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2007年2月

2007年2月24日 (土)

構想10年? 新企画 第2弾の予告です。

さて、今現在、2007年4月1日の開設(公開)を目指して、新しいホームページの作成およびコンテンツの準備をすすめています。

タイトルは、ずばり、『開発と人間道場』 (英文名: The Colosseum of Humanities and Development) (本当は、「開発と人間性(=人文科学)(にかかる)道場」というのが和名で言いたいことです。)

まあふざけたネーミングといわず聞いてください。実は、1998年5月2日に「柴田スクール開催について」という企画書?というか手書きのメモを何のきっかけだか作成していました。俗にいう‘人生設計’というやつでしょうか。たぶん、それなりに仕事にも慣れて、その先の‘道’に迷っていた時代であったのかもしれません。多分、たまたま読んでいた自己啓発本に触発されて、‘とりあえず’書いてみただけなのかもしれません。

その後、その存在すら忘れていたのですが、もしかしたら、『歩く仲間』のHPの開設(2000年3月18日)も、このメモに既に予言されていたことなのかもしれません。

結局、この企画書をパソコンでタイプしたのは、2004年6月24日なのですが、自分はすっかり忘れていたのに、結構いいことが書いてあったりなんかします。これって、本当に俺が書いたのって気がしないでもないのですが、やはり書いてみるということは非常に大切なことですね。

以前、日本でたしか『未来日記』というテレビドラマ(ノン・フィクション?)がありました。

うろおぼえなのですが、確か素人(公募?)の若い男性と女性が、‘未来日記’というノートを手がかりに出会い、交際を深めていくというロードムービー的なドキュメンタリータッチの番組で、そのハプニングを視聴者も楽しむという番組がありました。そうそう、ちょうど最近でしたら、「あいのり」っていう番組のノリです。

この‘未来日記’の「実現度」が結構あって、他人事ながら、‘ほんまかいな’と突っ込みをいれつつも、でもこんなことが実際にあったらいいなと期待してみていた覚えがあります。

さて、やはり頭で思っているだけではだめで、書くこと及びたまにそれを読み返すことによって、潜在意識が現実してくるようですね。(まるでナポレオン・ヒルの自己啓発講座か^^?)

2004年にタイプしてからもほったらかしにしていたのですが、その後、2006年4月22日に加筆修整をしてみました。

その時に感じたのが、まったく不思議な話、私の人生がこのメモに規定されてそのレールの上にいつのまにか乗ってしまっていた(シンクロナイズ(同調化)している)という、非常に奇妙な感覚でした。

ということで、しばやんの‘将来構想’というか‘夢’を、そのうち、HP上で公開します^^!

今までのHPの路線をそのまま踏襲するような内容なので、別にサプライズはそれほどないですが、『歩く仲間』HPのヴァージョンアップであることは間違いないでしょう。基本的に、『歩く仲間』と同時並行させる予定です。

まあ、‘それなりに’、ご期待いただけたらと思います^^?

ではでは。

P.S.

しばやんって自分でも‘頑固’で‘しつこい’やつだと思っていましたが、まあそれもいいじゃないかという感じです。確かに、10年くらい同じひとつのテーマを追っていれば、それなりに‘何か’みえてくるものもありますわな。

まあ、私の次の10年後を見据えた‘マニュフェスト’みたいなものです^^?

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2007年2月20日 (火)

開発民俗学への途 再開

ほぼ3年3ヶ月ぶりに、連続講座 「開発民俗学への途」を再開しました。

第7講 「日本における開発と‘人類学(民族学)’と‘民俗学’」

ということで、とにかく前に進むことにしました。この経緯はまさに本文中に触れているのですが、結局、日本での研究史を追いきれない、これはその蓄積が多いからではなく、その逆で、まだまだ発達途上の学問で、このテーマの単行本自体が、まだまだ少ない、つまり論文の積み重ねを行なっているというのが現状であるということが自分なりにわかったからです。

まあ、次にやる方向がみえてきたので、とにかくこの「開発民俗学への途」、ちょっとスピードを上げて一応の完成にこぎつけたいと思います。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r007.htm 第7講

ところで今回、つくづく、’しばやんもしつこい人間だなあ’と思いました。誰が待っているわけでもなく、一銭になるわけでもない。ただ自分の趣味で書いているだけで、やらなくても怒られるわけでもない。

でも、誰かがこのつたない文章を読んで、‘何か’を感じてくれるかもしれない。まだ見ぬ恋人へのラブレターみたいなものでしょうかね。

わたしとしては、この論考(連続講座)が、歩く仲間HPのひとつの肝だと思っておりますので、まだご覧になっていない方にも、ご高覧ねがえればと思っております。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm 全体目次

ではでは^^?

