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2007年3月

2007年3月20日 (火)

仕事を‘させて‘いただくということ。

残され坊主というか、昨夜(深夜2時過ぎ)に自宅で残業をしていて、ふと思いついたこと。忘れないように書いておきたいと思います。

半分ぼーとしながら、プリンター・ファックス・コピーの俗にいう複合機でコピーを取りながらふと気が付きました。たしかに、毎日忙しいけど、仕事があるだけでもありがたいことだし、そもそも自分がフィリピンにいるのも、会社が自分の能力を信じて派遣しているだけのこと、考えてみたら自分が本当に適任(Right Person)であるかすら、誰にもわからない。自分より頭のいい人も性格のいい人もいっぱいいるし、まさにたまたまめぐり合わせて自分がここにいるのみ過ぎない。

そう考えたら、自分は仕事を‘している’のでもなく‘させられている’のでもない。仕事に選ばれて、仕事を‘させていただいている’という事実に気づかされました。

確かに、自分もさぼったり遊んでばかりいたわけでもない。でも、‘めぐり合わせ’というものは事実としてあります。

どんなに才能があっても能力があってもタイミングがあわないだけで、その真価を発揮できない。逆に、能力がなくてもどんどんチャンスを与えられて大きく育っていく人もいます。

いまつくづく思ったのは、どう考えても自分は後者だと。よくもまあ、上司や先輩が(大いにあきれつつも)、よくぞまあ暖かい眼で、こんなとろい人間に仕事を‘与えて’鍛えていただいたものだと。

いままで散々、ばかをやってきましたが、いいかげん小さな自己の価値観にこだわることから抜け出し、次のステップへと足を踏み出さなければなりません。

人が仕事を選ぶのではなく、仕事が人を選ぶ。仕事をつくれとよくいわれますが、仕事はやはり‘社会から’与えられるものであり、自分は、たまたまそこにいたというだけで、仕事を‘させていただく’存在でしかない。

社会も仕事も究極的には、人と人のつながりがそもそもの始まりで、仕事の向こうには、必ず誰か‘人’がいる。

天下の松下電器の松下幸之助翁の言葉に、確か「人間、かわいがられなくてはだめ」といった言葉があったことを思い出します。

仕事にも、人にもかわいがられる。これは安易に迎合するだけではなく、やっぱり、誰々でなくっちゃ。もっといえば、「僕でなくっちゃ」といわれるようなもの、たとえば信用とでもいえるものを築いていくことなのでしょう。

さて、仕事に嫌われないようように、もうひとがんばりしますか。

ではでは^^?

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2007年3月15日 (木)

Thanks for 10,000 counts!

みなさまのご支援をもって、歩く仲間HP(オリジナル)が、10,000カウントを超えました^^?

思えば、2000年3月18日の開設以来、ほぼ丸7年、半年以上更新が止まったり、まあいろいろなことがありましたが、ここまで存続してこれたのも、みなさまの愛願の賜物と思っております。

ところで現状の問題点として、まず次の点が挙げられます。

1.レイアウトと内容がわかりにくい。すぐに読みたい記事にアクセスできない。

→ 結構、いいことも書いてあると思うのだけども(←自画自賛)、いかんせん、記事がページ(リンク)の下に埋もれてしまっていて、自分でも読みたい記事にすぐにアクセスできない^^!

2.文字が多すぎる。

→ 本当は、写真のいっぱい入った絵本みたいなHPにしたいのですが、ページ加工が面倒で、単調なテキストだけの記事が99%です。たぶん。

今後の課題として、

1.現行の記事の読みやすさ、アクセスのしやすさを工夫する。

→ ちょっとづつでもやってみますか。でも結構、面倒っぽいです。

2.HPの利点を利用して解説付きのサイトマップを準備する。

→ 読者の関心を汲んで、特定のテーマごとの‘歩く仲間’の記事へのリンクを並べたサイトマップを作成して、エントリーポイントを新設する。

例えば、「開発援助に関心のある方~学生さんコース~」とか、「フィールドワーカー養成コース~社会科学のリテラシーレッスン~」とか、適当な見出しをつけて関連記事を並べてみる。

これなら基本的に既存のファイルをいじらなくてよいので、早速、やってみたいと思います^^?

