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2007年5月

2007年5月14日 (月)

本多勝一 『職業としてのジャーナリスト』

axbxcxさんと議論?していて、本多勝一は懐かしいという話と、でも「二分論」はちょっと古いよねという話で盛り上がったのだが、その際、ままや、この話はもう本当に古い議論なのかという点と、自分の思考パターンが深く本多勝一氏の論理によっていることにあらためて気がついて愕然とした。

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/life_i_love_you/2007/05/post_cf38.html

いまはやりの言葉でいえば、『反西洋思想』の一つの急先鋒が1960年代から1970年代にかけての本多勝一ではなかったのか。本多勝一は、わたしが中学校から高校生時代にかけて非常に傾倒したジャーナリスト(というか思想家?)で、当時、朝日文庫版の「本多勝一シリーズ」はほぼ全巻読破していたと思う。残念ながらいま手元に数冊しかないので、彼の「二分論」がよく現われている著作として以下を挙げる。

Photo_12 本多勝一 『職業としてのジャーナリスト』 朝日新聞社 朝日文庫 1984

お薦め度: ★★★★☆、 一言コメント: 日本人で人文科学や社会科学を志すものはマストの文献。

結局、一言コメントで全て語ってしまいましたが、今の社会で活躍している1955年生まれ以降の世代の研究者やノンフィクション(ジャーナリストやルポライター)を書くもので、本多勝一の影響を受けていないものは皆無であると思う。いたらそれはもぐりであろう。

わたしは、大学生から社会人になるにつれて、少し距離をおくようになったが「支配される側とされる側」という「二分論」議論は、当時非常に説得力もあったし、今でも十分の妥当性と説得力をもっているものと考える。

いま、社会全体がオブラートで包んだようになっていて、白黒はっきりさせるな(できない)とか、とかく灰色であることを強調して人を煙に巻く、つまり自分を絶対安全圏において、いかにももっともらしいことをいう知識人というか有識者が非常に多い。こだわるようだが、安倍晋三総理の「歴史認識は有識者(歴史学者)にゆだねる」発言は絶対にわたしは許さない。どうせあなたはお抱え学者に自分の好きなことを代弁させるつもりなのだろうということがみえみえである。それほど、われわれはお人よしの馬鹿ではない。小賢しいことをしていると、そのうち足元をすくわれますよ。http://homepage1.nifty.com/arukunakama/y2007NewYear.htm

ともあれaxbxcxさんへの返答でも書いたが、‘自分自身の立場’を自覚せよという意味では、援助業界に限らず、人間世界に生きていく上で最低限のエチケットというか重要なマナーを教えていただいた気がする。

「今まで、本多勝一の影響で、「客観というものは存在しない」というところまではきていたのですが、自分の‘主観’自体を客観視するというところまでは思い至りませんでした。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030028.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog052.htm

でも「する側、される側」の理論というのも、そもそもは、自分を‘客観化’し、世間でいわれている‘客観’に惑わされずに、自分で主体的に自分の立場(=‘主観’)を選びなさいという意味では、自己の相対化による主体性と、自覚をもつという意味で、同じようなことを意味していたのかもしれません。」

本多勝一については、以下の文章でもふれているので、ご参考まで。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00015.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n000281.htm

でもまあ、本多勝一本人もさることながら、彼を取り巻く環境、京大探検部とか、京都学派の存在もあわせて評価されるべきではなかろうか。

関西系の学問のテイストって実は私も好きで、これは大阪で大学生をしてみてよくわかった。そもそも大阪外大も貿易商の奥さんのおばちゃんが私財で作った大学だし、関関同立や阪大、府大、市大、神大、竜谷大、国際仏教大学など、いろいろ東京とは違ったテイストの学問的な土壌があるような気がする。京大で言えば、梅棹忠夫、今西錦司、京大の人文研、東南アジア研究所(いまのアジア・アフリカ地域研究所)など、非常にユニークな仕事をしていると思う。

いかんせん、関西人は、まだ社会への発言度が小さいというか東京ほどメディアにのりにくいというきらいはあるが、結構、本多勝一みたいな鬼っ子のような形で、中央(東京)で気を吐いているのかもしれない。

本書に掲載のうち、「職業としての新聞記者」(1971)、「海外取材の旅」(1971)、「私の取材方法と認識論」(1981)などは、確かに古い議論かもしれないが、今でも示唆に富むと思う。

P.S.

