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2007年5月 6日 (日)

.‘幻想’の「近代人」と‘実態’としての「近代資本主義」 (藤原正彦 『国家の品格』を読んで)

2年前に非常に話題になった本を、遅ればせながらようやく読んでみました。

Photo_3 藤原正彦 『国家の品格』 新潮社 新潮新書 2005年11月20日

話題度: ★★★★☆、 お薦め度: ★★☆☆☆

トンでも本度: ★★★★☆

一言評価: 話題についていくために読んでもいいが、内容はかなりいいかげん。

2005年末の発売以来、いろいろなところで話題になっており、近しい友人からも薦められていたのだが、ようやく、マニラ日本人会図書館で借りて読みました。

一言でいうと、「気持ちはわかるが、かなり論理に飛躍がある」といった感じです。もとより、「第2章「論理」だけでは世界が破綻する」、「第3章 自由、平等、民主主義を疑う」、「第5章 「武士道精神の復活を」、「第6章 なぜ「情緒と形」が大事なのか」というような問題の立て方をしているのですから、論理はどうでもよい(と本人は言ってはいないが)我田引水的な個性的な理論を組み立てています。

問題点が2点、1.上記2章、3章で言っていることは正しいし、特に、第3章のことはわれわれの世代では既に常識になっており、氏のいわんとせんところは分かりますが、なぜ、「武士道精神」なのか、というところがよくわからない。2.また奇異に感じるのが、なぜそこまで、「欧米」にこだわり反発するのかです。

以下、わたしの自論を述べます。

1.‘幻想’の「近代人」と‘実態’としての「近代資本主義」

「欧米」の「近代資本主義」が破綻しているのはもう、私たちにはわかりきっています。このことについては、私のHPやブログで何度も述べていることです。あと、私の今の到達点としては、「近代資本主義」を始め、近代・現代のパラダイムは、ほんの世界の片隅の方だか10億未満の先進国といわれる人たちの中で共有されていると信じられているだけであり、世界人口を60億人とすると、わずか5分の1の人だけの価値感(もう宗教といってもいいのですが)でしかありません。‘実態’として存在する近代資本主義、しかしながら決してたどり着くことのできない‘幻想’の「近代人」ということは、岡田斗司夫が既に12年も前に述べていますし、彼以下の世代は、とっくに「近代人」になることをあきらめています。

ここで気をつけなくてはならないのが、「欧米」自体をもっと相対化する必要があります。日本人は、すぐ日本人vs欧米人という対立を持ち出しますが、そこでは「欧米」自体の多様性と階層性が無視されています。ラベリング理論の限界であるのですが、結局、われわれが使っているのは「欧米」というステレオタイプの、われわれ日本人が勝手に作り上げた「欧米」像でしかないということに気をつける必要があります。

今、「反西洋思想」(Occidentalism)という言葉が話題になっていますが、これは、エドワード・サイードが言い出した「オリエンタリズム」という概念と密接に関連することは明らかなのですが、われわれに必要なのは、個々の人間をみることであり、実態や実感のわかない「概念」用語に、わかりもしないのに振り回されることではありません。

藤原氏もある程度に、具体的な‘西欧人’との会話を引用していますが、これは、彼いうところの「世界のトップ・エリート」との会話がほとんどです。つまり、普通の市井の人との会話から生まれた議論ではありません。彼の知っている限られたエリートや、「欧米史」の一部の知識から話しているだけのことです。(彼の言っていることは、一般の日本人には受けるが、学界では常識の話。)

われわれは、先進国でも黒人や移民、マイナリティー、テレビや映画の表舞台には、なかなか(決してとはいわない)でてこない‘普通’の人たちをどこまで知っているのでしょうか。ましてやイスラームの人たちや、世界中の長い歴史と文化をもつ‘途上国’といわれる人たちが、日常考えていること、彼らの行動規範をどれほど知っているのでしょうか。