3. 新たにまとまったボリュームの単行本に編集しなおす。例えば、PDFファイルで提供。A4で50ページくらいのまとまった論考集をつくる。

→ どうもHP中で使っているネタもダブっているようですし、非常に冗長な部分も多いので、思い切ってテーマを絞って限られた分野ごとに編集しなおすという手もあります。でも、まあ、新しい記事も書かなくてはならないので、次の次の課題ということで^^?

とりあえず、上記2の「‘歩く仲間’の歩き方」でもやってみたいと思いますので、ご期待ください。

ではでは^^!

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2007年3月11日 (日)

だめなものはだめ! マニラで政治不信を叫ぶ!

最近というか、昨年の11月頃から自宅のケーブルテレビの接続が悪いのか、全てのチャンネルが映らずテレビを見ない生活をおくっている。

基本的に日本のニュースは、このケーブルテレビで見ることのできるNHKワールドと、活字のメディアとして衛星版の朝日新聞と、まにら新聞というフィリピンにおける日本語の日刊紙に頼っているのだが、どうも最近の日本でのニュースがかなりつまらないので、逆に幸せともいえる。

もしテレビが見れたら見れたで特にニュースについては、その都度、つっこみを入れなくてはならないので、かなり精神衛生上も悪いと思う。

別にこのブログは政治批評をするところではないので、もう書くのをやめるが、今、日本で必要なのは、‘だめなものはだめ’という勇気なのではなかろうか。

いじめ問題しかり、政治家の事務所経費の問題しかり。後者にいたっては法律に定められた手続きに従っているからと開き直る始末。

まったく話にもならないというか、はるかにレベルが低い。

 だめなものはだめ であろう。

たとえば国会議員の事務所問題しかり。

たかが数千万円ぐらいの事務所経費の管理ができない政治家が、何兆何億という国家財政を扱ってよいものであろうか?

子供の小遣いと一緒である。子供はまず100円とか小さなお金から扱わせるでしょ。そして小遣帳のつけ方を学校で教えてもらうでしょ。なぜ、そんなに簡単なことがあなたにはできないのか。

申し訳ないが、私の幼馴みの40才前の仲間‘ですら’、霞ヶ関で国家公務員として数百億円の予算の管理をおこなっている。われわれよりも10歳も20歳も大人でしかも‘国民の代表’である社会的にも重要な責務にある方が、なぜ、たかだか数百万、数千万円のしかも‘自分’の政治資金の管理ができないのだ。‘秘書’がとか言い訳はやめてほしい。当然、あなたの管理責任、しいてはあなたの政治家としての器が問われているのである。

子供と同じで、たかだか数千万円の管理ができないあなたに、なんで何兆何億円というお金を扱わせてよいものか。その能力がないのなら、あなたの器がそれほどのものでしかないのなら、さっさとやめてほしい。怪我のもとだから。

はっきりいう。シニアの方はどうでもよいが、私と同世代以下の政治家が、このようなふざけたことをすることは私は絶対に許したくない。まったく国民を馬鹿にしていないか。

先輩をみればその部下というか後輩のレベルがわかるといわれている。いったい、あなたたち政治家は何を先輩の代議士から学んでいるのか。

くだらない権力闘争や金儲けを考えて政治家をするのはやめたほうがいい。政治家は、世襲でもなんでもない。たんなる‘国民の代表’である。

それ以上でもそれ以下でもない。国民の意見を聞かないもしくは聞く能力のないものは即座にやめてほしい。(私のいうこと‘だけ’を聞けといっているわけではない。当然のことながら)

国家は政治家の‘おもちゃ’ではない。自分の信念は結構。ちゃんと説明責任を果たしていただきたい。

今年は、参議院選挙の年。幸い、在外選挙人登録をしましたので、ちゃんと一票を行使させていただきますよ^^?

