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2005年7月

2005年7月22日 (金)

しばやんvsアマルティア・セン&チェンバース?

昨日のコメントについて、ずいぶん乱暴なコメントだったかと思います。まさにつぶやきしばやんといった感じで、何を私が問題にしているのか、わからなかっただろうなと思います。

ちょっと解説すると、アマンティア・センは、1998年にアジア人で初めて、ノーベル経済学賞を受賞したインドの経済学者。1990年から発刊されたUNDPの人間開発報告の考え方のある一部分の理論的な枠組みを考えた人で、開発(経済)学の分野では時の人というか絶対に無視できないカリスマ的な人のひとりです。

一方、ロバース・チェンバースは、イギリスのサセックス大学の開発問題研究所の重鎮で、参加型開発とか、RRA、PRAとかの主唱者のひとりで、援助業界では、ちょー有名な人です。

という事実は知りつつも、私としては積極的に勉強してきませんでした。

というのは、彼らとはそれぞれの生まれと育ちも違うし、日本人とは全く違ったバックグランドを持つということ。彼らの言うことは、それほど抵抗なく受け取れるのですが、自分の経験で考えても、それが全てではないということ。

チェンバースにいたっては、そんなことあんたに言われなくても、みんな(日本人に限らず、現場にいる人は)わかっているよ、ということもあるし、彼の言っていることはそんなに難しいことではないのです。ただ、言葉にしたこと自体は偉いことは認めます。

実際、われらが彼らと共通言語を持ちつつあるのは事実です。しかしながら、私はもっと日本人の開発(以前)の思想に注目したい。『歩く仲間』としての日本人の今まで歩いてきた道にスポットライトを当てたいのです。

開発は先進国の専門家だけが考えることではありません。それぞれの場所で、それぞれの人たちが考えることです。‘彼らの夢’と、‘われらの夢’が違うことを、まず違うことを知らなくてはなりません。‘あなた’の‘夢’を‘わたし’がみることはできないのです。

そういう意味で、巨匠と闘う?と私はいっているのです。人のためではなく自分の幸せのために生きられる世の中が私は望ましいと考えます。これがセンのいう‘自由’と同じことなのかは解かりません。

ただ私は日本人として別に他人(権威)の言説を使わなくても(引用しなくても)開発を‘語れる’世界であってほしいと思います。

くどいようですが私が言いたいのは、同じことを語るのに、なぜ英語や外国語の文献を引用しなければ自分の正当性?を証明できないのかということなのです。開発学は決して横文字の学問ではありません。なぜ自分の足元(日本)を確認しようとしないのというのが、私の素朴な疑問なのです。自分の言葉をもつということ、自分の言葉で語ること、これが私の求めるところです。

借り物ではない言説、私はこれを求めていきたいと考えています。

またまた禅問答みたいになってしまいましたが、ご容赦を^^!

ではでは。

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2005年7月20日 (水)

生物は個体進化を繰り返す。

最近、ようやく以下の本を手に入れた。

西川潤 『人間のための経済学 開発と貧困を考える』 岩波書店 2000

アマルティア・セン/石塚雅彦 『自由と経済開発』 日本経済新聞社 2000

両方の本とも知らなかったわけではない。新刊で本屋に平積みにされていた時分から(発売された当時から)存在自体は知っていた。実は、しばやんの周りでもいろいろ話題にはなっていたことは、業界の内部の人間として肌で感じていた。

最近ようやく手に入れて気がついたこと。すでに初版は2000年と5年も前に発行されていたけれど、今思うのは、埋蔵経典ではないが本人に本当に必要となったときに、‘それ’は現れるであろうということ。たぶん、手元にめぐってきたということ(自分で必要だと感じた)ということは、私の人生の中で、ようやく本当に必要となってきたということであろう。

それを早く知っているか知らないかは別の問題であって、自分が理解できるのか、許容できるものなのかどうか、そんな個人個人のレベルから始めようと思う。

他人がなんといおうと関係ない。自分がわかるかどうかが問題だ。たぶん、今年あたりは、アマルティア・センとロバート・チェンバースと本格的に張り合うというか思索のバトルを開始する節目になるという予感がする。たんなるアンチテーゼでなく、この巨匠たちと闘うということはどういうことを意味するのか。何の答えも何もわからないけど、勝ちも負けもないけれど、闘わなくてはならない気がする。

この壁を乗り越えられるかどうか。でも、本当に自分がライバルとして求めているものは見えている壁ではないと思う。その先に何があるのか。何があるべきなのか。それが問題だ。

姑息な揚げ足取りではなく、その先にあるべきものを語り合いたい。私はそう思う。

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2005年7月14日 (木)

語られない物語と創られた物語

最近、「環境社会学」に関する論文集を読んでいる。

桜井厚・好井裕明編 『差別と環境問題の社会学』 鳥越皓之企画編集 シリーズ環境社会学六 新曜社 2003

この論集では、被差別部落の問題、屠場の問題や障害者、ジェンダー、先住民の問題などを扱っており、いままで、あまりアカデミックな世界では避けられてきた問題に正面から言及しており、その面でも、非常に面白いアンソロジーである。

さて、この第3章で、好井裕明が「回避された言説-阪神・淡路大震災をめぐる新聞報道の「空洞」」という問題を取り上げたのであるが、思わず読後に、はたとひざを打ってしまった。