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2007年2月18日 (日)

援助‘する’側と‘される’側 (補足)

前回の記事「人類学者の皆様へ」について、以下の補足を行いたいと思う。明らかに舌足らずで誤解を与える恐れがある(既に与えている?)と、私も思うからだ。

前回の記事は、特定の人類学者を対象に個人攻撃や議論を仕掛けるものではないが、以下の論文に刺激されたのは事実である。

岸上伸哲(民博)共同研究会「開発と先住民族」 「開発と先住民族」 (総論と問題提起) 2005.10.8のレジュメ

この論文を拝見して、あまりに「文化人類学の社会的な活用」ということが強調されていることに関して、開発コンサルタントの立場から一言申したかったのである。

私がおやっと思った事を、論点として、一点一点、説明していきたい。

その1.

「‘援助する側’と‘援助される側’の違いを、どこまで‘援助する側’が認識しているのか。その力を「過信」しすぎていたり、もしくはわれかれの‘立場’の違いにあまりに「無意識・無自覚」すぎるのではないか?」

‘援助される側’と比較して相対的に‘力’を持っているであろう‘援助する側’のアクターになろうとしている「人類学者」に対して、すでに‘援助する側’のアクターの最右翼である「開発コンサルタント」の立場から、自分のもつ‘力’をどこまで自覚しているのかについて、まずお伺いしたい。

「学問」の世界と「援助」という世界とは現実かなり違っているし、「学問する側」から「援助する側」に身を置き換える際には、当然、もっともっと考えるべきことがあるのではないかということを、今の段階で問題にしたかったのである。

例として取り上げたいのは、俗にいう「する側/される側」の論理である。

特に日本の人類学者の方々におかれては常識以前の問題であると一笑されるかもしれないが、1970年代に、つまりベトナム戦争のまっただ中で、ジャーナリスト、ひとつの実務家である本多勝一と、文化人類学の論客、山口昌男が公開口論を行ったことがあった。

本多勝一 1970 「調査される者の眼-人類学入門以前」『思想の科学』102号
山口昌男 1970 「調査する者の眼-人類学批判の批判」『展望』 142号

なお、わたしは両者の論文をリアルタイムで読んだわけではなく(当然だ!1970年は私が生まれた年です)、本多勝一 『殺される側の論理』 朝日新聞社 朝日文庫版のいわば本多の論考を元に文化人類学をみたわけであるが、調査される側の迷惑や、調査‘する’側と調査‘される’側の、認識の違いに違和感を感じたのは、本多のみに限らない。

宮本常一 1972 「調査地被害 される側のさまざまな迷惑」(初出:『探検と冒険・七 朝日出版社 1972)、 『旅にまなぶ』 (宮本常一著作集31) 未来社 1986 に再録)

この問題の経緯は、祖父江孝男 『文化人類学入門』 中公新書 1979 (増補改訂版1990)の「第十章 残された諸問題」 のなかで「調査される側の論理(231頁)」として簡潔にポイントがまとめられているので、ぜひ参照いただきたい。

またその前後の「フィールド・ワークについて(227頁)」、「調査者はどこまで客観的たりうるか?(228頁)」、「研究の倫理(234頁)」、「文化人類学の目的と役割(235頁)」の部分も内容的に文化人類学の問題の核心をついているので、あわせて読まれたい。

詳しくは、それぞれの論文を読んでいただきたいが、私なりにポイントを3つにまとめてみる。

1.調査する側には、「主観的」、「客観的」を自分で語ることはできない。すべからく「主観的」に調査される側に関わっているのであり、「透明な外部者」では論理的にも現実的にもありえない。(主に本多がいろいろな論文で表明しているいわば彼のテーゼのひとつ)