って、マニラで日本の政治不信を叫んでもどうにもならないのですが^^!

ってあきらめてもいけない。

ただ、今の日本の流れは非常におかしいと思う。

最近、日本でもちょっと話題になっている大田光・中沢新一 『憲法九条を世界遺産に』 集英社新書 2006 を読んだ。

この感想は別に取り上げたいが、自分も今言っておかないと絶対に自分が後悔するというか、日本のみならず世界は大変な岐路に立たされていると思う。

ここで安易な道に流されてしまったら・・・。

わたしは、すでに今年を「冬が来る前」と位置づけている。これからどんどんつらく厳しい時代がやってくると思う。でもここであきらめてはいけない。

たとえひとりになっても、やはり「だめなものはだめ」と叫び続けたいと思う。

マニラの自宅にて。

2007年3月11日 午前1時30分

P.S.

最後に一言。やはり、このような‘情けない’政治家をもたざるをえない子供はかわいそうである。このような人物しか選べない(ばない)われわれ選挙権をもつ大人もある意味、同罪だ。なさけないし、なにより恥ずかしい。大人の自覚というかもっと次世代に対して責任を持たなくてはならない。

⇒ でも、たんなる一市民である私にここまで言わせるとは、反面教師としての存在価値は十二分にあるわけです。かといって、そのままで留まっていていいわけありませんぞ。

君子は豹変す。過ちは過ちとして潔く間違いを認めて、もっと大切なことを議論してください。こんなくだらないことのためにわれわれがあなたたちを食べさせているわけではありませんよ。(国会議員の給与は税金でまかなわれています。いわずもがなですが)。

でもなんで国民特にサラリーマンからギュウギュウ税金を搾り上げておきながら、あなたの事務所経費は領収書なしでよいのだ。国民年金を支払っていない議員さんもいたし。まず国民の義務を果たしてから政治家に立候補していただきたいものである。

もうこんなレベルの政治しかできない政党なんていらない。バーチュアル政党でも立ち上げてやろうかしらん。老人党だってあるんだし・・・。

⇒ とりあえず‘しばやん’ 推薦ぐらいからはじめましょうか^^?

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2007年3月 8日 (木)

農民の比較 70年前の日本と今のフィリピン

今週の日曜日(3月4日)から今日まで、ミンダナオ島に調査に行ってきました。

ダバオを起点に、中部ミンダナオの農地改革地区を見てまわったのですが、やはり久し振りの現場は心踊るものがあります。

以前、別のところでも書いたと思いますが、私は、大体3冊ぐらいの本を並行して読んでいます。特に旅行のときは、それなりに移動中とか集中して読めるので、旅に持っていく本を選ぶのは、それなりの楽しさがあります。

さて、これら旅先で読む本は自宅や町中の日常で読むのとは別の趣があります。今回は、ずいぶん前から読みかけてはいたのですが、なかなかページが進まなかった文庫本 猪俣津南雄 『踏査報告 窮乏の農村』 岩波文庫 1982 を持っていきました。旅先には、やはり文庫本か新書本がかさばらなくていい。

Konkyu ところで、この本、天下の岩波とはいえ今の飽食というか贅沢な日本の世の中、いかにも売れそうにないタイトルです。私の持っていった本は定価400円のところ300円で買った古本で、1988年時点で5刷。その当時としては結構売れたのでしょうか^^?