つまり、神戸市長田区が非常に大きな被害が受けたが、そこに被差別部落があったことを一般紙で述べたものは皆無であったこと、ある全国紙の新聞社の特集では、長田区を取り上げ「在日朝鮮人の町」であったことのみに重点をおいたが、なぜ在日朝鮮人や貧しい中小企業が集中して、ベトナム人など貧しい人たちの町になったのかという、そもそもの問題に誰も触れようとしていないこと、すなわち「語られなかった物語と創られた物語」についての分析を行っている。

なぜこの神戸の問題がわたしに思考を強いるのか。

まず、神戸は大学時代からよく知っており、大震災後も折につけて定点観測を行っているということが一点。震災当時は、エジプト出張中で、アスワンでテレビをみてびっくりしていたことなどは、別のところで触れているが、自分自身、被災半年後に、東京からわざわざ関西に出かけて、神戸から姫路まで電車で移動しており、長田区も窓越しでみえている。確かに東京で仕事をしてはいたが、自分としては、大阪の母校に顔をだす機会があれば、よく神戸にも足を伸ばして、この被災と復興をみてきたという自負がある。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/k008.htm

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/k068.htm

そして、この内容自体が、先に紹介したロンドン同時多発テロで触れたことと非常に密接な関係があるということ。私は「civilaized people」という言葉について意見を書いたが、たぶん、日本のマスコミはこの恣意性に気がついていないか、もしくは、無視(あえて取り上げないことも含む)しているということ。

つまり、世の中には「語られない物語」がいくつもあり、特にマスコミは差別用語の自己規制などといって、現実社会へのコミットメントを避けているどころか、「語ることによって」=「物語を創ってしまっている」ということ、しかも一番問題は、その恣意性について、自覚していないものが大多数であろうことが問題なのである。

歩く仲間のHPの中で何度も言っていることであるが、「中立性という立場」はありえないことを我々はもっと深く知らなければならない。

最近、会社の大先輩と話していて「偶然とはありえない」という話になった。彼いわく、「すべてなんでも理由があって、そうなる「必然」がある」と。

このテロの問題もそうだと思う。「何かの理由」があって、そうなる「必然」がある。ここで「中立性」とか「客観性」とかの立場に踏みとどまっている場合ではない。

現代社会に生きるということは、個々人に対して、何が必然であるのか何が問題であるのかを「主体的に探究する覚悟」とでもいうものを求めているのではなかろうか。

悪意のある、もしくは悪意を知らぬ(無邪気な)「恣意」というものに、眼くらましをされないように、だまされないように。

蛇足ながら:

「だます」よりも「だまされる」ほうがよいという言説があるが、人にだまされる隙を与えることは、結果として彼にだますという悪の実行を許したということで同罪以上であるという意見を聞いたことがある。

わたしもそう思う。だまされる、もしくは気がつかないことで結果として「悪」を助長しているとしたら「わたしは知りませんでした」ではすまされないと思う。

すでに、9.11以後に生きている人たちは、老若男女をとわず、‘人間として’、何が正しくて何が間違っているのかを、自分で考えて行動する(しないことも行動のうち)義務と責任があるのではないか。

私は、そう思う。 間違っているかもしれないけど。

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2005年7月 7日 (木)

イギリス・ロンドン同時多発テロ勃発

また、起こってほしくない事件が発生した。

7月7日午前9時の朝のロンドンで、地下鉄4箇所、2階建バス一台でヨーロッパのアルカイダと名乗るグループの爆発事件が発生した。今の時点で、死者2名、負傷者150名。しかしながら、まだ犠牲者は増えるとの報道である。

家に戻って夕食の支度をしながらNHKの国際放送を見ていたら、ちょうどG8サミット会場からのブレア英首相の共同声明の録画をみることができた。しかし、まあアメリカに引き続き英国でも爆発テロでは、次は東京かという気もしてくる。

途上国であろうが先進国であろうが、この世で安全なところはなくなってしまったのであろうか。

ブレア首相のスピーチでただ一点のみ気になった。「・・・civilized people everywhere・・・」。NHKの和訳テロップでは、「世界のすべて」かなんかでさらりと流していたが、私はこの1点のみが気になる。

テロリスト(とされる人たち)は、civilized people ではないのか。俗にいう先進国のcivilized people でない大多数の人たちは、テロリストの標的になってもよいのか。暗に、この単語はイスラーム教徒の人たちをさしているのであろうか。

別に、civilized people でない人たちも同じ人間としてその命は同じように尊いと思うのですが。

テロリストと闘うことをやめない限り、その報復はいつまでも続くと思う。ここまで話がこじれてくるとなかなか真実が見えにくくなってきていると思いますが、どなたか‘狂信的なテロリスト’とされる人と、まじめに討論してみませんか。今のように‘敵がみえない’なかで戦うことがいかに双方の神経を磨耗させていることか。イラクでもアフガニスタンでもニューヨークでもロンドンでもそう。一般の全く関係ない人たちがまき添いを喰っている。

直接、世界に影響力を振るえる人たち同士が、面と向かって、それが難しければインターネットでもいいけど、直接、対話を試みてはいかがですか。

そろそろ、そういう時期になってもよいころだと思います。

フィリピンのマニラという安全な?(別な意味で危ないと思いますが)地域にいて勝手なことをほざいているしばやんです。

果たして、この立場でこんな偉そうなことがいえるのか。こんなことをいう権利はあるのか、正直言って、そんな立場でないことは、百も承知しています。

でも、こんな私でも、なにか世界平和に役立つことができればと考えています。

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