2.つまり、外部者として、その特定の‘調査される社会’に関わる(ろうとする)場合、必ず‘外部者’としての責任、義務が生ずる。(本多、宮本)

3.いくら「客観的」によかれと思ってその‘社会’に介入、もしくは「透明な外部者」たらんとしたところで、まったく調査する側の想定もしていなかった‘混乱’や’迷惑’を、‘調査される社会’に持ち込んでしまう。(どちらかというと宮本が非常に強調している点)

⇒ ではどうすればよいのか。実は、どうすればというところまで本多も宮本も具体的な触れていない。だからこそ、それが祖父江のいう「残された諸問題」たるゆえんでもあるのである。

この‘人類学に関する議論’を、「開発援助」のあり方の議論として考えることができるし、その必要がある。

通例というか、現実の可能性として普通に考えて、‘調査される社会 なぜか途上国が多い’にわざわざ赴こうとするのは、先進国の‘人類学者’か、‘開発専門家’でしかないでしょう。

だからこそ、「調査する側」とか「開発する側」の‘倫理’というか‘あり方’が問題になってくるのである。

そこのいわば出発点に立ったとき、今の人類学者の方々は自己をどう考えているのかについて、岸上論文にその立場の確認がないことに対して、非常に私は危機感をもったのである。(⇒ 私の危機感の詳細は、引き続きその2で取り上げたい。)

単なる言葉の言い換えという向きがあるかもしれないが、わたしはあえて「開発民俗学」という言葉をつかって、「開発される側」が主体的に‘自分たちを知ること’により、それぞれの身の丈にあった「開発」のあり方を‘外部者’である‘われわれ’と地元の人たちで共に考えていくことをめざしている。

また「透明な外部者」が存在しえないことには、すでにわれわれ気がついてしまっている。

しかしながら、実務者(特に開発コンサルタント)側からの経験の発表の機会はあまりに少なくクライアントとの守秘義務規定もあり、コンサルタントの本当の生の声は、書かれたものとしては、実態に比して極端に少なすぎると私は感じている。

私は、まず開発援助を考える際に、その中で自分をどう位置付けるか、自己認識の部分がいろいろな考え方や行動を、意識的にせよ無意識にせよ、規制すると考えている。

だからこそ、人類学者が開発をやることが、その「人類学者」にとって、どのような意味があるのか、彼の仲間である現地の人たちにとってどのような意味があるのか、また、人類学者が、どういうスタンスで開発援助の‘アクター’として関わろうと考えるのか、まず、そこから自覚してほしいと思ったため、あえて、前回の問題提起をさせていただいた。

繰り返しになるが、「する側/される側」の考え方は、特に人間が相手の国際交流(援助もそのひとつ)を考えるときに、非常に重要な概念であると思う。

人類学者に限らず、特に日本人で開発援助を考えたり、実務家をめざす人には、1970年初旬に既に日本の社会の中で、本多と宮本が積極的に、この問題提起をしたことを‘歴史的’な事実として押さえておいてほしいと思うのである。

(この項 了)

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2007年2月10日 (土)

援助の効率化って何? 

最近、文化人類学界の中で、開発に色気をだして、その「人類学的な知見」を「開発援助」に活用するという方向性を出しているグループが、いろいろでてきているようだが、私はその知識や知見を‘活用する’とか援助の‘効率化’につなげるという観点の発言が多いことに非常な危機感をもっている。

これは「植民地主義人類学」の問題ともつながるのだが、「援助業界は、また新たに強力な武器を手に入れた。文化人類学徒がその知識経験を動員して、そこに住む本人が望むともしれないところに言葉巧みにミスリーディングした」というようなことになりはしまいか。

くどいかもしれないが、私のクレド(人生訓)を、再度、紹介しよう。

「知は力なり、そして、それは開かれたものでなくてはならない」(©しばやん 1991)

ただし、その裏書として

「「他人の気持ちがよくわかる人」は誉め言葉だが、わかった気持ちを弄ぶことができるのもそういう人。」(現代会社の基礎知識 中川いさみ『大人袋③』小学館 1998 159頁) 