今の時代に、本多勝一のエッセンスを伝えるものとして、彼の認識論、フィールドワーク論、ジャーナリスト論(取材・執筆論)についてのダイジェストがあってもよい気がする。つまり今の若い人に読めといっても時代背景がわからないので、かなりとっつきにくいものと既になっていないか。誰が編者がついて、時代背景の解説をつけたアンソロジーができれば、非常にすっきりとこの思想家(ジャーナリスト)の輪郭がつかめると思うのだが。

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2007年5月13日 (日)

2.参加型開発理論の盲点、スケールの問題

わたしも業界人のひとりとして、参加型開発とかミレニアムディベロップメントゴールなどに無関心ではいられない。ここでは、参加型開発とODA、NGOとの議論で何がかみ合わないかについて私見を述べたい。

1.スケールの問題

わたしは、開発の専門家として関連する人には、出来る限りあって話をしようとしているが、NGOの方と話していて、特に違和感を感じることがある。

ずばりスケールの問題である。スケールとは、事業規模、具体的には対象とする地域の面積、受益者の数、技術的なアプローチの仕方などをいう。特に、わたしはODAの仕事をしている開発コンサルタント会社に籍をおいていることもあり、どうしてもわたし(たち)が考えるアプローチは、国家政策から次第に管区、州、市町村という風に、トップダウンで‘政策’の整合性を検証しつつ、ボトムアップの計画を立案しようと考える。

ここで、参加型開発について一言いいたいのが、現地の人々のリアリティを重視しようとする方針そのものには何の批難すべき点はない。しかし、ボトムアップだけでよいのかというのが、そもそも論としてある。確かに、英国のロバートチェンバース氏ら欧米の開発コンサルタント(研究者)が主に得意としている(ブラック)アフリカや中南米、西南アジアの一部の国、地域では、国家組織と従来の歴史的な住民組織の二重構造が、国家政策と実際の住民の求めているものとの乖離という問題を起こしてきたもの事実であろう。もっといえば(欧米の)国際開発機関の現地政府や、その中の開発対象地域へのプロジェクトの押付がいかに間違っていたかの方が問題なのであるが、彼らのそれなりに自己批判しているようなので、それはさておく。

しかし、問題は2点ある。

この続きは、歩く仲間(HP)でお楽しみください^^?

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog078.htm

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1.社会保障制度考

今まで、‘発民俗学への途’という集中講義を書いてきたが、ほぼ第1期の目処がついたので、方法論・各論へと入ろうと思う。この連載では、私自身の問題点の整理を一義的に考えているため、かならずしも結論があるわけではない。ただし、問題意識の立て方やアプローチの仕方で参考になることもあるのではないかと思う。当然、読者諸賢の批判的なご意見も賜りたいと思っている。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm

1.社会保障制度考

今、(日本の)社会福祉関係の分野の教科書*を読んでいる。主に‘貧困’概念の整理、貧困把握の仕方、公的扶助論、セイフティネットの考え方について、社会福祉ではどう考えているかについて調べたいというのが理由である。

*岩田正美、岡部卓、清水浩一編 『貧困問題とソーシャルワーク』 有斐閣 2003

非常によい教科書だとは思うのだが、読むうちに、ううん?と立ち止まってしまった。学問の自明性というか、われわれは論を進める際に、自分が立っている土台というかスタート地点に無自覚に立脚していることが多い。

この教科書では日本の社会保障制度を語っているのだが、「近代資本主義」社会となった明治というより昭和の戦後を中心に語っており、「近代国家」であるという前提条件を自明のこととして議論が進められていく。しかしながら、この枠組みで語られる「公的扶助=生活保護制度」は、あくまでシステムありきの制度設計上の議論であり、なにを貧困とするのかなど欧米各国と日本とのそれぞれの社会構成や歴史・地理の違いなどを一旦無視して、欧米の「(近代)社会保障制度」をそのまま日本に持ってきて、その適用の可能性を探っている(という現実を)ことを教えているのに過ぎない。つまり理論的な根拠や制度設計を疑ってもいけないし、あくまでも現行法理論上での現場での適用の仕方を考えろと励ましているのに過ぎないのである。

まあ、日本の学問自体が、その足元を深く考えないで枝葉の応用を考えるというきらいはあるのだが。

ところで、藤原正彦氏も『国家の品格』で言っているが、「論理はスタート地点を決めなければいけないが、スタート地点を決めるのは論理ではなく感性である」というテーゼがある。