この本は、戦闘的マルクス経済学者である猪俣津南雄氏が、昭和9年の昭和恐慌下の東北から中国地方まで、解説にいわく青森から岡山まで2府16県にわたる農村踏査して書いた報告(ルポルタージュ)で、「初篇 窮乏のさまざまの型」、「中篇 農民から観た農村対策」そして、「終篇 農民の喘ぎ求めるもの」からなっています。

開発途上国の農村開発の仕事が会社の本業で、私もその末席に名を連ねているわけですが、途上国の農村を考える場合に、少なくともアジアに限ってみても、やはり日本の経験は非常に参考になります。

確かに、人間もメンタリティーも自然状況も違うのですが、マルクス経済学者であるのを差し引いても、特に貧農を分析するのにあたって、「自然経済と商品経済の矛盾」と看破しているあたり、問題意識の立て方、その実地調査の経験、事前に質問票を関係者に送っていたようですが、広範な行政官、農民をインタヴューして得た生の声の分析は、今でも十分、納得できるものでしょう。

ただ、わずか70年しか昔でないのに、しかも自分の生まれ育った日本のことなのに、ここに描かれた農村や農民が具体的にイメージできなかったのが個人的には残念でした。それだけ、私たちの生活が変わってしまったことと、農民が大多数であった祖父母の時代から、給与所得者が大多数となった父母の時代、そして、職業の選択肢がサラリーマンしか思い浮かばないようなわれわれの世代の断絶と、都市化の進捗の激しさをも象徴しているのでしょう。

ともあれ、今、先進国の開発援助のコンサルタントや学者の間で話題になっている地域開発や農村開発の理論や政策が、既に、70年前の日本でうまくいかなかったことが如実に説明されていることを知るのは、まったくもって皮肉なことです。今から挑戦しようとしているアイデアが、もうとっくの昔に失敗しているよと、いわれるようなものですから。

でも、われわれはうすうす気づきはじめていることなのですが、実は「貧困」問題は「資本主義の近代経済学」では解くことができません。今、途上国で起こっていることは、この本で述べられているような「自然経済と商品経済」の相克というか、今風に言えば、「如何にグローバリズムと対峙するか」という問題なのです。

まあ、実際に、フィリピンの農地改革地区の農民をインタヴューしながら、70年前の祖父母の時代の日本の農民に想いをいたすというのも、楽しい?というかむしろ切ない体験でした。

所詮、自分は外国人で通りすがりの異人でしかないのだけれど、実際に、この地に足を踏ん張って生きていかなければならない人たちが、どこに行ってもいるわけです。

せめて彼らの気持ちに「寄り添いたい」という気持ちが大切なのではないかと思います。それだけしかできないことは辛くもありますが、それもまた現実と受け止めていくしかないのでしょうね。もしかしたら、このようなものいい自体が傲慢なのかもしれません。

まあ、あきらめずにしつこくやっていきましょう。

ではでは^^?

P.S.

ところで、自分は右翼でも左翼でもないつもりですが大学生時代に「マルクス経済学」の講義を履修しなかったのを、今になって後悔しています。‘ぐらい’なんていうと、本当に失礼ですが、やはりマルクス経済学の取っ掛かりくらいは押さえておきたかった。

まあ思い立ったらなにやらで、いろいろやりたいことやら知りたいことが増えて、それもまた幸せなことです。日が暮れてなお道遠しとならないように^^?

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2007年3月 1日 (木)

‘一人きりじゃ戦えない’

これは、高校の卒業生の一言として私が、学校の新聞(「岡高新聞」 第202号 昭和63年(1988)2月26日)に書いた言葉です。

今思うと不思議なのですが、昔から‘戦う’という言葉は、基本的に私は好きではなかったはずなのに、なぜこのようなことを書かざるを得なかったのでしょうか。やべぇ、嫌なことを思い出してしまった。そうです。なぜこう書いたのか、書かざるを得なかったのかは、自分では痛いほどわかっていました。

まさに高校3年生のときの痛恨の失敗をうけて、‘反省’したつもりで書いたのです。

なぜ、そんなことを思い出したかというと・・・。

自分は、今でもなにか開発援助についてのブログとかHPで偉そうなことを書いていますが、実は、先日、私とはまったく立場やアプローチのちがう方を囲んだ勉強会があり、自分の言っていることは、やはり一面的な理解というかアプローチでしかないことを痛く感じさせられました。