結局、よけいなお世話かもしれないが、上記の裏書にあるように、文化人類学者が彼の‘仲間’である「現地の人」を裏切ることになりはしないかということを心配してしまうのである。

知識や力は、かならずしも「活用する」必要もないし、「効率的に」使わなければならないことはない。積極的に、あえてその‘力’を使わないという選択肢もありうるのではないか。

途上国に何十年と現場をもつ開発コンサルタント業界の一員のとしての立場からいわせていただけば、特に「文化人類学」なんて、人とのつながりがすべてであると思う。現地にちょっとだけ住んでみただけの参与観察や、ちょっと聞きかじった現地知識の「開発への応用」って、一体、それは何。われわれの仲間には、一人で50カ国以上で仕事をしている人もざらにいるし、継続的に特定に国に、いろいろなプロジェクトで20年、40年付き合っている人もいる。これは自分の勉強や学問のためではなく、援助の現場の仕事としての長期や短期の滞在なのである。

学問で付き合うのと、プロジェクトや特に工事を動かして現地政府や現地の農民や市民と付き合うのではまったくその人間関係の濃さと深さが違ってくる。友達と利害関係の生じるつきあいでは、同じ人間でも対応が違って当たり前である。

あなたは、彼らの一体何が、どれだけわかっているのか。そんなに早速で稚拙な小手先だけのことなら、何もしないほうが彼らにとっても、‘人間性’そのものを相手から観察・評価されているあなたにとってもよいに決まっている。

はっきりいって、学界と実務の世界は、かなり違う。私はたまたま開発の現場に足を置いているが、ここフィリピンでも貧困地域と紛争地域(政治的・軍事的に不安定なところ)は、見事に一致する。

今、フィリピン政府とムスリムゲリラとの停戦合意、和平構築の一環として、ミンダナオ地域での開発事業に日本の政府が肩入れすることになり、具体的にプロジェクトが動こうとしている。

いろいろ私もアイデアを練っているのだが、非常に難しいし、下手をすると日本人が紛争に巻き込まれたり恨みをかったりして殺されるかもしれない。そこまで、現場では考えている。

文化人類学界が援助の世界に介入してくるのは時代の要請でもあるし、この流れは止められないであろう。だからこそ、開発の実務者、特に開発コンサルタント、もっと広くいえば現地で事業を展開している商社、メーカー、コントラクターなど民間人との交流と意見交換を密にしていただくよう、切にお願いしたい。

少なくとも私は、その必要性を感じているし、あなた方と対話できるだけのネタは持っていると思う。

私の探求しようとしている「開発民俗学」のたどり着く先の一つが、「開発倫理」につながるであろうことが今の時点でなんとなくわかってきた。

学問の立場からではなく、実務の世界から人々の意識を変えていく。たとえその歩みは遅くとも、「野の学問」としての民俗学の可能性を追求していきたい。

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「貧困(削減)」という名の「差別のラベル=人種差別」?

最近、やはり(援助)業界にどっぷり使っているせいなのか、やたらと「貧困(削減)」という言葉が鼻につくようになった。いや、以前にましてこの数年の言葉の氾濫はすごいと思う。

でも、なんで世界中で「貧困、貧困」と大合唱をする必要があるのか。確かに世銀の提唱のミレニアム・ディベロップメント・ゴール(MDG)など、日本の社会にもなじんできて、また小中学校でも総合的な学習の時間などで、自国以外の世界に目を向けるようになったこと自体は非常に喜ばしいことであると思う。でも、別に「貧困」自体、大昔からそれこそ人類の始まりからあったであろうし、日本国内でも「格差社会」という言葉をいうまでもなく貧困の問題は、ずっと根強く残っているし、簡単には解決できそうにもない。

なぜ、先進国の内部での格差や差別、貧困が問題にならないで、途上国の貧困ばかりが話題になるのかということに非常な違和感がある。

しかし、ところで世界は、「先進国」←→「発展途上国」の図式の展開ではないかと思うのだが、そんなに単純に「勝ち組み」←→「負け組」とか、「裕福」←→「貧困」などと割り切ってよいものなのか。

