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2006年5月 7日 (日)

‘生きる’ということ。

しばやん@マニラです。

いきなり大上段なタイトルで恐縮ですが、フィリピンに暮らしてみて、最近、特に日本との対比という意味で、こんなことを考えています。

わたしの視野や視点というのも極めて限られた経験でしかないのですが、特に日本と比べて、ここのフィリピンの人たちのほうが、‘生きる’ということに対して真剣なのではないのかと感じています。

基本的に首都のマニラに暮らしているので、そこをベースに考えるしかないのですが、アーバンプア(都市の貧困)の問題は、眼にも入りやすいし、頭の痛いところですが、単なる貧しいひとや卑しい仕事をしている人、ぐうたらな人とか、憐憫の目だけで見ていいのかという根本的な問題があります。これは、道徳の教科書に書いてあるような理屈や理論の話ではなくて実感として、どうとらえるかという問題で、わたしは書いています。

仕事柄、マニラを車でいろいろ移動することが多いのですが、特にフィリピンのドライバーは、道路渋滞で待たされることが嫌いみたいで、とにかくわき道に入って、いくら大回りでも車を動かしていたほうがよいという思考パターンがあるようで、よく下町というかスラムのわき道に入ったりするのですが、そんなところで、ドライバーの話を聞くと非常に勉強になります。

たとえば、昔は、ギャングが抗争していてもっと物騒だったとか、あのベンダー(路上で物を売る人)のおばちゃんやおじちゃんは、何十年も前からやっているとか、今日の話では、あの汚い身なりで道路をうろうろしているおじちゃんは、昔はタバコや小物を道路で売ったり、その後、道路の交通整理をやっていたが、食べられなくなって精神がおかしくなって、今は、道路をうろうろしてコインを手に入れようとしているとか、あのおばちゃんは、何十年前はきれいだったとか、その変遷というか歴史を聞いていると、人に歴史ありというか、今にいたるそれぞれの生活の格闘を感じたり、スラムの住民自体が、再開発のためにバラックを、ミニシパリティからお金をもらって壊していたり、片やプロのスラム住民というか、再開発の立退き料を目当てに自分の家があるのに紛争地に住み込んでいる住民(たいてい、元締めの乞食の親分みたいな手配師がいるみたいですが)の話や、政府が強制移転させたり、再定住のための団地を作っても、スラムの人はお金が払えなくて結局、そこに住めなくて、その団地がゴーストタウンになっているとか、その物自体を見ながら考えるということは、非常に勉強になります。

この手の話は、非常に多くていろいろ具体例をいくらでも挙げたいのですが、それらをみて思うことは、本当に、生きるということに対して、誰もが必死に生きている。確かに傍目には、ぐうたらで仕事にしていなくて(実際は3Kの仕事や水商売をやっていたりしているあわけです)、昼まっから博打をしたり遊んだり歌ったりしているようですが、少なくとも日本の人より’生きる’ということに必死になっているのではないかと、最近、つくづく思います。

フィリピンでは、6ヶ月以上雇用すると正社員にして社会保障をすることが事業所に義務付けられています。これは、たぶん労働者の身分保証のための法律がそもそもの出発点であったと思うのですが、資本主義のオーナーはこれは逆手にとって、コンビニやファーストフードなど特にサービス業の従業員は、6ヶ月未満の短期契約を強いられています。つまり、6ヶ月ごとに次に契約してもらえるかどうかを、常に気にしなければならないということです。フィリピンは、小学校6年の後に、中学校と高校が一緒になった5年のハイスクールがあり、その後に大学となるわけですが、ハイスクールを卒業すると、17歳か18歳なのですが、正規社員で雇われるのには、20歳かなにか2年ぐらいの空白期間があって、実際、ハイスクール卒業では、マニラ首都圏ではまともな職業に就けません。フィリピンの失業率は、公式には10数パーセントといわれていますが、実際には、先に述べたように契約社員も多く、特に若者の失業率(仕事がない)が高く、潜在失業率は、40パーセントにもなるという話もあります。

それでも、みな生きていかなくてはならない。最近、フィリピンに住んで十何年になるという日本人の方と話したのですが、たとえばスカベンジャー(ゴミ拾いの人、フィリピンではスモーキーマウンテンが有名。今は、パタヤスというところにゴミ捨て場が移動しているようですが)の人に対して、いろいろマスコミが取り上げたり、NGOが教育支援とか里親支援とかしていますが、一つの職業としてみれば別に恥ずかしいことでも哀れむべきことでもなく、社会が必要としていることであり、それで生計を立てること自体を問題にすべきではないという話をしました。私は、それが適切な言葉であるかどうかはさておき、彼が「人間分別機みたいなものですよ」といったときに、それはそれで真実であるかもしれないと思いました。

途上国の廃棄物処理については、現在、結構、ODAの現場でもホットな課題であります。しかし大規模なプラントや焼却施設や分別施設の建設以前に、人件費の安い途上国では、人力での分配はあたりまえであり、しかも職業としてなりたっていること自体は、それなりに積極的に評価すべきことであると思います。日本的な発想で、3K排除のために機械をいれればよいという問題ではないと思います。

ゴミを拾って分別して再利用するためにそれぞれのマテリアルの専門の収集業者に渡して、お金をもらって生きていく。そのこと自体は、日本でもそうですが、特に都市では必ず必要なことであり、現実の社会の役に立っているという意味で、全く、後ろ指を指されたり、蔑視されたり、ましてや憐れみを受ける言われもないはずである。というのは、外部者の勝手な言い分であるというのは、わかった上での話ですが。(ここで、日本の被差別部落のことや、日本で、いわゆる3Kの仕事に従事している人のことを頭の片隅に忘れないことは、開発コンサルタントとして非常に大切なことだと私は考えています。)

ともあれ、よい悪いは別にして、日々頑張っている人をみると自分も自分の立場で頑張らなくてはと思います。少なくとも、もっと働くということや生きることに対して、真剣に、そして貪欲にならないといけないなと感じました。

今、日本では片や、フリーターとかニートとか、ちょっと前の言葉ですがパラサイトシングルとかいう状態の若者が問題になっているようです。私が言うことではないことは重々承知の上であえて言わせていただければ、綺麗ごとや格好つけていないで、もっと‘生きる’ことに対して真剣にならないと、先進国とか途上国という以前に、人間として恥ずかしいのではないかと思います。

先進国とか途上国とか生まれ育った環境を抜きに、裸の人間として勝負するというしたら、誰が、どんな人が尊敬すべき人なのでしょうか。

ちょっと、そんなことを考えてみてもよいのではないかと思いました。

自分への内省を多分に込めて、この文章を書かせていただきました。

ではでは^^?

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