昔から私は自分にコンフィデンス(自信のある)人間だったのですが、(実は傲慢ってこと^^?)、今回のお話を聞いて、また仲間で議論をして、自分がいかに限られた枠内でしか物事をみていなかったのかということに気がつきました。ある意味、両方とも‘正しい’し、どちらも現実に‘あり’なのです。

でもやはり、自分が「大所高所からしか開発の現場をみていなかったという事実」を知るのは正直、嫌なことですし、それにもまして、自分がそう意識さえしていなかったこと自体が非常に‘恥ずかしい’ことだと思いました。別に直接、指摘されたわけではないのですが、‘事実’を突きつけられると自分で気がつかざるを得なかったですね。自分の内部での問題ではあるのですが。

自分の知らなかったことを知る。知らなかった‘恥’を知るということで、これはちょっと自分の生き方を変えないといけないと思いました^^?

話がちょっと飛びますが・・・。

前回の新企画(新しいHPの開設)の話、やはり‘道場’(colosseum)という言葉は撤回します。、コロセアムってまさに大競技場というか‘闘い’の場所ということで、健堅諤諤、議論を闘わすということを、当初、考えていたのですが、やはりそれは間違っていました。

フォーラムとかアゴラとか、‘平和に集い語り合える場所’でなければやはり誰もついてきてくれませんよね。そんな闘牛場というか決闘場でみる観客も観客だし、ましてや、その舞台に上がってこいというのは、とんでもない傲慢な物言いというか、‘上から見た’議論のぶっ掛け方で、やはり、私は、見当ちがいをしていました^^!

今、やっとようやく約20年かかって私が気づかざるを得なかったこと。

私が高校3年生の時にやるべきだったことは、‘戦う’ためのチームを作ることではなく、また、‘何かと戦う’ためのリーダーシップを取ることではなくて、まず‘一緒に語り集える場’を作り、みんなで‘何かを一緒に作り出す’べきであったということ。

まさに私の高校の時の大失敗は、自分の知識というか頭で考えたことで人を動かそうとしたこと。個々のメンバーの意見や異見に全く耳を傾けずに、ひとりで突っ走って、こけて、実は一同共倒れになるところを、心ある仲間にそっと助けて(支えて)もらっていたというのが真実だったのでした。

今まで本当に正直言ってそんな考え方は夢にも思わなかったのですが・・・。

 「君子は豹変す。」

最近の私の好きな言葉というか気になる言葉です。

私も、最近までしらなかったのですが、過ちを改めるのに遅すぎることはない。君子は行いを急変することをいとわない。もし、本当に彼がそれを必要だと考えるのならば、というのが本来の意味で、‘豹変’することが、悪いという意味ではないようです

高校の時のことも、今回の勉強会のこともそうですが、今まで自分の都合の悪いことは無意識にせよ考えないように、記憶の奥底に忘れ去ろうとしていたように思います。

でも、間違いに気がついてしまったとしたら、・・・やはり素直にあらためざるを得ないでしょう。

これは中国の孔子の『論語』の言葉ですが、最近、『聖書(旧約・新約)』とか、いわゆる‘古典’をちゃんと読んでみたいと思うようになりました。これらは、本当にダイジェストというか、教科書でかじったくらいの、ほんの一部分しか知らなかったのですが、最初から最後まで、通読に挑戦してみたいような気分です。

ちょっとは年をとったってことでしょうかね^^?

そういえば、兼好法師の『徒然草』も実は好きでした。今、手元にないのですが、大学生や社会人になってからも高校の参考書でほぼ全編を折に触れて読んでいました。

フィリピンでは、なかなか日本語の本が手に入らない(思い立ったときに買いにいけない)のがつらいところですが、まあ、なんとかしましょう。

今年は、‘温故知新’でいきましょう って、これまた、孔子のお言葉ですね。

ではでは^^?

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