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_2a1d.html

↑ちょっとけなしているようだが、実は結構私の考えているところと非常に似ている点が多い。ただ議論の進め方が雑だと私は言っているのである。

われわれの世界を考える際に、やはり‘ユートピア’ではなく現実に生きる世界を議論の対象としなければならない。われわれ日本人の場合は、たまたま「近代資本主義社会」であるというだけである。確かに、日本の内部にもいろいろな側面を併せ持っていることは自明であり、その前近代的要素が場合によっては濃厚に残っていることは事実である。しかしながら、なぜか‘学問’的に考える人つまり大学の先生がいうことは、それを暗黙の了解として‘理論’的に議論を進めてしまうので、どうも私はついていけない。

というか、議論の出発点の自覚が必要なのではないかということなのである。

開発民俗学的に考えるとしたら、やはりまずその当該の地域なり国なりがどんな社会的な現実に立っているかの提示が必要であると考える。

公的扶助、セーフティネットの問題は、4,5年前から問題意識をもってみているが、日本の論調は、やはり金銭的な側面で捉えられているものが多いように見受けられる。特に途上国開発を考えるには、まず現状の把握と、その文脈にたった公的扶助、セーフティネットの‘再’構築が必要であると考える。

この続きは、歩く仲間(HP)でお楽しみください^^?

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog077.htm

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2007年5月11日 (金)

鎌田慧 『ぼくが世の中に学んだこと』

‘開発学’を語る以前にどうしても触れなければならない本がある。

Photo_10 鎌田慧 『ぼくが世の中に学んだこと』 筑摩書房 ちくま文庫 1992

(初出:ちくま少年図書館70 1983)

お薦め度: ★★★★☆

実は、既に歩く仲間HPの中で何度も触れているので、そちらも参考にしていただくとして、私が一番、このジャーナリストの著者から学んだことは、「普通の人たちの営み」といおうか、鎌田氏は「下積みのひとびと」といっているが、そのかけがえのなさとでもいおうか。

最後の章に「ひとびとの中で」という節がある。

「大学にはいるまえに町工場ではたらいたことで、ぼくはごく一部のことだとはいえ、社会を体験した。・・・/フリーになったおかげで、いろいろなところで、いろんなひとと出会うことができた。それも、「取材」で会う、というよりは、おなじ場所にいる仲間としての話しあいができたのだった。/新日本製鉄やトヨタ自動車や旭硝子など、日本でも有数の大企業ではたらいて、そこがはたからおもわれているような楽園でないことを知った。・・・その工場の最下層で、名も知れず死んでいく数多くのひとと出会うことができたのだった。/このひとたちは、けっしてめぐまれていなかったが、みんな冗談好きの仲間おもいのひとたちだった。あまりに心優しいからこそ、いまの社会ではめぐまれない、ということなのかもしれない。…」

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0008.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0009.htm

私は鎌田慧よりかなり後になって民俗学者の宮本常一の著作と出会ったわけであるが、この歩く仲間の巨人達の‘人’をみる目は限りなくやさしい。

たとえどれほど科学が発達しようとも、どれほど世の中が便利になろうとも、かならず‘下積みのひとたち’はいるし、彼らがいなければ、この資本主義社会は回っていかない。開発援助とかいって、国外の‘目に見える’貧困を追う前に、日本の中で何が起こっているのか自分の足元をみようとしないわれわれ自身の‘精神の貧困さ’*を問題にすべきではなかろうか。

*「貧困なる精神」とは同じくジャーナリストの本多勝一のルポルタージュ全集のタイトル。このネタは、‘貧困’を語る際にぜひ使ってみたい。すなわち、‘貧困’とは物質的なものではないのですよ。何十年も前から‘精神’と結びつけて考えている日本人がいるのですよという意味で…。欧米の人は眼を白黒させるだろうなあというのは、勝手な私の想像でしょうか^^?

P.S.

