィー)が日本でも最近話題になっているようですが、神の言葉(コーラン)に対しては細心の注意が必要です。それは単なるわけのわからない文様でもなく‘一枚の紙切れ’では決してないのですから。

海外や日本でも、怪しげな漢字や日本語をプリントしたTシャツを着た人(特に外国人が多い)がいますが、その文字を読める日本人が、冗談だと笑うぐらいのギャグならいいのですが、間違ってもイスラーム教徒が自分の命より大切だとする神や神の言葉を軽々しく扱ったとしたら、いくら知らなかったとか、悪気はなかったといったとしても、かなりの制裁を受けることは、彼らの立場に立ってみれば常識というか当たり前のことです。

古い話題ですが、「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐教授は、それだけ?で暗殺されましたからね。

私が大学で学んだ15年前に較べたらそれなりにイスラームやムスリム(イスラーム教徒)についての情報が日本でも増えてきたと思いますが、それにしても、依然として偏向した意見も多く、マスコミ自体も識者とされるコメンテーターも、‘全くわかっていない’のではと耳を疑うことが今でのあります。

もう少し、隣人としてのイスラーム(教徒)についての配慮が必要なのではないでしょうか。昔とった杵柄というかちょっと古い情報ですが、しばやんからの情報提供として。

アラブ・イスラーム学習ガイド(資料検索の初歩) (©1991)

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/g000.htm

しばやんって何者といわれそうですが、開発コンサルタントが仕事ですが、アラブ・イスラームは大学時代からしつこく?勉強し続けています。

歩きながら考えるがモットーです。

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この記事では、とりあえず「DVDの作成者の脇が甘い」ということと「軽々しくこんな?情報だけでイスラームやイスラーム教徒をジャッジするな」を主張したのですが、どうも気になって、今日(5月25日)、以下の記事をmixiの日記のコメントとして追加しました。
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いろいろ気になって情報を集めているのですが、どうも今回の事件?が誰かの‘意図’によってつくられたものではないかという気もしてきました。

陰謀説に組するものではありませんが、どうも裏がありそうですね。経緯も怪しいし、どうも誰かのメディアに対する、もしくは特定のメディアの情報操作があったような気がします。

でも実際には、マスメディアの報道によって、事実や真実とは違った派生的な情報までが行きかい、果てには元の情報とは違った情報が話題になってしまう。

どうもこちらのマスメディア社会の構造そのものが恐ろしい気がします。これでは市民参加の情報戦というか、別に今の世の中で専門家の優位性や特別性を持ち上げる気はしませんが、どうもみんな手探りで不確かな情報や憶測や思い込みだけで‘世論’というか、なんらかの‘雰囲気’や‘空気’が生み出されてしまう。

この後、この問題が変な展開をたどらないことを祈っています。

P.S.

どうもなんらかの悪意をもったものが情報を操作したという疑惑が抜け切れません。私も‘なにか’に洗脳されているのかなあ。
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こう書き込んだ直後に、こんなブログの記事を見つけましたので、ひとつの見方として紹介します。
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「ジョジョの奇妙な冒険のイスラム教冒涜問題」
このブログでは、ある通信社のマッチポンプではないかという説をあげております。
実際、これからもいろいろな意見や議論がでてくると思いますが、私としましては、どうも裏がありそうですよということのみ述べさせていただいて、一旦、この件につきましては筆をおかせていただきたいと思います。

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2008年5月16日 (金)

「持続的な(経済)成長」や「環境にやさしい(科学技術)」や「貧困削減」について

日本で7月に洞爺湖サミットを控えているためか、最近、上記の言葉をよく日本のニュースで聞いたり新聞などで目にするが、どうも違和感を感じている。

自分自身、その中というか非常に身近なところにいるはずなのだが、なぜしっくりとこないのだろう。別に世論に棹をさすわけではないが、何が気になるのか以下に綴りたい。

「持続的な(経済)成長」

今、地球環境問題や貧困の問題が、ビックイッシューとして、専門的にはグローバルイッシューといわれているが、茶の間にも上るようになってきたが、私にいわせれば、別に今日に始まったことではなく、私が学生時代の20年前でも既にビッグイッシューであった。