話がかわるが、わたしは幼年時代、探検家になりたいと思っていた。確か、小学校の5年生か6年生の時に将来の夢の絵を書きなさいという課題があり、「世界を股にかける仕事がしたい」ということで、でっかい地球を中心に「探検家になりたい」というようなことを描いた記憶がかすかにある。(まあ、それなりになんとなくそんなことを仕事でやっているわけですが。)

今、その25年も前のことを思い出すと、世界の各国は、まだまだ知られざる秘境みたいなところが残されているような気がするし、特に途上国の情報は、書籍としても、なにより映像・画像情報が圧倒的に今と比べて少なかったと思う。

あのころは、テレビドキュメンタリーの川口浩の探検隊が結構、小学校でもはやっていて、ともだちで「ジャワ原人」などというあだ名でからかわれていた同級生がいた。今思えば、二重に失礼な話だ。彼に対しては当然ながら、ジャワの人に対しても。

また最近、同じく違和感があるのは、1960年から70年代のマンガなどに対して、例えば「(特に他国=途上国の人物を画くのに)ステレオタイプな、今の人権意識からすると差別的な表現(マンガの画き方や蔑称)があることは認識しておりますが、当時の時代背景や、製作者が故人となっているため、もとのまま掲載していることをご了承ください」というクレジットがついていることがままある。例えば、手塚治虫のマンガには、最近の増刷分にはすべてこの手のクレジットがついているだろう。

これは表現の自由という問題と、「ちびくろサンボ」事件に象徴される差別用語の自己規制の問題と、大きく2つの問題を背景にしていることが明白なのであるが、わたしはあえていうが、差別用語や表現の自己規制をしようが実態や本音の部分はなにも変わっておらず、いわば臭いものに蓋をしただけの状態で、風通しが悪くなっただけ問題が陰湿化し、さらには腐って発酵して爆発寸前というのが、今の世の中、特に日本でもヨーロッパの現状ではないのかと思うのである。

私の少年時代を振り返っても、仮に‘大人’がそんなに気を揉んだとしても、子供は、別にそれを当たり前のこととして受け止めていた。だって、同じ日本人でも、同じ小学校の友達の間でも生活環境にすでに格差があったと思うし、金持ち・貧乏があるのは世の常ではないか。それはよいとかわるいとかの問題ではなく、‘現実の社会’そのもので、今も昔も、この日本をとっても基本的に変わっていないと思う。

話を戻すが、昔は途上国というひとかがりの言葉ではなく、具体的に、たとえばインド人とか中国人、アフリカの土人って、やっぱりティピカル(典型的な)スタイルがあって、特に絵としてのディフォルメ化が求められるマンガで、その特徴を特に強調して画かれるのはやむをえないことであったし、それはそれで、‘現実をうつしたもの’であったと思う。だって、実際には、少なくとも見かけ(服装)や習俗、生活環境(家や町並み、住環境)が違うのは当たり前のことであるし、それはそれでいいじゃないかと思うのである。‘真実’はともかく見かけのレベルでは、ステレオタイプといわれつつも、それはそれで、‘現実’のひとつではあったと思う。

もうひとつ思い出すと、確か、私が小学校か中学校の頃は、日本がGNPが世界2位となった状態がすでに継続しており、「GNPだけが幸せの尺度ではない」というようなことが声高に叫ばれるようになった時代だと思う。ちょうど1960年代の高度成長が一段落して、1973年と79年のオイルショックで、このままの大量生産大量消費の時代で、果たして日本人は、本当に‘幸せ’なのかどうか、自信を失いかけていた時代であったとも言える。

1960年代の高度経済成長期には、日本各地で交通戦争が起こり、企業は公害を撒き散らし、国土(自然)そのものをぶち壊し、離農や都市への人口集中が進んで、とにかく都会も田舎も大きく急激にその姿を変えつつあった時代であったといわれている。

あの時代、確かにアフリカの飢餓とか、いろいろな貧困にかかるニュースはそれなりに日本でも流れていたけど、誰もそのときの人たちは、まさか「貧困」削減や撲滅ができるとは、夢にも思っていなかったと思う。少なくとも私自身を振り返ると、南北問題や貧富の問題に人並み以上に関心があった私でさえも、その違いは違いとして厳然とした現実があり、みんなでがんばればみんな平等に豊かになれるとは到底思えなかった。それって、子供心にも、無理というか現実的ではないと思っていた。