ものをみる目の確かさという点で、鎌田慧の取材術(というか精神)には学ぶべき点が多い。今では、手に入りにくいかもしれないが、以下の本はフィールドワーク論として読んでも興味深い。

Photo_11 鎌田慧 『ルポルタージュを書く』 岩波書店同時代ライブラリー 1992 (単行本 1984)

「ルポルタージュは、現在から描いてもいいし、過去から描いてもいいのだけれど、やはり現在と過去がつながっていて、それからその先どこまでみえるかはべつにしても、先につながっていくはずのものです。・・・先がそこから変わっていく、現在の動きの中から未来が変わっていくというその先をみたい。変えることに参加したい。そういう方向にむけたものを読みたいし、書いていきたい。・・・/ひとつの事実が提示されて、世界観を変えてしまうようなもの、そんなルポルタージュを期待しています。」 (171ページ)

開発民俗学の途もかくありたいものです^^?

実は、この本の一節を以下の記事で紹介していますので、ご参照ください。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/y2006Summer.htm

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2007年5月10日 (木)

乙武洋匡 『五体不満足』

最近、小学校の先生になったということで話題になった乙武洋匡さんのデビュー作、本当に今さらなのですが、急に読んでみたくなって、マニラの日本人会の図書館で見つけたが最後、ほとんど立ち読み状態で一気に読みました^^?

Photo_9 乙武洋匡 『五体不満足』 講談社 1998

お薦め度:★★★☆☆

衝撃的な表紙写真も話題となって、ずいぶん売れたと思うのですが、いかんせん、天邪鬼な私は、平積みのこの本を本屋で横目で見つつ、読む機会を逃していました。

今回、手にとってみて、素直に感動したというか驚きました。乙武さんが、このような体で、中学校時代は、バスケットをやったり、高校ではアメリカンフットボールをやったりしていたなんて。本人の努力もさることながら、彼を囲む両親、友達、なにより普通教育を受け入れた小学校、中学校の先生や関係者の方々、彼の周りの人たちの理解と協力、あらためて人の世の奥深さを感じました。

今までは、「五体不満足」であることに世間の目がいっていたのだと思うのですが、私がみておもしろかったのは、早稲田大学に入学したのち「エコ・サマー・フェスティバル・イン・早稲田」や「早稲田いのちのまちづくり実行委員会」に乙武さんがかかわりだすあたりから。ここで「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」などの言葉が、まさに生き生きと動き出したあたりの熱気を伝えています。乙武さんいうところの「多士済済」な人たちによる自分たちの「街づくり」の動き、そうそう、そんな時代もあっただとあらためて思いました。

彼が本の最後で力説する「ボクには、ボクにしかできないことがある」そして「こころのバリアフリー」というメッセージ、まだまだ十分、社会に浸透していないんじゃないかな、ということを思いました。

P.S.

初版が1998年10月20日、わずか半年後の1999年5月20日で第28刷。1976年4月6日生まれの乙武さんがまだ大学生の頃の出版。それからメディアの攻勢と、卒業後の乙武さんの『ナンバー』などスポーツ雑誌記者やテレビ出演などメディアの世界での活躍はよく知られたところですが、その原点がここにある。それにしても、もう10年近くも前のことになるとは^^?しばやんの世間ボケもいいかげんにせいといった感じですね。

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2007年5月 7日 (月)

日本国憲法 施行60周年

さて、今年の憲法記念日(5月3日)は、今までとは非常に違った風向きとなったようである。朝日新聞の記事によると、つまり、改憲論議がいよいよ高まっているそうなのだ。日本で実地に体験できたわけではないので、今、フィリピンのマニラで思うことを述べる。

実は、もう3年半ほど前になるが、2001年9月11日のアメリカの同時多発テロに関して記事を書いた際に、日本国憲法第9条について触れている。この記事より再度、引用させていただく。

Photo_4 宮本常一 『民俗学の旅』 講談社学術文庫 1993年(単行本は1978年)

お薦め度: ★★★★★、 ジャンル: 民俗学

以下、非常に長くなるが、最近何度目かに読み返して、気がついた宮本常一氏の文章を引用したい。(『民俗学の旅』 講談社学術文庫 1993、146頁を参照)終戦直後の昭和21年に渋沢敬三氏を東京に尋ねた折の時のこと。

「ちょうど役所(先生は当時大蔵大臣であった)から帰ってきた先生は「幣原さん(当時首相)は大変なことを考えておられる。これから戦争を一切しないために軍備を放棄することを提唱しようとしておられる」と昂奮気味に話された。