その時に、地球環境論という大学のリレー式講義で学んだのは、エントロピーの理論、具体的には熱力学の第2法則であり、つまり閉鎖系では熱は無限大に増大する。定常状態を保つには開放系でなければならないということだった。その時点で、理系のエントロピー学者が提起したのは、今までの経済学は、負の生成物を外部経済として経済の外に締め出して、永久の経済成長を謳ったが、実は物質の循環を無視した(寸断した)上で、かつ閉鎖系での成長のみを夢想?したために、経済活動をすればするほど負の蓄積がたまるという負の連鎖を生み出している。

つまり結論として、(自然)科学法則に従う限り、「持続的な経済成長」はありえないというのが既に当時でも「答え」であった。

「環境にやさしい(科学技術)」

最近、公害を減らすとか環境にやさしい科学技術とかいって、太陽光とか風力とか水力(これは納得できる)が改めて脚光を浴びているが、太陽光発電と原子力については、火力発電と較べても、はるかに効率が悪い。つまり半導体を作ったり原子力の原料を生成することや原子力サイクルを安全に維持するために多くの化石燃料、つまり石油をつかうので、ただ普通に火力発電を行ったほうが、はるかにエネルギー効率がいいというのもまた、20年前でも科学的?には、常識であった。

「貧困削減」

20年前と較べて非常に悪くなったと思うのは、ここまで世界の‘貧困’が日本の茶の間で語られるようになったことである。

私にいわせれば、‘貧困’の定義自体があやしいし、その実体について、具体的にはどう定義されたりイメージされているのかが非常にあやふやだ。

まあ世銀や国連がその言葉(貧困)を盛んに煽り立てたという気がしないでもないが。

つまり、‘貧困’状態は、いつでもどこの社会でもあったと思う。ただ、その露出のされ方というか取り上げられ方がおかしいのだ。

少なくとも私の学生時代は、アフリカやアジアの途上国に対して自然災害や人災(戦災も含む)による具体的な「飢餓」などの事件は話題になったが、事件性のない「貧困」自体が問題になったという気がしないのだ。

昔から「恵まれない子に愛の手を」とかいう実体が判らない抽象的なアジテートは大きらいであったが、どうも「貧困削減」という言葉も、最近、そのような軽い言葉に成り下がってしまった気がする。

「実体が判らない」ということを具体的にいうと、つまり「誰にとっての」とか「何(誰と)に較べて」とか「本人はそのことをどう思っているの」という話者の立場が非常にあいまいであることに私は不信感を感じるのである。

また‘貧困’自体は、途上国にかぎらず日本にもアメリカにもどの社会にも存在するし、どの時代を振り返ってみても、全く‘貧困’と縁のなかった社会はなかったと思う。繁栄の陰に貧困あり、もしくはみんなが貧困? でもその場合、みんなが同じ程度、貧困である場合、彼らは、互いに‘貧困’だといいあうのだろうか。

「貧困」の辞書的な意味としては、「貧乏」とか「困窮」、「不足」などがあるが、日本語の場合、物理的な‘モノ’がない場合にも使うが、精神的な‘コト’を示す場合もある。

つまり‘貧困’とは、「貧しい」ことと「不足」であることをさすようだが、いずれも‘何か’との比較を前提にした言葉であることに注目したい。逆に言えば、比較すべき‘何か’を持たない(知らない)人にとっては、自分の何が「貧しく」て{不足」しているのかを気がつくことは非常に難しい。

結局、何かをわかったつもりの人が、上から目線で「お前は貧困だ」といわなければ、当の言われる人にとってみれば、何が‘貧困’なのかわからないのである。それは、何かとの比較によってしかわからない。逆にいえば、そう言われた人が別の尺度をもってきて、言った人に向かって「お前は貧困だ」ということも原理的に可能である。たぶん、それは、「貧困なる精神」とでもいうのであろう。(これでは、まるで本多勝一だ。こりゃ^^?)