世界にはいろいろなところがあり、いろいろな人がいろいろな生活を営んでいる。それを実際に自分でみてみたい。世界中に友達を作りたい。それが、今思うと自分の初心であったと思う。少なくとも、彼らを「貧困」の人とは露ほども思っていなかったし、「貧困」の人たちを助けなければないとかいう意識は、全く思っていなかったと思う。

そこにいるのは、自分とは違った言葉を話し、違った生活習慣をもつ、普通の人たち、もっといえば‘人間’しかいない。人として、人とつきあう。それ以上に、われ彼の差異やランクをつける必要が果たしてあるのだろうか。

なぜ、「貧困」などという無用なラベルを貼ろうとするのか。それって、勝手に先進国の限られた人たち(特に援助業界の人間)が、自己優越に浸り、先進国意識に浸りたいためだけに、その他の人たちを見下した「差別ラベル=人種差別」そのものではないか。

世の常であるが、正義や平和、さらには人権問題を叫ぶものほど、自分を‘絶対安全圏’においながら、さらに悪いことにはそれを自覚することなく、自分以外のものを裁き糾弾しようとする。

わたしは、この世界中の貧困を撲滅できるとも思っていないし、極論すればする必要もないと思う。「貧困」や「人間の安全保障」さらには、「セーフティネット」の問題。開発理論の世界では、大きな誤解というか誤認をしていると思う。

「持続的な開発」という言説がその最たるものであるが、今のこの不平等で不公平な世の中、それでも人間世界は「持続してきた」ではないか。もう一度、「持続的」とか「開発」の示すものを解体して、それぞれの地域にあったペースで、その自然環境・社会環境の文脈で、少しでも‘幸せ’になれるような、特に先進国の人は、物理的なものより精神的な‘幸せ’を取り戻すというか思い出せるような‘何か’を探すというか思い出していく作業、あくまでその場、その場で、それぞれの人が考えていくためのヒントみたいなものを探していきたい。

多分、それが、「開発民俗学」の目指す方向のひとつだと思う。

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2007年2月 2日 (金)

5月の選挙の前哨戦がはじまりました!

しばやん@マニラです。

2007年も明けたかとおもったら、もう2月です。

こちらフィリピンのマニラも本当はもう乾期になって、どんどん暑くなるはずが、ここ数日曇りがちで、結構、朝が寒いっす。とはいえ、日本に比べたら全然暖かいのですが・・・。

私の会社は基本的に日本の政府開発援助の仕事がメインなので、これから日本でいう年度末(3月)に向けて、いろいろフィリピンでもプロジェクトも動き出しそうで、その受注活動に弊マニラ事務所の忙しい日が、当分、続きそうです。やはり仕事あっての駐在員ですから、いろいろ考えたり準備したり忙しいのはありがたいことだと思います。

ところで、フィリピンの政治面では、やはり今年は非常に大きな節目の年で、5月14日がフィリピンの中間選挙(国会の半数および地方行政団体)の開票日ということで、いよいよ立候補の受け付けが始まり、フィリピン全土での選挙戦がどんどん激しくなりそうです。こちらは、本当に、飛び道具がでるというか、非常に命を賭けた激しい選挙戦があらゆるところで繰り広げられます。大体、選挙の度に、何人もの死者を出しているようです。とにかく、外国人は用心するにこしたことはありません。

また現職の政治家も議席を守るのに必死で、選挙の3ヶ月前から新規の予算執行ができなくなることから、駆け込み公共事業が、あらゆるところでどんどん始まっています。日本でも年度末の予算消化?のための公共事業がたまに問題になりますが、こちらの選挙の直前の公共事業は市中の失業対策にくわえて、現職政治家の実績づくりの意味が大きく、とにかく「だれだれプロジェクト」という写真入りの垂れ幕があらゆるところで貼られています。フィリピン国民にとっては、それでも公共事業が行われる(大盤振る舞い?)こと自体は、よいことなのか嬉しいことなのか、外国人としては、非常に気になるところでもあります。

では、今月も、がんばっていきましょう。

ではでは^^?

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