「軍備を持たないで国家は成り立つものでしょうか」とおたずねすると「成り立つか成り立たないかではなく、全く新しい試みであり行き方であり、軍備を持たないでどのように国家を成立させていくかをみんなで考え、工夫し、努力することで新しい道が拓けてくるのではないだろうか。一見児戯に等しい考え方のようだが、それを国民一人一人が課題として取り組んでみることだ。その中から新しい世界が生まれてくるのではなかろうか」と言われた。」

今、安倍晋三首相が、教育基本法を改定し、さらには改憲論を持ち出しているが、私は、非常な危機感を感じている。それを、なぜ、どう考えたらよいのか、そんなことを考えるきっかけを、このブログでも取り上げていきたいと思っている。

面倒なようでも自分で考えるということを怠ってはならない。日本国憲法について、2冊、紹介させていただく。いずれも税込み300円の小冊子だ。ぜひ手近において、折節に読みかえしてほしい。

Photo_5 文部省教科書 『復刊 あたらしい憲法のはなし』 小さな学問の書② 童話屋 2001年

お薦め度: ★★★★☆

私は、今でもこの日本国憲法の第9条を解説した部分を読むと、その崇高な理念とそれを学童に教え説こうとした執筆者の熱意に目頭が熱くなってくる。たぶん、本文で触れた渋沢敬三氏の言葉にあるようなことを、まさにみんなで考えようとしていた時代を感じることができる。

Photo_6 童話屋編 『日本国憲法 付 教育基本法 英訳日本国憲法』 小さな学問の書① 童話屋 2001

お薦め度: ★★★★☆、

今年の誕生日(4月1日)に、何をもさておいて、わたしは『あたらしい憲法のはなし』と『日本国憲法』を読み返した。今年は、憲法にこだわってみたい。

私のスタンスは、基本的には3年半前と変わっていない。‘死の商人’や‘キリスト教原理主義’などにも触れているので、ぜひ以下を参照されたい。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00020.htm

「2年目の9.11(ナイン・イレブン)の前に考える (自分の頭で考えるということ) 2003年9月9日」

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なぜ‘冬が来る前に!’なのか?

今回、「歩く仲間ブログ」に、‘冬が来る前に!’というカテゴリーを作成しました。このテーマについては、2007年の‘歩きながら考える’の特集記事として「歩く仲間HP」で今年の通年テーマとして考えています。

2007年 新年のご挨拶
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/y2007NewYear.htm

冬が来る前に (その1) 2007年を迎えるにあたってhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00031.htm

冬が来る前に (その2) ダーウィンの悪夢をみてhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog046.htm

すこし以前の記事ですが、こんなんもあります。

アメリカ同時多発テロと東ティモールのPKF http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030024.htm

チェチェン武装勢力のモスクワ劇場占拠事件に思うhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030028.htm

剣を取る者はみな剣で滅びる(マタイ26-52) 映画“パッション(キリストの受難)”をみてhttp://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00021.htm

しばやんのアウティング@スービック(米軍 海軍基地跡とピナツボ火山噴火の後をみて思ったこと) http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00027.htm

イギリス・ロンドン同時多発テロ勃発

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/d030041.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog011.htm

誰のための旗? 国旗を掲げるということ。http://homepage1.nifty.com/arukunakama/blog033.htm

テーマは、‘開発(援助)’というより、それ以前からの私の問題意識、例えば、差別、原爆のこと、死の商人のことなどを扱います。その中で、私自身の‘反西洋思想’をも扱います。書きたいことがいろいろあるのですが、まとめて書くのもしんどいので、断片的になってしまうかもしれませんが、折節につづっていきたいと思います。

想定されるテーマ

1.なぜ、私が原爆や平和や差別にこだわるのか?

2.私の(擬似)被爆体験 ~1985年4月11日 人間をかえせ をみて~

3.平和のハットトリック・プラス・ワン(被爆地巡礼(広島、長崎、夢の島)+ゲルニカ@マドリッド)~

4.死の商人とは(ちょっと気が重いテーマ、でもある程度ふれざるを得ない)

5.差別と辺境地 ~異人論考~

6.‘知は力なり、ただし、開かれたものでなくてはならない’ しばやん@1991

7.なぜ、今、平和憲法が必要なのか。日本国憲法・再考

8.21世紀に求められる総合的な知の体系(パラダイム)とは?