本来の「貧困」の意味は、もっと多様でいろいろな側面や性質を持つはずである。また福祉学では常識であるが、人生の年代によっても「貧困線」を下回る危機がおとずれる。同じ人であっても時期によって貧困になるときも、それを乗り越えられることもある。つまり時間的な流れの中でも、その状態を検討しなければならない。

ところで、そもそも今、学問的に言われている「絶対的貧困」も「相対的貧困」も‘貧困’そのものを指し示したものではない。

もともとは「困窮」状態を経済的に割り戻したのが貧困線だとされているが、そもそも「貧困」理論の根本的な弱点は、経済尺度だけで物事を測ろうとしたところである。

つまり貨幣に換算できる‘もの’の尺度でしか測れないという点は、いかんともしがたい。基本的に旧来の貧困線は、相互扶助とかの社会関係性(ソーシャル・キャピタル論として近年、話題になっている)については見落としというか計算に入っていない可能性も高い。

HDI(人間開発指標)は、それを克服すべく生み出されたといわれているが、それでも‘ものさし’をつくった人間‘が’知覚する‘測れるモノ’の組み合わせでしかない。

ここでは、‘ものさし’の議論をするつもりはないが、誰に都合のよい‘ものさし’、もっと広くいえば‘ルール’であるのかについては、常に考えるようにしたほうがいいと思う。

内省も含めて、得てして力を自覚しているものは自分の都合のいい‘ものさし’で物事を測ったり、自分の‘土俵’だけで人と争いがちではないかという点を指摘しておく。

あとどうしても納得がいかないのが、なぜ「途上国=貧困」という図式が特に日本ではイージーに成り立ってしまうのかが不思議でならない。

最近の若者は、はるかに以前の世代のものに較べて確実に世界が近くなっているはずだ。あなたが旅先でみたものは、「貧困」だけなのであろうか。そこに住む人たち、彼らが作った建造物、着物、食べ物、彼らが手を加えてきた自然など、その土地の歴史や文化を感じるとき、それは「貧困」とは直接違ったものを感じているはずだ。

あと気をつけてほしいのが、どんな途上国でも、ほぼ間違いなくわれわれよりはるかに大金持ちの特権階級(エリート)がいるという現実。彼らが政治や経済などの国の基幹を握り締めていて、その既得権益は容易には手放さない。

また、日本には階層があっても階級がないといわれるが、どの世界でも階層はおろか階級というものが厳然として存在する。階級を越えて下克上とか出世ができる世界は、世界を見渡しても、ほとんど存在しないといわれている。

今、ちょっとおもしろいと思っているのが、インドの「カースト」は「階級」ではなくて「棲み分け」だという話である。今西進化論(生態論)にもつながる話だと思うが、欧米人(イギリス時?)が「階級」と捕らえたこと自体が間違いであるという話がある。このような世界観の読み替え自体、非常に興味があるので、わたしももっと詳しく追及していきたい。

とにかく、時代のデマゴーグや誰かの言った(書いた)理屈や理論にだまされずに、自分の眼でみて自分の頭で考える。自分の納得できない(よくわからない)言葉に惑わされないように生きていきたいものだと思う。

(この項、了)

P.S.

「貧困」論については、以前より社会福祉の文脈で捕らえなおそうとしているが、訳のわからないというか非常に議論の錯綜している難しい問題である。上記では、端的な私見を述べたが本来は、いろいろな学説(経済学、社会学、その他の諸学)をふまえて書き直したほうがいいと思う。

ただ、気をつけなくてはならないのは、自分がどのパラダイムに立つかによって、見方がかなり異なってしまうことである。私は、自分の拠って立つところを無自覚に意見を述べることはしたくない。

学説というか学者の本で不満なのは、その自分が拠って立つところに無自覚なものが少なくないことである。そこを差し引きしつつ本を読まなければならないところが面倒くさいのだが、それがまたおもしろかったりする。まあ、どうでもよいつぶやきですが。

ではでは^^?

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