21世紀を生きかつ考える際に、絶対に押さえておかなくてはならないのは、イスラーム(特に、エジプト、イラン)、インド、中国など、文字に書かれた長い歴史をもつ人々の世界観、無文字世界ではあっても、それなりの倫理と論理をもつ世界のひとたち、つまり、①西欧、②日本、③文字文化をもつ今まで(中世まで)の先進国世界、④無文字世界の人たちに対する理解の、少なくとも4つの尺度を持つ必要があると思います。

当然、そんな教育は日本ではやっていないので、自分で身につけようと努力する人でないと、「21世紀の国際人」は語れないでしょう。

2.日本のソフトウェアは、「武士道」だけではない。

ここで、私が勉強している「開発民俗学」に引きつけていうと、世界はそれほど単純で簡単なものではないということと、世の中の重層構造にもっと眼を向ける必要がある。ということです。私の敬愛する歩く仲間の大先達のみなさまは、‘普通’の人たちの世界に暖かいまなざしと尊敬、信頼の念を置いています。宮本常一、鎌田慧、家島彦一、鶴見良行、前嶋信次、どなたもそれぞれの分野で偉大な業績を上げている方々ですが、実際に現場から問題を立てて、記録に残されない普通の人々の喜怒哀楽を共にする。アラビア史の前嶋先生に限って言えば時代的な制約があったにせよ、他の方全てが、フィールドワークを研究の出発点として、‘大’理論から遠くはなれて、事実を積み重ねて自論を展開していきます。

また少なくとも、日本を語るには、網野善彦、宮本常一の現状認識の方法論を知らなければならないと思います。彼らの書いてあることがいい(絶対と言っている)のではなくて、その対象へのアプローチの仕方にこそ、学ぶことが多いということです。

私は、まだ「武士道」自体について調べていないのですが、もし自分が調べるとしたら、1.「武士道」の考えからの歴史(的変遷)を通史的に、しかも武士とは違う人たちの価値観との違いを押さえていくこと、たぶん「武士道」だけの価値観は‘純粋には’抽出されないであろうというところまでみえていますが、2.仮に「武士道」のエッセンスが概定されたとしても、それを現代に生かすためには、かなりの取捨選択が必要であろう、つまり21世紀の価値観で、新たに「武士道」たるものを再発見していく、今の価値判断で間違っているとかおかしいものは思い切って省いていくという作業が必要であると思います。

つまり、「武士道」の再構成が、今、求められているのです。私が思うに、それは既に、藤原氏のいうものとも新渡戸稲造のいう「武士道」とも違ったものになっているだろうと思います。

ぶっちゃけていわせていただけば、別に「武士道」などという‘過去の栄光’というか‘看板(ラベル)’を使わなくても、シンプルに、日本人の‘価値観’を世界に問うてゆけばよいのではないでしょうか。

全てのものが‘よい’とは、納得いただけないでしょうが、いくらかの部分は世界的に同意・納得いただけるかもしれません。つまり、藤原氏のいうところの、‘普遍的な’価値観のある一部分を、日本の知見から提示できるのかもしれません。私としては、それだけで、十分に日本人の世界における‘存在価値’というもの、これが、藤原氏のいう「国家の品格」と同じ‘もの’であるのかわかりませんが、であろうと思います。

P.S.

ここまで書いてきて、なんで、みんな‘セットメニュー’が好きなのかと思いました。「近代資本主義」にせよ、「イスラーム」にせよ、この「武士道」にせよ、それぞれの宇宙観や世界観を内在しています。でも、このセットメニューを受け入れるか受けいれないかを議論するのではなくて、それぞれの‘いいとこどり’をするというアプローチがあってもよいし、それが、まさに日本人が今までやってきたことなのではないのでしょうか。

私は、「よいものはよい」ということを、それぞれが主張しあって、優劣を決めるのではなく、「それもあり」なのだということを、それぞれが学んでいくことが、世界の多様性と未来への可能性を確保することにつながると想うのですが、いかがでしょうか^^?

あと問題を単純化するのがみんな好きだなあと思いましたね。絶対に論文としては、この本のような進め方はNGだと思います。みなさんの情緒に訴えるというか、まあメディアをうまく使っているといえば、それまでですが、もっと‘自分で考える’必要があると思います。冗談ではなく、本当に。

(この項 了)

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