う~ん。いかにも難しそう^^?でも、そんなに肩の凝るような話ではないです。なぜなら、私の体験というか経験からおこした話のなので、決して理論や理屈や、形而上学の話ではないからです。

過去のネタもいろいろあるのですが、やはりビビッドな感動を与えてくれた映画や考えるきっかけをつくってくれた本など関連する最新の話題についても同じカテゴリーで紹介していきたいと思います。

また裏の目的として、日本国憲法施行60周年に対する‘しばやんなり’の議論のネタだしということを考えています。 ← これは、ちょっとというか‘かなり’本気です。

よろしくご高覧ください^^?

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2007年5月 6日 (日)

.‘幻想’の「近代人」と‘実態’としての「近代資本主義」 (藤原正彦 『国家の品格』を読んで)

2年前に非常に話題になった本を、遅ればせながらようやく読んでみました。

Photo_3 藤原正彦 『国家の品格』 新潮社 新潮新書 2005年11月20日

話題度: ★★★★☆、 お薦め度: ★★☆☆☆

トンでも本度: ★★★★☆

一言評価: 話題についていくために読んでもいいが、内容はかなりいいかげん。

2005年末の発売以来、いろいろなところで話題になっており、近しい友人からも薦められていたのだが、ようやく、マニラ日本人会図書館で借りて読みました。

一言でいうと、「気持ちはわかるが、かなり論理に飛躍がある」といった感じです。もとより、「第2章「論理」だけでは世界が破綻する」、「第3章 自由、平等、民主主義を疑う」、「第5章 「武士道精神の復活を」、「第6章 なぜ「情緒と形」が大事なのか」というような問題の立て方をしているのですから、論理はどうでもよい(と本人は言ってはいないが)我田引水的な個性的な理論を組み立てています。

問題点が2点、1.上記2章、3章で言っていることは正しいし、特に、第3章のことはわれわれの世代では既に常識になっており、氏のいわんとせんところは分かりますが、なぜ、「武士道精神」なのか、というところがよくわからない。2.また奇異に感じるのが、なぜそこまで、「欧米」にこだわり反発するのかです。

以下、わたしの自論を述べます。

1.‘幻想’の「近代人」と‘実態’としての「近代資本主義」

「欧米」の「近代資本主義」が破綻しているのはもう、私たちにはわかりきっています。このことについては、私のHPやブログで何度も述べていることです。あと、私の今の到達点としては、「近代資本主義」を始め、近代・現代のパラダイムは、ほんの世界の片隅の方だか10億未満の先進国といわれる人たちの中で共有されていると信じられているだけであり、世界人口を60億人とすると、わずか5分の1の人だけの価値感(もう宗教といってもいいのですが)でしかありません。‘実態’として存在する近代資本主義、しかしながら決してたどり着くことのできない‘幻想’の「近代人」ということは、岡田斗司夫が既に12年も前に述べていますし、彼以下の世代は、とっくに「近代人」になることをあきらめています。

ここで気をつけなくてはならないのが、「欧米」自体をもっと相対化する必要があります。日本人は、すぐ日本人vs欧米人という対立を持ち出しますが、そこでは「欧米」自体の多様性と階層性が無視されています。ラベリング理論の限界であるのですが、結局、われわれが使っているのは「欧米」というステレオタイプの、われわれ日本人が勝手に作り上げた「欧米」像でしかないということに気をつける必要があります。

今、「反西洋思想」(Occidentalism)という言葉が話題になっていますが、これは、エドワード・サイードが言い出した「オリエンタリズム」という概念と密接に関連することは明らかなのですが、われわれに必要なのは、個々の人間をみることであり、実態や実感のわかない「概念」用語に、わかりもしないのに振り回されることではありません。

藤原氏もある程度に、具体的な‘西欧人’との会話を引用していますが、これは、彼いうところの「世界のトップ・エリート」との会話がほとんどです。つまり、普通の市井の人との会話から生まれた議論ではありません。彼の知っている限られたエリートや、「欧米史」の一部の知識から話しているだけのことです。(彼の言っていることは、一般の日本人には受けるが、学界では常識の話。)

われわれは、先進国でも黒人や移民、マイナリティー、テレビや映画の表舞台には、なかなか(決してとはいわない)でてこない‘普通’の人たちをどこまで知っているのでしょうか。ましてやイスラームの人たちや、世界中の長い歴史と文化をもつ‘途上国’といわれる人たちが、日常考えていること、彼らの行動規範をどれほど知っているのでしょうか。

21世紀を生きかつ考える際に、絶対に押さえておかなくてはならないのは、イスラーム(特に、エジプト、イラン)、インド、中国など、文字に書かれた長い歴史をもつ人々の世界観、無文字世界ではあっても、それなりの倫理と論理をもつ世界のひとたち、つまり、①西欧、②日本、③文字文化をもつ今まで(中世まで)の先進国世界、④無文字世界の人たちに対する理解の、少なくとも4つの尺度を持つ必要があると思います。

当然、そんな教育は日本ではやっていないので、自分で身につけようと努力する人でないと、「21世紀の国際人」は語れないでしょう。

2.日本のソフトウェアは、「武士道」だけではない。

ここで、私が勉強している「開発民俗学」に引きつけていうと、世界はそれほど単純で簡単なものではないということと、世の中の重層構造にもっと眼を向ける必要がある。ということです。私の敬愛する歩く仲間の大先達のみなさまは、‘普通’の人たちの世界に暖かいまなざしと尊敬、信頼の念を置いています。宮本常一、鎌田慧、家島彦一、鶴見良行、前嶋信次、どなたもそれぞれの分野で偉大な業績を上げている方々ですが、実際に現場から問題を立てて、記録に残されない普通の人々の喜怒哀楽を共にする。アラビア史の前嶋先生に限って言えば時代的な制約があったにせよ、他の方全てが、フィールドワークを研究の出発点として、‘大’理論から遠くはなれて、事実を積み重ねて自論を展開していきます。

また少なくとも、日本を語るには、網野善彦、宮本常一の現状認識の方法論を知らなければならないと思います。彼らの書いてあることがいい(絶対と言っている)のではなくて、その対象へのアプローチの仕方にこそ、学ぶことが多いということです。

私は、まだ「武士道」自体について調べていないのですが、もし自分が調べるとしたら、1.「武士道」の考えからの歴史(的変遷)を通史的に、しかも武士とは違う人たちの価値観との違いを押さえていくこと、たぶん「武士道」だけの価値観は‘純粋には’抽出されないであろうというところまでみえていますが、2.仮に「武士道」のエッセンスが概定されたとしても、それを現代に生かすためには、かなりの取捨選択が必要であろう、つまり21世紀の価値観で、新たに「武士道」たるものを再発見していく、今の価値判断で間違っているとかおかしいものは思い切って省いていくという作業が必要であると思います。

つまり、「武士道」の再構成が、今、求められているのです。私が思うに、それは既に、藤原氏のいうものとも新渡戸稲造のいう「武士道」とも違ったものになっているだろうと思います。

ぶっちゃけていわせていただけば、別に「武士道」などという‘過去の栄光’というか‘看板(ラベル)’を使わなくても、シンプルに、日本人の‘価値観’を世界に問うてゆけばよいのではないでしょうか。

全てのものが‘よい’とは、納得いただけないでしょうが、いくらかの部分は世界的に同意・納得いただけるかもしれません。つまり、藤原氏のいうところの、‘普遍的な’価値観のある一部分を、日本の知見から提示できるのかもしれません。私としては、それだけで、十分に日本人の世界における‘存在価値’というもの、これが、藤原氏のいう「国家の品格」と同じ‘もの’であるのかわかりませんが、であろうと思います。

P.S.

ここまで書いてきて、なんで、みんな‘セットメニュー’が好きなのかと思いました。「近代資本主義」にせよ、「イスラーム」にせよ、この「武士道」にせよ、それぞれの宇宙観や世界観を内在しています。でも、このセットメニューを受け入れるか受けいれないかを議論するのではなくて、それぞれの‘いいとこどり’をするというアプローチがあってもよいし、それが、まさに日本人が今までやってきたことなのではないのでしょうか。

私は、「よいものはよい」ということを、それぞれが主張しあって、優劣を決めるのではなく、「それもあり」なのだということを、それぞれが学んでいくことが、世界の多様性と未来への可能性を確保することにつながると想うのですが、いかがでしょうか^^?

あと問題を単純化するのがみんな好きだなあと思いましたね。絶対に論文としては、この本のような進め方はNGだと思います。みなさんの情緒に訴えるというか、まあメディアをうまく使っているといえば、それまでですが、もっと‘自分で考える’必要があると思います。冗談ではなく、本当に。

(この項 了)

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